第三十四話:アプリ、いらなくない?
画面に表示されたメッセージを、里桜は何度も読み返した。
『三ヶ月前のメッセージの件だ。返信が遅くなってすまない。
今日の業務が終わったら、そのまま待っていてくれ。迎えに行く』
「…………」
一度、画面を閉じた。見間違いかもしれない。
しかし、もう一度開く。
高橋湊。間違いなく、湊からだった。
「……どんだけ返信遅いんだよ」
思わず笑った。その瞬間、頬を何かが伝った。
「あ……」
指先で拭うと、涙だった。
三か月前『少し話がしたい』と送った。
既読だけがついて、返事は来なかった。
もう自分から連絡するのはやめようと思った。
住む世界が違うのだから仕方がないと、何度も自分に言い聞かせた。
それなのに。三か月も経ってから。
『返信が遅くなってすまない』
「遅いってレベルじゃないじゃん……」
里桜はもう一度笑った。
今度は、涙を拭わなかった。
◇◇◇
支度を終え、更衣室を出ようとする里桜に佐藤が声をかける。
「ねえ里桜。今日さ、駅前にできたカフェ行かない?」
退勤の準備をしていると、佐藤が声をかけてきた。
「あ、ごめん。今日は予定があって」
「え?」
佐藤の動きが止まった。
「何その反応」
「だって昼休み、帰ったらアプリ見てみようかなって言ってた人に、数時間後いきなり予定が発生する?」
「なんか急に入っちゃって」
「…………男?」
「…………」
「あ、男だ」
「違うって」
「今の間で違うは無理あるって」
里桜は鞄を肩に掛けた。
「ほら、帰るよ」
「まあいいや。じゃ、途中まで一緒に帰ろ」
二人でフロアを出て、エレベーターへ向かう。
里桜の心臓は、さっきからずっと落ち着かなかった。
迎えに行く。まさか会社に?
エントランスを抜け、外へ出る。
「じゃあ駅こっち――」
隣を歩いていた佐藤の声が止まった。
「…………え」
里桜も足を止めた。
コールセンターが入るビルの正面。
そこに、一台の車が横付けされていた。
地を這うような流線型の、艶やかな漆黒のボディ。
車に詳しくない里桜でも、それが日常の風景から完全に浮き上がっている、恐ろしい値段の高級スポーツカーだということくらい分かった。
そして、その車の前に、一人の男が立っていた。
昼間のスーツ姿とは違う。
上着を脱ぎ、ダークネイビーのベストとシャツ姿になった高橋湊が、片手をポケットに入れて立っている。
いつも隙のない理知的な仮面が、ほんの少しだけ緩められたような、高橋湊のプライベートな姿だった。
「…………」
心臓が跳ねた。
昼間は、ほんの数秒だった。
目が合って、笑われて、それだけ。
今は違う。
彼は仕事の視察に来た親会社の社長ではない。
自分を待っている。
里桜はそれを理解した瞬間、また顔が熱くなるのを感じた。
「……里桜」
佐藤が小声で言った。
「ん?」
「あれ、今日来てた新しい会社の社長じゃない?」
「……うん」
「なんでこっち見てんの?」
「…………」
「ていうか、めちゃくちゃイケメンじゃない?」
「…………うん」
「なんで里桜見て笑ったの?」
「…………」
答えられない。
湊と目が合った。
昼間とは違って、今度は逃げる理由がない。
湊が車から身体を離し、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
佐藤が里桜の腕を掴んだ。
「まさか今日の予定って」
「…………急に入ったの」
「急に入る予定の規模じゃないんだけど」
「私もそう思う」
湊が二人の前で立ち止まった。
そして佐藤へ軽く会釈したあと、里桜を見る。
「待たせたか」
「……ううん」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
三か月前までなら、電話越しにいくらでも軽口を叩けた。
『焼き鳥に謝れ』
そんなことまで平気で言えた相手なのに。
本物の高橋湊を目の前にすると、どうしていいのか分からない。
目を見ていいのかも、分からない。
「行くぞ」
「あ、うん」
湊が助手席のドアを開けた。
「…………」
里桜は、その重厚なドアを見た。
それからやっと、湊を見る。
「……自分で運転してきたの?」
「ああ」
「山田さんは?」
「今日はプライベートな予定だからな。呼んでいない」
それだけ言って、湊は里桜が乗るのを待っている。
「…………」
なぜだろう。たったそれだけのことなのに。
また胸の奥が熱くなった。
今日のこれは、仕事ではない。送迎でもない。
高橋湊が、自分個人の車で、自らハンドルを握って、自分を迎えに来た。
「里桜」
背後から佐藤の声がした。振り返る。
佐藤は、完全に理解不能という顔で二人を見比べていた。
「……アプリ、いらなくない?」
「…………」
里桜は吹き出した。
「まだそういうんじゃないから!」
「『まだ』!?」
「うるさい!」
真っ赤になった顔を隠すように、慌てて助手席へ乗り込む。
重いドアが閉まる直前まで、
「明日! 全部聞くからね!」
という佐藤の声が響いていた。




