2:測量不能の通路
2:測量不能の通路
地上に戻ってから最初に失われたのは、時間の感覚だった。
蓮たちが地下へ降りていた時間は、蓮の腕時計では四十七分だった。黒瀬の機材ログも、内部時計では四十六分から四十八分の間を示している。ナディアのタブレットに残った記録開始時刻と終了時刻も、それに近かった。
だが、ホテル地下の保管室前で待機していたスタッフたちの証言では、三人が階段へ入ってから戻ってくるまで、五分しか経っていない。
五分。
その数字は、あまりにも短すぎた。
階段を降り、壁の記号を記録し、横穴を確認し、門まで進み、地下都市らしき広場を見て、再び階段を上って戻った。それが五分で終わるはずがない。
黒瀬玄は、ホテルの小会議室にこもり、朝から何度も機材ログを確認していた。
机の上には、ノートパソコンが二台、外部ドライブ、メモリカード、ケーブル、温湿度計、酸素濃度計、三次元スキャン用の小型端末が乱雑に並んでいる。空き缶のコーヒーが三本、机の端に転がっていた。
蓮は会議室の入口に立ち、黒瀬の背中を見た。
黒瀬は椅子に座ったまま、モニターに顔を近づけている。髪は乱れ、目は赤い。いつもの軽口もなく、画面に表示された数値と波形をひたすら睨んでいた。
「黒瀬さん」
蓮が声をかけると、黒瀬はびくりと肩を揺らした。
「うわ、びっくりした。蓮さん、足音消すのやめてください」
「普通に歩きました」
「この地下案件のあとだと、普通の足音にも信用がないんです」
黒瀬は目をこすりながら、椅子を少し引いた。
「解析、どうですか」
蓮が尋ねると、黒瀬は乾いた笑いを漏らした。
「最悪です」
「最悪?」
「データが取れていないなら、まだ楽なんです。機材不良で片づけられる。でも今回は、データが取れている。取れているのに、つじつまが合わない」
黒瀬は画面を蓮に向けた。
そこには、階段を降りてから戻るまでの移動ログが表示されていた。線が地図上に描かれている。普通なら、階段を下り、通路を進み、門まで行き、同じ道を戻る、という一本の往復線になるはずだった。
だが画面上の線は、めちゃくちゃだった。
階段を降りているはずの時間帯に、線は横へ飛び、上へ跳ね、円を描き、また戻り、途中で途切れ、別の場所から再開している。まるで誰かが地図の上に糸を落とし、それを何度も引っ張ったような軌跡だった。
「機材の誤差、ではないんですよね」
「もちろん誤差はあります。でもこれは誤差というより、座標系そのものが壊れてる」
「座標系?」
「普通、場所を測るには基準が必要です。上下、左右、距離、角度。地下ではGPSが使えないので、慣性計測、気圧、高度、歩行距離、方位、カメラ映像の特徴点なんかを組み合わせます。でも今回は、基準そのものが途中で変わっているように見える」
黒瀬は別の画面を開いた。
そこには、三次元モデルのようなものが表示されていた。階段と通路の一部を再構成したものらしい。だが、モデルは途中からねじれ、通路がありえない角度で自分自身と交差していた。
「これ、俺たちが歩いた通路を再構成したものです。でも見てください。ここ」
黒瀬は画面上の一点を指した。
「この階段、同じ場所を二回通ってるんです」
「戻ったということですか」
「違います。行きに通った階段と、帰りに通った階段が、物理的には同じ場所に重なってる。でも映像を見ると壁の記号が違う。つまり、同じ場所なのに違う壁なんです」
蓮は画面を見つめた。
同じ場所なのに違う壁。
その言葉が、地下の性質をうまく表しているように思えた。
「地下が変化した?」
「そう考えるのが一番気持ち悪いけど、一番説明に近いです」
黒瀬は椅子の背にもたれた。
「もっと嫌なこと言っていいですか」
「聞きます」
「俺たちが移動したんじゃなくて、地下の方が俺たちに合わせて道を差し替えていた可能性があります」
蓮はすぐには答えなかった。
黒瀬は続けた。
「昨日、第一玄室から戻るときも、来た道が消えて別の通路が出ましたよね。あれと同じです。俺たちは道を選んだつもりで、実は道の方に選ばれてる」
「場所に掘られている」
「え?」
「セティが言っていました。人は場所を掘ると思っている。でも本当は、場所に掘られている、と」
黒瀬はしばらく黙った。
そして、小さくため息をついた。
「その少年、かなり嫌なこと言いますね」
「はい」
「でも、今回に関しては妙に合ってます」
黒瀬は再び画面を見た。
「地図は作れません。少なくとも、普通の方法では」
「では、次に入るときはどうするんですか」
「そこなんですよ」
黒瀬は顔をしかめた。
「普通の地図が使えないなら、別の基準が必要です。物理的な距離や方位ではなく、地下が変化しても残るもの」
「例えば?」
「音。温度。壁の記号。黒い太陽の印の位置。あるいは……」
黒瀬は蓮を見た。
「蓮さんの反応」
蓮は眉をひそめた。
「僕の反応?」
「蓮さん、地下で何かを感じてますよね。セティの声とか、記憶の断片とか、印の熱とか。嫌でしょうけど、それが一番安定したナビゲーションかもしれない」
蓮は思わず右手を握った。
掌の印は消えている。だが、黒瀬の言葉を聞いた瞬間、そこに微かな熱が戻ったような気がした。
「僕をコンパスにする、ということですか」
「言い方は悪いですが……」
「マーカスと同じです」
蓮の声は硬くなった。
黒瀬はすぐに首を振った。
「違います。少なくとも俺は、蓮さんを道具扱いしたいわけじゃない。ただ、地下が蓮さんに反応しているのは事実です。だから、その反応を無視して全員で迷うより、蓮さん自身が自分を守るために使った方がいいかもしれない」
蓮は黒瀬を見た。
黒瀬の顔には、疲労と焦りがあった。だが、マーカスのような欲望はない。彼は本当に、生きて戻るための方法を探している。
「すみません」
蓮は言った。
「責める言い方になりました」
「いや、当然です。俺も自分で言ってて嫌でした」
黒瀬は苦笑した。
「でも、次に降りるなら、普通の調査じゃダメです。地下がこちらを記憶するなら、こちらも地下の記憶を読むしかない」
「地下の記憶を読む……」
蓮はその言葉を繰り返した。
考古学とは、本来そういうものだ。
石、文字、墓、器物、壁画。過去に残された痕跡を読み、人間の営みを復元する。
だが、この地下では、記憶は静かに残されているだけではない。
こちらを見返してくる。
呼びかけてくる。
道を変え、壁画を描き、人間の夢に入り込む。
読むという行為そのものが、読まれることでもある。
蓮はその恐ろしさを、改めて感じた。
*
午後、ナディアは蓮と黒瀬をホテルの資料室へ呼んだ。
そこには、サッカラの封鎖記録、第一玄室の壁画画像、今回の階段と地下通路の映像データが広げられていた。部屋の中央のホワイトボードには、ナディアの手書きでいくつもの単語が並んでいる。
黒い太陽
第一玄室
ドゥアト
測量不能
時間差異
壁画の変化
セティ
マーカス
蓮はその最後の名前を見た。
「マーカスの動きは?」
ナディアは答えた。
「今のところ、表立った動きはありません。ただ、外部と頻繁に連絡を取っています」
「財団ですか」
「おそらく。彼は本格的な調査隊を入れたがっています」
「扉に拒まれたのに?」
黒瀬が言う。
「本人は、自分が拒まれたとは認めていません。準備不足だっただけだと主張しています」
「準備したら入れるつもりなんですね」
「ええ」
ナディアはホワイトボードの前に立った。
「だから、私たちは先にこの地下の性質を理解する必要があります。少なくとも、彼が強引に動いた場合に、何が危険なのかを説明できるだけの材料が必要です」
「測量不能の通路について、黒瀬さんから聞きました」
蓮が言うと、ナディアは頷いた。
「私もログを確認しました。あの通路は、普通の三次元空間として記録できません。ですが、完全に無秩序でもないようです」
「無秩序ではない?」
「壁画と記号の出現順に、ある程度の反復があります」
ナディアはタブレットに画像を表示した。
階段の壁、通路の壁、門の柱。それぞれに刻まれた記号の写真が並んでいる。
「黒い太陽、舟、膝をつく人物、目、水路、門。この順番が何度か繰り返されています」
「儀式の順序でしょうか」
「可能性があります。ただ、私はもう一つの可能性を考えています」
「何ですか」
「道順です」
蓮と黒瀬は同時に彼女を見た。
「道順?」
ナディアは頷いた。
「この地下では、距離や方位が安定しない。ならば、古代の人々は別の方法で道を記録していたのかもしれません。例えば、記号の順序、壁画の場面、音、温度、儀式の動作。物理的な地図ではなく、通過すべき意味の順序として」
蓮はホワイトボードを見た。
黒い太陽。舟。膝をつく人物。目。水路。門。
それは確かに、単なる装飾というより、何かの手順に見えた。
「つまり、地下迷宮を歩くには、距離ではなく、物語を辿る必要がある」
蓮が言うと、ナディアは目を細めた。
「物語……いい表現です。古代エジプトの冥界観では、死者はさまざまな門や試練を通過し、呪文や名を知ることで先へ進む。物理的な旅であると同時に、儀式的な旅でもあります」
「ここでも、同じことが起きている?」
「少なくとも、そう考えると説明しやすい部分があります」
黒瀬は腕を組んだ。
「じゃあ、次に入るときは地図じゃなくて、壁画の順番を頼りに進むってことですか」
「はい。ただし、危険です。順番を間違えれば、道が変わるかもしれない」
「ゲームのダンジョンみたいですね」
黒瀬はそう言ってから、自分で首を振った。
「いや、笑えないな。間違えたら本当に戻れなくなるやつだ」
蓮は壁画画像を見つめた。
地下都市の門の上に刻まれていた黒い太陽。
その下のジャッカルに似た守護者。
水のない川。
広場中央の円形の縦穴。
それらは、単なる風景ではなく、次へ進むための記号なのかもしれない。
では、セティは何なのか。
道案内か。
門番か。
それとも、地下そのものが蓮に見せている姿なのか。
「セティについて、何かわかりましたか」
蓮が尋ねると、ナディアは資料の一部を取り出した。
「名前については、複数の可能性があります。セティという名は古代エジプトにもあります。有名な王名にも含まれます。ただ、あなたが見た少年が歴史上のセティと関係しているとは限りません」
「彼は、地下に囚われているように見えます」
「ええ。壁画にも少年らしき人物が何度か出ています。膝をつく人物がそれかもしれません」
ナディアは一枚の画像を拡大した。
壁画の中で、白い衣の少年らしき人物が黒い太陽の前に膝をついている。その周囲には祭司たちが立ち、手を上げている。儀式にも、犠牲にも見えた。
「この少年は、封印の中心だった可能性があります」
ナディアが言った。
「封印の中心……」
「古代社会では、共同体を守るために特定の人物が儀式的な役割を背負うことがあります。もちろん、これは現時点では推測です。ただ、セティが何らかの形で地下の封印に関わっている可能性は高い」
「彼は、扉を開けるなと言いました。でも、最後には石を置けとも言った」
「矛盾していますね」
「はい」
「彼自身が迷っているのかもしれません。あるいは、状況が変わったのかもしれない。マーカスが動いたことで、開けない選択肢がなくなった」
黒瀬が顔をしかめた。
「でも、そういうのも全部、地下に誘導されてる可能性ありますよね。『開けないと危ない』って思わせて、開けさせる」
蓮は黙った。
その可能性は、何度も考えていた。
セティの声を信じたい。
だが、信じた結果、扉は開いた。
もしそれ自体が地下の目的だったなら、自分はすでに利用されている。
ナディアは静かに言った。
「だから、私たちは一つの声だけに従ってはいけません。セティの声も、地下の声も、マーカスの言葉も、すべて距離を取って見る必要があります」
「でも、地下では距離すら信用できない」
黒瀬が言った。
ナディアは少しだけ苦笑した。
「だから難しいんです」
そのとき、資料室のドアがノックされた。
三人は同時に振り返った。
ドアが開き、マーカス・リードが入ってきた。
彼は昨日よりも落ち着いた表情をしていた。だが、その落ち着きが自然なものではないことを、蓮はすぐに感じた。目の奥に熱がある。何かを決めた人間の目だった。
「議論中でしたか」
マーカスは穏やかに言った。
ナディアは資料を伏せた。
「関係者のみの確認です」
「私も関係者です」
「現場の安全判断に関する会議です」
「だからこそ、必要でしょう」
マーカスは部屋の中へ入り、ホワイトボードを見た。
黒い太陽。ドゥアト。測量不能。
彼の視線がその文字をなぞる。
「測量不能の通路」
彼は微笑んだ。
「やはり、そうなりましたか」
黒瀬が低く言った。
「やはり?」
「古い記録にもあります。ドゥアトは地図を嫌う、と」
ナディアの表情が変わった。
「その記録を、なぜ共有しないんですか」
「断片的すぎるからです」
「都合の悪い情報を断片的と呼んでいるだけでは?」
「私は皆さんを混乱させたくない」
「もう十分混乱しています」
黒瀬がぼそりと言った。
マーカスは彼を一瞥し、再びナディアを見る。
「地図が使えないなら、古代の通過儀礼に従う必要があります。黒い太陽、舟、水のない川、門、目。順序は重要です」
蓮はマーカスを見た。
彼はナディアと同じ結論にたどり着いている。いや、もしかすると最初から知っていた。
「あなたは、ドゥアトの道順を知っているんですか」
蓮が聞くと、マーカスは微笑んだ。
「完全には。しかし、手がかりはあります」
「どこから」
「古い財団の資料です。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、欧州の探検家や研究者たちがエジプト各地で集めた未公開記録があります。その中に、地下の門に関する記述がある」
「なぜ今まで隠していたんです」
「隠していたのではありません。確証がなかった」
「今はあると?」
マーカスは蓮を見た。
「あなたが入口を開いた」
蓮は黙った。
マーカスは続ける。
「これで、記録が単なる伝承ではなかったことが証明されました」
「あなたの目的は何ですか」
蓮はまっすぐ聞いた。
マーカスは少しだけ首を傾げた。
「何度も言ったはずです。真実を知ることです」
「違います。あなたは地下の声を聞いていますね」
資料室の空気が固まった。
ナディアが蓮を見た。黒瀬も息を呑む。
マーカスの微笑みが、ほんの少し薄くなった。
「なぜそう思うのです」
「あなたはドゥアトという名前を、僕たちが報告する前に知っていた。地下が教えてくれたと言った。あれは冗談ではないですね」
マーカスはしばらく蓮を見つめていた。
やがて、静かに言った。
「声というより、夢です」
「夢?」
「私は何年も同じ夢を見てきました。黒い太陽の下で、誰かが私を待っている。深い穴の底から、名前ではないものを呼ばれる」
「名前ではないもの?」
「存在の奥にある、本当の形です」
黒瀬が小さく顔をしかめた。
「だいぶ危ない話になってきましたね」
マーカスは気にせず続けた。
「蓮さん。あなたならわかるはずです。地下は、選ばれた者にだけ夢を見せる」
「僕は選ばれたとは思っていません」
「では、なぜ扉はあなたに開いたのです」
「わかりません」
「わからないことを、知りたいと思いませんか」
その問いは、蓮の胸の奥を突いた。
思わない、と言えればよかった。
だが蓮は研究者だ。
知りたい。
その気持ちは確かにある。
地下を恐れている。だが同時に、地下が何なのか知りたい。セティが誰なのか知りたい。自分がなぜ呼ばれるのか知りたい。黒い太陽とは何なのか知りたい。
その欲望を完全に否定することはできなかった。
マーカスは、その揺れを見抜いたように言った。
「恐れる必要はありません。地下は敵ではない。人類が忘れた原初の記憶です。我々はそれを取り戻すだけです」
ナディアが強く言った。
「取り戻す、という言葉は危険です。あなたは地下を所有できるものだと思っている」
「所有ではありません。継承です」
「力を継承したいのでしょう」
マーカスの目が冷えた。
「あなたは臆病だ、ナディア」
その言葉に、蓮の中で怒りが動いた。
ナディアは静かに彼を見返した。
「臆病であることは、地下では必要な資質です」
「それでは何も発見できない」
「発見のために、取り返しのつかないものを起こすつもりはありません」
マーカスは小さく笑った。
「もう起きていますよ」
その言葉は、部屋の温度を下げた。
マーカスはホワイトボードの黒い太陽という文字を指差した。
「地下は目を覚ましつつある。ならば、こちらから理解し、制御する必要がある」
「制御できると本気で思っているんですか」
黒瀬が言った。
「人間は、理解したものを制御してきました」
「理解できないものに潰されてもきましたよ」
マーカスは答えなかった。
彼は蓮へ視線を戻した。
「明日、私はもう一度入口へ向かいます。あなたも来るべきです」
「行きません」
「本当に?」
「少なくとも、あなたとは行きません」
マーカスはその答えを予想していたように、静かに微笑んだ。
「では、地下があなたを呼ぶのを待ちましょう」
彼はそう言って、資料室を出ていった。
ドアが閉まったあと、黒瀬が深く息を吐いた。
「嫌な人ですね。あと、だいぶ危ない」
ナディアはマーカスが出ていったドアを見つめていた。
「彼はすでに、地下の声を自分の欲望と混同しています」
「それって、一番まずいやつですよね」
「ええ」
ナディアは蓮を見た。
「蓮さん。あなたも気をつけてください」
「僕も同じようになると?」
「可能性はあります」
彼女は厳しい表情で言った。
「地下は、知りたいという気持ちを利用します。恐怖よりも、知識欲の方が人を深く引きずり込むことがある」
蓮はその言葉を否定できなかった。
*
その夜、蓮はホテルの屋上にいた。
昼間の熱を失った砂漠の風が、頬を撫でる。遠くの街明かりが揺れ、ピラミッドは夜の中に黒い三角形として沈黙している。
この場所に来た初日の夜、蓮は同じようにピラミッドを見た。
あのときは、ただ重いと感じた。
何かを押さえつけているように見えた。
今は違う。
ピラミッドだけではない。
その下に広がる見えない迷宮を、蓮は知ってしまった。
階段。
壁の記号。
水のない川。
地下都市の門。
広場中央の黒い円形の穴。
それらは、夜のピラミッドの下で確かに存在している。
いや、存在しているという言い方すら不十分だった。
地下は場所ではない。
記憶であり、通路であり、眠りであり、こちらを見返す目でもある。
蓮は屋上の手すりに手を置いた。
右手の掌には、もう印はない。
だが、夜風に触れた瞬間、掌の奥がかすかに疼いた。
「眠れない?」
背後から声がした。
ナディアだった。
彼女は薄い上着を羽織り、蓮の隣に立った。
「ナディアさんも?」
「ええ。眠ると夢を見そうで」
「地下の夢ですか」
「おそらく」
二人はしばらく黙ってピラミッドを見た。
ナディアが静かに口を開いた。
「マーカスの話を、どう思いましたか」
「危険だと思います」
「それだけ?」
蓮は少し考えた。
「少しだけ、理解もできます」
ナディアは責めるような顔をしなかった。
「知りたいから?」
「はい。僕も知りたいんです。地下が何なのか。セティが誰なのか。なぜ僕を呼ぶのか。黒い太陽とは何なのか」
「それは自然なことです」
「でも、その気持ちが危ないんですよね」
「ええ」
ナディアは夜空を見上げた。
「考古学者は、過去を知ろうとします。でも、知ることには責任が伴います。発掘するということは、眠っていたものを起こすことでもある」
「今回の場合は、文字通りですね」
「ええ。だから怖い」
ナディアは小さく息を吐いた。
「私は、地下にあるものを知りたい。でも、セティの言葉を思い出すと、開けてはいけないものを開けている気もする」
「彼は、神ではないと言いました」
「神になってしまったもの、ですね」
蓮は頷いた。
「それが何なのか、わかりません」
「人間の記憶かもしれません」
ナディアは言った。
「死者の記憶、祈り、恐怖、神話。何千年も地下に閉じ込められたものが、やがて人格のようなものを持った」
「記憶が神になった?」
「仮説としては、ありえます。古代人は、理解できない巨大な記憶の集合体を神と呼んだのかもしれない。あるいは、神を封じたつもりで、人間の恐怖を地下に蓄積し続けたのかもしれない」
蓮はピラミッドを見た。
「もしそうなら、ピラミッドは墓ではなく、記憶の封印ですね」
「ええ」
ナディアは蓮の横顔を見た。
「蓮さん。あなたは、自分が地下に呼ばれている理由を知りたいですか」
「はい」
「知ったら、戻れなくなるかもしれません」
蓮は答えられなかった。
その沈黙が答えだった。
ナディアはそれ以上何も言わなかった。
風が吹いた。
その風の中に、かすかな声が混じっていた。
蓮。
蓮は目を閉じた。
また聞こえた。
蓮。
だが今夜の声は、セティではなかった。
もっと低い。
もっと遠い。
もっと深い。
ピラミッドの下から、あるいは夢の底から、何かが名前を呼んでいる。
ナディアも反応した。
「今……」
「聞こえましたか」
「はい」
彼女の顔色が変わる。
声は続いた。
蓮。
ナディア。
二人は同時に息を止めた。
声は蓮だけでなく、ナディアの名前も呼んだ。
「私の名前……」
ナディアの声が震えた。
蓮は手すりを握った。
地下は、蓮だけではなくなっている。
ナディアも覚えられた。
それは、ノートに浮かんだ言葉を思い出させた。
二人目は、壁を見る。
ナディアは壁を見た。
地下都市を見た。
門を見た。
そして今、地下は彼女の名前を呼んだ。
蓮は屋上からピラミッドを見下ろした。
その黒い輪郭の下で、何かが静かに動いている気がした。
「戻りましょう」
ナディアが言った。
彼女の声は冷静だったが、蓮にはわずかな恐怖が聞こえた。
二人は屋上の出口へ向かった。
その瞬間、蓮の足元に何かが落ちているのが見えた。
小さな黒い石片だった。
蓮は立ち止まった。
ナディアも気づく。
「まさか……」
蓮は屈み込み、石片に触れないようにライトを当てた。
石片の表面には、黒い太陽ではなく、別の印が刻まれていた。
舟。
下向きの舟。
ナディアが息を呑んだ。
「壁画の順序……」
黒い太陽。
舟。
膝をつく人物。
目。
水路。
門。
最初の石片は黒い太陽だった。
次に現れたのは、舟。
つまり、地下は次の段階へ進めと言っている。
蓮は石片を見つめた。
触れたくない。
だが、触れなければならない気がする。
ナディアが静かに言った。
「触らないでください。今は」
蓮は頷いた。
彼女は保存袋を取り出し、石片を慎重に入れた。
その瞬間、遠くのピラミッドの影が、ほんの一瞬だけ黒く濃くなったように見えた。
そして、風の中で声がした。
今度はセティの声だった。
「次は、水のない川を渡る」
蓮とナディアは顔を見合わせた。
夜空の下、ギザのピラミッドは沈黙している。
だがその地下で、測量不能の通路は、もう次の道を準備していた。
地図は役に立たない。
距離も、方位も、時間も信用できない。
ただ、記号だけが残る。
黒い太陽。
舟。
そして、水のない川。
蓮は胸の奥で、ゆっくりと理解した。
地下迷宮は、迷わせるためにあるのではない。
選ばせるためにある。
どの道を進むかではない。
どの記憶を受け入れるかを。
そして、その選択のたびに、地下は彼らを少しずつ覚えていく。
屋上の風が冷たくなった。
ナディアは保存袋を胸元に抱え、低く言った。
「明日、私たちはまた降りることになる」
蓮は頷いた。
「はい」
ピラミッドの影の下で、見えない地下が静かに息をしている。
その息遣いは、もう遠いものではなかった。
蓮たちの名前を覚えた迷宮が、次の扉を開ける準備をしていた。




