第三十六話:高橋湊、人生最大の危機
料理が進み、ペアリングのワインが二杯目に差しかかった頃。
里桜はようやく、それを口にした。
「ねえ、聞いていい?」
湊がグラスを置く。
「そのために来た」
里桜は一度視線を落とした。
さっきまで楽しそうに料理を食べていた顔から、笑みが消える。
「……なんで、三か月も連絡くれなかったの?」
やはり、そこか。
湊は僅かに息を吐いた。
「君の勤務先の買収を進めていたからだ」
「……うちの会社?」
「ああ」
里桜が瞬きをする。昼間、佐藤から聞いた話がようやく一本の線で繋がったらしい。
「え。じゃあ、今日言ってた親会社って……」
「僕のグループだ」
「…………」
里桜の口が少し開いた。
「え?ちょっと待って」
眉間に皺を寄せる。
「え?」
もう一度言った。湊は黙って待った。
「……ええ!?」
脳内の処理に数秒を要したらしい。
「声が大きい」
「だって! え!? 何それ!? じゃあ今日、湊が会社に来てたのって!」
「視察だ」
「なんで佐藤ちゃん、会社の名前忘れてんのよ!」
「僕に言われても知らん」
思わずそう返すと、里桜が目を丸くした。
「今、知らんって言った」
「僕も言う」
「へえ……」
妙なところに感心している。
肩を震わせて、くすくすと笑う里桜。
だが、やがてその表情から笑みが消えた。
「……それと、私に連絡しなかったことが関係あるの?」
「あった」
湊は迷わず答えた。
「M&Aの対象企業に勤務する社員と私的な接触を続ければ、情報管理上の疑義、最悪の場合はインサイダー取引の嫌疑を招く。少なくとも、僕自身が取引を主導している間は完全に避けるべきリスクだった」
「でも私、何も知らなかったよ?」
「君が知らなかったかどうかだけが問題ではない。僕が君と個人的な関係を持っている状態で、君の勤務先の買収を強行したという事実が残ることが問題だ」
里桜は黙って聞いている。
「取引を確実に完了させるには、コンプライアンス上の隙を完全にゼロにする必要があった。君を余計な疑義に巻き込むつもりもなかった」
「……だから、連絡しなかったの?」
「ああ」
「三か月も?」
「…………」
里桜の眉尻が下がった。
「一言くらい言ってくれてもよかったじゃん」
「そうだな」
予想していなかった返答だったのか、里桜が顔を上げた。
「……認めるんだ」
「結果として、説明不足だったことは認める」
湊は一度言葉を切った。
「『当面、連絡は取れない』と送ることも考えた」
「じゃあ送ってよ!」
「それでは理由を論理的に説明できない。君に不要な推測というノイズを生む」
「それでも既読無視より百倍マシだから!」
返す言葉がなかった。
湊は黙ってワインに口をつける。
「……ほんと、そういうとこだよ」
里桜は呆れたように息を吐いた。
けれど、次に口を開いた時、その声は少しだけ弱くなっていた。
「私は」
グラスの脚を指先で弄ぶ。
「返事が来なかった時点で、もう、私と話すことはないってことだと思った」
湊の手が止まった。
「身体も戻ったし。住んでる世界も違うし。私が勝手に話したいって送って……迷惑だったのかなって」
「…………」
すぐには答えられなかった。
迷惑。
その言葉だけが、妙に引っかかった。
沈黙した湊の顔を、里桜が不安そうに覗き込む。
大きな瞳だった。
自分が彼女の身体を使っていた時には、鏡で何度も見ている。
同じ目のはずなのに、まるで違う。
照明を映した瞳には柔らかな光が宿り、透き通るように揺れている。
眉尻を少し下げたまま、答えを待っている。
感情が、そのまま目に出る。
「……湊?」
近い。
湊は一度、視線を逸らした。
「連絡を取りたくなかったわけではない」
里桜の目が僅かに見開かれる。
「むしろ逆だった」
それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
三か月間、何度スマートフォンを手に取ったか。
彼女から来た最後のメッセージを、何度開いたか。
『少し話がしたい』
返信しなかったのは、話したくなかったからではない。
声を聞いてしまえば、おそらくそこで終われなくなると思ったからだ。
理性が焼き切れ、すべてを投げ出して会いに行きたくなる衝動を抑えきれないと分かっていたからだ。
だが、それをどう言語化すればいいのか、湊には分からなかった。
「……そっか」
先に口を開いたのは里桜だった。
眉尻がゆっくり戻る。
そして、ほんの少しだけ口元が上がった。
「じゃあ、いいや」
「いいのか」
「うん」
里桜はグラスを持ち上げた。
「それ聞けただけで、今日はもう結構満足」
そう言って笑った顔を見て、湊は胸の奥にあった強張りが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
◇◇◇
しかし、高橋湊にとって最大の問題は、その後だった。
安心したからなのか、料理が美味しかったからなのか、あるいは、単純にペアリングのワインが飲みやすすぎたのか。
三杯目を飲み終える頃には、佐伯里桜は完全に出来上がっていた。
「佐伯、水を飲め」
「飲んでるよぉ」
「それはワインだ」
「あ、ほんとだ」
「…………」
湊は無言で彼女のグラスを遠ざけ、チェイサーのグラスと交換した。
里桜の頬は真っ赤だった。
普段より潤んだ瞳はとろんとして、身体から余計な力が抜けている。
少し前まで真剣な顔で三か月間の話をしていたというのに、今は水のグラスを両手で持って、なぜか楽しそうに揺らしている。
「おいしかったねえ。焼き鳥」
「ああ」
「湊もおいしかった?」
「食べていただろう」
「そうじゃなくてぇ」
何が違うのか分からない。
湊が眉を寄せると、里桜はそれがおかしかったらしく、くすくす笑った。
笑ったかと思えば、今度はじっとこちらを見る。
「…………」
「なんだ」
里桜は答えない。
頬杖をついたまま、湊の顔を観察するように眺めている。
その表情に、湊はかつてないほどの警報が鳴るのを覚えた。
先ほどまでの無邪気な笑顔とは違う。
赤く染まった頬に、とろんとした瞳。
その目を僅かに細め、口元だけに笑みを浮かべている。
妙に艶っぽい。いや、無防備すぎる。
そして、何かとんでもないことを企んでいる顔だった。
「……ねえ、湊」
「なんだ」
里桜がふっと笑う。
小悪魔のような、軽やかで不敵な笑みだった。
「私のおっぱい、触ったでしょ?」




