第三十五話:僕の記憶力を何だと思っている
助手席に乗り込んでから、里桜はどうにも落ち着かなかった。
シートに身体を預けてみても、背筋が妙に伸びる。
目の前に広がる内装は、どこを見ても自分の日常とは縁がない。
革張りのシートも、低い車高も、身体のすぐ後ろから響いてくる重いエンジン音も、何もかもがそわそわする。
ビルの前で見た時から分かっていた。
地を這うような流線型の、艶やかな漆黒のボディ。
車に詳しくない里桜でも、それが日常の風景から完全に浮き上がっている、恐ろしい値段の高級スポーツカーだということくらいは分かる。
当然、こんな車に乗ったことなど一度もない。
「…………」
膝の上に置いた鞄の位置を直す。
少しして、また直す。
今度はシートベルトの位置が気になって、胸元を引っ張った。
「何をしている」
運転席から声が飛んできた。
「いや……落ち着かなくて。こんな車乗ったことないもん。なんか触ったら壊れそう」
「普通に乗っているだけで損壊するような構造的欠陥車を、僕が買うと思うか?」
「そういう問題じゃないの」
湊がエンジンをかける。
その横顔を、里桜はこっそり盗み見た。
会社で見た時とは違う。
ジャケットを脱いだダークネイビーのベスト姿で、シャツの袖から伸びた腕がハンドルを握っている。
――まずい。
昼間も思ったけれど、改めて近くで見ると非常にまずい。
三か月前、自分はこの身体で鏡の前に立ち、マッスルポーズまでしていた。
腹筋を確認したり、顔を近づけて変顔をしてみたり、湊本人が知ったら即刻記憶から削除したがりそうなことを散々やった。
しかし、いざ自分が女の身体に戻りその本人が隣にいるとなると、話がまるで違う。
運転席という近い距離で見る高橋湊は、尋常ではないほど男の艶を纏っていた。
整った横顔。高い鼻梁。ハンドルを切るたびに動く腕。シャツ越しでも分かる肩の厚み。
会社で纏っていた冷たい緊張感が少し薄れているせいか、むしろ仕事中よりも生々しく感じる。
(待って。私、大丈夫?鼻息、荒くなってない?)
一度、そっと息を吐く。
しかも今日は寝坊した。
朝礼どころか出勤時間にすら危うく遅れかけ、化粧も最低限。
髪だっていつものように綺麗に巻けていない。
よりによって、こんな日に。
(なんで今日寝坊した、私!)
その隣で、湊は信号が変わるのを待ちながら、ちらりと助手席を見た。
この女はさっきから忙しい。
鞄を直したかと思えば、シートベルトを触り、急に黙り込み、今度は窓に映る自分の髪を気にしている。
僕が彼女の身体に入っていた五日間とは、まるで違う。
当然だ。あの身体を動かしていたのは僕の論理なのだから。
けれど、昼間にも感じたことを、改めて思う。
これが本当の佐伯里桜なのだ。
驚けば大きく目を開き、困れば眉尻が下がる。
何かを考えている時は視線が忙しなく動き、今はなぜか頬まで赤い。
思っていたより、ずっと――。
「……なに?」
里桜がこちらを向いた。
「いや」
湊は視線を前へ戻した。
「何でもない」
その返答に里桜は少しだけ眉を寄せたものの、すぐにまた窓の外へ目を向けた。
その感情がそのまま表に出る変化が、なぜか妙に可笑しかった。
そして、少しだけ可愛いとも思った。
◇◇◇
連れて行かれたのは、繁華街の喧騒から少し離れた場所にある店だった。
大きな看板はない。
控えめな暖簾の向こうには落ち着いた照明が灯り、店員に案内された先には、二人だけで使うには贅沢すぎる完全個室が用意されていた。
「……ここ、焼き鳥屋?」
席に着いた里桜は、半信半疑で室内を見回した。
「そうだ」
「私の知ってる焼き鳥屋と違う」
「焼き鳥屋にも価格帯のセグメントはある」
「知ってるけどさあ……」
里桜がメニューを開く。
そして固まった。
もう一度閉じた。
「湊」
「なんだ」
「これ、串の値段って、一本でこれ?」
「そのようだな」
「…………」
里桜は眉を顰め、再びメニューを開いた。
「私が知ってる焼き鳥と違う」
「二度目だな」
「だって一本で、私が前に行ってた店なら何本食べられると思ってんの?」
「単価を比較する必要があるのか?」
「あるよ。庶民にはあるの」
湊は僅かに口元を緩めた。
三か月前、電話越しに、彼女は焼き鳥の話をしていた。
『焼き鳥に謝れ』
意味の分からないことを言われた記憶まで、鮮明に残っている。
だから彼女が食べたいと言っていたものを選んだ。
高級なフレンチを選ぶこともできた。
だが、今夜の目的は彼女を緊張させることではない。
三か月前に途切れた対話を、もう一度再起動させることだ。
やがて料理が運ばれてきた。
丁寧に火入れされた串を一本手に取り、里桜は恐る恐る口へ運ぶ。
「…………!」
目が大きくなった。
そのまま無言で咀嚼する。
そして、ふわっと笑った。
まるで花が開くように。
「おいしい……!」
先ほどまで値段に怯えていた顔はどこへやら、嬉しそうにもう一口食べている。
湊は箸を止めた。
これも知らない顔だった。
僕が彼女の身体で食事をした時には、当然こんな表情は一度も浮かばなかった。
「これ、何? めちゃくちゃ美味しい」
「比内地鶏だ」
「へえ……」
分かっているのかいないのか、里桜は幸せそうに頷く。
「焼き鳥ってこんなに美味しくなるんだ……」
「焼き鳥に謝った方がいいんじゃないか?」
「…………」
里桜の動きが止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「覚えてたの?私が言ったやつ。焼き鳥に謝れって」
「脳のストレージから消去するほど昔の話ではないだろう」
「三か月前だよ?」
「僕の記憶力を何だと思っている」
そう言って湊は平然と次の串に手を伸ばした。
里桜はしばらく彼を見ていたが、やがて小さく笑った。
「……そっか」
その顔は、さっき料理を食べた時とは少し違っていた。
嬉しそうで、それでいてどこか泣きそうだった。




