第四十一話:完全に退路が消え始めている
車が停まった先を見て、里桜はしばらく何も言えなかった。
都内でも名の知れた高級住宅街。
その中でもひときわ広い敷地を囲む塀の向こうに、重厚な邸宅が建っている。
「……あの」
助手席から降りた里桜は、呆然と建物を見上げた。
「これ、湊の実家?」
「気にする必要はない」
「気にするよ!」
何をどうすれば、この規模の家を前にして気にせずいられるというのか。
里桜は自分の服を見下ろした。
先ほど湊に買ってもらった淡いピンクのドレス。
値段を思い出しただけで未だに胃が縮むが、この家を前にすると、あの九十四万六千円すら急に適正装備だったような錯覚に陥ってくる。
「大丈夫だ、里桜。行こうか」
「……うん」
一歩踏み出してから、里桜は止まった。
「…………今、里桜って言った」
湊も足を止める。
「言ったが、何か問題があるか」
「なんで!?」
「恋人なら、下の名前で呼ぶのが合理的だろう」
あまりにも当然という顔だった。
反論できない。
理屈としては正しい。恐ろしいほど正しい。
ただし、心臓には非常に悪い。
湊は何事もなかったかのように里桜の手を取った。
ふわり、と。
触れた部分から何か温かいものが流れ込んできたような気がした。
今日の湊は、いつもの仕事用の三つ揃いではない。
それでも濃紺のジャケットに白いシャツ、隙なく整えられた装いは十分すぎるほど様になっている。
そして今、その男が自分の手を握っている。
(ああ、もう……)
本当に、この男はいちいち眩しい。
視界がチカチカして仕方がない。
また頬が熱くなる。
いや、顔だけではない。
身体まで熱い。
(待って。せっかく買ってもらった服、脇汗とか大丈夫だよね……?)
そんな不安を抱えながら、里桜は湊に手を引かれて玄関へ向かった。
◇◇◇
「いらっしゃい」
玄関で迎えた湊の母親は、里桜を見るなり嬉しそうに目を細めた。
その隣には父親もいる。
入れ替わっていた時に一度会っている。当然、向こうにとっては初対面ではない。
ただし、前回この家にいたのは、高橋湊の身体に入った佐伯里桜だった。
今回は、自分の身体でここに立っている。
考えれば考えるほど意味が分からない。
湊は両親の前に立つと、いつもより僅かに姿勢を正した。
「父さん、母さん。お約束通りに、僕が交際している女性を紹介いたします」
里桜は横目で湊を見る。
(あれ。敬語なんだ)
家族相手でもこういう場面では妙に形式を守るらしい。
湊がこちらへ視線を向ける。
「里桜」
まただ。心臓が一度大きく跳ねる。
「は、初めまして。佐伯里桜と申します。本日はお招きいただいてありがとうございます」
「そんなに緊張しなくていいのよ。さあ、上がって」
湊の母親は楽しそうに笑った。
「今日はシェフに、とびきりのランチを作るようお願いしてあるの」
「は、はい」
里桜も笑顔を返した。
(シェフ!? が、家にいるの!?)
◇◇◇
昼食は和食だった。
季節の食材を使った前菜に始まり、椀物、刺身、焼き物と続いていく。
後から知ったが、これも湊の指定だったらしい。
ナイフやフォークが何本も並ぶ料理では里桜が余計に緊張すると考え、箸で食べられるものを選んだのだという。
もっとも里桜は、そんな配慮がされているとは知らない。
食事が進んだ頃、湊の母親が穏やかに尋ねる。
「里桜さん、ご実家はどちらなの?」
「えっと……」
里桜は僅かに箸を止めた。
「小さい頃は、祖父母の家で暮らしていました。田舎なんですけど、田んぼばっかりで。中学校まではそこで」
「まあ、ご両親は?」
「父親は……会ったことがなくて」
場の空気が僅かに変わった。
「母はいます」
「お母様は、どんなお仕事をなさっているの?」
「……今は、ちょっと分からないです」
母親は昔から、付き合う男によって住む場所も生活も変わった。
定職に就いているところを、里桜はほとんど見た記憶がない。
湊の母親はそれ以上深く聞かなかった。
代わりに父親が話題を変える。
「大学はどちらへ?」
「大学には行ってません。高校を卒業して、そのまま働き始めました」
「では、今のお仕事は?」
「コールセンターです。契約社員で働いています」
答えるたびに、里桜の胸の奥が少しずつ重くなる。
誰も馬鹿にしているわけではない。湊の両親に悪意がないことも分かる。
ただ、質問に答えれば答えるほど、自分と湊がどれほど違う場所を歩いてきたのかが浮き彫りになる。
父親の顔も知らない。
大学にも行っていない。
契約社員。
目の前にいる男は、大企業グループを率いる経営者だ。
(……釣り合わない)
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ時だった。
「父さん、母さん」
湊が静かに口を開いた。
里桜が隣を見る。
湊は箸を置き、両親を真正面から見ていた。
「経歴や家柄だけで人間を評価するのであれば、僕は結婚する必要を感じません」
父親の眉が僅かに動いた。
「既に完成された条件だけを揃えた相手に、僕は興味が湧きません」
「湊?」
母親が戸惑ったように名前を呼ぶ。
「仮に条件だけを理由に別の女性と一緒になったとしても、僕は家庭を築きたいとも、子供を持ちたいとも思えないでしょう。僕にとっては、いわゆるトロフィーと大差ありません」
「ちょ……」
里桜は慌てて湊を見る。
しかし湊は止まらない。
「ですが」
ほんの僅かに、隣の里桜へ視線を向けた。
「彼女となら違うと考えています」
里桜の息が止まった。
「いや」
湊が言い直す。
「里桜となら、僕は築いていけると思っています」
「…………」
湊の父親も母親も、言葉を失っている。
そして里桜も。
(え?)
頭の中に、一文字だけ浮かぶ。
(え?)
もう一度浮かぶ。
(湊、何言ってんの?)
恋人役だ。
今日は恋人のふりをするために来ている。そのはずだ。
なのにこの男、今、家庭を築くとか子供とか言わなかったか。
(……これ)
里桜の顔から血の気が引き、次の瞬間には一気に熱くなる。
(告白の前にプロポーズしてない!?)
順番がおかしい。何もかもがおかしい。そもそも付き合ってすらいない。
(恋人役なのに、結婚しなかったらどうすんのよ!)
しかし母親の目には、既に涙が浮かんでいた。
「あの湊が……」
ハンカチを目元へ当てる。
「あんなに結婚の話を嫌がってた湊が、こんなことを言うなんて……」
「母さん、ここで泣く必要はありません」
「泣くわよ!」
突然強めに返され、湊が黙った。
父親まで感慨深そうに頷いている。完全に退路が消え始めている。
「それに」
湊はさらに続けた。
(まだあるの!?)
「彼女には、僕にはない資質があります。先日、石黒産業からリゾート開発案件を正式に受注しました」
「石黒さんのところか?」
「はい。元になった構想を出したのは里桜です」
「えっ」
声を上げたのは里桜だった。
(嘘言っちゃ駄目だよ!)
しかし湊は平然としている。
「正確には、彼女が提示したアイデアを僕たちが事業計画へ落とし込みました」
湊は父親へ向き直った。
「廃校を活用した滞在型リゾートです。法規制、改修費用、地域雇用、交通アクセス、採算性まで双方で検証しました。事業として成立する見込みが立ったため、先日正式受注に至りました」
そこで里桜は思い出した。
三か月前、身体が入れ替わっていた時、石黒権蔵との会食で聞かれた。
『湊、お前自身が、これからやりたいことは何だ?』
あの時、深く考えずに答えた。
祖父母の家の近くにあった、廃校になった小学校。ああいう場所を宿泊施設にできたら面白いんじゃないか。地域の人が働けて、観光客が来て、地元にもお金が落ちる。
あの話だ。
(……あれ!?)
「なるほど」
父親が興味深そうに身を乗り出す。
「僕自身なら、おそらく最初に採算性から考えていたでしょう」
湊は続ける。
「ですが里桜は違いました。彼女はまず、そこに住んでいる人間を見たのです」
里桜は黙って湊を見る。
「地域の人間が働ける。閉校した場所にもう一度人が集まる。利用客が来れば地域にも利益が生まれる。そして、そこから事業として成立する形を考えたのです」
湊の声には、いつになく熱があった。
「以前、彼女は経営について、『関わる人を豊かにすること』だと言いました」
石黒との会食で言った言葉だった。
まさか、湊がそこまで知っていたとは思わなかった。あの、無駄に有能な眼鏡男のせいか。
「僕には、おそらく最初に出せない発想です」
湊が里桜を見る。
「だからこそ、彼女には僕にないものがあるのです」
父親はしばらく黙っていた。
そして突然、ぱっと顔を明るくした。
「里桜さん、君はとんでもない女性じゃないか。あの石黒さんが認めた企画の発案者ということだろう?」
「いや、あの、認めたというか……たまたま思いついただけで……」
「その『たまたま』を形にできる人間は多くありません」
湊が横から冷静に付け加える。
里桜は膝の上でそっと両手を握った。
分かった。
湊が何を言いたいのかは分かった。
経歴だけで自分を判断させたくなかったのだ。自分にできることがあると、両親へ伝えようとしてくれている。
それは、嬉しい。嬉しいのだが。
里桜は隣に座る男を見た。
(なんだか、引き返せないところまで来てる気がする)




