第三十三話:何故君は、今日という日に寝坊をする
三か月後。
けたたましいアラーム音で、里桜は目を覚ました。
「…………ん」
布団の中から腕だけを伸ばし、枕元のスマートフォンを探る。
ようやく掴んだ画面を薄目で確認して、里桜はそのまま目を閉じた。
そして三秒後。
「…………え?」
もう一度見る。
「えっ」
時刻を確認する。
「ええええええっ!?」
里桜は飛び起きた。
今日に限って、アラームを止めた記憶がない。
いや、正確には一度鳴ったような気がする。たぶん止めた。止めて寝た。つまり犯人は自分である。
「ヤバいヤバいヤバい! なんで今日なの!?」
今日は朝一番で全体朝礼がある。
普段なら多少寝坊しても始業には間に合う。しかし今日はいつもより早い時間に全員集合するよう言われていた。
里桜は大急ぎで支度を整え、家を飛び出した。
当然、朝礼には間に合わなかった。
◇◇◇
「おはようございまーす……」
申し訳なさそうにフロアへ入ると、すでに全体朝礼は終わっていた。
自分の席へ向かいながら、里桜は近くにいた佐藤へ小声で尋ねる。
「ねえ。なんか朝礼あったみたいだけど、何だったの?」
「なんかね、うちの会社が別の会社の子会社になったんだって」
「へえ」
里桜は鞄を置いた。
「どこ?」
「えーっと……なんだっけ。横文字の、IT系のコンサル会社らしいんだけど。長かった」
「全然分かんないじゃん」
「しょうがないじゃん。朝から難しい話されたんだもん」
佐藤は悪びれもしない。
「で、昼過ぎから新しい親会社の社長が、センター長に挨拶に来るらしいよ。業務中に見かけたら、ちゃんと挨拶してくださいって」
「ふーん」
里桜はパソコンの電源を入れた。
「システム変わったりするの?」
「今のところ、そういう話はなかったよ」
「じゃ、いっか。仕事しよ」
「切り替え早っ」
会社の株主が誰になろうと、親会社がどこに変わろうと、今日も電話は鳴る。
里桜にとって差し迫った問題は、そちらだった。
◇◇◇
昼休み。
いつものように佐藤と向かい合って昼食を取っていると、不意に佐藤が言った。
「里桜さぁ、もうそろそろ、新しい彼氏見つけたら?」
「ぶっ」
危うくお茶を吹きそうになった。
「急に何」
「だって、ずっと一人じゃん。まだマサトさんのこと引きずってる?」
「……そっちじゃなくて」
口から出てから、里桜はしまったと思った。佐藤の目が輝く。
「そっち?」
「…………」
「え、待って。こっちがあるの!?」
「あはは」
「何その笑い! いるの!? 誰!?」
「あはははは」
「笑って誤魔化すな!」
里桜は弁当のおかずを口へ放り込んだ。
答えられるはずがない。付き合っていたわけでもない。デートをしたこともない。
それどころか、本当の姿では一度もまともに会ったことすらない。
三か月前に、たった五日間だけ身体が入れ替わった男。
(私が引きずってるのは、マサトじゃなくて……)
そこまで考えて、やめた。
最後に送ったメッセージは、『少し話がしたい』。
既読だけで返事はなかった。
それが答えなのだと思っている。
「でも、そうだね」
里桜は少し笑った。
「前、向かなきゃね」
「そうそう。アプリでも登録してみたら? うちのお姉ちゃん、それで旦那さん見つけたよ」
「へえ、そうなんだ」
「見るだけ見てみれば?」
「帰ったら見てみよっかな」
そう言って、里桜は笑った。
◇◇◇
午後。
高橋湊は、神崎とともにコールセンターのフロアへ足を踏み入れた。
今度は、高橋湊自身の身体で。
センター長との打ち合わせは極めて簡潔かつ冷徹だった。
オペレーターの評価制度の抜本的見直し、正社員登用制度の再設計、研修業務と通常架電業務の分離、クレーム対応者への負荷集中の是正。
さらに女性比率の高い職場環境を定量的に評価し、生理用品の常備、空気清浄機および加湿器の設置についても即時実行を指示した。
「これらの初期投資費用については本部側で持つ。現場の判断で勝手に削ることは許さない」
「し、承知いたしました……!」
「それと、以前の評価制度についてはデータをすべて確認した。悪質な労働分配率だ。受電件数だけではなく、対応品質、クレーム処理、新人支援なども適正な評価対象へ含めるように」
圧倒的なプレッシャーの前に、センター長が何度も頷く。
その横で神崎は淡々とメモを取っていた。
一通りの打ち合わせを終えると、湊は「現場の空気を確認する」とだけ言い残し、センター内の視察へ向かった。
◇◇◇
「ですから、先ほどからご説明しております通り――」
里桜は電話の向こうから飛んでくる怒声を聞きながら、画面上の情報を確認していた。
今日一番の大物で、相手はこちらの説明をほとんど聞いていない。
同じ主張を繰り返し、途中からは里桜個人への罵倒まで混ざり始めている。
「はい。おっしゃりたいことは分かります。ただ――」
怒鳴り声が里桜の耳を劈く。
里桜は溜息を吐くように、息を整える。
そのとき、視界の端に誰かが入った。
男性。仕立てのいいダークネイビーのスリーピーススーツ。
気にせず、対応を続ける。
「はい。であれば――」
再び怒鳴り声。
男性が、里桜のブースの斜め前で少し移動した。
その手首が見えた。時計。
「…………」
一瞬、里桜の言葉が止まりそうになった。
見覚えがある。
いや、そんなはずはない。
三か月も会っていない。
そもそも、会ったことすらないと言った方が正しい。
それでも知っている。
その時計を。
そのスーツを。
その手を。
五日間、自分が使っていた身体にあったものだから。
心臓が大きく鳴った。
耳元では、まだ客が何かを怒鳴っているが、里桜の思考は完全に視界に映る男性に吸い寄せられていた。
ドクン。
ドクン。
この程度のクレームなら、何度も受けてきた。
こんなふうに心臓が暴れることなんてない。
里桜はゆっくりと視線を上げた。
手首、腕、肩。そして、顔。
「…………ひぁっ」
思わず、マイクに乗らないほどの変な声が漏れた。
三か月ぶりだった。いや、本当の姿で目が合うのは、初めてだった。
高橋湊が、そこにいた。
湊は何も言わなかった。ただ、漆黒の瞳でじっと里桜を見下ろしている。
(な、なんで……!?)
電話口からはまだ罵声が飛んできている。
クレーム対応中だ。逃げることも、話しかけることもできない。
見つめられている。
その事実に、カッと一気に頬が熱くなるのが分かった。
顔だけじゃなく、身体中が熱い。
頭が真っ白になる。
そんな里桜の顔を見て、高橋湊は、ほんの少しだけ堪えきれないように「フッ」と笑った。
「…………っ!」
ビクッと肩が揺れる。
その直後、湊の斜め後ろに控えていた神崎が、スッと中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
(――この異常な急ピッチでの買収の意図は、まさか)
神崎は里桜を一瞥する。
その里桜はパニック状態だった。
耳元から声がする。何かを言われている。返事をしなければならない。
分かっているのに、一瞬だけ何も入ってこなかった。
湊だ。本当に。湊だ。もう何が何だか分からない。
思考も視界も、焦点をどこに合わせればいいのかまったく分からなかった。
◇◇◇
三か月ぶりに見る彼女は、僕の記憶にある姿とは少し違っていた。
当然だ。僕が彼女の身体に入っていた時、化粧は必要最低限しかしていなかった。髪も、業務に支障が出ない程度に無機質に整えていただけだ。
今、目の前にいる佐伯里桜は違う。
きちんと化粧をしている。髪も彼女自身のやり方で整えられている。
そして何より。表情が違う。
僕が使っていた時には存在しなかったものが、そこにはいくつもあった。
電話の相手へ向ける困ったような眉。それでも声を荒らげず、相手の言葉を聞こうとする目。
そして、僕に気づいた瞬間の顔。
驚いて、信じられないものを見るように目を見開いて。
頬を真っ赤に染めてパニックになり、それから、ほんの少しだけ泣きそうになった。
「…………」
三か月前より、ずっと。
綺麗だと思った。
「社長」
神崎の声がした。
「次のお時間がございます」
分かっている。分かっているが、もう少しだけこの反応を見ていたかった。
「……ああ」
僕は彼女から視線を外した。
ここで話すべきではない。彼女は業務中だ。僕にも次の予定がある。
分かっている。だから、その場を離れた。
◇◇◇
退勤後。
里桜はロッカーから荷物を取り出すと、真っ先にスマートフォンを確認した。
今日一日、ずっと落ち着かなかった。
あれは本当に湊だったのか。なぜここにいたのか。新しい親会社と何か関係があるのか。
そもそも、どうして何も言わなかったのか。
(まさか。親会社って……湊の会社?)
画面を点灯する。
通知が一件。
「…………」
息が止まった。
高橋湊。
三か月間、既読スルーのまま一度も動かなかった名前。
その名前の横に、新着メッセージを示す表示がついている。
「…………嘘」
里桜の震える指が、画面の上で止まった。




