第三十九話:致死量に値する
「その数字で、僕に承認しろと言っているのか?」
会議室の空気が凍った。
大型モニターには、今期の事業計画と予測収益が映し出されている。
長いテーブルを囲む役員たちは誰一人として口を開かず、資料を手にした事業責任者だけが額に薄く汗を浮かべていた。
湊は椅子に深く腰掛けたまま、手元の資料を一枚捲った。
「成長率を前年比120パーセントと置いているが、その根拠になっている新規顧客のCPA(獲得単価)が前年実績と一致していない。広告費を18パーセント増額する一方で、獲得単価は都合よく11パーセント改善する前提になっている。何故だ」
「それは、今期から新しいマーケティング施策を――」
「施策の成功を前提に数字を作るな。成功させるために必要な条件を数字に落とせと言っている」
静かな声だった。
怒鳴っているわけでも、語気を荒らげているわけでもない。
それでも、言い訳を差し込める余地はなかった。
湊は資料を閉じると、事業責任者へ視線を向けた。
「修正して今日中に再提出しろ。次は希望的観測ではなく、現実的な事業計画を持ってくるように」
「……承知しました」
会議が終わり、役員たちが逃げるように退出していく。
最後まで残っていた神崎が、タブレットを確認しながら淡々と告げた。
「次の会議まで十二分あります」
「ああ」
湊はスマートフォンを手に取った。
画面には一件のメッセージが届いている。
『今日めっちゃ忙しい( ;∀;)帰ったら電話できる?』
一秒前までほとんど表情のなかった男の指が、即座にそのメッセージを開く。
『二十二時以降なら可能だ』
送信。
神崎は何も言わなかった。
ただ一度だけ、中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
◇◇◇
三か月間の沈黙が嘘だったかのように、それからの数日間、二人は頻繁に連絡を取った。
頻繁と言っても、一日中メッセージを送り合うわけではない。
仕事中の湊から返事が来ない時間も当然ある。
それでも、朝送れば昼には返ってくるし、夜になればその日のうちに必ず返事が来る。
電話も、互いの都合が合えばするようになった。
土曜日の夜、ベッドに転がりながらスマートフォンを耳に当てていた里桜は、ふと思ったことをそのまま口にした。
「湊って、結構マメなんだね。もっと既読つけて終わる人かと思ってた」
僅かな沈黙の後、呆れたような声が返ってきた。
『返事をしろと言ったのは君だろう』
「あ」
三か月前、自分が散々怒ったことを思い出す。
『一言くらい言ってくれてもよかったじゃん』
『既読無視より百倍マシだから!』
「……そうでした」
『忘れたのか』
「忘れてないです」
里桜は笑いながら寝返りを打った。
「そういえば明日、十時だっけ? 結構早いんだね。ご両親とお昼食べるんでしょ?」
『会食は十二時だ』
「じゃあ二時間も何するの?」
『事前準備が必要だと判断した』
「事前準備?」
『明日になれば分かる』
「何それ。怖いんだけど」
『怖がる要素はない』
その言葉ほど信用できないものはない。
◇◇◇
翌朝。
鏡の前に立った里桜は、三度目のため息をついた。
淡いベージュのワンピース。
普段よりは綺麗めで、数年前に友人の結婚式にも着ていったものだ。
昨日の夜からクローゼットをひっくり返し、最終的に選べた中ではこれが一番まともだった。
「……こんなんでいいのかな」
鏡の中の自分を見る。
「相手、あの湊のご両親なんだけど」
今さら重大な事実に気づく。
高橋湊の両親。
あの高橋湊を作り上げた人間である。
湊と入れ替わっている間、一度だけ会った。
とても上品で、仲の良さそうな夫婦だった。
「もっとちゃんとした服買っとけばよかった……」
しかし、普段着る予定もない服に何万円も出す余裕などない。
もうこれで行くしかない。
約束の十分前、スマートフォンが鳴った。
『着いた』
早い。
里桜はバッグを掴み、もう一度だけ鏡を確認してから慌てて部屋を出た。
マンションのエントランスを抜けたところで、足が止まる。
そこにある光景だけが、朝の住宅街から明らかに浮いていた。
一人暮らし用のマンションが並ぶ通りの脇に、艶のある漆黒のスポーツカーが停まっている。
先週と同じ、湊の私用車だった。
運転席から降りることもなくこちらを待っている男まで含めれば、もはや近所の日常風景に紛れる努力すらしていない。
里桜は自分でも分かるほど、鼓動が速くなるのを感じた。
昨日まで電話で普通に話していた。
くだらないことで笑ったし、仕事の愚痴も言った。
湊の言葉に遠慮なく突っ込みも入れた。
それなのに、こうして実物を目の前にすると途端に駄目になる。
助手席のドアを開けると、湊がこちらを見た。
「おはよう、佐伯」
「……お、おはよう」
自分でも分かるくらい、声が変だ。
湊は今日も仕事の時とは少し違う装いだった。
濃紺のテーラードジャケットに、白のドレスシャツ。
ネクタイはしていないが、仕立ての良さは一目で分かる。
パンツも靴も隙がなく、休日だからといって気を抜いている様子など微塵もなかった。
ただ、会社で見る三つ揃いのスーツ姿よりは、ほんの少しだけ柔らかい。
会社で見る高橋湊は、近寄りがたいほど完成された経営者に見える。
今、隣にいる高橋湊は、その輪郭を残したまま、もう少し生身の男に近い。
そして、それが非常にまずかった。
「……何だ?」
視線に気づかれ、里桜は慌てて前を向いた。
「何でもない!」
湊はエンジンをかけながら、僅かに口元を緩めた。
「電話越しでは雄弁だったが、今日は随分と寡黙だな」
「……暑いなーと思って」
咄嗟に出た言い訳だった。
九月とはいえ、朝からそこまで暑いわけではない。
だが里桜の身体だけは妙に熱かった。
湊は疑う様子もなく、車内の空調を一段下げた。
「これでどうだ」
「うん。ありがとう」
本当は、そうじゃない。
里桜は手で顔を扇ぐふりをしながら、そっと隣を盗み見た。
ハンドルを握る長い指。
信号を確認する横顔。
伏せた睫毛の影まで妙に目につく。
(……畜生)
思わず心の中で悪態をついた。
(ほんと、怪物みたいなイケメン……)
三か月前、自分はこの男の身体の中にいた。
鏡の前で顔を近づけて見たし、腹筋も触った。
意味もなく腕に力を入れて筋肉まで確認した。
それなのに、今、こうして隣に座っている男は、あの時とはまるで別物に思える。
自分が入っていた時には感じなかったものがある。
声も、視線も、身体の動きも。
車内に漂っている微かな香りさえ、以前とは違って感じる。
男の人の匂い。
そう認識した途端、また頬が熱くなった。
(何考えてんの、私)
里桜は気づかれないように、ふう、と細く息を吐いた。
ちょうどその時、信号が赤に変わり、車が静かに停止する。
湊がこちらを向いた。
そして突然、手が伸びてきた。
「え」
大きな掌が、里桜の額に触れる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
視界いっぱいに湊の顔がある。
額には掌の熱。
距離が近い。近すぎる。
ダメだ、これは致死量に値する。
「さっきから顔が赤い。本日の会食に支障が出るなら、今のうちに――」
頭の中が一気に真っ白になった。
心臓が跳ねる。
いや、跳ねるというより暴れている。
どくどくと鳴る音が、この距離なら湊にまで聞こえるのではないかと思った。
「だ、大丈夫だからぁ!!」
思った以上の大声が出た。
湊が僅かに眉を寄せる。
「顔面の紅潮と発言が矛盾しているが。本当に問題ないな?」
「元気です!」
里桜は逃げるように窓の方へ顔を向けた。
湊は数秒こちらを見ていたが、やがて手を離した。
「無理をする必要はない。何かあればすぐ言ってくれ」
「……はい」
信号が青に変わり、車が再び動き出す。
里桜は窓の外を見つめたまま、自分の頬にそっと手を当てた。
熱い。
さっきより余計に熱くなった。
二度目だ。
元の身体に戻ってから、湊とこうして会うのはまだ二度目。
だから慣れていないだけなのかもしれない。
けれど、一度目より酷くなっている気もする。
(こんなにドキドキしたの、初めてかも)
どうしよう、全然止まらない。
電話なら平気なのに。
声だけなら、いつもの調子で話せるのに。
隣にいるだけで、頭がまともに回らなくなる。
(どうすれば、このドキドキ止められるんだろ)
里桜はまた、ほんの少しだけ隣を見る。
湊は何事もなかったように前を向き、運転している。
さっき自分の額に触れたことなど、彼にとっては大したことではないらしい。
その横顔を見ていると、なんだか腹が立ってくる。
自分だけがこんなに振り回されている。
自分だけが勝手に赤くなって、勝手に緊張して、勝手に心臓を忙しくしている。
(ほんと、この人……)
里桜は再び窓へ視線を戻した。
(ずるい……)
もちろん隣の男は、そんなことなど知る由もなかった。




