第三十七話:どう答えれば、正解なんだ?
「私のおっぱい、触ったでしょ?」
「…………」
里桜の特大級の爆弾に、湊は答えられなかった。
(……僕は、いったい何を質問されているんだ?)
目の前では、里桜が両頬に手を添えたまま、じっとこちらを見つめている。
頬はワインのせいで赤く染まり、とろんと潤んだ瞳はどこか妖艶で、口元には悪戯を仕掛けた子供のような無敵の笑みが浮かんでいた。
今まで、答えられなかった問題などほとんどない。
どれほど複雑な案件でも、必要な情報を整理し、条件を分解すれば最適解は導き出せる。
正解が存在しない問題であっても、少なくとも最も合理的な選択肢を提示することはできた。
だが、これは違う。
いや、答えそのものは一つしかない。
触った。
それは紛れもない事実だ。
問題は、その事実をどう表現すれば正解になるのかが、まるで分からないことだった。
「…………物理的な洗浄作業における、衛生状態を維持するための必要最低限の接触だ。そこに私的な感情や意図は一切介在していない」
数秒を要した末に早口で導き出した回答に、里桜がますます楽しそうに目を細めた。
「なんか湊、目が泳いでない?」
「泳いでなどいない。眼球の乾燥を防ぐための生理的な瞬きだ」
「ふふ」
里桜が肩を揺らして笑う。
(この女……)
「なんか可愛いね、湊って」
「…………可愛い?」
今度こそ、湊は真正面から里桜を見た。
「どこをどう評価すれば、その結論になる」
「だって今、照れてるでしょ」
「照れてなど……」
即座に否定しようとして、言葉が僅かに詰まった。
確かに動揺はした。しかし、それを照れていると定義するのは適切なのか。
そもそも、この状況において羞恥という感情が発生すること自体が――。
「ほら。また考えてる」
「……非常に回答しづらい質問だったからに過ぎない」
「そういうとこ」
里桜が目を細めて笑う。
「可愛い」
二度目だった。
高橋湊という人間に向けられる評価として、あまりにも馴染みがない。
優秀だと言われることはある。冷徹だと言われることも、近寄り難いと言われることも珍しくない。
可愛い。
少なくとも、三十八年の人生で自分を形容する言葉として認識したことはなかった。
「佐伯。酔いすぎだ」
「酔ってないよぉ」
「その返答をする人間の大半は酔っている」
「ちゃんと歩けるもん」
「信用できない」
そう言いながら、湊は水の入ったグラスを里桜の前へ押し戻した。
どんな局面でも、自分はもっと冷静だったはずだ。
何十人もの役員を前にしても、数十億の金が動く交渉の席でも、相手の一言でここまで思考を乱された記憶はない。
それなのに、目の前の女はたった一言でそれをやってのける。
しかも不思議なことに、それを不快だとは思わなかった。
むしろ、楽しそうに笑う里桜を見ていると、どうでもよくなってくる。
そんな自分の感情のバグすら、今は分析する気になれなかった。
◇◇◇
これ以上酒を飲ませるのは危険だと判断し、食事を切り上げた。
店を出る頃には、里桜の足取りは一応まっすぐだった。
本人が豪語した通り歩けてはいる。ただし、時折何もないところで身体が傾くため、信用には値しない。
「佐伯、前を見ろ」
「見てるよぉ」
「見ていない。今、植木に突っ込みかけた」
「植木がこっちに来たんじゃない?」
「来るわけがないだろう」
駐車場へ向かいながら、湊は小さく息を吐いた。
車で自宅まで送るつもりだったが、この状態で一人にして問題ないのかという別の懸念まで生じてくる。
もっとも、三か月前には五日間生活した部屋だ。
住所も間取りも知っている。
その事実に今さら気づき、湊は妙な感覚を覚えた。
身体が入れ替わった五日間、自分は彼女の日常の中にいた。
彼女のベッドで眠り、彼女が作り置きした料理を食べ、彼女の職場へ通った。
それほど近い場所にいたはずなのに、本当の佐伯里桜については知らないことばかりだった。
今日だけでも、いくつ新しい表情を見ただろう。
高級車に怯える顔。
焼き鳥の値段に眉を顰める顔。
美味しいものを食べて花が開いたように笑う顔。
三か月の沈黙を語る時の、不安そうな目。
そして今は、酔っ払って植木に責任を転嫁している。
「湊、今日、楽しかったね」
隣を歩く里桜が、不意にそう言った。
「……そうだな」
答えると、里桜がこちらを見る。
「湊も?」
「ああ」
「そっかぁ」
それだけで満足したらしい。
里桜は嬉しそうに笑うと、また前を向いた。
その無防備な横顔を見ながら、湊は思った。
本当に、見ていて飽きない。
◇◇◇
里桜のマンションへ到着した頃には、酔いも多少は落ち着いていた。
エントランス前で車を停めると、里桜はシートベルトを外しながら名残惜しそうに息を吐いた。
「着いちゃった」
その一言に、湊は僅かに視線を向けた。
里桜は小さく笑って車のドアへ手を伸ばした。
その瞬間だった。
「佐伯。次の休みはいつだ」
里桜の手が止まった。
「次?日曜日だよ」
「空けておいてくれ」
「…………」
里桜が固まった。
つい先ほどまで酔いで半分閉じていた瞳が、見る見るうちに限界まで開いていく。
「……え?」
「聞こえなかったのか。日曜日を――」
「えっ!? えっ!?」
突然、里桜が自分の頬をつねった。
「痛っ!」
「何をしている」
今度は両手で自分の頬をぺちぺちと叩く。
「え!? ちょっと待って!? デートってこと!? これ夢なの!?」
「佐伯、落ち着け」
「だって次の休み空けてって! それデートのお誘いじゃないの!?」
さっきまでの酔いはどこへ行ったのか。
里桜の表情が次々と変わる。
驚いて、混乱して、それから期待するようにこちらを見る。
その瞳の輝きが、一段強くなったように見えた。
そんなに嬉しいのか。
ふと、そんなことを思った。
自分とまた会う。
ただそれだけのことで、彼女はこんな顔をする。
気づけば、湊の口元も僅かに緩んでいた。
以前なら、自分の表情が不用意に変化したことを認識すれば、すぐに戻していただろう。
だが今は、どうでもよかった。
「君に存在しない恋人を作られたからな」
「……え?」
「言っただろう。責任を取れと」
里桜の目が瞬いた。
「え!? それどういうこと!?」
「僕の両親に会ってもらう。君の作り出した、僕の恋人として」
里桜の顔から、一瞬すべての表情が消えた。
「えっ?」
数秒後。
「えっ!?」
さらに数秒後。
「ええええええっ!?」
静かな住宅街に、里桜の悲鳴のような声が響き渡った。
湊はとうとう耐えきれなかった。
「少し静かにしろ」
「だって、ご両親!? 私が!? なんで!?」
「説明しただろう。三か月前に君自身が発生させた案件だ」
「まだ生きてたの、あれ!?」
「未処理だからな」
「三か月も経ってるんだけど!?」
「時間の経過で事実が消滅するわけではない」
「そんな冷凍保存みたいに言わないでよ!」
「くっ……ふっ……」
堪えきれず、湊の喉から声が漏れた。
肩を揺らし、声を殺して笑っている。
里桜が信じられないものを見るように、ぴたりと止まる。
「……今、笑った?」
「笑っていない」
「笑った! 絶対笑った!」
「酔っている人間の認識能力は信用できない」
「ひどっ!」
また変わった。驚いて、怒って、今度は頬を膨らませている。
本当に忙しい女だ。そしてやはり、見ていて飽きない。
「とにかく日曜日だ。時間は後で連絡する」
「ちょっと待って、心の準備が――」
「一週間ある」
「一週間しかない!」
「十分だろう」
「湊基準で決めないで!」
また笑いそうになって、湊は視線を逸らした。
「早く入れ。明日も仕事だろう」
「……はーい」
まだ納得していない顔をしながら、里桜が車を降りる。
ドアを閉める直前、こちらを振り返った。
「湊、今日は、ありがとう」
少しだけ酔いの残った顔で、里桜が笑う。
「ほんとに楽しかった」
笑いながらドアを閉め、里桜はエントランスへ向かっていった。
自動ドアの前でもう一度振り返り、小さく手を振る。
湊もそれを見届けてから、車を発進させた。
三か月前、身体が元に戻った日の夜とは違う。
あの時は、次にいつ話せるのかも分からなかった。
だが今は違う。次に会う日が決まっている。
たったそれだけの事実が、今の自分にどれほどの充足感を与えているか。
高橋湊はまだ、それを正確に定量化できずにいた。
◇◇◇
一方、エレベーターに乗り込んだ里桜は、閉じた扉に背中を預けたまま、ずるずるとしゃがみ込んでいた。
「…………ご両親」
口に出した途端、さっきまでの出来事が一気に蘇る。
高級な焼き鳥。三か月ぶりの会話。湊の「むしろ逆だった」という言葉。
『空けておいてくれ』
一瞬、本当にデートだと思った。
その時に自分がどれほど嬉しかったのかも、嫌というほど分かってしまった。
「……私、何やってんだろ」
そう呟きながらも、頬は緩んでいる。
次の日曜日。また湊に会える。
結局、その事実だけで十分だった。
「……まあ、いっか」
里桜は小さく笑った。




