第四十三話:終わらせるつもりなど、ない
湊の実家を出て車に乗り込んだ時点で、時計の針は十四時を少し回ったところだった。
助手席に座る里桜は、先ほどのドレス破損未遂事件の恥ずかしさを引きずり、窓の外を見たまま小さくなっている。
車内には、静かなエンジン音だけが響いていた。
湊はハンドルを握りながら、隣で丸くなっている里桜へ視線を向けた。
「ドレスの状態を確認する必要がある」
「え?」
「音はしたが、見たところ大きく裂けてはいない。だが、このまま出歩くのは得策ではない。僕の家へ行くぞ」
さらりと言ってのけた湊に、里桜の肩がビクッと跳ねた。
「い、家って……湊の?」
「他に誰の家がある」
「いや、でも! それはちょっと……」
「何故だ」
湊が不思議そうに眉を寄せる。
「僕の家は、初めてではないだろう」
確かにそうだ。
三か月前、里桜は五日間だけあの高層マンションで生活している。
間取りも、家具の配置も、キッチンの使い勝手も知っている。
だが、あの時は『高橋湊の身体』だった。
「……女子としては、初めてだもん」
里桜がぼそりと呟く。
「女子として?」
「そう! 男の身体で一人で過ごすのと、自分の身体で、しかも本物の湊と一緒に家に行くのは全然違うの!」
必死に抗議する里桜に、湊は小さく息を吐いた。
ちょうど、赤信号で車が滑らかに停止する。
湊はハンドルから片手を離し、センターコンソールに肘をついて里桜を見た。
「君は三か月前、僕のカードを使って、僕の部屋に勝手にうさぎのぬいぐるみを買っただろう」
「ぐぬっ」
里桜の言葉が詰まった。
五日間過ごした際、あまりにも殺風景で生活感のない部屋に耐えきれず、ついネット通販でぽちりとやってしまったのだ。
そして翌日に何匹かのうさぎが到着し、ソファに座らせていたのだ。
「あれは、君が持ち帰るのか?それとも僕にあのファンシーな物体を管理し続けろと?」
「ぐぬぬぬ……」
「それはどうする?」
「…………伺わせていただきます」
完全に理屈で退路を断たれ、里桜は深く項垂れた。
(ああ、もう。私ってこんなにちょろい女だったっけ……?)
いや、違う。
相手が相手なのだ。
隣で涼しい顔をして運転を再開した男の横顔を盗み見る。
この男のペースに巻き込まれると、どうやっても逃げ切れる気がしない。
◇◇◇
地下駐車場から専用エレベーターに乗り、湊の部屋へ足を踏み入れた瞬間。
里桜は思わず立ち尽くした。
「…………」
広い玄関。
間接照明に照らされた長い廊下。
その奥に広がる、モデルルームのように無機質で洗練されたリビング。
記憶にある通りの空間だった。
だが、決定的に違うものがあった。
(……湊の、匂いがする)
三か月前、自分がこの部屋で暮らしていた時には気づかなかった。
柑橘系の奥に、少しだけウッディな重さのある、落ち着いた男の香り。
今日、隣を歩いている時にずっと感じていた匂いが、この広い空間全体を包み込んでいる。
ここは、高橋湊のテリトリーなのだ。
「どうした。入らないのか」
「あ、うん……お邪魔します」
里桜はぎこちない足取りでリビングへ進んだ。
大きなガラス窓の向こうには、昼下がりの都心の景色が広がっている。
「そこに座って、少し見せてくれ」
湊に促され、里桜は黒いレザーの広いソファに腰を下ろした。
湊は上着を脱ぐと、里桜の正面に膝をついた。
「え、ちょっと湊……」
「動くな」
低い声で制され、里桜は息を呑んだ。
至近距離に、湊の顔がある。
シャツ越しでも分かる広い肩幅。
伏せられた長い睫毛。
湊の大きな手が、淡いピンクのドレスの裾へ伸びる。
「……少し、糸が綻んでいるな」
湊の指先が、縫い目を確認するように生地をなぞる。
その手が、ドレスの裾から、ゆっくりと里桜の素肌へと滑った。
「ひゃっ」
薄いストッキング越しに伝わる、大きな掌の熱。
心臓が跳ね上がった。
(え、待って待って待って!?)
里桜の脳内で、けたたましい警報が鳴り響く。
(これ、どういう状況!?私の足、触ってる!?もしかしてこれ、抱かれる流れ!?)
顔から火が出そうだった。
心臓がうるさすぎて、自分の呼吸の仕方も分からない。
湊の指が、ふくらはぎから膝の裏へと、ゆっくりとなぞるように這い上がってくる。
(もう、だめだよ。こんなシチュ。ドキドキ止まんないよー……っ)
ぎゅっと目を閉じ、肩を震わせた、その瞬間だった。
「…………っ」
湊の手が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと目を開けると、湊が下を向き、ギリッと奥歯を噛み締めているのが見えた。
そして、自分の中の暴れ狂う何かを必死に押さえつけるように、深く、重い息を吐き出す。
「……すまない、里桜」
顔を上げた湊の瞳は、ひどく熱を帯びた色をしていた。
それは、普段の氷のような冷徹さとは、まるで違う。
「また、里桜って……」
里桜の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「もうご両親いないのに、まだその呼び方続けるの?」
偽装恋人の役目は終わったはずだ。
それなのに、どうしてそんな、熱に浮かされたような目で自分を見るのか。
湊は里桜を見上げたまま、ゆっくりと手を伸ばした。
大きな掌が、里桜の熱い頬をそっと包み込む。
「……終わらせるつもりなど、ない」
低く、掠れた声だった。
理知的なサイボーグと呼ばれる男が、生身の感情を剥き出しにしている。
彼の表情には、余裕がないように見える。
「最初から、偽装で終わらせるつもりなどなかった」
「湊……?」
「三か月、ずっと君に、里桜に触れたかった」
湊の親指が、里桜の唇をそっと撫でる。
「自分でもどうしようもないくらい、狂いそうだった」
その言葉に、里桜はもう何も言えなくなった。
頭の中は真っ白で、自分が今、どんな顔をしているのかすら分からない。
ただ、頬を包む湊の手が熱くて、心地よくて。
見つめてくる漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。
里桜は、自然と目を閉じた。
抵抗する理由など、もうどこにもなかった。
少しの静寂の後。
触れるだけの、けれど確かな熱を持った唇が、里桜の唇へゆっくりと重なった。




