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冷徹なサイボーグ社長とただの契約社員の私が入れ替わったのは、生理初日でした  作者: 名前はまだない


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第四十二話:何十年ぶりでしょう

食事を終え、帰る時間になった。

玄関まで見送りに出てくれた湊の両親へ、里桜は何度目か分からない頭を下げた。


「今日は本当にありがとうございました。ご飯も、すごく美味しかったです」

「こちらこそ来てくれてありがとう。またいつでもいらっしゃい」


湊の母親は、来た時よりもさらに上機嫌だった。

先ほどまで泣いていたとは思えないほど晴れやかな顔で、里桜の手まで握っている。


「今度はもっとゆっくりお話ししましょうね」

「は、はい」


里桜は笑顔で頷いた。

隣では湊が、どこか疲れたように小さく息を吐いている。


「母さん、未確定な予定を勝手にスケジュールへ組み込まないでください」

「いいじゃない。あなたが女性を連れてきたなんて初めてなんだから」

「初めてかどうかは関係ありません」

「関係あるわよ」


また始まりそうな親子のやり取りを眺めながら、里桜は少しだけ頬を緩めた。

会社では誰も近づけないほど冷たい男なのに、この家にいるとちゃんと誰かの息子に見える。

そんなことを考えていると、廊下の奥から年配の女性が現れた。


「お帰りでしたら、こちらを」


大きな紙袋を両手で抱え、里桜の前へ差し出す。


「こちら、お持ち帰りくださいませ」

「え、こんなに?」


中を覗くと、食事に出た菓子や果物、それに箱詰めされた何かまで入っている。


「ありがとうございます」


恐縮しながら受け取り、頭を下げた。

すると女性は里桜から視線を外し、ふと湊を見た。


その瞬間。

表情が変わった。


「……坊ちゃん」


湊が僅かに眉を寄せる。

梅と呼ばれた女性の目には、みるみる涙が溜まっていった。


「ようございました」

「何がですか」

「婆やはずっと心配しておりました」


梅は胸元へ手を当てる。


「このまま坊ちゃんは、人間ではなくなってしまうのではないかと」

「……梅」

「朝から晩まで仕事、仕事。口を開けば数字、合理性、効率。幼い頃から、本当に可愛げというものがほとんど――」

「もういい」


珍しく湊が途中で遮った。

里桜は思わず吹き出しそうになる。


「ふふ……」


どうやら梅は、湊が幼い頃からこの家にいるらしい。

湊が子供だった頃。それは里桜にとって、まだ全く想像のできない世界だった。どんな子供だったのだろう。

やはり幼稚園児の頃から「その行動に合理性はあるのか」などと言っていたのだろうか。

想像した途端、口元がさらに緩んだ。


「何だ?」


湊がこちらを見る。


「なんでもない」

「笑っているだろう」

「笑ってないよ」


そう返しながら、里桜は踵を返した。

その瞬間だった。ヒールが、玄関前のタイルの僅かな隙間に嵌まった。


「あ」


身体は前へ進んだのに、右足だけがその場に取り残される。

靴が、すぽん、と脱げた。


「わっ!」


転ぶ。

そう思った瞬間、里桜は反射的に全身へ力を入れた。

右足を横へ伸ばし、左腕を大きく振り上げ、上半身を無理やり捻る。

結果、倒れないために物理法則を極限まで無視した、不自然極まりない体勢が完成した。


そして同時に。


ビリッ。


嫌な音がした。


「…………」


時間が止まった。

里桜の頭の中に、ある数字だけが鮮明に浮かぶ。


¥946,000-


「……うそ」


顔から血の気が引く。

その身体を、湊が慌てて抱き留めた。


「里桜、大丈夫か。どこか捻ったか?」

「み、湊……服……」

「服?」

「今、ビリって……」


泣きそうな顔で見上げる。

湊も里桜を見る。

数秒だけ、視線が合った。

里桜の異様なポーズと、絶望に満ちた表情。


「…………」


湊の口元が僅かに震えた。


「ふっ」

「え?」

「……ははっ」

「ちょっと!」


湊が顔を逸らす。

しかし、もう遅かった。


「ははは!」


声を出して笑った。肩まで揺れている。


「なんで笑うの!」

「いや……今のは……」


笑いを堪えようとしているらしいが、全く成功していない。


「こっちは九十四万円が破れたかもしれないんだよ!」

「ドレスの損耗などどうでもいい。それよりポーズが……」

「言うな!」


里桜は顔を真っ赤にして怒鳴った。

背後で湊の両親まで驚いた顔をしている。

梅は目を見開き、口元へ手を当てたまま固まっていた。


「まあ……」


やがて、その目に再び涙が浮かぶ。


「坊ちゃんが、笑われた……」

「…………」

「こんなに声を上げてお笑いになるなんて……何十年ぶりでしょう」

「僕はまだ、三十二だ」


父親が堪えきれずに吹き出し、母親もつられて笑い始めた。


「本当に、湊がこんなに笑うなんて」

「母さんまで」

「里桜さん、あなたすごいわ」

「いや、私、何もすごくないです……服破いただけです……」


里桜はドレスの裾を必死に確認する。幸い、音ほど大きく裂けてはいなかった。

しかし精神的ダメージは甚大だった。


「もう最悪……」


項垂れる里桜を見て、湊の口元がまた緩む。


「笑わないで!」

「笑っていない」

「今笑った!」

「気のせいだ」

「絶対笑った!」


またその場に笑いが広がった。


◇◇◇


その様子を、少し離れた道路の反対側から見ている女がいた。

里桜の母親だった。


ブランドショップを出た二人を見つけてから、一定の距離を保ったまま後をつけてきた。

弁護士から警告を受けている以上、里桜本人へ近づくつもりはない。少なくとも、今は。

だから女は、通り沿いの植栽に身を寄せながら、邸宅の方を窺っていた。


敷地を囲っているのは、背の高い石塀ではない。腰ほどの高さまで積まれた重厚な石壁の上に、黒いアイアンフェンスが続いている。

正面には大きな門扉があり、その向こうには長いアプローチと、奥に建つ洋館風の邸宅が見えた。


建物の全貌までは見えない。それでも、普通の家ではないことくらいは一目で分かる。


「……なに、ここ」


先ほどまで娘と一緒にいた男が、玄関先にいる。

どうやら家族らしい年配の男女と、使用人らしき女性までいる。しかも、その誰もが里桜を歓迎しているように見えた。


「へえ……」


娘の相手が金を持っていることは、ブランドショップと車で分かっていた。

だが、これは想像以上だ。都心の一等地。広い敷地。使用人のいる邸宅。

遠目にも、男がただの金持ちではないことが分かる。


若い。

顔もいい。

金もある。

そして実家までこれだ。


母親の口元がゆっくり吊り上がった。


「里桜……ずいぶん、いいの捕まえてんじゃん」


その視線は、もう娘には向いていなかった。

門の向こうに立つ湊だけを見ている。

舌先で、ゆっくり唇をなぞる。


「……いただきます」

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