表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第2章 ドゥアトへ続く階段

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/25

1:地下迷宮の入口

1:地下迷宮の入口


 夜明け前の地下廊下は、地上よりもずっと早く朝を失っていた。

 ホテルの外では、やがて太陽が昇るだろう。砂漠の稜線が淡く明るみ、街の音が少しずつ増え、遠くのピラミッドもまた黄金色の光を浴びるはずだった。

 だが、ホテル地下の保管室前に、その朝は届かなかった。

 蛍光灯の白い光。

 非常灯の赤い点滅。

 古いコンクリートの匂い。

 資料棚に積もった埃。

 そして、保管室の奥で静かに口を開けている、青白い階段。

 篠原蓮は、折りたたみ椅子に座ったまま、その階段を見つめていた。

 眠っていない。

 目を閉じることは何度かあった。けれど、そのたびに耳の奥で声がした。

 蓮。

 蓮。

 声は彼を呼んでいた。

 時にはセティの声で。

 時には、もっと低く、大きく、名を持たない何かの声で。

 蓮は右手を開いた。

 昨日まで掌に刻まれていた黒い太陽の印は、もうない。第一玄室の奥の壁――いや、ホテル地下に現れた石の扉。そのくぼみに黒い石片を嵌めた瞬間、印は消えた。

 だが、消えたからといって、解放されたわけではなかった。

 むしろ逆だ。

 印は皮膚から消えただけで、もっと深いところへ沈んだのではないか。そんな感覚がある。血の中、記憶の中、名前の奥。黒い太陽は、蓮の身体のどこかで静かに眠っている。

 保管室の奥から、かすかな風が吹いた。

 階段の奥から上がってくる風だった。

 冷たい。

 けれど、普通の冷気ではない。地下水や石の冷たさでもない。時間の底から吹いてくるような、古く乾いた風。

 蓮は息を吸った。

 その匂いには、砂漠がなかった。

 ここはエジプトの地下のはずなのに、砂の匂いがない。代わりに、石、香、古い灰、そして微かに水の気配がある。

 水。

 ギザの地下深くにあるはずのない、水の匂い。

「まだ、行くには早いと思います」

 ナディア・ハッサンが言った。

 彼女は蓮の向かいに座り、タブレットと紙の資料を交互に見ていた。朝まで何度も同じ画像を見返していたはずなのに、その目には眠気よりも緊張が濃かった。

「わかっています」

 蓮は答えた。

「でも、行かないままにしておけないことも、わかっています」

 ナディアはタブレットから顔を上げた。

 その表情は、責めるものではなかった。むしろ、蓮と同じ結論にたどり着きながら、それを認めたくない人の顔だった。

「ええ。だから準備をしています」

 廊下の少し先では、黒瀬玄が機材ケースを開いていた。彼は徹夜明けとは思えないほど動きが速かったが、言葉数は少ない。昨日からの異常続きで、冗談を言う余裕もかなり削られているらしかった。

「酸素濃度計、二台。温湿度計、三台。小型カメラ、四台。赤外線カメラも一応。通信機は……まあ期待しない方がいいですね」

 黒瀬は機材を並べながら言った。

「有線ケーブルは?」

 ナディアが聞く。

「持っていきます。でも、あの階段の中で物理的に繋がってくれるかはわかりません」

「物理的に、とは?」

「昨日の通路、明らかに距離がおかしかったでしょう。もし空間が普通じゃないなら、ケーブルが途中で切れるとか、巻き取ったら長さが合わないとか、そういう気持ち悪いことが起きる可能性があります」

「言い方は嫌ですが、想定としては必要ですね」

「俺も言いたくないです」

 黒瀬は苦い顔でケーブルをケースに詰めた。

 蓮は階段の入口に目を向けた。

 石壁は、ホテルの保管室の奥にあるはずなのに、そこだけが完全に別の場所になっていた。コンクリートの壁は消え、滑らかな石材がはめ込まれ、中央には黒い太陽の印が刻まれている。

 その下のくぼみには、もう石片はない。

 石片は扉を開けた瞬間に消えた。まるで、それ自体が鍵ではなく、扉に戻るための記憶だったかのように。

 階段は、石壁の内側から斜め下へ続いている。

 幅は二人が並べるほど。段差は浅く、規則的だ。だがライトを向けても、十数段先で光が薄くなり、その先は青白い闇に溶けてしまう。

 普通の地下階段ではない。

 行き先を照らすのではなく、見る者の意識を下へ引き込む階段だった。

「マーカスは?」

 蓮が尋ねると、黒瀬が鼻で笑った。

「別室で現地責任者と話しています。いや、話しているというより、どうにか自分も入れるように交渉してる感じです」

「扉には拒まれたはずです」

 蓮が言うと、ナディアは目を伏せた。

「扉が拒んだ、という表現を正式な制限理由にはできません」

「ですよね」

「ただ、昨日の段階で彼が階段に近づいたとき、明らかに異常反応がありました。黒瀬さんのセンサーにも記録されています。温度低下、低周波振動、映像ノイズ。それを理由に、今日の一次調査には参加させないことにしました」

「納得しているんですか」

 黒瀬が肩をすくめた。

「してるわけないでしょう。でも今は、マーカスも強引に入れない。たぶん、扉そのものがあの人を弾いている」

 蓮は階段の奥を見た。

 セティは言った。

 扉は、欲しがる者を嫌う。

 その言葉は、蓮の中に残っていた。

 では、自分は欲しがっていないのか。

 蓮は考える。

 恐怖はある。強い恐怖だ。できるなら今すぐ地上へ戻りたい。日本の研究室に帰り、机の上で論文と資料に囲まれ、地下のことを未確認の異常現象として忘れてしまいたい。

 だが、それはもうできない。

 地下は蓮の夢に現れた。

 掌に印を残した。

 名前を呼んだ。

 そして、セティという少年を通して警告してきた。

 蓮は、知りたくない。

 それでも、知らなければならない。

 この二つは似ているようで、違う。

 マーカスは欲している。

 蓮は、引き受けようとしている。

 その違いが、扉にとって意味を持つのかはわからない。

「蓮さん」

 ナディアが言った。

「最後に確認します。少しでも危険を感じたら、戻ります。奥へ進みすぎない。第一の目的は、階段の先に何があるかを確認し、構造を記録することです。扉や装置らしきものを見つけても、触れない。黒い太陽の印を見つけても、触れない。声が聞こえても、従わない」

「はい」

「セティが現れても、すぐには従わない」

 蓮は少しだけ言葉に詰まった。

「……はい」

 ナディアはその反応を見逃さなかった。

「あなたが彼を信じたくなるのはわかります。彼は何度も警告してくれた。でも、彼が本当に何者なのか、まだ私たちは知りません」

「セティも、地下に囚われている可能性があります」

「ええ。だからこそ、彼の言葉がすべて正しいとは限らない。囚われた人間は、自分でも気づかないうちに、囚えているもののために話すことがあります」

 蓮は黙って頷いた。

 その言葉は重かった。

 セティは犠牲者かもしれない。

 だが、犠牲者だから安全だとは限らない。

 地下に何千年も囚われ続けた存在が、今も人間のままなのか。人間の感情、人間の倫理、人間の時間感覚を保っているのか。

 蓮にはわからない。

「行きましょう」

 ナディアが立ち上がった。

 黒瀬が機材ケースを背負い、ヘルメットのライトを点けた。

 蓮もヘルメットを被った。

 三人だけだった。

 蓮、ナディア、黒瀬。

 マーカスは入れない。

 サミールは休養中。

 現地スタッフは保管室の外で待機。

 世界で初めてこの階段を降りるには、あまりにも少ない人数だった。

 だが、蓮にはなぜか、それが正しいようにも思えた。

 地下は、大勢で踏み込む場所ではない。

 むしろ、人が増えれば増えるほど、地下はその人々の記憶を食べ、道を複雑にし、恐怖に合わせて形を変えるのではないか。

 サッカラの記録にあった言葉が、頭をよぎる。

 通路は通路ではない。

 それは我々を記憶している。

 蓮は息を整えた。

 ナディアが先頭に立った。次に蓮。最後に黒瀬。

 三人は、ホテル地下の保管室に現れた石の入口へ向かった。

 階段の手前で、ナディアが一度だけ振り返る。

「本当に行けますか」

 蓮は答えた。

「行けるかどうかではなく、行きます」

 ナディアはしばらく彼を見ていた。

 それから、静かに頷いた。

「では、降ります」


     *


 一段目に足を置いた瞬間、蓮はホテルの音が遠ざかるのを感じた。

 コンクリートの廊下。非常灯。発電機。スタッフの気配。マーカスの存在。そうしたものが背後で薄くなる。

 二段。

 三段。

 四段。

 階段は見た目よりも冷たかった。靴底越しにも、石の温度が伝わってくる。壁は滑らかで、手を触れれば凹凸のない古い石材の感触がした。

「記録開始」

 黒瀬の声が後ろから聞こえた。

「時刻、午前六時十二分。ホテル地下保管室から出現した石階段に進入。気温十八・六度。湿度五十二パーセント。酸素濃度二十・八パーセント。通信は……」

 しばらく間が空いた。

「すでに不安定です。保管室の外との通信、途切れています」

 ナディアが足を止めた。

「もう?」

「はい。まだ入口から十段くらいしか降りてません」

「有線は?」

「繋がっています。でも、信号が妙です。距離は十メートル未満のはずなのに、遅延が出てます」

 蓮は後ろを振り返った。

 入口はまだ見えている。青白い石階段の上に、保管室の暗がりが四角く切り取られている。

 だが、その向こうにいたスタッフの姿は見えなかった。

 まるで入口の向こう側が、遠い別の場所になってしまったようだった。

「戻りますか?」

 黒瀬が聞いた。

 ナディアは少し考え、首を振った。

「まだ戻れる距離です。ですが、この現象は記録します。続行します。ただし、三十段降りた時点で再確認します」

 三人は再び降り始めた。

 階段はまっすぐではなかった。ゆるやかに曲がっている。右へ、左へ、また右へ。まるで地下の中に巻き込まれていく螺旋の一部を歩いているようだった。

 壁には、ところどころ記号が刻まれていた。

 第一玄室で見たものと同じ、ヒエログリフに似ているが完全には一致しない文字。だがここでは、文字はより古く、より荒々しかった。記号というより、傷に近い。何か硬いもので石に刻みつけられた痕。文字を書くというより、忘れまいとして壁に押し込めたような線。

 ナディアが足を止め、ライトを向けた。

「これは……」

「読めますか?」

 蓮が聞く。

「読めません。でも、反復があります」

 彼女は壁のいくつかの記号を指した。

「この黒い円。下向きの舟。膝をつく人物。そして、目。何度も出てくる」

「儀式に関する記録でしょうか」

「あるいは、警告です」

 ナディアはそう言って、壁の一部を撮影した。

 そのとき、黒瀬が低く呟いた。

「待ってください」

「どうしました?」

「温度が下がりました。十五度」

「急に?」

「はい。さっきまで十八度台だったのに」

 蓮は息を吐いた。

 白くはならない。

 だが、確かに空気は冷たくなっていた。壁から染み出すような冷気が、首筋を撫でる。

 その冷気の中に、かすかな音が混じっていた。

 水音。

 ぽたり。

 ぽたり。

 蓮は耳を澄ませた。

「水の音がします」

 ナディアも頷いた。

「私にも聞こえます」

 黒瀬が周囲を照らす。

「でも壁は乾いてます。水滴もない」

 ぽたり。

 また音がした。

 今度は少し近い。

 蓮は階段の下を見た。

 青白い闇の奥に、何か光るものがあるように見えた。水面の反射だろうか。だがライトを向けても、階段の先は闇に沈んでいる。

「進みましょう」

 ナディアが言った。

 三十段を超えたところで、入口は見えなくなった。

 背後にあるはずの保管室の光は消え、階段は完全に石の中に閉じ込められた。黒瀬が有線ケーブルを確認する。

「ケーブルは繋がっています。でも、入口までの長さが合いません」

「どういうことですか」

「巻き出した長さは二十メートルくらいです。でも歩いた距離は、体感でも計測でも五十メートルを超えてる」

 ナディアは顔をしかめた。

「昨日の通路と同じ」

「もっとひどいです」

 黒瀬は端末を見せた。座標表示が不規則に揺れている。高度、方位、距離。そのどれもが安定しない。

「俺たち、下に降りているはずなのに、数値上は一瞬上に移動してます。次の瞬間には横に飛ぶ。機材が壊れていると言われた方が気が楽です」

「壊れている可能性は?」

「もちろんあります。でも三台同時に同じ壊れ方をしているなら、それはもう機材の問題じゃない」

 蓮は壁に手を近づけた。

 触れはしない。

 だが、壁の内側から微かな振動を感じた。石の奥で、低い音が流れている。

 呼吸。

 第一玄室でも感じた音だ。

 場所全体が眠っている。

 いや、眠りながら聞いている。

 三人が階段を降りる音を。

 息遣いを。

 名前を。

 記憶を。

 蓮は自分の胸に手を当てた。

 心臓が速い。

 その鼓動が、階段の振動と重なるように感じた。

「蓮さん」

 ナディアが呼んだ。

「大丈夫ですか」

「はい。ただ……この場所、こちらを覚えようとしている気がします」

 黒瀬が小さく呻いた。

「やめてくださいよ。今の表現、だいぶ嫌です」

「でも、サッカラの記録にもありました」

 ナディアが言った。

「通路は我々を記憶している」

 その言葉が発せられた瞬間、壁の記号の一部が淡く光った。

 三人は同時に息を止めた。

 光は一瞬だけだった。

 黒い太陽の印の周囲が、青白く縁取られたように見えた。すぐに消えたが、見間違いではない。

「今の、撮れてますか」

 ナディアが聞く。

 黒瀬はカメラを確認した。

「たぶん。でも再生するまではわかりません。最近、撮れてるはずのものほど撮れてないので」

 蓮は光った印を見た。

 黒い太陽。

 第一玄室の印よりも小さい。けれど、こちらの方が古く、深い。線は乱れているのに、中心の円だけが異様に正確だった。

 蓮はその印を見つめるうちに、頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。

 ドゥアト。

 死者の国。

 太陽が夜に通る冥界。

 再生のための闇。

 けれど、この地下でその言葉は、神話ではなく地名のように響いた。

 ドゥアト。

 誰かがそう呼んだ場所。

 人間が死者の世界と誤解した、地下の何か。

「ドゥアト……」

 蓮は無意識に呟いていた。

 ナディアが彼を見た。

「今、何と言いました?」

「ドゥアト、と」

「なぜ?」

「わかりません。壁を見ていたら、頭に浮かびました」

 ナディアは壁の記号をじっと見た。

「ドゥアトは、古代エジプトの冥界です。太陽が夜に旅する地下世界。死者が通過する場所。でも、この壁がその言葉と関係しているなら……」

「神話ではなく、実在の地下空間だった?」

 黒瀬が言った。

「少なくとも、この遺構を作った人々は、ここをそう呼んでいた可能性があります」

 蓮は階段の奥を見た。

 ドゥアトへ続く階段。

 名前が、まるで最初から決まっていたかのように、その言葉が胸に落ちた。


     *


 階段はさらに続いた。

 時間の感覚は、また曖昧になった。時計を見ると、進入から二十分ほどしか経っていない。だが、蓮にはすでに何時間も地下を歩いているように感じられた。

 途中、階段の脇に小さな横穴が現れた。

 ナディアが慎重に中を照らす。幅は狭く、人が這えば入れる程度。奥は暗く、床には白い砂のようなものが積もっていた。

「骨かもしれません」

 ナディアが言った。

 蓮はライトを向けた。

 白い粒は、砂ではなかった。

 小さな骨片。

 人間のものか、動物のものかはわからない。だが、ただの砂ではない。

 その奥に、何かの壺が倒れていた。表面には黒い太陽の印がある。

「入りますか?」

 黒瀬が聞いた。

「いいえ。今は記録だけ」

 ナディアは写真を撮り、位置をメモした。

 蓮は横穴の奥を見つめていた。

 そこから、誰かの息遣いのような音が聞こえた気がした。

 だが、言わなかった。

 声や音に反応しすぎると、地下に引っ張られる。そんな直感があった。

 さらに降りると、階段の壁が広がり始めた。

 天井が高くなる。

 空気が少し動く。

 階段の先に、広い空間の気配がある。

「開けます」

 ナディアが言った。

 三人は慎重に最後の数段を降りた。

 そして、階段は終わった。

 目の前に広がっていたのは、通路だった。

 だが、ただの通路ではない。

 幅は五メートルほど。天井は高く、アーチ状に削られている。両側の壁には、石柱のような突起が並び、その間に壁画と文字が刻まれていた。床は滑らかで、中央に浅い溝が走っている。

 溝の中には、水はない。

 だが、水が流れていた痕跡があった。

「地下水路……?」

 黒瀬が呟く。

「この深度で?」

 ナディアは壁に近づいた。

「人工的に作られています。これは……都市の入口かもしれません」

 蓮は通路の奥を見た。

 左右に分岐がある。真っ直ぐ進む道もある。遠くには石の門のような構造物が見えた。門の上には巨大な黒い太陽が刻まれている。

 その下に、二体の獣が描かれていた。

 犬のようにも、ジャッカルのようにも見える。アヌビスを思わせる姿だが、顔はもっと歪んでいる。目が大きく、口が裂け、舌のようなものが石の中へ伸びている。

「アヌビス……ではないですね」

 ナディアが言った。

「似ていますが、既知の図像とは違う。もっと古い。あるいは、アヌビス以前の地下の守護者かもしれません」

 蓮は門の上の黒い太陽を見た。

 その瞬間、頭の中に映像が流れ込んだ。

 同じ門。

 同じ黒い太陽。

 火のない松明。

 白い衣の人々。

 膝をつく少年。

 石の床を流れる黒い水。

 蓮はよろめいた。

 ナディアが腕を掴む。

「蓮さん!」

「大丈夫です」

「今、何か見ましたね」

「記憶……のようなものを」

 黒瀬が周囲を警戒しながら言った。

「それ、蓮さんの記憶なんですか。それとも地下の記憶なんですか」

 蓮は答えられなかった。

 セティは言った。

 地下では、人の名前も記憶だから。

 なら、記憶は誰のものなのか。

 蓮の中に流れ込んでくる映像は、自分のものではないはずだった。だが、完全に他人のものとも思えない。見知らぬ場所なのに懐かしい。知らない儀式なのに、次に何が起こるかわかりそうになる。

 それが一番怖かった。

「先へ進みますか」

 黒瀬が聞いた。

 ナディアは慎重に周囲を確認した。

「少しだけ。門まで行って、そこから引き返します」

「本当に引き返せるならいいんですけどね」

 黒瀬の声には冗談の形をした不安があった。

 三人は通路を進んだ。

 足音が大きく響く。

 コツ。

 コツ。

 コツ。

 第一玄室の閉ざされた壁を叩いていた音に似ていた。

 蓮はその音を聞きながら、ふと思った。

 あのとき、壁の向こうから聞こえた音は、本当に誰かが叩いていたのだろうか。

 それとも、未来の自分たちの足音だったのか。

 地下では時間が一方向ではない。

 マーカスの言葉を思い出す。

 彼の言うことを信じたくはない。だが、すべてが間違っているとも言い切れなかった。

 通路の壁には、奇妙な絵が続いていた。

 地下へ降りる太陽。

 水のない川を渡る人々。

 星を抱える鳥。

 膝をついた少年。

 そして、黒い円の前で目を覆う祭司たち。

 ナディアは何度も足を止めそうになったが、そのたびに自分を抑えた。

 研究者としては、すべて記録したいはずだ。

 だが、今は進みすぎてはいけない。

 知りたい欲望を抑えることもまた、地下では生き残るための技術だった。

 門の前に着いた。

 石の門は、近くで見るとさらに巨大だった。高さは少なくとも四メートル。左右の柱には、細かな文字が隙間なく刻まれている。中央には開口部があり、その先にさらに広い空間が見えた。

 蓮は門の向こうを覗き込んだ。

 そこにあったのは、広場だった。

 地下に広場。

 信じがたいが、そうとしか言いようがなかった。

 広い石畳の空間。その周囲には低い建物のような構造物が並び、奥には階段状の神殿が見える。天井は見えない。闇の上方に、星のような青白い光点が無数に浮かんでいた。

 空ではない。

 地下の天井に埋め込まれた鉱物か、何らかの発光現象か。

 だが、それは夜空のように見えた。

「嘘だろ……」

 黒瀬が呟いた。

 ナディアは言葉を失っていた。

 蓮も同じだった。

 地下都市。

 サッカラの資料にも、マーカスの言葉にも、その可能性は出ていた。だが実際に目の前にすると、理解が追いつかない。

 ピラミッドの地下に、都市がある。

 いや、ここはもうピラミッドの地下なのか。ホテル地下から降りた階段の先だ。ギザなのか、サッカラなのか、夢の中なのか。場所の概念そのものが曖昧になっている。

 それでも、都市はそこにあった。

 死んだ都市。

 眠る都市。

 あるいは、まだ記憶している都市。

「ここまでです」

 ナディアが言った。

 その声は震えていた。

「今日はここで引き返します。これ以上は準備不足です」

「同意です」

 黒瀬が即答した。

 蓮も頷こうとした。

 だが、そのとき。

 広場の中央に、人影が立っているのが見えた。

 白い布。

 裸足。

 黒い瞳。

 セティだった。

 彼は広場の向こうから、蓮を見ていた。

 蓮は息を呑んだ。

 セティの背後、石畳の中央には、巨大な円形の穴があった。黒く、底が見えない。夢で見た円筒状の空間の入口に似ている。

 セティはゆっくりと唇を動かした。

 声は聞こえない。

 だが意味はわかった。

 ここは入口にすぎない。

 蓮の胸が冷たくなる。

 地下迷宮は、まだ始まったばかりなのだ。

「蓮さん?」

 ナディアが声をかける。

 蓮はセティを見つめたまま言った。

「彼がいます」

「セティ?」

「はい」

 ナディアも門の向こうを見た。

 黒瀬もライトを向ける。

 だが、セティの姿はもうなかった。

 広場には、青白い光と石畳だけが残っている。

 ナディアは静かに言った。

「戻ります」

 今度は命令のような声だった。

 三人は門から離れ、来た道を戻り始めた。

 その瞬間、門の奥から低い音が響いた。

 ゴォン。

 石の鐘のような音。

 蓮は振り返った。

 広場の中央の黒い円形の穴から、ゆっくりと闇が立ち上がっているように見えた。

 闇は形を持たない。

 だが、見られている感覚があった。

 巨大な目が、まだ閉じたまま、こちらを意識したような感覚。

 蓮は足を速めた。

 ナディアも、黒瀬も、何も言わない。

 三人は通路を戻る。

 門を離れ、壁画の並ぶ通路を進み、階段へ向かう。

 だが、来たときには気づかなかったことがあった。

 壁画が変わっている。

 いや、変わったように見える。

 先ほどまでは、地下へ降りる太陽、水のない川、祭司、黒い太陽が描かれていた。

 今、壁の一部には三人の人影があった。

 ヘルメット。

 ライト。

 機材ケース。

 蓮、ナディア、黒瀬。

 その三人が、門から戻る姿。

「見ないで」

 ナディアが言った。

 彼女も気づいている。

「記録は?」

 黒瀬が震える声で聞く。

「今はいい。見ないで進んでください」

 三人は壁を見ないように階段へ向かった。

 だが蓮は、最後に一瞬だけ見てしまった。

 壁画の中の三人の後ろに、四人目の影が描かれていた。

 マーカスではない。

 サミールでもない。

 白い布をまとった少年。

 セティ。

 その少年のさらに後ろに、巨大な黒い円が描かれていた。

 円の中には、閉じた目。

 蓮は心臓を掴まれたように感じた。

 目はまだ閉じている。

 まだ。

 だが、閉じた瞼の下で、何かが動いている。


     *


 階段を上る時間は、降りるときより短かった。

 あるいは、短く感じただけかもしれない。黒瀬の機材は途中から数値を失い、距離も時間も信用できなくなっていた。

 やがて前方に四角い光が見えた。

 ホテル地下の保管室。

 三人が階段を上がりきると、外にいたスタッフたちが驚いたように駆け寄ってきた。

「通信が途切れていました」

 ナディアがすぐに確認する。

「どれくらい?」

 スタッフは答えた。

「五分ほどです」

 黒瀬が目を見開いた。

「五分?」

 彼は腕時計を見た。

「俺たち、少なくとも四十分は中にいましたよ」

 蓮も時計を確認した。

 自分の時計では、進入から四十七分が経っている。だが地上側では五分。

 時間が合わない。

 ナディアは顔色を変えたが、すぐに指示を出した。

「入口を封鎖。記録機材はすべて隔離。外部への報告はまだしないでください」

 黒瀬は機材ケースを下ろし、壁にもたれかかった。

「地下都市……本当にありましたね」

 蓮は頷いた。

 言葉が出なかった。

 あれが都市なのか、迷宮なのか、記憶の中の幻なのかはわからない。だが三人全員が見た。映像も、おそらく残っている。

 マーカスが廊下の奥から現れた。

 彼は三人を見るなり、表情を変えた。

「入ったのですね」

 ナディアが答えた。

「一次確認だけです。詳細は解析後に判断します」

「何を見たのですか」

「安全確認が済むまで共有しません」

 マーカスの視線が蓮へ向いた。

「篠原さん」

 蓮は黙っていた。

「あなたは見たのでしょう。ドゥアトの入口を」

 蓮の背筋が冷えた。

 マーカスは知らないはずだ。

 少なくとも、蓮たちは今戻ってきたばかりだ。まだ報告もしていない。

「なぜ、その名前を」

 蓮が聞く。

 マーカスは微笑んだ。

「地下が教えてくれました」

 その言葉に、蓮は一瞬、昨日よりも強い恐怖を覚えた。

 マーカスもまた、地下から何かを受け取っている。

 ただし、セティの警告ではない。

 おそらく、もっと奥のものから。

 ナディアが間に入った。

「マーカス、今日はこれ以上の行動を認めません」

「それは残念です。ですが、進展があったことは間違いない」

 彼は蓮を見たまま言った。

「地下は、あなたを受け入れた」

「受け入れたわけではありません」

 蓮は答えた。

「入口に立っただけです」

「入口に立てる者は限られている」

 マーカスはそう言い、去っていった。

 蓮は彼の背中を見送った。

 そして、ようやく息を吐いた。

 ナディアが低く言った。

「彼を止めないといけません」

「はい」

 黒瀬も頷いた。

「でも、止めるには地下のことを知らなきゃいけない。嫌な構造ですね。進むほど危ないのに、進まないと対策できない」

 蓮は保管室の奥にある階段を見た。

 青白い光は少し弱くなっていた。

 だが、階段はまだそこにある。

 ドゥアトへ続く階段。

 その先には、地下迷宮の入口があった。都市のような広場、星のない地下空、黒い円形の穴、そしてセティ。

 蓮は自分のノートを開き、震える手で一文を書いた。

 地下迷宮の入口を確認。門の先に地下都市らしき空間あり。広場中央に円形の縦穴。セティを視認。時間差異発生。

 そこまで書いたところで、ペンが止まった。

 最後に、蓮はもう一文を書き足した。

 目は、まだ閉じている。

 その文字を書いた瞬間、保管室の奥から風が吹いた。

 誰かが囁いたような気がした。

 蓮は顔を上げる。

 階段の奥は静かだった。

 けれど、その静けさは眠りではない。

 耳を澄ませている静けさだった。

 地下は、彼らを覚えた。

 そして次に降りてくるのを、待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ