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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第2章 ドゥアトへ続く階段

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4:セティの警告

4:セティの警告


 朝になっても、蓮は自分の手を見続けていた。

 掌には何もない。

 黒い太陽の印は消えている。皮膚には傷もない。昨夜、夢から目覚めた直後に一瞬だけ浮かび上がったあの黒い円も、今は跡形もなかった。

 それでも、蓮にはわかっていた。

 印は消えたのではない。

 見えなくなっただけだ。

 皮膚の下、血の奥、記憶の底。そこに黒い太陽は沈んでいる。そして、地下から何かが呼ぶたびに、また浮かび上がる。

 蓮はベッドの端に座ったまま、昨夜の夢を思い返していた。

 円筒状の遺構。

 螺旋階段。

 セティ。

 閉じた目。

 そして、顔の見えない人物。

 いや、最後には見えた。

 その顔は、自分だった。

 あるいは、自分と同じ顔をした誰か。

 夢の中で、その人物はセティに言っていた。

 許してくれ、セティ。

 地上を守るには、君が必要だ。

 蓮は両手で顔を覆った。

 理解したくなかった。

 自分は現代の日本で生きてきた人間だ。古代エジプトの地下儀式に関わっているはずがない。セティを円筒の底へ連れていったはずがない。

 だが、地下では時間がまっすぐではない。

 測量不能の通路。

 五分と一時間十六分の時間差。

 未来を描く壁画。

 夢と現実をつなぐ声。

 そうしたものを見てしまったあとでは、「ありえない」という言葉は、もう以前ほど強くなかった。

 机の上のノートは閉じられている。

 昨夜、そこには黒い文字が浮かび上がった。

 三人目は、膝をついた。

 四人目は、目を見る。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 順序は進んでいる。

 蓮たちは、知らないうちに儀式をなぞっているのかもしれない。あるいは、地下がそうさせている。

 もし次が「目」なら、次に見るものは明らかだった。

 円筒の底に閉じていた、巨大な目。

 あれを見てはいけない。

 蓮はそう思った。

 だが同時に、見なければならないという感覚もあった。

 目を避けた者は、目に選ばれる。

 夢の壁に流れていた言葉。

 それは警告なのか、手順なのか。

 逃げるための道なのか、さらに深く落ちるための罠なのか。

 蓮には、もう区別がつかなくなり始めていた。

 ドアがノックされた。

「蓮さん、起きていますか」

 ナディアの声だった。

 蓮は顔を上げた。

「はい」

 ドアを開けると、ナディアが立っていた。彼女も眠れていないのだろう。顔色は悪く、目の下には薄い隈がある。それでも服装は整っていて、手にはタブレットと数枚の資料を抱えていた。

「少し、話せますか」

「はい」

「黒瀬さんも資料室にいます。昨夜のログで、気になるものが見つかりました」

 蓮の胸が少し重くなる。

「円筒の記録ですか」

「それもあります。でも、もっと……あなたに関係するかもしれません」

 蓮は息を止めた。

 あなたに関係する。

 その言葉は、もうただの研究上の意味には聞こえなかった。


     *


 資料室には、黒瀬が先に来ていた。

 机の上にはノートパソコンが開かれ、円筒状遺構の周辺で撮影した映像が表示されている。昨日、光の舟に導かれ、水のない川を進み、地下都市の広場で見つけた巨大な円筒。蓮の夢と一致した場所。

 黒瀬は映像を一時停止し、拡大した。

「ここです」

 画面には、円筒の縁に刻まれた壁画が映っていた。

 セティらしき少年が舟に乗せられ、円筒へ運ばれていく場面。周囲には祭司たちが立っている。そして、少年の横に一人の人物がいる。

 昨日は影が濃く、顔がわからなかった。

 だが黒瀬が画像補正をかけたことで、その輪郭が少しだけ浮かび上がっていた。

 蓮は画面を見た瞬間、喉が締めつけられた。

 完全に鮮明ではない。

 だが、わかる。

 その人物の顔は、蓮に似ていた。

 いや、蓮そのものに見えた。

 髪型も服装も違う。古代の衣をまとい、首には幅広の装飾をつけている。だが、顔の骨格、目の形、口元の線。まるで蓮の顔を、古代の壁画様式の中に押し込めたようだった。

 ナディアは静かに言った。

「偶然の類似、と言うことはできます」

「できますか」

 蓮の声は掠れていた。

 ナディアは答えなかった。

 黒瀬が気まずそうに頭を掻いた。

「俺も、最初は見間違いだと思いました。でも、別角度の映像にも同じ人物がいるんです。しかも、この人物だけ、右手に黒い太陽の印がある」

 黒瀬は別の画像を開いた。

 そこには、儀式の別場面が映っている。円筒の縁。膝をつくセティ。祭司たち。そして蓮に似た人物が、右手を前に出している。その掌には、黒い太陽。

 蓮は無意識に自分の右手を握りしめた。

「昨夜、夢で見ました」

 蓮は言った。

 ナディアと黒瀬がこちらを見る。

「この人物を。セティを円筒へ連れていく場面です。最後に顔が見えて……僕と同じ顔でした」

「夢にも出たんですね」

 黒瀬は小さく呟いた。

 蓮は頷いた。

「その人物は、セティに謝っていました。地上を守るには、君が必要だ、と」

 ナディアは目を伏せた。

「封印の儀式……」

「僕は、セティを犠牲にしたんでしょうか」

 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

 それは自分がしたことではない。

 そう言い切りたい。

 だが、地下は蓮の顔を見せてくる。蓮の掌に印を浮かべ、蓮の名前を呼び、蓮に石片を届け、蓮に扉を開かせた。

 すべてが、蓮をその人物へ近づけている。

 ナディアは慎重に言った。

「まだ断定できません。あなたがその人物の生まれ変わりだとか、過去の本人だとか、そういう話に飛びつくのは危険です」

「でも、可能性はありますか」

「地下では時間と記憶が通常の形を保っていません。あなたが過去にいた、というより、地下があなたの顔を使って過去を見せている可能性もあります。あるいは、地下があなたをその人物に重ねようとしている」

「重ねる?」

「役割を与えるためです」

 ナディアの声は低かった。

「古代の儀式では、個人そのものよりも役割が重要になることがあります。王、祭司、供物、門番、舟を導く者。もしかすると、地下はあなたをかつてセティを連れてきた者という役割に重ねているのかもしれません」

「つまり、僕がその人本人でなくても、地下にとっては同じ役になる」

「はい」

 黒瀬が嫌そうに言った。

「役割にされるって、怖すぎませんか。本人の意思関係ないじゃないですか」

「だから危険なんです」

 ナディアは蓮を見た。

「地下は、人を個人としてではなく、記号として扱うのかもしれません。黒い太陽、舟、膝をつく者、目。あなた自身も、その記号の一つにされかけている可能性があります」

 蓮は画面の中の自分に似た人物を見た。

 その人物は、セティの肩に手を置いている。

 優しくも見える。

 だが、その優しさは残酷だった。

 逃げられない少年に向ける、最後の慰めのような優しさ。

 蓮は奥歯を噛んだ。

「セティに会わなければいけません」

 ナディアがすぐに反応した。

「地下へ降りるつもりですか」

「はい」

「危険です。次は目の段階です」

「わかっています。でも、セティ本人に聞かないといけない。彼が何を知っているのか。僕に何を求めているのか。あの儀式で何が起きたのか」

「セティの言葉が正しいとは限りません」

「それでも、聞かなければ前に進めません」

 黒瀬が両手で顔を覆った。

「出た。前に進むしかないパターン」

 蓮は苦笑しそうになったが、できなかった。

「黒瀬さんは、残っても大丈夫です」

「いや、行きますよ」

 黒瀬は即答した。

「行きたくないですけど、行きます。蓮さんとナディアさんだけで行かせたら、絶対もっと危ないところまで行くでしょう」

「黒瀬さん」

「それに、俺の機材がないと記録できません。まあ、記録できる保証はないですけど」

 ナディアはしばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくり息を吐いた。

「わかりました。ただし、今日は円筒には近づきません」

「セティに会うのに?」

 蓮が聞く。

「彼が本当にあなたに警告を伝えたいなら、円筒の底まで行かなくても現れるはずです。むしろ、円筒は危険すぎます」

「では、どこへ?」

 ナディアは壁画の画像を指した。

「膝をつく者の小部屋です。昨日、そこで石片を得ました。あの場所は、目を避けるための通過点でした。セティが警告するなら、あそこが一番可能性が高い」

 蓮は頷いた。

 膝をつく者の小部屋。

 あの低い天井、石の台、三つのくぼみ。頭上を通り過ぎた視線。あの部屋なら、確かに円筒の目から隠れられるかもしれない。

 ただし、また地下へ降りなければならない。

 蓮は胸の奥にある恐怖を押し込めた。

 怖い。

 だが、それ以上に、セティの顔が頭から離れなかった。

 舟に乗せられ、円筒へ運ばれる少年。

 もし自分が本当に、彼をそこへ連れて行ったのなら。

 たとえそれが過去の自分でなく、地下が与えた役割だとしても。

 蓮には、目を背けることができなかった。


     *


 ホテル地下の保管室へ向かう廊下は、昼間でも薄暗かった。

 昨日までと同じ非常灯。古いコンクリート。埃の匂い。だが、今日はそこに別の気配が混ざっていた。

 待たれている。

 蓮はそう感じた。

 地下が、蓮たちの再訪を知っている。扉の奥で息を潜め、次に誰が何を選ぶのかを見ている。

 石の入口は、相変わらず保管室の奥にあった。

 青白い階段。黒い太陽の印。冷たい風。

 ナディアは入口の前で立ち止まり、三人に確認した。

「今日の目的は、膝をつく者の小部屋でセティとの接触を試みること。円筒には近づきません。光の舟が現れても追わない。水のない川の流れが変わっても、昨日のルートを辿る。異常が強まった場合は即撤退します」

「了解です」

 黒瀬が答えた。

 蓮も頷いた。

 ナディアは蓮を見た。

「セティが現れても、一人で近づかないでください」

「はい」

「彼があなたに罪悪感を与えるようなことを言っても、その場で判断しないで」

 蓮は少しだけ目を伏せた。

「……わかりました」

「約束してください」

 ナディアの声は強かった。

 蓮は彼女を見た。

「約束します」

 その言葉を聞いて、ナディアはようやく頷いた。

 三人は階段を降りた。

 今回は、階段の壁に刻まれた記号の光り方が違っていた。黒い太陽と舟の印は淡く沈黙し、膝をつく人物の印だけが、青白く浮かんでいる。

 地下は、目的地を知っている。

 黒瀬が小声で言った。

「案内されてる感がすごいですね」

「案内ではなく、誘導かもしれません」

 ナディアが返す。

「もっと嫌です」

 階段を下り、水のない川の通路へ出る。

 溝に光は流れていなかった。昨日のような水音もない。代わりに、床の端に膝をつく人物の印が点々と現れていた。まるで足跡のように、地下都市の広場ではなく、狭い横道の方へ続いている。

「昨日とは違う道です」

 黒瀬が端末を見ながら言った。

「でも、膝の印は同じ方向を示しています」

「通路そのものが変わっている」

 ナディアが低く言う。

「測量不能どころか、固定すらされていませんね」

 蓮は膝をつく人物の印を追った。

 その姿は、見るたびに少しずつ違う。両手を床につく者。胸の前で手を合わせる者。顔を伏せる者。中には、首を垂れたまま動かなくなっているようなものもある。

 祈りなのか、服従なのか、死なのか。

 蓮にはわからなかった。

 やがて三人は、昨日の小部屋に似た場所へ着いた。

 だが、完全には同じではなかった。

 円形の部屋。低い天井。中央の石の台。膝をつくためのくぼみ。そこまでは同じだ。

 しかし、くぼみは三つではなく、四つあった。

 ナディアが息を呑む。

「昨日は三つでした」

「増えてますね」

 黒瀬が言った。

「四つ目、誰の分ですか」

 その問いに答えるように、部屋の奥に白い影が現れた。

 セティだった。

 彼は石の台の向こうに立っていた。白い布をまとい、裸足で、黒い瞳をこちらに向けている。昨日より輪郭がはっきりしている。幻というより、そこにいる人間に近かった。

 蓮は一歩前に出そうになった。

 ナディアが腕を掴む。

 約束。

 その視線がそう言っていた。

 蓮は立ち止まった。

「セティ」

 蓮が呼ぶと、少年は静かに頷いた。

「来たんだね」

「君に聞きたいことがある」

「知っている」

 セティの声は小さかったが、部屋全体に響いた。

「君は、思い出し始めた」

 蓮の胸が強張る。

「僕は、君をここへ連れてきたのか」

 ナディアがわずかに息を止める。

 黒瀬も黙った。

 セティは蓮を見つめたまま、すぐには答えなかった。

 その沈黙が、答えのようだった。

「君じゃない」

 やがてセティは言った。

 蓮は息を吐きかけた。

 だが、次の言葉で止まった。

「でも、君と同じ役目の人だった」

 ナディアの言葉が思い出される。

 役割。

「同じ役目?」

 蓮が聞く。

「黒い太陽を手に持つ人。地上と地下のあいだに立つ人。扉を開け、扉を閉じる人」

「それが、僕?」

「今は」

 セティは言った。

 その言い方が、蓮の胸を冷やした。

 今は。

 つまり、その役目は時代ごとに別の人間へ移るのかもしれない。

「その人は、君を犠牲にしたのか」

 セティは目を伏せた。

「僕は選ばれた」

「自分で?」

「違う」

 その声には、かすかな怒りが混じっていた。

「大人たちが選んだ。王が選んだ。祭司たちが選んだ。地上の人々が、眠り続けるために」

「眠り続ける?」

「地上の人は、忘れていないと生きられなかった。声を聞きすぎたから。神の声を」

 ナディアが静かに口を開いた。

「神の声とは何ですか」

 セティは彼女を見た。

「全部の声」

「全部?」

「死んだ人。生きている人。まだ生まれていない人。忘れられた人。忘れたふりをした人。泣いた人。祈った人。殺した人。許した人。全部の声が、ひとつになって地下に落ちた」

 部屋の空気が冷たくなる。

「人はそれを神だと思った」

 セティは言った。

「でも、違う。神じゃない。人の声が大きくなりすぎて、神の形になっただけ」

 蓮は言葉を失った。

 ナディアが以前言った仮説。

 記憶が神になった。

 セティの言葉は、それに近かった。だが、もっと生々しい。学問の仮説ではなく、経験として語っている。

「それを封じるために、君が使われた」

 蓮が言うと、セティは頷いた。

「僕は、声を聞くことができた。だから、声を眠らせる器にされた」

「器……」

「声は、誰かに聞かれないと形を持てない。僕が聞き続けることで、声は地下に留まった。地上へ上がらずに」

 黒瀬が小さく呟いた。

「ひどすぎるだろ……」

 セティは彼を見た。

「ひどい。でも、地上は助かった」

「だからって」

 黒瀬は言い返そうとして、言葉を失った。

 蓮はセティを見つめた。

 この少年は、何千年ものあいだ声を聞き続けてきたのか。

 死者の声、生者の声、未来の声、恐怖、祈り、罪、怒り、後悔。そのすべてを一人で受け止め続けたのか。

 それは生きることではない。

 終わらない夜に閉じ込められることだ。

「なぜ、僕を呼んだ」

 蓮は聞いた。

「僕に何をさせたいんだ」

 セティの瞳が揺れた。

「止めてほしい」

「何を」

「あれが、起きるのを」

 その瞬間、小部屋の壁に閉じた目の印が浮かび上がった。

 前回より大きい。

 瞼は閉じているが、その周囲に細かな線が走っている。今にも開きそうだった。

 セティはその印を見て、身体を強張らせた。

「もう、眠りが浅い」

「なぜ」

 ナディアが聞く。

「扉が開いたから?」

「それだけじゃない」

 セティは蓮を見た。

「欲しがる人が近づいている」

「マーカスか」

 蓮が言うと、セティは名前には反応しなかった。

「その人は、声を力にしようとしている。声は、聞かれたがっている。だから、その人に囁いている」

「彼を止めるには?」

「目を見てはいけない」

 セティは言った。

「でも、目を知らなければ止められない」

 矛盾した言葉だった。

 黒瀬が顔をしかめる。

「またそれですか。開けるな、でも開けろ。見るな、でも知らないと止められない。地下ルール、難しすぎます」

 セティは黒瀬を見た。

「目を見ることと、目に見られることは違う」

 ナディアが反応した。

「こちらが観察することと、向こうに認識されることは違う、という意味?」

 セティは頷いた。

「目を直接見たら、名前を取られる」

「名前を取られる?」

 蓮が聞く。

「名前は記憶。名前を取られた人は、自分が誰だったか忘れる。そして、声の一部になる」

 蓮は、昨日の壁画を思い出した。

 水路に流れる人影。

 壁の中に閉じ込められたような調査隊の姿。

 サッカラの記録にあった、壁画の中に描かれた現代人。

 名前を取られる。

 つまり、個人としての輪郭を失い、地下の記憶に吸収されるということか。

「それが、サッカラの調査隊に起きたのか」

 蓮が聞くと、セティは目を伏せた。

「少しだけ」

「少しだけ?」

「全員ではない。けれど、地下は彼らを覚えた。覚えられた人は、地上に戻っても、全部は戻れない」

 ナディアの表情が暗くなった。

 サッカラの調査隊。

 帰国後に沈黙した隊長。研究職を辞めた地質学者。失踪した写真技師。砂漠で遺体となって見つかった現地スタッフ。

 彼らは地上へ戻った。

 だが、何かを地下に置いてきた。

 あるいは、地下に何かを持ち帰らせてしまった。

「では、目を直接見ずに、どうやって止めるんですか」

 ナディアが尋ねる。

 セティは石の台を見た。

 その上には、何も置かれていない。

 しかし、蓮にはそこに何かが現れる予感があった。

「目の石を手に入れて」

「次の石片か」

 蓮が言う。

 セティは頷く。

「でも、目の石は円筒の底にある」

 黒瀬が即座に言った。

「無理です。却下です。底に降りるのは絶対まずいです」

「底までは降りなくていい」

 セティは言った。

「目が開く前に、目の影だけを見る」

「目の影……?」

「水に映った目。石に刻まれた目。夢に落ちた目。直接見なければ、名前は取られない」

 ナディアは考え込んだ。

「つまり、反射や記録を通して観察する必要がある」

「記録……カメラ越しなら?」

 黒瀬が言う。

 セティは首を振った。

「機械は、目をまっすぐ見てしまう」

「カメラはだめか……」

「水のない川に映る影を見る」

 セティは言った。

「でも、水のない川は供物を運ぶ道だろう」

 蓮が聞く。

「だから、乗ってはいけない。見るだけ」

 少しずつ、道筋が見えてきた。

 水のない川に映る目の影を見る。

 それによって、目の石を手に入れる。

 ただし、光の舟には乗ってはいけない。

 円筒の底の目を直接見てはいけない。

 難解で、危険で、少しの間違いで戻れなくなりそうな条件だった。

 セティは蓮を見た。

「蓮。君は、目を見たがっている」

 蓮は言葉に詰まった。

「そんなことは……」

「知りたいと思っている」

 セティの声は責めるものではなかった。

 ただ、事実を告げる声だった。

「知りたい心は、目に近い。目は、見たい人を先に見る」

 ナディアの言葉と重なる。

 地下は、知識欲を利用する。

 蓮は唇を噛んだ。

「どうすればいい」

「一人で見ないで」

 セティは言った。

「名前を三つ、結んで。そうすれば、一人の名前だけを取られない」

「三つの名前……」

 蓮はナディアと黒瀬を見た。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 門を通るときに、三人は名を置いた。

 名を置いた者は、姿勢を低くせよ。

 目は、高き者を先に見る。

 次の段階では、三人の名を結ぶ必要がある。

「どうやって結ぶんですか」

 ナディアが聞いた。

 セティは自分の胸に手を置いた。

「互いの名前を呼んで、忘れないと約束する」

 黒瀬が瞬きをした。

「それだけ?」

「名前は、呼ばれることで戻る」

 セティは言った。

「目に名前を取られても、誰かが呼べば、少しだけ戻れる」

 その言葉は、あまりにも単純で、だからこそ重かった。

 名前を呼ぶ。

 人を人として引き戻す最も基本的な行為。

 地下では、それが命綱になる。

 蓮はセティを見た。

「君の名前も、呼べば戻れるのか」

 セティの瞳が揺れた。

 長い沈黙があった。

「僕の名前を、覚えている人はもういない」

「僕は覚えている」

「君は、まだ知らない」

「名前は知っている。セティ」

 蓮がその名を呼んだ瞬間、小部屋の空気が震えた。

 壁の目の印が一瞬だけ閉じる。

 セティは、驚いたように蓮を見た。

 その表情は、初めて年相応の少年に見えた。

「もう一度」

 セティが言った。

 蓮は静かに呼んだ。

「セティ」

 少年の輪郭が、少しだけ濃くなった。

 ナディアも続いた。

「セティ」

 黒瀬は少しためらってから、ぎこちなく言った。

「セティ」

 小部屋の中に、三人の声が重なった。

 セティは目を閉じた。

 泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

「久しぶりに、外から聞こえた」

 彼は小さく言った。

「僕の名前」

 蓮の胸が詰まった。

 セティは何千年ものあいだ、自分の名前を呼ばれなかったのか。

 声を聞き続けながら、自分の声も名前も忘れられていったのか。

「必ず、君を助ける」

 蓮は言った。

 セティは目を開いた。

「約束しないで」

「なぜ」

「地下で約束すると、石になる」

 その言葉に、蓮は息を止めた。

 セティは静かに言った。

「願いは持っていい。でも、約束はだめ。地下は約束を食べる。叶えられなかった約束ほど、長く残る」

 ナディアが低く呟く。

「記憶の蓄積……」

 セティは石の台へ視線を落とした。

「そろそろ戻って。長くいると、膝をつく者の部屋も、目に見つかる」

「目はここまで届くのか」

 蓮が聞く。

「目は、見られたものを通って広がる」

「見られたもの?」

「壁画。夢。記録。欲望」

 セティはそこで、ふと顔を上げた。

 小部屋の入口の方を見る。

 蓮たちも振り返った。

 入口の向こうは暗い。

 だが、その奥から足音が聞こえた。

 コツ。

 コツ。

 コツ。

 重い靴音。

 蓮の背筋が冷えた。

 マーカス。

 ナディアが小声で言った。

「まさか……」

 黒瀬が端末を見る。

「いや、ありえない。入口にはスタッフが……通信、切れてます」

 足音は近づいてくる。

 コツ。

 コツ。

 コツ。

 セティの顔がこわばった。

「欲しがる人が来た」

 蓮は身構えた。

「彼は入れないはずじゃ」

「扉は拒んだ。でも、声は呼んでいる」

 セティは蓮を見た。

「逃げて。今は会ってはいけない」

「どこへ」

「膝をついたまま、後ろを見ないで進んで」

「どういうことだ」

 セティは強い声で言った。

「立たないで。目が来る」

 その瞬間、小部屋の壁一面に、閉じた目の印が浮かび上がった。

 一つではない。

 無数の目。

 どれも閉じている。だが、瞼がぴくぴくと震え、今にも開きそうだった。

 黒瀬が息を呑む。

「最悪だ……」

 足音は近い。

 ナディアが素早く判断した。

「膝をついて移動します。蓮さん、黒瀬さん、低く!」

 三人は膝をついたまま、石の台の奥へ進んだ。

 普通なら馬鹿げた行動だ。だが今は、立ち上がることの方が恐ろしかった。

 床に膝を擦りながら、低い姿勢で進む。

 小部屋の奥には、先ほどまで壁だった場所に、狭い隙間が開いていた。膝をついたままなら通れるほどの低い通路だ。

 まるで、この姿勢で逃げる者のために作られている。

 背後で、足音が止まった。

 マーカスの声が聞こえた。

「そこにいるのですか、篠原さん」

 蓮は振り返りそうになった。

 だが、ナディアが小声で言う。

「見ないで」

 セティの声も重なる。

「後ろを見ないで」

 蓮は歯を食いしばった。

 見ない。

 見てはいけない。

 背後でマーカスが言う。

「セティと話したのですね」

 その名を聞いた瞬間、セティの気配が揺れた。

「彼は嘘をつきますよ」

 マーカスの声は近い。

「彼は封印の一部です。封印は変化を恐れる。だから、あなたを止めようとする」

 蓮は低い通路へ入りながら、拳を握った。

 マーカスの言葉に反応してはいけない。

 だが、心のどこかが揺れる。

 セティは本当に正しいのか。

 地下を止めたいのか、それとも自分を封印に巻き込もうとしているのか。

 迷いが生まれた瞬間、壁の目の一つが少しだけ開いた。

 ナディアが蓮の腕を強く掴む。

「蓮さん。私の名前を呼んで」

 突然の言葉に、蓮は戸惑った。

「え?」

「名前を結ぶんです。今」

 蓮は理解した。

 迷いで名前が揺らぐ。

 名前を呼べば戻る。

 蓮は小声で言った。

「ナディア」

 ナディアも返す。

「蓮」

 黒瀬が続いた。

「蓮さん、ナディアさん、玄です。俺もいます」

 その言い方が少しおかしくて、こんな状況なのに蓮は一瞬だけ息が戻った。

「玄」

 蓮は呼んだ。

 ナディアも言った。

「玄」

 黒瀬が深く息を吐いた。

「よし。まだ自分が誰かはわかります」

 壁の目が再び閉じる。

 背後のマーカスの声が遠ざかった。

「面白い。名前を結んだのですか。やはり、あなたたちは順序を進んでいる」

 その声には、悔しさよりも興奮があった。

 低い通路を抜けると、三人は階段の途中に出た。

 ホテルへ戻る階段だった。

 いや、そう見えた。

 もう確信はできない。

 ナディアが言った。

「立っていいか、確認します」

 彼女は小さなライトを前方へ向ける。壁には膝をつく人物の印が薄く光っている。目の印はない。

「立ちましょう。急いで戻ります」

 三人は立ち上がり、階段を上った。

 背後で、マーカスの足音は聞こえない。

 だが、代わりに低い音が響いていた。

 ゴォン。

 ゴォン。

 円筒の底からの音。

 目が、近づいている。


     *


 ホテル地下へ戻ったとき、外のスタッフたちは異変に気づいていなかった。

 彼らの時間では、蓮たちは三分ほどしか消えていなかったという。

 三分。

 蓮たちの体感では、少なくとも三十分以上は地下にいた。

 黒瀬は何か言おうとして、諦めたように首を振った。

「もう驚くのも疲れました」

 ナディアはすぐにスタッフへ指示を出し、保管室を閉鎖した。マーカスが現れた可能性を確認するため、ホテル内の監視カメラ映像も確認することになった。

 だが、結果は予想通りだった。

 マーカスはその時間、ホテルのロビーで現地責任者と話していた。複数のスタッフが目撃しており、カメラにも映っている。

 つまり、地下で蓮たちに声をかけたマーカスは、現実のマーカスではなかった。

 あるいは、地下がマーカスの姿と声を使ったのか。

 それとも、マーカス自身の夢や欲望が、地下の中に投影されたのか。

 答えは出なかった。

 資料室に戻ったあと、三人はしばらく沈黙していた。

 机の上には、新しい石片が置かれている。

 地下の小部屋で手に入れたものではない。

 あの混乱の中、蓮たちが戻ったとき、蓮のポケットに入っていた。

 いつ入ったのか、誰が入れたのかはわからない。

 石片には、閉じた目の印が刻まれていた。

 四つ目の石片。

 目。

 黒瀬はそれを見ながら、乾いた声で言った。

「目を直接見てないのに、目の石が来ましたね」

 ナディアは頷いた。

「セティの警告に従ったからかもしれません。水に映る影ではなく、膝をつく部屋で目を避けた。その結果、目の石だけが渡された」

「じゃあ、一応成功?」

「成功と呼んでいいのかはわかりません」

 蓮は閉じた目の石片を見つめた。

 触れたくなかった。

 だが、目を離すこともできなかった。

 この石片は、次の段階へ進んだ証だ。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 目。

 残る記号は、水路と門。

 地下は、確実に儀式を進めている。

 蓮たちが望むかどうかに関係なく。

「セティは言いました」

 蓮は静かに口を開いた。

「目を直接見ると、名前を取られる。名前を取られた人は、自分が誰だったか忘れて、声の一部になる」

 ナディアは目を閉じた。

「サッカラの調査隊……」

「はい」

 黒瀬が腕を組む。

「じゃあ、マーカスが目を見たら?」

「彼は名前を取られるかもしれません」

 ナディアが言った。

「あるいは、自分から差し出すかもしれない」

 その言葉に、部屋の空気が重くなった。

 マーカスは欲している。

 地下の声を、神の声を、人類の最初の記憶を。

 もし目が彼に力を与えると囁けば、彼は喜んで見つめるだろう。

 そして、名前を取られる。

 だが、それだけで終わるだろうか。

 マーカスのように強い欲望を持つ者が、声の一部になったとき、地下の眠りはさらに浅くなるのではないか。

 蓮は寒気を覚えた。

「止めないと」

 蓮は言った。

 ナディアも頷いた。

「ええ。けれど、どうやって止めるかを考える必要があります。彼は現実の身体で入れなくても、地下に影を送り込めるようになっているかもしれない」

「影?」

「夢、欲望、声。あの地下では、それらも通路になる」

 蓮はセティの言葉を思い出した。

 目は、見られたものを通って広がる。

 壁画。夢。記録。欲望。

 マーカスの欲望は、すでに地下とつながっている。

 それは、物理的な扉よりも危険な入口かもしれない。


     *


 夜、蓮は眠るのが怖かった。

 眠れば、また円筒の夢を見る。

 セティを連れていった人物の顔を見る。

 閉じた目が、少しずつ開くのを見る。

 だが、疲労は限界に近かった。

 ベッドに横になると、意識はすぐに沈み始めた。

 眠ってはいけない。

 そう思いながら、蓮は夢に落ちた。

 夢の中で、彼は膝をついていた。

 目の前には、セティがいる。

 だが、そこは小部屋ではなかった。

 広い神殿だった。

 地下都市の奥にある、巨大な神殿。柱は天井の見えない闇へ伸び、床には水のない川が何本も走っている。中央には、黒い太陽の祭壇がある。

 セティは祭壇の前に立っていた。

 昨日までの少年の姿ではない。

 もっと幼い。

 本当に、ただの子どもだった。

 彼は震えていた。

 蓮は手を伸ばそうとした。

 だが、夢の中の自分は動けない。

 自分の身体ではない。

 誰かの視点を通して見ている。

 その誰かは、セティの前に立ち、右手を差し出している。

 掌には黒い太陽。

 また、あの人物だ。

 蓮と同じ顔を持つ、古代の誰か。

「泣くな、セティ」

 その人物が言った。

 蓮の声に似ていた。

 いや、蓮の声だった。

 「お前の名は、残す」

 セティが顔を上げる。

「本当に?」

「ああ。私が覚えている」

「嘘だ」

 セティの声は震えていた。

「みんな、忘れる。地上に戻ったら、僕のことを忘れる。僕が聞いた声も、僕が怖かったことも、全部」

 人物は答えない。

 セティは泣きそうな顔で言った。

「あなたも忘れる」

 人物はセティの額に手を置いた。

「忘れない」

 その瞬間、蓮の胸に鋭い痛みが走った。

 約束。

 地下で約束すると、石になる。

 蓮は叫ぼうとした。

 やめろ。

 約束するな。

 だが、夢の中の人物は言ってしまう。

「私は必ず、お前を迎えに戻る」

 セティの目から涙がこぼれた。

 次の瞬間、神殿全体が黒い光に包まれた。

 黒い太陽が開く。

 そして、セティの身体から無数の声が噴き出した。

 死者の声。生者の声。未来の声。忘れられた声。

 そのすべてがセティへ流れ込み、セティを通して地下へ沈んでいく。

 少年は叫んだ。

 蓮は目を覚ました。

 部屋は暗い。

 呼吸が荒い。汗でシャツが濡れている。

 蓮は胸を押さえた。

 夢の中の言葉が、耳から離れない。

 私は必ず、お前を迎えに戻る。

 それは約束だった。

 叶えられなかった約束。

 地下が食べ、石に変え、何千年も残した約束。

 だから蓮は呼ばれたのか。

 セティを迎えに戻るために。

 あるいは、果たされなかった約束を完了させるために。

 机の上のノートが開いていた。

 蓮は震える手でライトを点けた。

 ページには、黒い文字が浮かんでいた。

 四人目は、目を避けた。

 五人目は、水路を失う。

 蓮は息を止めた。

 水路を失う。

 次は、水路。

 だが、失うとはどういう意味なのか。

 その瞬間、スマートフォンが震えた。

 黒瀬からだった。

 メッセージは短い。

 まずいです。地下入口の階段が消えました。

 蓮は飛び起きた。

 水路を失う。

 それは、地下の中の水路だけではない。

 戻るための道そのものが、失われ始めている。

 蓮は部屋を飛び出した。

 廊下の窓の外には、夜のピラミッドが見えた。

 その黒い影の下で、閉じた目がゆっくりと瞼を震わせている。

 そして、どこからともなくセティの声がした。

「蓮。約束は、まだ石になっている」

 蓮は立ち止まらなかった。

 地下は、次の段階へ進んだ。

 水路が失われる前に、いや、失われた水路を取り戻すために。

 彼らはまた、ドゥアトへ降りなければならない。

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