第三十二話:言葉が、欲しい
「……話したい」
里桜はスマートフォンを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。
電話をかけるだけだ。
入れ替わっていた五日間は、毎日のようにしていたことだった。
仕事が終われば電話をして、今日あったことを話す。
必要な報告だけで終わるはずだったのに、いつの間にか焼き鳥の話をしたり、どうでもいいことで言い合ったりして、気づけば日付が変わりそうになっていたこともある。
だから、一本くらい。
少しだけ声を聞くくらいなら。
里桜は通話ボタンを押した。
一度。
二度。
三度。
呼び出し音だけが続く。
「…………」
やがて通話は切れた。
当然だ。高橋湊は、自分とは違う。
何十億という金が動く会社の社長だ。
先週、自分が彼の身体で散々「保留」にした案件だって残っている。忙しいに決まっている。
里桜は少し迷ってから、メッセージを一通だけ送った。
『少し話がしたい』
それ以上は送らなかった。
そのまま、祈るようにスマートフォンを握りしめて、浅い眠りについた。
◇◇◇
湊がスマートフォンを確認したのは、日付が変わってからだった。
時計は午前二時を回っている。
月曜日から処理すべき案件が多すぎた。
通常業務に加え、週末から不眠不休で組み上げた「新たな極秘プロジェクト」を即座に実行フェーズへ移している。
先日の役員会議で大枠は通したが、あれで終わりではない。むしろ、ここからが本番だ。
三か月。
この計画を誰にも邪魔されず完璧に完遂させるためには、一日たりとも、一秒たりとも無駄にはできない。
デスクの上に置いていたスマートフォンを手に取る。
不在着信、一件。
佐伯里桜。
その名前を認識した瞬間、湊の指が止まった。
メッセージも一通届いている。
『少し話がしたい』
画面を見つめたまま、湊は沈黙した。
理由は分かっている。
代理人からの通知が、すでに相手方へ到達している。
ならば、おそらく彼女も知ったのだろう。
母親があの部屋を訪れたこと。
自分がその場にいたこと。
そして、彼女に何も伝えないまま、裏で強権を発動してすべてを排除したことも。
マサトの件についても、すでに知っている可能性が高い。
今、彼女がどんな感情でこの言葉を送ってきたのか。
考えるまでもなかった。
『少し話がしたい』
たった八文字。
それなのに、電話をかけたいという衝動を抑え込むには、ひどく骨が折れた。
声が聞きたい。
先週まで、毎晩のように聞いていた声。
佐伯里桜自身の、あの体温のある声を。
通話ボタンへ親指を伸ばしかけて、止める。
今は駄目だ。
現在、絶対にしくじることの許されない、己のすべてを懸けたタスクが動いている。
ここで彼女の涙声など聞けば、感情という最大のバグがシステムを破壊し、三か月の計画が根底から瓦解する。
僕がどれほど自分を律したところで、彼女に対する私的な感情を完全に制御できる保証は、もうどこにもなかった。
入力画面を開いた。
『当面、連絡は取れない』
そこまで打って、指が止まる。
これを送れば、彼女は理由を考える。
自分が何かしたのか。迷惑だったのか。不要な推測をさせ、彼女の思考にノイズを生む。
ならば事情を説明するか。それもできない。今動いている計画の全貌を、現段階で彼女に伝えることはコンプライアンス上、絶対に許されない。
すべて消し、真っ白になった入力欄を見つめる。
何も返さない。
僕がメッセージを確認し、君の状況は把握しているということだけを無言で伝える。
今の僕にできる最大の自制は、それだけだった。
今、電話をかければ、確実に彼女の声を聞いて安心する。
そして一度聞けば、明日も聞きたくなる。
その次の日も。
彼女のすべてに、もっと踏み込みたくなる。
それを自覚してしまった以上、これはもう単なる連絡ではない。
「…………」
スマートフォンを伏せた。
仕事へ戻る。それが正しい。
少なくとも、今は。
そう冷酷に判断し、湊は再びモニターの無機質な数字の羅列へと向き直った。
◇◇◇
翌朝。
目覚ましが鳴るより早く、里桜は目を覚ました。
すぐに枕元のスマートフォンを手に取る。
通知画面に、湊からのメッセージはない。
急いでトーク画面を開く。
自分が昨夜送った『少し話がしたい』という言葉の横に、「既読」の二文字だけが冷たく表示されていた。
「……読んでは、くれたんだ」
一分待っても、五分待っても、返信が入力されている気配はない。
昨夜、自分が眠りについた後で既読がつき、そのまま画面を閉じられたのだ。
「…………」
スマートフォンを胸元へ下ろした。
喉から手が出るほど、湊の声が聞きたかった。
湊の言葉が欲しかった。
一言でいい。『どうした』、それだけでもよかった。
いつもの少し冷たい声で、「なんだ」と言ってくれるだけでよかった。
でも、来ない。
当たり前なのかもしれない。
里桜は朝の明るい天井を見つめた。
自分と湊では、住む世界が違う。
それは入れ替わっていた五日間で、嫌というほど分かった。
自分は契約社員で、毎月の給料を気にしながら生活している。
スーパーでは値引きされた肉を選ぶし、昼食代を浮かせるために弁当を作る。
湊は違う。
何十億という金を動かし、運転手付きの車に乗り、あの石黒会長のような雲の上の人間たちと渡り合う会社の社長だ。
たった五日間、偶然身体が入れ替わった。
だから話した。だから関わった。それだけだ。
身体が元に戻った今、本来なら交わるはずのなかった二人の軌道も、元に戻る。
「……そりゃ、そうだよね」
小さく呟いた。
あの縁談の女性を思い出す。
綺麗で、育ちがよくて、家柄も申し分なくて、
湊の隣に立っても、誰も違和感を抱かない人。
自分じゃない。
湊が生きている世界にいるのは、ああいう人だ。
(忙しいよね)
(私なんかに割く時間、ないよね……)
分かっている。分かっているのに。
スマートフォンを握る手に、少しだけ力が入った。
声が聞きたい。
でも、既読無視されている状態でもう一度電話をかける勇気は、今の里桜にはなかった。
里桜はスマートフォンの画面を消した。
真っ暗になった画面には、泣きそうな自分の顔だけが映っていた。




