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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第1章 砂の下の空洞

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5:開かれた第二の入口

5:開かれた第二の入口


 朝が来ても、蓮の部屋から夜は消えなかった。

 窓の外では、ギザの街がすでに動き始めていた。遠くで車のクラクションが鳴り、鳥の声が空を横切り、ホテルの中庭ではスタッフたちが慌ただしく行き来している。砂漠の朝日は明るく、乾いていて、世界には何ひとつ異常など起きていないように見えた。

 だが、蓮の机の上には、閉じられたノートがあった。

 昨夜、その白紙のページに浮かび上がった黒い太陽。五人の調査隊。黒く塗り潰されたサミール。そして、読めないはずなのに意味が理解できた言葉。

 一人目は、声を聞いた。

 二人目は、壁を見る。

 蓮は何度もノートを開き直した。

 ページは白紙だった。

 どれだけ角度を変えても、ライトを当てても、紙の表面に跡はない。インクの染みも、筆圧も、熱で焼けた痕もない。

 ただ、ページの中央には、小さな黒い砂粒のようなものが一粒だけ残っていた。

 蓮はそれをティッシュで包み、小さな保存袋に入れた。研究者としての反射だった。正体がわからないものは、捨てるべきではない。だが、袋越しに見ても、その黒い粒にはどこか嫌な存在感があった。

 砂粒というより、燃え尽きた星の欠片。

 そんな馬鹿げた比喩が頭に浮かぶ。

 蓮は自嘲するように息を吐いた。

 疲れている。

 明らかに疲れている。

 昨日はあまりにも多くのことが起きた。第一玄室。音声異常。自分の名前を呼ぶ声。通路の変化。セティの出現。壁画に描かれた自分たち。ホテル地下で意識を失ったサミール。

 そして昨夜、部屋で聞いた声。


 ――見つけた。


 その声を思い出すだけで、蓮の胸の奥が冷たくなる。

 セティの声は幼く、古く、警告のようだった。

 だが最後に聞こえた声は違った。

 低く、巨大で、言葉になる前の意味そのもののような声。

 人の声ではない。

 それでも、確かに蓮を呼んでいた。

 右手の掌を見る。

 黒い太陽の印は、昨夜の冷たさを失っていた。今はただ、皮膚の下に沈んだ影のように静かに存在している。痛みも熱もない。だが消えてはいない。

 蓮は袖を下げ、印を隠した。

 そのとき、ドアがノックされた。

「蓮さん。起きていますか」

 ナディアの声だった。

 蓮はノートと保存袋をバッグに入れ、ドアを開けた。

 ナディアは昨日よりも顔色が悪かった。目の下に疲労の影があり、髪も少し乱れている。それでも姿勢はまっすぐだった。彼女は、自分が崩れることを許していないように見えた。

「サミールさんは?」

 蓮が最初に聞くと、ナディアは小さく頷いた。

「命に問題はありません。今朝、少し話せるようになりました。ただ、昨日のことは断片的にしか覚えていません」

「母親の声を聞いたことは?」

「それは覚えています。声に導かれてホテルの地下へ行った、と言っています」

「導かれた……」

「ええ」

 ナディアは廊下の左右を確認してから、声を落とした。

「マーカスが、今日の午後に再突入すると言っています」

 蓮は目を細めた。

「昨日の後で?」

「彼は、昨日の現象を進展だと考えています」

「進展……」

 蓮の中に、鈍い怒りが湧いた。

 サミールは倒れた。通路は変化した。正体不明の声が自分たちを呼んだ。壁画には全員が倒れるような図が描かれていた。

 それを進展と呼ぶのか。

「ナディアさんは反対しているんですよね」

「もちろんです。でも、プロジェクトの資金と許可の一部はマーカス側に依存しています。完全に止めるには、現象を危険として証明する必要があります」

「証明……」

 蓮は苦く笑いそうになった。

 この地下で起きることは、証明しようとすると消える。ホテル地下の黒い太陽も、ノートの文字も、映像や紙には残らない。残るのは、人間の記憶と、掌の印だけだ。

 それでは、正式な調査中止の根拠にはならない。

「蓮さん」

 ナディアは真剣な目で彼を見た。

「あなたに聞きたいことがあります。昨夜、何か起きましたか?」

 蓮は黙った。

 嘘をつくことはできた。何もありません、と言えばいい。

 だが、それではもう進めない。

 地下は蓮を見つけた。

 蓮もまた、地下の方を向き始めている。

「部屋で、声を聞きました」

 蓮は言った。

 ナディアの表情は変わらなかった。ただ、目だけがわずかに硬くなった。

「セティですか」

「最初は。彼は、扉を開けるなと言いました」

「扉……第一玄室の奥の壁?」

「たぶん」

「それから?」

「別の声を聞きました」

 蓮は一瞬言葉を止めた。

「その声は、僕を見つけたと言いました」

 廊下の空気が急に冷えたように感じた。

 ナディアはゆっくり息を吸った。

「それを、マーカスには言わないでください」

「言うつもりはありません」

「彼はあなたを連れて地下へ行こうとします。今以上に」

「ナディアさんも、僕は地下に行かない方がいいと思いますか」

「研究者としては、あなたの存在がこの現象を理解する鍵かもしれないと考えています」

 彼女は正直に言った。

「でも、人間としては、あなたをこれ以上地下に近づけたくありません」

 蓮は、その言葉に少しだけ救われた。

 この場所では、自分が徐々に役割に変えられているように感じていた。鍵、通行証、中心の人物。マーカスの言葉が頭にこびりついている。

 だがナディアは、蓮を蓮として見てくれている。

「ありがとうございます」

「お礼はいいです。問題は、マーカスをどう止めるかです」

 そのとき、廊下の奥から黒瀬が歩いてきた。手にはノートパソコンと、昨夜の映像データが入った外付けドライブを持っている。

「二人とも、ちょうどよかった」

 黒瀬は声を潜めた。

「昨日の映像、少し復元できました」

「ホテル地下の?」

 ナディアが聞く。

「そっちじゃなくて、第一玄室の方です。真っ暗になっていた数分間、完全にデータが飛んだと思ってたんですが、一部だけノイズの下に映像が残っていました」

 蓮の胸がざわついた。

「何が映っていたんです?」

 黒瀬は廊下ではなく、近くの小会議室へ入るように促した。


     *


 小会議室のブラインドは閉められていた。

 黒瀬は机にノートパソコンを置き、外付けドライブを接続した。画面には、第一玄室で黒瀬の胸元カメラが記録した映像が表示された。

 通路を進む揺れた映像。

 第一玄室の壁。

 黒い太陽。

 奥の閉じられた石壁。

 音声センサーのノイズ。

 蓮の名前を呼ぶ声。

 そこまでは、蓮も覚えている。

 問題は、その後だった。

 撤退時、カメラ映像は激しいノイズに包まれ、数分間真っ暗になっていたはずだった。

 黒瀬が再生位置を進める。

 画面が乱れた。

 ザザザザザッという音。画面一面に白と黒の粒子が走る。ところどころ、青白い線が混ざる。黒瀬は映像処理をかけた別ファイルを開いた。

「ここです」

 彼は言った。

 ノイズの奥から、薄い輪郭が浮かび上がった。

 第一玄室の奥の壁だった。

 蓮は息を詰めた。

 昨日、彼らは奥の壁に手を触れていない。開けてもいない。黒い太陽の下には、掌ほどのくぼみがあった。それだけだ。

 だが映像の中では、奥の壁が少し開いていた。

 石壁の中央に、縦の隙間がある。そこから青白い光が漏れている。光は弱いが、明らかに内部から発していた。

「これ……昨日、見てませんよね」

 黒瀬の声は乾いていた。

「見ていません」

 ナディアが即答した。

「現場では壁は閉じていました。少なくとも、私の記憶では」

「俺もそうです。カメラだけがこれを撮っている」

 蓮は画面を見つめ続けた。

 隙間の奥に、何かがある。

 最初は光の揺らぎに見えた。だが黒瀬が映像を一時停止し、拡大すると、石の階段のようなものが見えた。

 下へ向かう階段。

 第一玄室の奥に、さらに地下へ降りる入口がある。

「第二の入口……」

 ナディアが呟いた。

「レーダーで見えた奥の反応は、やはりこの向こうですね」

 黒瀬が言った。

 蓮は画面の端に目を凝らした。

 隙間の下部に、小さな黒いものが落ちているように見えた。

「黒瀬さん、ここを拡大できますか」

「どこです?」

「扉の下。床のあたりです」

 黒瀬は映像を拡大した。解像度は粗い。ノイズもひどい。それでも、黒い小片のようなものが確かに映っていた。

「石……?」

 ナディアが言った。

 その瞬間、蓮のバッグの中がかすかに震えた。

 蓮は反射的にバッグを押さえた。

「どうしました?」

 黒瀬が聞く。

 蓮はバッグを開けた。

 中に入れていた保存袋が、わずかに震えている。昨夜、ノートから残った黒い砂粒を入れた袋だ。

 蓮は袋を取り出した。

 ナディアと黒瀬が息を呑む。

 袋の中の黒い粒は、もう砂粒ではなかった。

 小さな石片のように膨らんでいた。表面は黒く、光を吸い込むように鈍く、中心にはかすかな模様が浮かんでいる。

 黒い太陽。

「蓮さん、それは……?」

 ナディアが聞いた。

「昨夜、ノートに残っていたものです。最初は砂粒くらいでした。でも今は……」

「大きくなってる?」

 黒瀬が言った。

 誰も笑わなかった。

 蓮は保存袋越しに石片を見つめた。

 それは、映像の中で第一玄室の床に落ちていたものと似ていた。いや、同じものかもしれない。

 だが、どうして蓮の部屋にあるのか。なぜ大きくなっているのか。どうして映像の中にも映っているのか。

 答えはなかった。

 ナディアはしばらく沈黙したあと、言った。

「この石片は、奥の壁のくぼみに対応している可能性があります」

 蓮は顔を上げた。

「第一玄室の、黒い太陽の下のくぼみですか」

「ええ。形はまだ確認できませんが、もしこの石片がそこに嵌まるものなら……」

「扉が開く」

 黒瀬が言った。

 会議室の空気が重くなった。

 蓮は石片を保存袋ごと机に置いた。

「開けるべきではありません」

 その言葉は、自分でも驚くほど強く出た。

 ナディアは頷いた。

「私もそう思います」

「でもマーカスは開けたがる」

 黒瀬が苦い顔で言った。

「この映像と石片を見せたら、絶対に再突入を強行しますよ」

「では、見せません」

 ナディアが言った。

「少なくとも今は」

「隠すんですか」

「安全のためです」

 蓮は保存袋を見つめた。

 この石片は、地下から届いたものだ。

 あるいは、地下に戻ろうとしているものだ。

 それを持っている自分は、本当に地上にいると言えるのか。

 ふと、蓮の耳の奥でセティの声がしたような気がした。


 ――扉を開けるな。


 蓮は目を閉じた。

 だが同時に、別の声も思い出す。


 ――見つけた。


 ふたつの声が、蓮の中で重なっていた。

 警告と呼び声。

 拒絶と招待。

 蓮はもう、どちらが自分の意志なのかわからなくなり始めていた。


     *


 午後、マーカスは予定通り再突入を主張した。

 ホテルの会議室には、調査チームの主要メンバーが集められた。マーカス、ナディア、蓮、黒瀬、そして現地の安全管理担当者。サミールは参加していない。体調不良のため休養中という扱いだった。

 テーブルの上には、第一玄室の基本データ、音声記録の分析結果、壁画スキャンの一部が並んでいる。ただし、黒瀬が復元した開いた壁の映像と、蓮の石片については伏せられていた。

 ナディアは強硬に中止を求めた。

「昨日の時点で、調査環境は通常の地下遺構とは判断できません。通路の変化、音声異常、スタッフの体調不良、記録機器の不具合。これ以上の進入は危険です」

 マーカスは穏やかに聞いていた。

 だが、その目には焦りがあった。

 蓮はそれに気づいた。

 昨日までは、余裕があった。すべてを予想しているような態度だった。だが今日は違う。マーカスは何かを急いでいる。現象が長く続かないかもしれない、と彼は言っていた。

 つまり、彼にも時間制限がある。

「危険は理解しています」

 マーカスは言った。

「しかし、昨日の現象が消えてしまえば、二度と同じ状態で調査できない可能性があります。これは千載一遇の機会です」

「人命よりも機会を優先するのですか」

 ナディアが言う。

「人命を軽視しているわけではありません。だからこそ、最小人数で入るべきです」

「入らないという選択肢は?」

「ありません」

 その言葉は、今までのマーカスよりもはっきりしていた。

 会議室に沈黙が落ちた。

「ありません、とはどういう意味ですか」

 ナディアの声が低くなる。

 マーカスは少しだけ間を置き、蓮を見た。

「地下はすでに反応しています。今止めれば、こちらの制御できない形で現象が進むかもしれません」

「根拠は?」

「サミールの件です」

 蓮の胸が冷えた。

 マーカスは知っている。

 ホテル地下で起きたことを、どこまで把握しているのか。

「地下は現場だけに留まっていない。ホテルにまで影響が出た。ならば、扉の向こうを確認する必要がある」

 ナディアの表情が変わった。

「扉?」

 マーカスは微笑んだ。

「第一玄室の奥の壁です」

「なぜ、それが扉だと?」

「壁画が示しています」

「あなたは、何を見たのですか」

 ナディアの声は鋭かった。

 マーカスは答えなかった。

 蓮は右手を握りしめた。

 嫌な予感がした。

 マーカスは、蓮たちが隠した映像を知らないはずだ。だが彼は、奥の壁が扉であることを確信している。昨日からそうだった。まるで、そこに何があるか最初から知っていたかのように。

「マーカスさん」

 蓮は言った。

「あなたは、何を探しているんですか」

 マーカスは蓮を見た。

「真実です」

「それは答えになっていません」

「では、こう言いましょう。私は、人類が忘れた最初の記憶を探しています」

「最初の記憶?」

「神を見た記憶です」

 ナディアが静かに首を振った。

「それは考古学ではありません」

「いいえ。考古学は、物質に残された人間の記憶を読む学問です。ならば、人類が最初に恐れ、崇め、封じたものを知ることも、考古学の一部でしょう」

「あなたが求めているのは知識ではなく、力です」

 ナディアが言った。

 マーカスの目が一瞬だけ冷えた。

 その表情を見て、蓮は確信した。

 ナディアの言葉は当たっている。

 彼は地下の神話を知りたいのではない。

 地下に残された声を使いたいのだ。

「再突入は認めません」

 ナディアは言った。

「少なくとも、私は参加しません」

「それは残念です」

 マーカスは静かに答えた。

「では、私の責任で別チームを編成します」

「許可されません」

「許可は私が取ります」

「危険です!」

「危険だからこそ、先に進む者が必要なのです」

 黒瀬が椅子を引いて立ち上がった。

「俺は入りません。機材も出しません」

 マーカスは彼を見た。

「それは困りますね」

「困ってください。俺は昨日、通路が変わるのを見た。あんな場所に機材を持って入れと言われても無理です」

「篠原さんは?」

 マーカスの視線が蓮へ向いた。

 蓮は静かに彼を見返した。

「僕も入りません」

 そう言った瞬間、右手の印が鋭く熱を持った。

 蓮は顔をしかめそうになったが、こらえた。

 マーカスの目が、ほんのわずかに細くなる。

「本当に?」

「はい」

「地下は、あなたを呼んでいる」

「だからこそ、行きません」

 蓮の声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。

 マーカスはしばらく蓮を見つめていた。

 そして、静かに笑った。

「呼ばれた者は、遅かれ早かれ降りることになります」

 その言葉を最後に、彼は会議室を出ていった。


     *


 その夜、蓮たちはマーカスの動きを警戒していた。

 ナディアは現地スタッフへ第一玄室への入口封鎖を指示し、黒瀬は主要機材の一部を自室へ移した。蓮は石片を保存袋に入れ、さらに布で包んでバッグの奥へ入れた。

 だが、安心はできなかった。

 マーカスが本当に止まるとは思えない。

 蓮は部屋に戻っても、眠る気にはなれなかった。机に向かい、今日の出来事をノートに書き出そうとしたが、ペンが進まない。

 白紙のページを見るのが怖かった。

 また黒い線が浮かび上がるのではないか。

 また、セティの声が聞こえるのではないか。

 また、あの低い声が自分を見つけるのではないか。

 蓮はペンを置き、バッグの中の石片を確認した。

 布に包まれた保存袋は、静かだった。

 だが、それは眠っているようにも見えた。

 蓮はバッグを閉じようとした。

 その瞬間、部屋の照明が消えた。

 完全な暗闇。

 蓮は息を止めた。

 廊下の非常灯も消えている。窓の外の街明かりだけが、薄く部屋に差し込んでいる。

 停電か。

 そう思った直後、バッグの中から青白い光が漏れた。

 石片だった。

 蓮は後ずさった。

 保存袋と布を通しても、石片は光っていた。光というより、闇の中に青白い穴が開いたようだった。

 そして、声がした。

「蓮」

 セティの声だった。

 蓮は震える息を吐いた。

「セティ」

「時間がない」

「何が起きている」

「彼が扉に近づいている」

 蓮の心臓が跳ねた。

「マーカスか」

「名は知らない。でも、開けようとしている」

 蓮はバッグを掴んだ。

「現場にいるのか」

「地上の入口ではない。彼は別の道を見つけた」

「別の道?」

「地下は、ひとつではない」

 セティの声は遠く、途切れ途切れだった。

「ギザ。サッカラ。ホテルの下。夢の中。壁の内側。すべて同じ場所に近づいている」

「意味がわからない」

「人は地図で場所を分ける。でも地下は、人の記憶でつながる」

 蓮は昨夜の言葉を思い出した。

 人は、場所を掘ると思っている。

 でも本当は、場所に掘られている。

「どうすればいい」

 蓮は聞いた。

「石を戻して」

「第一玄室に?」

「くぼみに置いて。そうすれば扉は、正しい形で開く」

「開けるなと言ったじゃないか」

「彼が開ければ、壊れる」

 セティの声が震えた。

「君が開ければ、まだ選べる」

 蓮は言葉を失った。

 扉を開けるな。

 だが、開けなければマーカスが開ける。

 開け方を誤れば、何かが壊れる。

 正しい形で開けば、まだ選択できる。

 それが本当なのか、セティを信じていいのか、蓮にはわからなかった。

「なぜ僕なんだ」

 蓮は尋ねた。

「なぜ、僕を呼ぶ」

 しばらく沈黙があった。

 そしてセティは言った。

「君は、前にもここへ来た」

 蓮の背筋が凍った。

「何を言っている」

「今の君ではない。でも、君はここを知っている。だから印が戻った」

「戻った……?」

「黒い太陽は、選ぶものではない。思い出すものだ」

 その瞬間、蓮の頭に映像が流れ込んだ。

 夢ではない。

 記憶の断片。

 石の広間。

 膝をつく人々。

 青白い火。

 黒い太陽の前に立つ少年。

 白い布をまとったセティ。

 そして、その横に立つ誰か。

 蓮は、その人物の顔を見ようとした。

 だが顔は影になっていた。

 その人物の右手には、黒い太陽の印があった。

 蓮は激しい頭痛に襲われ、机に手をついた。

「やめろ……」

「思い出してはいけない。でも、忘れたままでは開けられない」

 セティの声が消えかける。

「蓮。急いで。二人目が壁を見る」

「二人目……誰なんだ」

 返事はなかった。

 代わりに、スマートフォンが震えた。

 蓮は画面を見た。

 黒瀬からのメッセージだった。

 ナディアさんがいない。部屋にもロビーにもいません。

 蓮の血の気が引いた。

 二人目は、壁を見る。

 蓮はバッグを掴み、部屋を飛び出した。


     *


 廊下には非常灯だけが灯っていた。

 停電はホテル全体で起きているらしい。壁際の赤い灯りが薄く点滅し、廊下を血のような色に染めている。

 蓮は黒瀬に電話をかけた。

「黒瀬さん!」

『蓮さん、そっち大丈夫ですか』

「停電しています。ナディアさんは?」

『見つかりません。さっきまで資料室で一緒にいたんですが、俺が機材を取りに部屋へ戻った間にいなくなってました。机にタブレットだけ残っていて……』

「タブレットには?」

『第一玄室の壁画画像が開いたままでした』

 蓮は息を呑んだ。

「地下資料室は?」

『今から向かいます』

「僕も行きます」

 蓮は階段へ走った。

 ホテルの非常階段を下りながら、バッグの中の石片が熱を持つのを感じた。今度は青白い光ではなく、脈動するような熱だった。

 まるで心臓。

 地下へ近づくほど、石片は鼓動する。

 地下資料室の廊下で、黒瀬と合流した。彼は懐中電灯を持ち、息を切らしていた。

「蓮さん、そのバッグ……光ってますよ」

 蓮は答えなかった。

 廊下の奥、昨夜サミールが立っていた保管室の扉が開いていた。

 中から、淡い光が漏れている。

 青白い光。

 蓮と黒瀬は顔を見合わせた。

「ナディアさん!」

 黒瀬が叫んだ。

 返事はない。

 二人は保管室へ入った。

 そこには、ナディアがいた。

 彼女は奥の壁の前に立っていた。昨夜、黒い太陽の印が浮かび上がったコンクリートの壁。その壁が、今はまったく違うものになっていた。

 コンクリートの表面が消え、石壁になっている。

 第一玄室の奥の壁と同じ、滑らかな石壁。

 中央には黒い太陽。

 その下には、掌ほどのくぼみ。

 ホテルの地下に、第一玄室の扉が現れていた。

 ナディアは壁を見つめたまま動かない。

「ナディアさん!」

 蓮が駆け寄ろうとした瞬間、彼女が小さく呟いた。

「見える……」

「何が見えるんですか」

「壁の向こう」

 ナディアの声は、夢を見ているようだった。

「地下都市……階段……水のない川……星のない空……」

 黒瀬が顔を青ざめさせた。

「まずいですよ。これ、サミールの時と同じだ」

 蓮はナディアの肩を掴んだ。

「ナディアさん、戻ってください!」

 彼女はゆっくり蓮を見た。

 瞳の焦点が合っていなかった。

「蓮さん……壁は、記憶している」

「今は見ないでください」

「私たちだけじゃない。もっと前の人たちも、ここに来ている。サッカラの調査隊も、古代の祭司も、セティも……」

 セティの名前を聞いた瞬間、蓮のバッグの中の石片が強く光った。

 壁の黒い太陽も反応する。

 くぼみが、蓮の方を向いたように見えた。

 黒瀬が後ずさる。

「蓮さん、それ、まさか……」

「第一玄室の石片です」

「やっぱり……」

 ナディアが蓮のバッグを見た。

 その目に、少しだけ意識が戻る。

「蓮さん……置いてはだめ」

 彼女は苦しそうに言った。

「でも……置かなければ、マーカスが……」

「だめ……まだ……」

 そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。

 ゆっくりとした足音。

 蓮は振り返った。

 暗い廊下の向こうから、マーカスが歩いてきた。

 手には小型ライトを持っている。彼は驚いた様子もなく、むしろ当然ここへ来るべきだったという顔をしていた。

「やはり、ここに現れましたか」

 マーカスは言った。

 ナディアが壁から離れようとするが、足元がふらつく。黒瀬が彼女を支えた。

「マーカス、あなた……」

「入口はひとつではない。そうでしょう?」

 マーカスは蓮のバッグを見た。

「石片を持っているのですね」

 蓮はバッグを抱えた。

「近づかないでください」

「それはあなたのものではありません」

「あなたのものでもない」

「ええ。地下のものです。だから戻す必要がある」

 マーカスの声は静かだった。

 だが、その静けさの奥に強い欲望があった。

「蓮さん。あなたもわかっているはずです。扉は開きたがっている」

「扉が開きたがっているんじゃない。あなたが開けたがっているだけです」

「違います」

 マーカスは微笑んだ。

「私は呼び声に従っている」

 その言葉に、蓮は寒気を覚えた。

 マーカスも声を聞いている。

 だが、それはセティの警告ではない。

 もっと低く、もっと深い、あの声だ。


 ――見つけた。


「蓮さん」

 黒瀬が小声で言った。

「どうします」

 どうする。

 蓮は石片を持ったまま、壁を見た。

 黒い太陽の下のくぼみは、まるで待っているようだった。

 置けば、扉は開く。

 置かなければ、マーカスが奪って開けるかもしれない。

 逃げれば、この入口は別の場所に現れるかもしれない。ホテルの地下、夢の中、あるいは誰かの記憶の中に。

 セティは言った。

 彼が開ければ、壊れる。

 君が開ければ、まだ選べる。

 蓮はナディアを見た。

 彼女は意識を保とうとしながら、必死に首を振っている。

 黒瀬は震えながらも、蓮の前に立とうとしていた。

 マーカスは一歩ずつ近づいてくる。

 そして壁の向こうから、声がした。

 低く、深く、大きな声。

 言葉ではない。

 だが意味はわかる。


 ――戻せ。


 蓮の右手が熱を持った。

 掌の黒い太陽が、石片と同じリズムで脈打っている。

 蓮は保存袋から石片を取り出した。

 黒瀬が叫ぶ。

「蓮さん!」

 ナディアも声を絞り出した。

「待って……」

 マーカスの目が輝いた。

 蓮は石片を握りしめ、壁の前に立った。

 くぼみは、石片と同じ形をしていた。

 完全に一致している。

 だが、蓮はすぐには置かなかった。

 彼は壁に向かって、低く言った。

「セティ。聞こえるなら答えろ」

 沈黙。

 青白い光が揺れる。

 蓮は続けた。

「これを置けば、僕たちは選べるんだな」

 しばらくして、壁の内側からかすかな声がした。

「選ぶためには、見なければならない」

「その先に何がある」

「ドゥアトの底」

「神がいるのか」

「神ではない」

 セティの声が震えた。

「あれは、神として眠らされた記憶だ」

 蓮は目を閉じた。

 理解はできない。

 だが、逃げ続けても、この地下は自分たちを追ってくる。

 第一玄室だけではない。

 ホテルの地下にも、夢にも、ノートにも、掌にも。

 ならば、こちらから向き合うしかない。

 蓮は目を開けた。

「開けます」

 ナディアが叫んだ。

「蓮さん!」

「でも、マーカスのためじゃない」

 蓮はマーカスを見た。

「あなたにも渡さない」

 マーカスの表情が変わった。

「何をするつもりです」

「僕が見る。僕が選ぶ」

 蓮は石片をくぼみに置いた。

 その瞬間、世界から音が消えた。

 完全な無音。

 黒瀬の叫びも、ナディアの息も、マーカスの足音も、すべて消えた。

 次に、壁の黒い太陽が開いた。

 物理的に石が割れるのではない。黒い円の中心が沈み込み、そこから闇が広がる。闇は扉の形になり、石壁全体を内側へ引き込んでいく。

 ホテルの地下のコンクリートも、資料棚も、埃っぽい空気も消えていく。

 代わりに、青白い光に照らされた石の階段が現れた。

 下へ続く階段。

 第一玄室の奥に映像で見た階段と同じだった。

 冷たい風が吹き上がってくる。

 その風には、砂の匂いも、石の匂いもなかった。

 もっと古い匂い。

 雨の降らない地下に閉じ込められた、数千年分の夜の匂い。

 ナディアが蓮の腕を掴んだ。

「蓮さん、下がって」

 黒瀬がライトを階段へ向ける。

 光は途中で消えた。

 階段の奥は見えない。

 マーカスは呆然と立っていた。彼の顔には歓喜と恐怖が同時に浮かんでいた。

「本当に……開いた」

 彼は呟いた。

 蓮は階段の入口に立ち、闇の奥を見た。

 そこに、白い布をまとった少年がいた。

 セティ。

 今度は幻ではないと思った。

 少なくとも、ただの夢ではない。

 少年は階段の途中に立ち、蓮を見上げていた。黒い瞳は悲しげで、長い時間を一人で耐えてきた者の目だった。

「蓮」

 セティは言った。

「もう戻れない」

 蓮は答えた。

「戻るために開けたんじゃない」

 セティは少しだけ目を伏せた。

「なら、降りて」

 その言葉と同時に、背後の保管室の照明が戻った。

 だが、開いた階段は消えなかった。

 それはもう、ホテルの地下にある扉ではなかった。

 ギザの第一玄室でもない。

 サッカラの封鎖された記録でもない。

 すべての地下が重なった場所。

 ドゥアトの底へ続く階段。

 蓮は右手を見た。

 掌の黒い太陽の印は、消えていた。

 その代わり、石片もくぼみから消えている。

 扉は開いた。

 印は役目を終えた。

 いや、役目は始まったばかりなのかもしれない。

 ナディアは蓮の腕を強く掴んだまま言った。

「今は降りません。準備が必要です」

 蓮は頷いた。

「わかっています」

 黒瀬が震える声で言った。

「準備って、何を準備すればいいんですか。こんなの、装備とか酸素濃度とか、そういう話じゃないでしょう」

「それでも準備するしかありません」

 ナディアは答えた。

「何も知らずに降りるよりは、少しでも知ってから降りる」

 マーカスが一歩前へ出た。

「なら、私も――」

 その瞬間、階段の奥から低い音が響いた。

 ゴォン。

 石の鐘のような音。

 マーカスは足を止めた。

 階段の奥の闇が、彼を拒むように揺れた。

 セティが小さく言った。

「その人は、まだ入れない」

 マーカスの顔が歪んだ。

「なぜだ」

 セティは彼を見なかった。

「扉は、欲しがる者を嫌う」

 蓮はマーカスを見た。

 彼は初めて、明確な怒りを顔に浮かべていた。

「これは、私が開いた調査だ」

「でも扉は、あなたを選んでいない」

 蓮は言った。

 その言葉に、マーカスの目が冷たく光った。

 ナディアは低く言った。

「今日はここまでです。入口を監視します。誰も単独で入らない」

 黒瀬が頷く。

「俺、監視カメラとセンサー設置します。まあ、まともに映るか怪しいですけど」

 蓮は階段の奥のセティを見た。

 少年は静かにこちらを見ていた。

 その輪郭は青白い光の中で揺らぎ、今にも消えてしまいそうだった。

「セティ」

 蓮が呼ぶと、少年は少しだけ首を傾げた。

「君は、何を守っているんだ」

 セティは答えた。

「眠り」

「誰の」

 少年は、階段のさらに奥を見た。

「神になってしまったものの」

 その声には、恐怖よりも哀しみがあった。

 蓮はその表情を見て、初めて思った。

 セティは怪異ではない。

 彼もまた、犠牲者なのだ。

 地下に囚われ、何千年も何かを眠らせ続けてきた子ども。

 そしてその眠りが、今、壊れかけている。

 セティの姿が薄れていく。

 消える直前、彼は蓮に言った。

「次に降りるとき、君は自分の名前を疑う」

「どういう意味だ」

「地下では、人の名前も記憶だから」

 セティは消えた。

 階段だけが残った。


     *


 その夜、蓮たちは眠らなかった。

 ホテル地下の保管室は封鎖され、入口にはナディアの信頼する現地スタッフが配置された。黒瀬は複数のカメラとセンサーを設置したが、そのうち二台は設置直後に映像が乱れた。階段からは、時折、低い風のような音が聞こえた。

 マーカスは不満を隠さなかったが、扉に拒まれたことで強引に入ることはできなかった。少なくとも今夜は。

 蓮は保管室の前の廊下で、簡易椅子に座っていた。

 ナディアは資料を読み、黒瀬は機材のログを確認している。

 誰も多くは話さなかった。

 時折、階段の奥から音がする。

 遠い水音。

 低い祈り。

 風のような声。

 そして、ときどき、誰かが蓮の名前を呼ぶ。

 だが蓮はもう、目をそらさなかった。

 怖くないわけではない。

 むしろ、怖さは昨日よりも増している。

 地下は現場からホテルへ広がり、夢から現実へ滲み出し、蓮の掌に印を残し、石片を届け、扉を開いた。

 もう、これは逃げれば終わる話ではない。

 蓮はノートを開き、第一章の終わりのように、今日の出来事を記録した。

 第二の入口、開く。

 セティ、再出現。

 マーカス、扉に拒絶される。

 階段の先は、ドゥアトの底。

 書き終えたあと、蓮はペンを止めた。

 そして最後に、一文だけ書き足した。

 ピラミッドは墓ではない。地下への蓋である。

 その文字を見た瞬間、階段の奥から低い音が響いた。

 ゴォン。

 まるで、蓮の言葉に答えるように。

 ナディアが顔を上げた。

 黒瀬も手を止めた。

 蓮は保管室の暗がりを見つめた。

 地下へ続く階段は、青白い光の中で静かに口を開けている。

 その奥に何があるのか、まだわからない。

 古代都市か。

 封印された神殿か。

 記憶を食べる迷宮か。

 それとも、人類が神と呼んでしまった何かか。

 ただ一つだけ、蓮にはわかっていた。

 終わった。

 だが、本当の地下は、まだ始まってすらいない。

 夜明け前、階段の奥から、セティの声が一度だけ聞こえた。

「蓮。次は、ドゥアトへ続く階段を降りる」

 蓮は静かに頷いた。

 砂漠の下で、何かが眠っている。

 そして、その眠りはもう、浅い。

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