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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第2章 ドゥアトへ続く階段

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3:円筒状の遺構

3:円筒状の遺構


 翌朝、舟の石片は黒く沈黙していた。

 ホテルの資料室の机の上、透明な保存袋に入れられた小さな石片は、まるで最初からそこにあったただの遺物のように見えた。昨夜、屋上で発見されたときには微かに青白い光を帯びていたはずなのに、今は光も熱もない。

 表面には、下向きの舟の印が刻まれている。

 舟。

 古代エジプトにおいて、舟は単なる移動手段ではない。太陽神が空を渡る船であり、死者が冥界を進むための象徴でもある。死者の書や冥界図には、夜の太陽が舟に乗って闇の世界を旅する場面が描かれる。

 だが、この石片の舟は、普通ではなかった。

 舟の先端が上ではなく、下へ曲がっている。水面を進む船ではなく、深い穴の中へ沈んでいく船のようだった。

 蓮はその印を見つめながら、昨夜聞いたセティの声を思い出していた。

 次は、水のない川を渡る。

 水のない川。

 昨日、地下迷宮の門へ至る通路の中央に、浅い溝があった。水路のようでありながら、水はなかった。地下都市の壁画にも、乾いた川を渡る人々の姿が描かれていた。

 つまり、次に進むべき場所はそこだ。

 蓮の中で、その確信は奇妙なほど自然に形成されていた。まるで最初から知っていた答えを、今になって思い出しただけのように。

「この石片は、第一の黒い石片と同じ材質に見えます」

 ナディア・ハッサンはルーペ越しに石片を観察しながら言った。

「少なくとも外見上は。玄武岩にも似ていますが、表面の反射が違います。光を吸い込むような質感があります」

「分析できますか」

 蓮が聞くと、ナディアは首を横に振った。

「本格的な成分分析には設備が必要です。ただ、今ここで破壊検査はできません」

「破壊しようとしたら、地下が怒りそうですしね」

 黒瀬玄が機材ケースを閉じながら言った。

 冗談めかしていたが、表情は笑っていない。

「今日、本当に入るんですか」

 黒瀬は確認するように言った。

「昨日も思いましたけど、あの地下は少しだけ確認して戻るが通じない場所ですよ。五分と四十七分のズレもある。通路も変わる。壁画も変わる。しかも今回は、向こうから次の石片を出してきた。つまり、完全に誘われてます」

「わかっています」

 ナディアは静かに答えた。

「だから、目的を限定します。今日は門の先の広場には深入りしません。水のない川を確認し、舟の石片が何に対応するかを調べる。円筒状遺構が見つかっても、内部には入らない」

 黒瀬は眉を上げた。

「円筒状遺構が見つかっても、ですか」

「見つかる可能性が高いです」

 蓮が言った。

 二人の視線が蓮に向いた。

 蓮は言葉を選びながら続けた。

「レーダー画像にあった円筒状の空間。サッカラの記録にもあった螺旋状の遺構。そして、僕が夢で見た場所。地下都市の広場中央には、黒い円形の穴がありました。あれが円筒状遺構への入口だと思います」

「夢とレーダーと地下都市が一致しているわけですね」

 黒瀬は天井を仰いだ。

「もう嫌な一致に慣れてきた自分が嫌です」

 ナディアは蓮をじっと見ていた。

「蓮さん。今日、もしその場所に近づいたら、あなたに強い反応が出るかもしれません。昨日の門の前でも記憶の断片を見たと言っていましたね」

「はい」

「次はもっと強いかもしれない」

「わかっています」

「無理だと思ったら、すぐ言ってください。地下の記憶に飲まれる前に戻ります」

 地下の記憶に飲まれる。

 その言葉は、比喩ではなかった。

 蓮は昨夜から、断片的な映像を何度も思い出していた。白い衣の人々。青白い火。石の広間。黒い太陽の前に立つ少年。セティ。そして、顔の見えない誰か。

 それは夢ではない。

 だが、自分の記憶でもない。

 ならば、誰の記憶なのか。

 地下の記憶。

 封印の記憶。

 あるいは、蓮自身がまだ思い出していない記憶。

 セティは言った。

 君は、前にもここへ来た。

 蓮はその言葉を否定したかった。

 自分は現代の日本で生まれ、大学で考古学を学び、研究者としてここへ来た。古代エジプトの地下に来たことなどあるはずがない。

 だが、その理屈は、もう地下ではあまり役に立たない。

 時間も距離も、場所も記憶も、あの迷宮ではまっすぐではないのだから。

「マーカスは?」

 蓮が尋ねた。

 ナディアの顔が硬くなった。

「昨夜から監視を強めています。彼は外部の人間を呼ぼうとしていますが、現時点では入れていません。今日の再調査には参加させません」

「納得していますか」

 黒瀬が聞く。

「していません」

「でしょうね」

「ただ、彼が勝手に入る可能性があります。だから、私たちが先に水のない川を確認し、危険性を把握する必要があります」

 蓮は机の上の舟の石片を見た。

 地図は役に立たない。

 だが、記号は道になる。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 目。

 水路。

 門。

 昨日の地下では、黒い太陽の石片が扉を開いた。

 ならば、この舟の石片は、川を渡るためのものなのかもしれない。

 水のない川を、舟で渡る。

 普通に考えれば矛盾している。

 だが、ドゥアトにおいては、矛盾こそが道になるのかもしれない。


     *


 ホテル地下の保管室には、すでに冷たい空気が満ちていた。

 昨日よりも強い。

 保管室に入った瞬間、蓮は首筋に冷気を感じた。階段の奥から吹き上がる風が、薄い霧のように床近くを這っている。実際に霧が見えるわけではない。だが、空気が低い場所に沈んでいるのがわかる。

 石の入口は、昨夜と同じ場所にあった。

 コンクリートの壁が消え、そこだけが古代の石壁へ変わっている。中央の黒い太陽は静かに沈黙し、開いた扉の奥には下へ続く階段が見える。

 蓮、ナディア、黒瀬。

 今日も三人だけだった。

 ただし、昨日より装備は増えていた。黒瀬は有線ケーブルだけでなく、壁面に貼り付ける小型ビーコン、温度変化を記録するセンサー、音声記録装置を複数持っている。ナディアは壁画の順序をまとめたメモとタブレット、蓮はノートと、舟の石片を入れた保存袋を持った。

 石片は、蓮が持つことになった。

 ナディアは最後まで迷ったが、前回の黒い石片と同じく、地下が蓮に反応している以上、蓮が持つほうが安全かもしれないという判断になった。

 安全。

 その言葉がどれほど頼りないか、三人とも理解していた。

「では、入ります」

 ナディアが言った。

 階段を降りる。

 昨日と同じ感覚だった。いや、同じでありながら、少し違う。

 階段の石材、壁の記号、冷気、青白い闇。見た目は変わらない。だが、地下が三人を覚えているような感覚がある。初めて降りた昨日よりも、空気の反応が早い。

 入った瞬間から、見られている。

 黒瀬が後ろで記録を始めた。

「時刻、午前十時三十四分。再進入。気温十七・九度。湿度五十五パーセント。酸素濃度二十・七パーセント。有線通信……すでにノイズあり。まあ、想定内です」

「想定内と言えるようになったんですね」

 蓮が言うと、黒瀬は乾いた笑いを漏らした。

「人間、慣れますね。慣れたくないですけど」

 階段を下りながら、蓮は壁の記号を確認した。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 目。

 水路。

 門。

 昨日はただ不気味に見えていた記号が、今日は少しだけ順序を持って見える。記号の出現位置は完全には同じではない。だが、パターンがある。

 黒い太陽の印のあとに、舟が現れる。

 舟のあとに、膝をつく人物。

 その先に、目。

 地下は地図ではなく、儀式を要求している。

 そう考えると、壁の記号は道しるべではなく、呪文の一部のようにも思えた。

「昨日より、舟の印が多いですね」

 ナディアが言った。

 彼女も気づいていた。

 壁の舟の印は、前回より明らかに増えている。しかも、どれも下向きに描かれている。船首が下へ曲がり、船体の下に波ではなく階段のような線がある。

「水のない川に向かっている、ということでしょうか」

 蓮が言うと、ナディアは頷いた。

「そう見えます」

「地下が誘導している」

 黒瀬が言った。

「ありがたいような、ありがたくないような」

 階段が終わり、三人は昨日と同じ通路に出た。

 中央に浅い溝のある通路。

 水のない川。

 昨日はただの空の水路に見えた。だが今日は違った。

 溝の底に、青白い線が走っている。

 水ではない。

 光だった。

 薄く、かすかに、しかし確かに、溝の底を流れるように光が続いている。

「昨日、こんなのありました?」

 黒瀬が声を潜めた。

「ありませんでした」

 ナディアが即答する。

 蓮は溝に近づいた。

 光は水面の反射のように揺れている。だが触れてみようと手を伸ばすと、ナディアに止められた。

「触らないで」

「はい」

 蓮は手を引いた。

 溝の中の光は、ゆっくりと奥へ流れているように見えた。水のない川。そこに水ではなく、記憶のような光が流れている。

 蓮は舟の石片を取り出した。

 保存袋越しに、石片が微かに震えた。

「反応しています」

 ナディアが言った。

 黒瀬がセンサーを近づける。

「低周波が出ています。石片からというより、溝の光と共鳴している感じです」

「共鳴……」

 蓮は石片を見つめた。

 舟は、川を渡るためにある。

 では、石片をどこに置けばいいのか。

 溝の縁には、いくつかのくぼみがあった。昨日は気づかなかった。石材の欠けのようにも見えるが、そのうち一つだけが舟の形に似ている。

「ここかもしれません」

 蓮が言うと、ナディアは慎重に膝をついた。

 くぼみを確認する。

「確かに、形が合いそうです。ただ、置いたら何が起きるかわかりません」

「置かなければ、先へ進めないかもしれません」

 黒瀬が言った。

「この流れ、完全に前回と同じですよ。置きたくないけど、置かないともっと悪いことになるやつ」

 蓮は舟の石片を保存袋から取り出した。

 前回の黒い石片と同じように、冷たい。だが中心に熱がある。氷の中に小さな火が閉じ込められているような感覚だった。

 手の中で石片が脈打つ。

 蓮はくぼみに石片を近づけた。

 その瞬間、溝の光が強くなった。

 通路全体が青白く照らされる。

 ナディアが息を呑む。

「蓮さん、待って」

 蓮は手を止めた。

「何か?」

「壁画が」

 彼女の視線を追うと、通路の壁面に刻まれた舟の絵が、淡く光っていた。複数の舟が、まるで動き出す直前のように、壁の中で揺れている。

 そして、その舟に乗っている人物たちがいた。

 古代の祭司。

 顔を隠した人々。

 そして、白い衣の少年。

 セティ。

 壁画の中のセティは、舟の上で膝を抱えて座っていた。

 蓮は胸を締めつけられた。

 それは旅ではなく、連行のように見えた。

 誰かがセティを、舟に乗せて地下の奥へ運んでいる。

 黒瀬が小声で言った。

「これ、渡るっていうより……捧げてる感じですね」

 蓮は石片を握りしめた。

 セティは何をされたのか。

 封印の中心になったとは、具体的にどういう意味なのか。

 知りたい。

 だが、今は踏み込みすぎてはいけない。

 蓮は深く息を吸い、舟の石片をくぼみに置いた。

 カチリ。

 小さな音がした。

 石と石が合わさっただけの音のはずなのに、それは通路全体に響いた。

 次の瞬間、溝の中の青白い光が一気に流れ始めた。

 水はない。

 だが、音がした。

 ざあああああ。

 まるで見えない水が石の溝を流れていくような音。

 蓮は思わず一歩下がった。

 溝の光は通路の奥へ向かって走り、門の方角へ伸びていく。すると、通路の床の中央に、薄い光の線が現れた。舟の形をした影が、その光の上に浮かび上がる。

「道……?」

 ナディアが呟いた。

 黒瀬が記録装置を向ける。

「撮れてるはずです。たぶん。お願いだから撮れててくれ」

 光の舟は、実体を持っているわけではなかった。石の床の上に浮かんだ影のようなものだ。だが、通路の奥へ進む方向を示している。

 舟はゆっくりと動き出した。

 水のない川の上を、音もなく進む。

「ついて来い、ということですね」

 蓮が言う。

 ナディアは険しい顔で頷いた。

「ただし、距離を取りすぎない。見失ったら戻ります」

「戻れるなら、ですね」

 黒瀬が言う。

 三人は光の舟を追って歩き始めた。


     *


 通路は昨日よりも長く感じられた。

 いや、実際に長くなっていたのかもしれない。中央の溝を流れる青白い光は、曲がり、分かれ、また合流しながら続いていく。昨日通った道と同じはずなのに、壁の配置が違う。壁画の順序も、刻まれた文字の密度も、見覚えがあるようで少しずつ違っていた。

 測量不能の通路。

 その意味を、蓮は歩きながら実感した。

 この場所は、固定された遺跡ではない。

 歩く者に合わせて、記憶の表面を変えている。

 水のない川の溝には、時折、映像のようなものが流れた。

 最初はただの光の揺らぎに見えた。だが蓮が目を凝らすと、そこには人影が映っていた。

 石の階段を降りる人々。

 顔を覆って泣く女性。

 黒い太陽の前に立つ祭司。

 縄のようなものを手首に巻かれた少年。

 セティ。

 蓮は足を止めそうになった。

 だがナディアが小さく言った。

「見すぎないでください」

「はい」

「流れているのは、記録かもしれません。でも、記録がこちらを引き込む可能性があります」

 記録が引き込む。

 普通ならありえない表現だ。

 だが、ここでは正しい。

 水路の光に映る過去は、ただの映像ではない。見つめれば、そこへ落ちてしまいそうな深さがあった。

 黒瀬が背後で言った。

「温度、十三度。酸素濃度は正常。低周波、強くなってます」

「音源は?」

 ナディアが聞く。

「通路全体です。いや、水路かな。水がないのに、水路から音が出てる」

 ざああああ。

 水の音は続いている。

 だが、水はない。

 音だけの川。

 光だけの流れ。

 記憶だけの水。

 三人は、光の舟を追って進んだ。

 やがて通路は、地下都市の門へ到達した。

 昨日見た巨大な門。黒い太陽と二体の守護獣。ジャッカルのようでありながら、アヌビスとは違う古い獣。

 光の舟は門の前で一度止まった。

 舟の影が、溝の上で揺れる。

 門の左右の守護獣の目が、淡く光った。

「動かないで」

 ナディアが言った。

 三人は足を止めた。

 守護獣の目は、蓮たちを見ているようだった。石でできた図像のはずなのに、その視線は生々しい。生き物の目ではない。審査するものの目。通行を許すかどうかを判断する門の目。

 蓮の胸の奥が疼いた。

 黒い太陽の印が消えた掌ではなく、もっと深い場所が反応している。

 そのとき、壁画の中の守護獣の口元に、文字が浮かび上がった。

 ナディアが息を呑む。

「文字が変化しています」

 黒瀬が慌ててカメラを向ける。

 文字は、既知のヒエログリフではなかった。だが蓮には、その意味が流れ込んできた。

 名を置いて渡れ。

 蓮は思わず声に出した。

「名を置いて渡れ」

 ナディアが彼を見る。

「読めたんですか」

「読めたというより、意味が入ってきました」

 黒瀬が顔をしかめた。

「名を置くって、どういう意味ですか。名前を言えってことですか」

「古代エジプトでは、名前は存在そのものと深く結びついています」

 ナディアが言った。

「名前を知ることは、相手に力を持つことでもある。死後の世界でも、門や神々の名を知ることが通過に必要とされました」

「じゃあ、ここで名前を言えと?」

 黒瀬は嫌そうに言った。

「地下に名前を覚えられるの、すごく嫌なんですけど」

「もう覚えられているかもしれません」

 蓮が言うと、黒瀬はさらに嫌な顔をした。

 門の守護獣の目が、少し明るくなる。

 待っている。

 蓮はそう感じた。

 ナディアは慎重に言った。

「不用意に本名を告げるのは危険かもしれません」

「でも、名前を置かなければ通れない」

 蓮は門を見上げた。

 セティの言葉が蘇る。

 地下では、人の名前も記憶だから。

 名前を置くとは、記憶の一部を差し出すことなのかもしれない。

「僕が言います」

 蓮は言った。

「蓮さん」

 ナディアが止めようとする。

「地下はもう僕の名前を呼んでいます。なら、隠しても意味がありません」

「でも、正式な名前を渡すのは危険です」

「だから、全部は渡しません」

 蓮は門の前に立った。

 そして、静かに言った。

「蓮」

 それだけだった。

 篠原蓮ではなく、蓮。

 姓ではなく、名だけ。

 過去と家系のすべてではなく、今ここにいる自分の一部だけ。

 門の守護獣の目が一度瞬いたように見えた。

 次に、ナディアが口を開いた。

「ナディア」

 彼女の声は震えていなかった。

 黒瀬はしばらく迷ったあと、小さく息を吐いた。

「……玄」

 守護獣の目が、青白く光った。

 水のない川の音が強くなる。

 ざあああああ。

 光の舟が再び動き出した。

 門が開いたわけではない。もともと中央は開いている。だが、何か見えない膜のようなものが取り払われた感覚があった。

 蓮たちは門をくぐった。


     *


 地下都市の広場は、昨日よりも明るかった。

 天井の見えない闇の上方に、青白い光点が無数に浮かんでいる。星のようでありながら、星ではない。地下の天井に埋め込まれた鉱石なのか、発光する何かの結晶なのか、あるいは光そのものの記憶なのか。

 広場の石畳には、乾いた水路が放射状に走っていた。中央には巨大な円形の穴がある。

 昨日、遠くから見た黒い円。

 近づくと、それは穴というより、円筒状の遺構の入口だった。

 直径は十数メートルはある。縁は滑らかに加工され、周囲には低い石の柵のようなものが巡っていた。柵には、細かな記号と壁画が刻まれている。

 円筒の内側には、螺旋状の階段が下へ続いていた。

 夢と同じだった。

 蓮は足を止めた。

 全身から血の気が引いていく。

 何度も見た夢。

 地中レーダーの画像。

 サッカラのスケッチ。

 第一玄室の壁画。

 そして今、目の前にある現実。

 それらが、完全に重なった。

「蓮さん」

 ナディアが彼の顔を覗き込む。

「大丈夫ですか」

「ここです」

 蓮は掠れた声で言った。

「夢で見た場所です」

 黒瀬が円筒の縁へ近づき、すぐに足を止めた。

「底が見えません」

 彼はライトを下へ向けた。

 白い光が円筒の内壁を照らす。螺旋状の階段が、壁に沿って延々と下へ続いている。石の段は細く、ところどころ崩れているようにも見える。だが、その下はすぐ闇に沈み、光は途中で消えた。

 底は見えない。

 黒瀬の顔が青ざめる。

「レーザー距離計、反応しません」

「測定不能?」

「はい。エラーです。反射が返ってこない。というか、光が吸われてる感じです」

 蓮は円筒の内側を見つめた。

 壁面には無数の文字が刻まれていた。第一玄室や通路よりもさらに密度が高い。文字の列は螺旋に沿って下へ続き、まるで円筒全体が巨大な巻物のようだった。

 中央には何もない。

 ただ闇がある。

 その闇の底から、低い音が響いていた。

 ゴォン。

 ゴォン。

 遠い石の鐘。

 いや、心臓の鼓動。

 ナディアが柵の壁画を確認する。

「ここは儀式の中心です」

「読めますか」

 蓮が聞く。

「一部だけ。舟、少年、目、階段、眠り……それに、繰り返し出てくる記号があります」

「黒い太陽?」

「はい。でも、ここでは太陽ではなく、穴として描かれています」

 黒瀬が言った。

「太陽なのに穴。相変わらず意味が反転してますね」

 蓮は柵の壁画を見た。

 そこには、セティらしき少年が描かれていた。彼は舟に乗せられ、円筒の縁まで運ばれている。周囲には祭司たち。ある者は顔を伏せ、ある者は両手を上げ、ある者は泣いているように見える。

 次の場面では、少年が円筒の螺旋階段を降りている。

 そのさらに次の場面では、少年は黒い太陽の前に立っている。

 そして最後の場面。

 少年の胸から、無数の線が伸び、円筒の壁全体へ広がっている。

 封印の中心。

 ナディアの言葉が現実味を帯びる。

 セティは、この地下を封じるために使われた。

 人間としてではなく、装置の一部として。

 蓮は胸が痛んだ。

「ひどい……」

 思わず呟いた。

 ナディアも壁画を見つめていた。

「守るためだったのかもしれません。地上を、都市を、人々を。でも、だからといって許されるわけではない」

 黒瀬が周囲を見回しながら言った。

「ここ、長居しない方がいいです。低周波が強すぎます。あと、音声センサーに妙な波形が出てます」

「声ですか」

「まだ声にはなってません。でも、近いです」

 蓮は円筒の底を見た。

 呼ばれている。

 言葉ではない。

 だが、強い引力がある。

 下へ。

 もっと下へ。

 円筒の底へ。

 そこに、何かがある。

 蓮を呼ぶもの。

 セティを閉じ込めたもの。

 マーカスが求めるもの。

 黒い太陽の本体。

 蓮は一歩、円筒の縁に近づいた。

 その瞬間、足元の石畳がぐらりと揺れた。

 いや、揺れたのは地面ではない。蓮の視界だった。

 景色が変わる。

 地下都市の広場が消え、代わりに人々のざわめきが聞こえた。

 青白い火。

 白い衣の祭司。

 泣き叫ぶ女性。

 縄を握る兵士。

 舟に乗せられた少年。

 セティ。

 彼は泣いていなかった。

 ただ、すべてを諦めたような目で円筒を見ていた。

 その横に、顔の見えない人物が立っている。

 右手に黒い太陽の印を持つ人物。

 蓮はその人物を見た。

 顔が見えそうになる。

 黒い影が少しずつ薄れる。

 その顔は――

「蓮さん!」

 ナディアの声で、蓮は現実に戻った。

 彼は円筒の柵に手をかけ、身を乗り出していた。あと少しで、螺旋階段へ足を踏み出すところだった。

 ナディアが腕を掴んでいる。黒瀬も反対側から蓮の肩を押さえていた。

「何を見ました」

 ナディアが強い声で聞く。

 蓮は呼吸を整えようとした。

「儀式を……セティが舟で運ばれて、ここへ連れてこられる場面を見ました」

「それから?」

「顔の見えない人物がいました。右手に黒い太陽の印があった」

「顔は?」

 蓮は答えようとして、言葉が詰まった。

 見えなかった。

 だが、見えた気もする。

 もしあの顔が、自分だったら。

 そう考えた瞬間、吐き気がした。

「見えませんでした」

 蓮は答えた。

 ナディアはそれ以上追及しなかった。

 黒瀬が低く言った。

「戻りましょう。ここはまずいです」

 そのとき、円筒の底から声がした。

 セティではない。

 マーカスの声でもない。

 もっと低く、深く、巨大な声。

 それは言葉にならない音だった。だが、三人の頭の中に意味だけが落ちてきた。

 降りてこい。

 黒瀬が顔を歪めた。

「今の、聞こえました?」

 ナディアも青ざめている。

「聞こえました」

 蓮は円筒の底を見た。

 闇の奥で、何かが動いた。

 光ではない。

 影が形を変えたのだ。

 閉じた目のようなものが、闇の中に浮かんだ。瞼の線だけが見える。まだ開いていない。だが、瞼の奥で眼球が動くような気配があった。

 目は、まだ閉じている。

 だが、眠りは浅い。

 ナディアが蓮の腕を引いた。

「戻ります。今すぐ」

「はい」

 蓮は頷いた。

 三人は円筒から離れた。

 その瞬間、舟の石片を置いたはずの通路の方から、青白い光が強く走った。水のない川が、逆流しているように見える。

 黒瀬が機材を確認する。

「待ってください。帰り道の表示が変わってます」

「変わっている?」

「光の流れが逆です。いや、逆というか……別方向へ分岐してます」

 広場から門へ戻るはずの水路が、左右に分かれていた。来たときにはなかった分岐だ。片方は門へ続いているように見える。もう片方は、地下都市の奥へ向かっている。

 そして、光の舟は奥へ向かう流れの上に浮かんでいた。

「誘導されています」

 ナディアが言った。

「奥へ?」

 黒瀬が呻く。

「嫌です。すごく嫌です」

 蓮は水路の分岐を見つめた。

 戻る道と、進む道。

 地図は役に立たない。

 だが、記号は道になる。

 問題は、その道が本当に帰るためのものなのか、さらに深く引き込むためのものなのか、わからないことだった。

 そのとき、蓮の耳元でセティの声がした。

「光の舟を追わないで」

 蓮は振り返った。

 円筒の縁に、セティが立っていた。

 白い布。裸足。黒い瞳。

 彼は、悲しそうに蓮を見ていた。

「それは、帰る舟ではない」

「どこへ向かう」

 蓮が小声で聞く。

「捧げる場所」

 ナディアと黒瀬もセティを見たのか、同時に息を呑んだ。

 セティは続けた。

「昔、僕が乗せられた舟と同じ。水のない川は、戻るためにあるんじゃない。中心へ運ぶためにある」

 黒瀬が震える声で言った。

「じゃあ、俺たち今、供物ルートに乗ってたってことですか」

「たぶん」

 蓮は答えた。

 ナディアが鋭く言った。

「では、戻る道は?」

 セティは門の方角ではなく、円筒の反対側を指差した。

「目を避けて、膝をつく者の道を通って」

「膝をつく者……次の記号」

 ナディアが呟く。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 舟の次は、膝をつく人物。

 セティの示した方角には、広場の端へ続く低い通路があった。入口の上に、膝をついた人物の印が刻まれている。

 だがその通路は、来た道ではない。

「信じるんですか」

 黒瀬が言った。

 蓮はセティを見た。

 少年の姿は揺らいでいる。

 囚われた存在。

 警告する声。

 だが、完全に信じていいかはわからない。

 ナディアの言葉が蘇る。

 囚われた人間は、自分でも気づかないうちに、囚えているもののために話すことがある。

 蓮は迷った。

 その迷いを見たのか、セティは静かに言った。

「僕を信じなくていい」

 蓮は息を呑んだ。

「でも、あれの声は信じないで」

 円筒の底から、また低い音が響いた。

 ゴォン。

 闇の瞼が、ほんの少しだけ震えた。

 蓮は決めた。

「膝をつく人物の通路へ行きます」

 ナディアはすぐに頷いた。

「わかりました」

 黒瀬も観念したように言った。

「了解です。供物ルートよりはマシだと信じます」

 三人は光の舟から離れ、広場の端へ向かった。

 光の舟は、しばらく水路の上で揺れていた。

 まるで、獲物が乗らないことを不満に思うように。

 そして、すっと消えた。

 同時に、水の音も消えた。

 広場が静まり返る。

 その静けさの中で、円筒の底から、低い声が聞こえた。

 言葉にはならない。

 だが、怒りのようなものがあった。


     *


 膝をつく人物の通路は、低く狭かった。

 先ほどまでの広い通路や地下都市の広場とは違い、天井は低く、三人は少しかがんで進まなければならなかった。壁面には、膝をついた人物の印が何度も刻まれている。

 祈り。

 降伏。

 通過のための姿勢。

 あるいは、罪を認める仕草。

 ナディアは壁を見ながら言った。

「ここは、通過儀礼の一部かもしれません。舟で運ばれた後、何かの前で膝をつく」

「何かって、あの目の前ですか」

 黒瀬が聞く。

「可能性はあります」

「できれば膝つきたくないですね」

 蓮は黙って歩いた。

 セティはもう見えない。だが、近くにいる気配があった。通路の奥から、時折、子どもの足音のようなものが聞こえる。

 ペタ。

 ペタ。

 裸足で石を踏む音。

 蓮はその音を追いかけないように意識した。

 通路はやがて、小さな部屋へ出た。

 そこは円形の小部屋だった。天井は低く、中央には石の台がある。台の前には、膝をつくためのくぼみが三つ並んでいた。

 三つ。

 蓮、ナディア、黒瀬。

「嫌な数の一致ですね」

 黒瀬が呟く。

 壁には文字が刻まれていた。

 蓮はそれを見た瞬間、また意味が頭に流れ込んできた。

 名を置いた者は、姿勢を低くせよ。

 目は、高き者を先に見る。

「目は、高き者を先に見る……」

 蓮が読み上げると、ナディアが息を呑んだ。

「つまり、膝をつけと?」

 黒瀬が言った。

「背を低くすれば、目に見つからないという意味でしょうか」

 ナディアが考えるように言う。

「古代の通過儀礼では、特定の姿勢を取ることが魔術的・象徴的な意味を持つ場合があります。ここでは、物理的にも何かを避けるための動作かもしれません」

「やらない選択肢は?」

 黒瀬が言う。

 その瞬間、部屋の奥の壁に、閉じた目の印が浮かび上がった。

 目の瞼が、わずかに開きかける。

 黒瀬は即座に言った。

「やりましょう。すぐやりましょう」

 三人は石のくぼみの前に膝をついた。

 蓮は膝を石につけた瞬間、頭の奥に強い圧力を感じた。誰かの視線が頭上を通り過ぎていく。もし立ったままだったら、その視線に貫かれていたかもしれない。

 ナディアも息を止めている。黒瀬は目を閉じて、何か小さく呟いていた。

 部屋の上方を、低い風が通った。

 風ではない。

 目線。

 巨大な何かが、部屋を覗き込んだ。

 だが三人は膝をついていたため、見つからなかった。

 そんな感覚があった。

 しばらくして、壁の目の印が消えた。

 蓮はゆっくり息を吐いた。

「通過できた……?」

 黒瀬が小声で言う。

 そのとき、石の台の上に小さなものが落ちた。

 カラン。

 乾いた音。

 蓮たちは顔を上げた。

 台の上には、黒い石片があった。

 今度の印は、膝をつく人物。

 蓮はその石片を見つめた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 順序通りだった。

 ナディアは慎重に保存袋を取り出し、石片を回収した。

「これで三つ目……」

 黒瀬が言った。

「集めさせられてますね。完全に」

「はい」

 蓮は頷いた。

 だが、これは単なる収集ではない。

 それぞれの石片は、地下を進むための記号であり、同時に儀式の段階でもある。

 黒い太陽で入口を開き、舟で川を渡り、膝をつくことで目を避けた。

 次は、目。

 その次は、水路。

 最後に、門。

 蓮は背筋に冷たいものを感じた。

 この順序の先に何があるのか。

 円筒の底か。

 黒い太陽の本体か。

 セティの封印か。

「戻りましょう」

 ナディアが言った。

 今度こそ、全員が同意した。

 小部屋の奥に細い通路が開いていた。そこには見覚えのある階段の壁が見えた。ホテル地下へ戻る階段なのか、それとも別の階段なのかはわからない。

 だが、膝をつく人物の石片を得たあと、通路は自然に開いた。

 地下は進む道だけでなく、戻る道も儀式によって開く。

 そういう仕組みなのかもしれない。


     *


 ホテル地下へ戻ったとき、外のスタッフの時計では八分しか経っていなかった。

 蓮たちの時計では、一時間十六分が過ぎていた。

 時間差はさらに広がっていた。

 黒瀬は保管室の床に座り込み、ヘルメットを外した。

「もう、完全にこっちの時間と向こうの時間が違いますね」

 ナディアは保存袋に入った二つの石片を見た。

 舟。

 膝をつく人物。

「今回も、記録を隔離します。誰にも見せないでください」

「マーカスにも?」

 黒瀬が聞く。

「特にマーカスには」

 蓮は保管室の奥の階段を見た。

 青白い光は弱くなっていた。まるで、今日の役目を終えたかのように。

 だが、階段は消えない。

 地下はまだ開いている。

 そして、次の石片を待っている。

 いや、次の石片はもう手に入った。

 膝をつく人物。

 次は、目。

 蓮はそのことを考えないようにしたかった。

 だが無理だった。

 円筒状の遺構の底。

 閉じた目。

 降りてこいという声。

 舟に乗せられたセティ。

 顔の見えない、右手に黒い太陽を持つ人物。

 そして、見えそうで見えなかったその顔。

「蓮さん」

 ナディアが声をかけた。

「顔色が悪いです。今日は休んでください」

「はい」

「記憶の断片については、あとで整理しましょう。今は無理に思い出そうとしないで」

 蓮は頷いた。

 だが、思い出すなと言われるほど、その断片は鮮明になる。

 白い衣の人々。

 青白い火。

 セティ。

 顔の見えない人物。

 蓮は廊下へ出た。

 そのとき、廊下の奥に人影が見えた。

 マーカスだった。

 彼は壁にもたれ、こちらを見ていた。いつからそこにいたのかはわからない。

 ナディアが身構える。

「マーカス」

 マーカスは蓮たちを順番に見た。

 そして、蓮の手元――ナディアが持つ保存袋へ視線を落とした。

「次の石を得たのですね」

 ナディアの表情が硬くなる。

「何のことですか」

 マーカスは微笑んだ。

「隠さなくてもいい。舟の次は、膝をつく者。順序通りです」

 黒瀬が低く呟いた。

「なんで知ってるんだよ……」

 マーカスは黒瀬を見ずに言った。

「記号は道です。道は、進んだ者にだけではなく、待つ者にも声を届ける」

 蓮はマーカスを見た。

「地下が、あなたにも教えているんですね」

「ええ」

 マーカスは認めた。

「ただし、私にはまだ扉が開かない。だから、あなたが必要です」

「僕はあなたのためには降りません」

「今はそうでしょう」

 マーカスは静かに言った。

「しかし、あなたはもう円筒を見たはずです」

 蓮は息を止めた。

 マーカスの口元がわずかに上がる。

「夢で何度も見た場所。底のない円筒。螺旋の階段。閉じた目」

「あなたも見たんですか」

「はい」

 マーカスの声に、初めて羨望のようなものが混じった。

「私は夢でしか見られない。だが、あなたは実際にそこへ到達した」

「行くべき場所ではありません」

「いいえ。あそこが入口です。本当の入口」

 マーカスは一歩近づいた。

「蓮さん。円筒の底に、すべての答えがあります。セティが何者か。黒い太陽とは何か。なぜあなたが呼ばれたのか。そして、人類が神と呼んだものの正体も」

 蓮の胸が揺れた。

 知りたい。

 その欲望が、また顔を出す。

 だが同時に、円筒の底から聞こえた声が蘇る。

 降りてこい。

 あれは答えではない。

 あれは誘いだ。

 そして誘いは、いつも優しい顔をしているわけではない。

「答えがあるとしても、あなたと取りに行くつもりはありません」

 蓮は言った。

 マーカスは少しだけ目を細めた。

「では、地下があなたを説得するのを待ちます」

 彼はそれだけ言って、廊下の奥へ消えた。

 黒瀬が大きく息を吐いた。

「最悪だ。あの人、完全に向こう側と会話してますよ」

 ナディアは保存袋を握りしめた。

「急がないといけません」

「でも急ぐと危険です」

 蓮が言うと、ナディアは頷いた。

「ええ。だから最悪なんです」


     *


 その夜、蓮はまた夢を見た。

 円筒状の遺構。

 螺旋の階段。

 青白い光。

 黒い太陽。

 セティが階段を降りている。

 今度は蓮も、その後を追っていた。

 夢の中の蓮は、自分の足で降りているのに、自分の意思では止まれなかった。壁には無数の文字が流れている。読めないはずの文字が、意味となって頭に流れ込む。

 名を置いた者は、川を渡る。

 川を渡る者は、膝をつく。

 膝をつく者は、目を避ける。

 目を避けた者は、目に選ばれる。

 蓮は階段の下を見る。

 底はまだ見えない。

 しかし、闇の奥に閉じた目があった。

 その瞼が、少しずつ開こうとしている。

 セティが振り返った。

「見ないで」

 蓮は言う。

「なら、どうすればいい」

「思い出さないで」

「何を」

「君が、僕を連れてきたことを」

 蓮は凍りついた。

 セティの顔が、悲しみで歪んだ。

「僕は一人で降りたんじゃない」

 円筒の底から、低い声が響く。

 蓮。

 蓮。

 蓮。

 その声に混じって、もう一つの声が聞こえた。

 大人の男の声。

 古い言語なのに、蓮には意味がわかった。

 許してくれ、セティ。

 地上を守るには、君が必要だ。

 蓮はその声の主を探した。

 螺旋階段の上に、顔の見えない人物が立っている。

 右手には、黒い太陽の印。

 その顔が、ゆっくりこちらを向く。

 今度は見えた。

 それは、蓮の顔だった。

 蓮は叫び声を上げて目を覚ました。

 部屋は暗かった。

 窓の外には夜のギザが広がっている。空調の音が低く響き、机の上のノートが開いていた。

 蓮は荒い息を整えながら、ノートを見た。

 白紙だったはずのページに、黒い文字が浮かんでいた。

 日本語ではない。

 英語でも、アラビア語でもない。

 それでも意味がわかる。

 三人目は、膝をついた。

 四人目は、目を見る。

 蓮は震える手でノートを閉じた。

 次は、目。

 円筒の底で閉じていた、あの目。

 蓮は右手を見た。

 消えたはずの黒い太陽の印が、ほんの一瞬だけ掌に浮かび上がった。

 そしてすぐに消えた。

 だが、蓮にはわかった。

 印は消えていない。

 地下は、まだ自分を離していない。

 セティの声が耳の奥で蘇る。

 君が、僕を連れてきた。

 蓮はベッドの端に座り込んだ。

 もし、それが本当なら。

 もし、かつてセティを円筒の底へ連れて行った人物が、自分と同じ顔をしていたのなら。

 蓮は、地下に呼ばれているのではない。

 戻されているのかもしれない。

 自分がかつて犯した、何かの場所へ。

 夜は深かった。

 遠くのピラミッドは、黒い蓋のように砂漠に沈んでいる。

 その下で、円筒状の遺構が口を開けている。

 そして閉じた目は、少しずつ目覚めようとしていた。

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