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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第1章 砂の下の空洞

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4:壁画に描かれた調査隊

4:壁画に描かれた調査隊


 調査坑から戻ってきたあと、蓮たちは一度、現場横の白いテントに集められた。

 外では砂漠の光が容赦なく照りつけている。だが、テントの内側は発電機で動く簡易冷房の音が低く響き、薄い布越しに揺れる光が、どこか水底のような不安定さを作っていた。

 長机の上には、黒瀬が回収した記録装置が並べられている。ノートパソコン、音声センサー、三次元スキャン用の端末、予備メモリ、外部バッテリー。どれも細かな砂をかぶっていた。黒瀬はそれらを一つずつ確認しながら、ほとんど口をきかなかった。

 ナディアは現地スタッフと短いアラビア語でやり取りをしていた。声は落ち着いている。だが、その手はわずかに震えていた。彼女は指示を終えると、テントの奥に置かれた折りたたみ椅子に座り、深く息を吐いた。

 サミールは医療スタッフの確認を受けたあと、地上班へ戻された。本人は「大丈夫です」と繰り返していたが、顔色は悪く、視線は何度も調査坑の入口へ向かっていた。

 蓮はテントの端に立ち、自分の右手を見下ろしていた。

 黒い太陽の印。

 地下から戻っても、印は消えなかった。むしろ、第一玄室で声を聞いたあとから、中心の黒い円が濃くなっているように見える。皮膚に描かれているというより、皮膚の下に沈み込んでいるようだった。

 蓮は掌を閉じた。

 閉じても、熱は消えない。

 その熱は、外の太陽の熱とは違っていた。もっと内側から来るものだった。血管の奥に、古い火種を埋め込まれたような感覚。

「蓮さん」

 ナディアの声がした。

 蓮は顔を上げた。

「少し話せますか」

「はい」

 ナディアはテントの外へ出るように顎で示した。蓮は彼女について外へ出た。

 テントの裏側には、資材が積まれているだけで、人の姿はほとんどなかった。遠くでスタッフの声が聞こえる。風が砂を撫で、薄い砂埃が足元を流れていく。

 ナディアはしばらく黙っていた。

 蓮も、何を言えばいいのかわからなかった。

 あの地下で起きたことを、どう整理すればいいのか。第一玄室で拾われた声。自分の名前。消えた通路。現れた少年。地上に戻ったあとでさえ、それらは夢のように曖昧で、しかし夢よりもはるかに生々しかった。

「確認させてください」

 ナディアがようやく口を開いた。

「あなたは、地下であの少年を見たんですね」

「はい」

「それ以前にも?」

「夢で見ました」

 蓮は正直に答えた。

 ナディアは目を伏せた。

「昨夜ですか」

「はい。円筒状の空間にいて、白い布を着た少年がいました。彼は、まだ来てはいけないと言いました」

 ナディアの唇がわずかに動いた。

「私も、見ました」

「夢で?」

「いいえ。地下で。狭い通路の先に」

「僕だけではなかったんですね」

「少なくとも、黒瀬さんも見たと言っています。サミールも、たぶん見ています」

 ナディアはピラミッドの方角を見た。

「集団幻覚、という説明はできます。閉鎖空間、緊張、低周波音、暗示。私たちはサッカラの記録を読んでから地下に入った。少年に関する話も、黒瀬さんからあなたへ伝わっていた。無意識に同じイメージを共有した可能性はあります」

「ナディアさんは、そう思いますか」

 蓮が聞くと、彼女はすぐには答えなかった。

 風が吹いた。

 砂が二人の足元を這うように流れていく。

「そう思いたいです」

 彼女は言った。

 その声は、研究者というより、一人の人間の声だった。

「でも、そう思えない部分がある」

「掌の印ですか」

 蓮は右手を開いた。

 ナディアはその印を見た。表情は変えなかったが、目の奥がわずかに揺れた。

「それもあります。でも、それだけではありません」

「他に?」

「第一玄室の壁画です」

 蓮は眉をひそめた。

「壁画?」

「黒瀬さんのスキャンデータに、現場では見落としていた部分がありました。奥の壁ではなく、左側の壁です。肉眼では凹凸が浅すぎて、ほとんど見えませんでした。でも三次元スキャンで浮かび上がった」

「何が描かれていたんです?」

 ナディアは短く息を吸った。

「私たちです」


     *


 テントに戻ると、黒瀬がノートパソコンの前に座っていた。

 画面には、第一玄室の三次元スキャンデータが表示されている。灰色の壁面に、凹凸の深さが色分けされていた。黒瀬はマウスを操作し、角度を変え、左側の壁面を拡大した。

「これです」

 彼は言った。

 画面に、壁の一部が大きく映し出された。

 最初はただのざらついた石面に見えた。細かな傷、風化した凹凸、石材の節理。だが黒瀬が解析フィルターをかけると、浅い線が少しずつ浮かび上がった。

 人影。

 蓮は思わず身を乗り出した。

 壁面には、横一列に五人の人物が描かれていた。

 古代エジプトの壁画に見られる横向きの様式ではない。正面と横向きが曖昧に混ざった、不自然な描き方だった。人物の輪郭は古い。線は浅く、風化している。だが、その人物たちが持っているものは、明らかに古代のものではなかった。

 丸いヘルメット。

 胸元に吊られた機材。

 手に持ったライト。

 背中の小型パック。

 蓮は喉が渇くのを感じた。

「……五人」

 ナディアが呟いた。

「今日、地下に入った人数と同じです」

 黒瀬は画面を拡大した。

「左から順に見ると、たぶんサミール、ナディアさん、蓮さん、俺、マーカスです」

「そんな馬鹿な」

 蓮は反射的に言った。

 だが、自分の声が弱いことに気づいた。

 そんな馬鹿な。

 この調査が始まってから、何度も心の中で繰り返してきた言葉だ。だが、その言葉は少しずつ力を失っている。

 常識のほうが、現実についていけなくなっている。

「これが本当に今日の私たちを描いたものだとすれば、誰かが事前に描いたことになります」

 ナディアが言った。

「でも、第一玄室は今日まで開けられていなかった」

「その前提が間違っている可能性は?」

 蓮が聞く。

「誰かが先に入っていたとか」

「完全には否定できません。ただ、入口付近の封鎖状態、堆積物、石材の状態を見る限り、近年人が入った形跡はありません」

 黒瀬が頷いた。

「俺も映像を見直しました。壁画の線は新しくないです。スキャン上の凹凸も、周囲の風化と同じくらい馴染んでます。少なくとも、昨日今日の落書きじゃない」

 マーカスは、少し離れた場所で画面を見ていた。

 彼は腕を組み、静かに微笑んでいた。

「驚くべき発見ですね」

 ナディアは鋭く彼を見た。

「あなたは驚いていないように見えます」

「驚いていますよ。ただ、予想の範囲内でもある」

「予想?」

 ナディアの声が冷たくなった。

「マーカス。あなたは何を知っているの?」

「知っているというほどではありません。古い記録を読んできただけです」

「サッカラの記録だけでは、こんなことは予想できない」

「サッカラだけではありません」

 テントの中に沈黙が落ちた。

 黒瀬がマーカスを見た。

「他にも記録があるんですか」

 マーカスはすぐには答えなかった。彼はテントの入口から見えるピラミッドの一部を眺めていた。

「世界各地の古い遺跡には、似たような話が残っています。地下に続く通路。開けてはならない部屋。自分たちが来る前から描かれていた訪問者の姿。考古学の主流からは外れた、信頼性の低い記録です」

「だから隠していた?」

 ナディアが言った。

「混乱を避けるためです」

「あなたの言う混乱は、都合の悪い情報を伏せることと同じに聞こえます」

「情報は、適切な時期に出すべきです。最初からすべてを話していれば、今日の調査は実施できなかったでしょう」

「それが問題なんです」

 ナディアの声が強くなった。

「私たちは学術調査をしている。あなたの個人的な目的のために地下へ入っているわけではない」

「もちろんです」

 マーカスは穏やかに答えた。

「しかし、学術調査であるなら、現象を前にして撤退するのではなく、記録すべきです」

「記録のために人を危険にさらすつもりですか」

「危険を恐れていては、歴史は開かれません」

「歴史は、開ければいいというものではありません」

 その言葉に、蓮は反応した。

 発見することと、開けてしまうことは違う。

 昨日の屋上で、自分が思ったことに近かった。

 ナディアは考古学者だ。未知のものを知りたいはずだ。それでも彼女は、あの地下に対して慎重であろうとしている。

 一方でマーカスは、知りたいのではない。

 開けたいのだ。

 蓮にはそう見えた。

「続きを見せてください」

 蓮は黒瀬に言った。

 黒瀬は頷き、壁画データをさらに拡大した。

 五人の人物のうち、中央にいる人物――蓮らしき人影の輪郭が画面いっぱいに表示された。

 蓮は息を詰めた。

 ヘルメットの形。肩のライン。胸元のライト。体格。すべてが曖昧なのに、なぜか自分だとわかる。

 そして、その人物だけが、右手を前に差し出していた。

 掌には黒い円が刻まれている。

 黒い太陽。

 蓮は無意識に自分の右手を見た。

「偶然とは言えないですね」

 黒瀬が低く言った。

 ナディアは画面と蓮の掌を見比べた。

「この印が、壁画にも描かれている……」

「蓮さん、地下に入る前からその印があったんですよね」

 黒瀬が聞いた。

「はい。今朝、起きたらありました」

「じゃあ、壁画はその時点より前に……いや、そもそも壁画がいつ描かれたのかが問題か」

 黒瀬は頭を掻いた。

「ダメだ。考えれば考えるほど気持ち悪い」

 蓮は画面を見つめた。

 壁画の中の自分は、右手を前に出している。まるで、何かに触れようとしているようだった。

 いや。

 触れようとしているのではない。

 何かを差し出している。

 その先には、黒い太陽の印がある。いや、印ではない。壁画の中では、それは扉のようにも見えた。円形の扉。光ではなく闇へ開く入口。

「この場面は、まだ起きていません」

 蓮は言った。

 ナディアが彼を見る。

「どういう意味ですか」

「第一玄室で、僕は右手を壁に出していません。むしろ、触ろうとして止められた。壁画のこの場面は、今日起きたことをそのまま描いたわけではない」

「では、何を描いていると?」

 蓮は唇を湿らせた。

「これから起きることかもしれません」

 テントの中が静まり返った。

 言ってから、蓮自身もその言葉の重さに気づいた。

 未来を描いた壁画。

 そんなものは考古学ではない。オカルトですら、かなり危うい領域だ。

 だが、サッカラの記録にも似た話があった。壁画に現代の調査隊が描かれていた。今回も同じなら、それは偶然ではない。

「壁画が未来を描くなんて、ありえません」

 ナディアが言った。

 彼女は否定しているというより、自分に言い聞かせているようだった。

「ありえない。でも、現にここにある」

 黒瀬が呟いた。

 マーカスが静かに口を開いた。

「未来というより、記憶かもしれません」

「記憶?」

 蓮が聞き返す。

「時間は、私たちが思っているほど一方向ではない。少なくとも、古代人の宗教観ではそうです。死者は過去に属する存在ではなく、儀式の中で現在に戻ってくる。神話は過去の出来事ではなく、毎日繰り返される現実でもある。ならば、この地下空間において、過去と未来が同じ壁に刻まれていても不思議ではない」

「それは学術的な説明ですか」

 ナディアが冷たく言った。

「解釈です」

「あなたの解釈は、都合がよすぎます」

「未知を前にしたとき、都合の悪い解釈だけを選ぶ必要はありません」

 マーカスは画面の蓮の人影を見つめた。

「重要なのは、この壁画が蓮さんを中心に描いていることです」

「やめてください」

 蓮は思わず言った。

 全員の視線が彼に向いた。

 蓮は右手を握りしめた。

「僕を中心に考えるのはやめてください。僕は調査に呼ばれた研究者の一人です。それ以上でも、それ以下でもありません」

「本当にそう思いますか」

 マーカスの声は穏やかだった。

 その穏やかさが、蓮にはたまらなく不快だった。

「地下はあなたの名前を呼んだ。あなたの掌には印が現れた。壁画にはあなたらしき人物が描かれている。これでも偶然だと?」

「偶然とは思いません。でも、だからといって、あなたに利用されるつもりもありません」

 マーカスの目がわずかに細くなった。

 初めて、彼の表情から微笑みが消えた。

 ナディアが二人の間に入るように立った。

「今日はこれ以上の調査はしません。取得データを整理し、第一玄室への再突入は明日以降、正式な安全確認をしてから判断します」

「判断するのは私です」

 マーカスが言った。

「現場の学術責任者は私です」

 ナディアは言い返した。

「そして安全管理上、私には中止を進言する権限があります」

「進言は受け取ります」

「マーカス」

「しかし、最終判断はプロジェクト統括である私が行います」

 テントの空気が張り詰めた。

 黒瀬が小さく舌打ちした。

「権限ごっこしてる場合ですか。地下で通路が変わったんですよ。機材も一部おかしい。音声データには蓮さんの名前が入ってる。普通なら一週間は調査止めます」

「普通ではないからこそ、止められないのです」

 マーカスは静かに言った。

「この現象は、長くは続かないかもしれない」

「それも知っていたんですか?」

 ナディアが問い詰める。

「推測です」

「便利な言葉ですね」

 ナディアは吐き捨てるように言った。

 蓮はその場に立ち尽くしながら、画面の壁画を見続けていた。

 五人の調査隊。

 その中央にいる自分。

 右手の黒い太陽。

 そして、その先にある闇の円。

 壁画の端には、もう一つ何かが描かれていた。画面の端に切れていて、まだ拡大されていない。

「黒瀬さん」

 蓮は言った。

「右端を拡大してください」

「右端?」

「壁画の端です。何かあります」

 黒瀬はすぐに操作した。

 画面が横へ移動する。

 五人の人物の先、黒い太陽のさらに右側。そこには、かすれた線で別の場面が刻まれていた。

 最初は崩れた石の傷に見えた。

 だがフィルターを強くすると、形が浮かんだ。

 横たわる人間。

 いや、人間だけではない。

 石の床に倒れる調査隊員たち。

 その上に覆いかぶさるような巨大な影。

 影の中心には、開いた目。

 蓮の呼吸が止まった。

 昨夜の夢で見た目だった。

 闇の底で開いた、巨大な目。

 ナディアもその図を見て、言葉を失った。

「これは……」

 黒瀬が声を震わせた。

「まるで、全員死ぬみたいじゃないですか」

 誰も答えなかった。

 蓮は画面から目を離せなかった。

 壁画は単なる記録ではない。

 警告だ。

 そう感じた。

 第一玄室の壁は、自分たちがこれから進む先を見せている。そこに待つものを、描いている。だがそれは、確定した未来なのか、それとも避けるべき結末なのか。

 その違いは、まだわからなかった。


     *


 昼過ぎ、現場では一時的に調査中止が決定された。

 少なくとも公式には、第一玄室内で機材異常が発生したため、データ解析と安全確認を優先する、という理由だった。マーカスは不満を隠さなかったが、ナディアが強く押し切った。

 蓮はホテルへ戻る車の中で、ほとんど口をきかなかった。

 窓の外では、砂漠が遠ざかっていく。ピラミッドは背後に残り、少しずつ小さくなる。だが蓮には、離れている感覚がなかった。むしろ地下の気配が、自分の掌にくっついてついてくるように思えた。

 車内には、ナディア、黒瀬、蓮の三人だけだった。マーカスは別車両で現地スタッフと残務処理をしているらしい。

 黒瀬が運転席で、小さくため息をついた。

「すみません。俺、さっきの壁画の映像、見なかったことにしたいです」

「できるなら、僕もそうしたいです」

 蓮が答えると、黒瀬は苦笑した。

「でも無理ですよね」

「はい」

 ナディアは助手席で資料を見つめていた。紙の資料ではなく、タブレットに保存された壁画データだ。彼女は何度も同じ画像を拡大し、縮小し、角度を変えていた。

「ナディアさん」

 蓮が声をかける。

「何か気づきましたか」

「壁画の配置です」

「配置?」

「五人の調査隊が描かれている場面の上に、星のような記号があります。下には階段。右には黒い太陽。構図としては、儀式図に近い」

「儀式?」

「誰かが黒い太陽へ向かう。ほかの者たちはその周囲にいる。中央の人物だけが印を持っている。つまり、全員が同じ役割ではない」

 蓮は右手を見た。

「中央の人物が、鍵」

「マーカスの言葉を借りれば、そうです」

「ナディアさんも、そう思いますか」

「私は、そういう言葉を使いたくありません」

 彼女は静かに言った。

「鍵という言葉を使うと、あなたが人間ではなく道具のように扱われる。私はそれが嫌です」

 蓮は少し驚いた。

 ナディアの声には、確かな怒りがあった。

 それはマーカスに対する怒りであり、この状況そのものへの怒りでもあるようだった。

「ありがとうございます」

 蓮が言うと、ナディアは首を振った。

「礼を言うことではありません。調査チームの一員を守るのは当然です」

「でも、助かります」

 ナディアは少しだけ表情を和らげた。

 黒瀬がバックミラー越しに二人を見た。

「俺も蓮さんを鍵扱いするのは反対です。ただ、印つきの主人公感はすごいですけど」

「黒瀬さん」

 ナディアが咎めるように言う。

「いや、冗談です。すみません。でも、こういうとき少し冗談言わないと、頭がおかしくなりそうで」

 その気持ちは蓮にもわかった。

 恐怖が濃すぎると、人は笑いで薄めようとする。だが、いくら笑っても薄まらない恐怖もある。

 今回の地下は、その類だった。

 ホテルに着く頃、空は赤くなり始めていた。

 夕陽が建物の壁を染め、砂埃が光の中を舞っている。蓮は車を降りた瞬間、地上の明るさに安堵したが、その安堵はすぐに消えた。

 ロビーで、現地スタッフの一人がナディアに駆け寄ってきた。

 彼は何かを早口のアラビア語で伝えた。

 ナディアの顔色が変わった。

「どうしました?」

 蓮が聞く。

 ナディアは一瞬迷ったが、すぐに答えた。

「サミールがいません」

「え?」

「医療確認のあと、休憩室にいるはずでした。でも姿がないそうです」

 黒瀬が眉をひそめた。

「現場に残ったんじゃないですか?」

「いいえ。彼はホテルに戻ってきていました。記録にもあります」

「どこかへ出かけた可能性は?」

「荷物は部屋にあります。携帯電話も置いたままです」

 蓮の胸がざわついた。

「最後に見た人は?」

 ナディアはスタッフに確認し、短く答えた。

「三十分ほど前、地下資料室の前で見たそうです」

「地下資料室?」

「ホテルの地下にある倉庫です。古い資料や機材を置いている場所」

 黒瀬が顔をしかめた。

「地下……」

 その言葉だけで、三人の間に緊張が走った。

 ナディアはすぐにホテルスタッフへ指示を出した。マーカスにも連絡を入れようとしたが、蓮はその前に言った。

「僕も行きます」

「蓮さんは休んでください」

「サミールは、第一玄室で母親の声を聞いたと言っていました。それに、地下資料室なら、サッカラの資料があった場所とも近いですよね」

 ナディアは迷った。

 黒瀬が肩をすくめる。

「俺も行きます。機材は持ってませんけど、ライトくらいはあります」

 ナディアは短く息を吐いた。

「わかりました。ただし、勝手な行動はしないでください」

 蓮は頷いた。


     *


 ホテルの地下へ続く階段は、ロビー奥の従業員用通路にあった。

 地上の明るさから離れ、白い蛍光灯の階段を下る。数時間前にピラミッド地下へ降りたばかりなのに、蓮はまた地下へ向かっている。

 階段の途中で、右手の印がわずかに熱を持った。

 蓮は立ち止まりかけた。

「どうしました?」

 ナディアが聞いた。

「いえ」

 蓮は首を振った。

 地下資料室は、コンクリートの壁に囲まれた細長い廊下の先にあった。古い機材、段ボール箱、書類棚、壊れた椅子、予備の照明。空気は埃っぽく、冷房が効いていないため少し蒸し暑い。

 廊下の奥で、蛍光灯が一本だけ点滅していた。

 チカ。

 チカ。

 チカ。

 その下に、何かが落ちていた。

 ナディアが近づき、拾い上げる。

 それはサミールの身分証だった。

「サミール!」

 ナディアが呼んだ。

 返事はない。

 黒瀬がライトを点け、廊下の奥を照らした。

「足跡があります」

 床には薄い砂が落ちていた。その砂の上に、靴跡が続いている。廊下の突き当たり、普段は使われていない小さな保管室の扉へ向かっていた。

 扉は少し開いていた。

 中は暗い。

 ナディアが慎重に扉を押した。

 軋む音がした。

 保管室の中には、古いファイル棚が並んでいた。壁際には、使われなくなった木箱や金属ケースが積まれている。床には砂が散っていた。

 そして、奥の壁の前にサミールが立っていた。

 彼は背中を向けていた。

「サミール」

 ナディアが声をかける。

 サミールは反応しない。

 両手を壁につけ、何かを聞いているように、額をコンクリートに押し当てている。

「サミール、聞こえますか」

 ナディアがゆっくり近づく。

 その瞬間、サミールが小さく呟いた。

「母が、向こうにいる」

 蓮の背筋が冷たくなった。

「ここはホテルの地下です。ピラミッドではありません」

 ナディアが静かに言う。

 サミールはゆっくり首を振った。

「違います。地下は、つながっている」

 黒瀬が蓮を見た。

 蓮の右手は熱を持っていた。

 サミールは壁から額を離した。

 その壁には、ありえないものがあった。

 コンクリートの壁の表面に、黒い線が浮かび上がっている。

 円。

 その周囲に伸びる細い線。

 黒い太陽の印。

 蓮は息を止めた。

 ここはホテルの地下だ。古代遺跡ではない。石壁でもない。現代のコンクリートの壁だ。

 それなのに、その印はまるでずっと前からそこに刻まれていたかのように、壁の中から滲み出ていた。

 サミールが振り返った。

 その目は虚ろだった。

「蓮」

 彼は言った。

 蓮は凍りついた。

 サミールの声ではなかった。

 もっと幼い。

 もっと古い。

 あの少年の声だった。

「扉は、もう君を見つけた」

 ナディアがサミールの肩を掴んだ。

「サミール!」

 その瞬間、サミールの身体から力が抜けた。ナディアが支えきれず、黒瀬が慌てて駆け寄る。二人で彼を床に寝かせた。

 サミールは意識を失っていた。

 蓮は壁の印を見つめた。

 黒い太陽は、ゆっくりと薄れていく。まるで役目を終えたかのように、コンクリートの中へ沈んでいく。

 やがて、何も残らなかった。

 ただの白っぽい壁。

 埃の匂い。

 点滅する蛍光灯。

 ナディアがサミールの脈を確認する。

「生きています。すぐ医療スタッフを」

 黒瀬が廊下へ走った。

 蓮は動けなかった。

 耳の奥に、サミールの声が残っている。

 いや、少年の声が。

 扉は、もう君を見つけた。

 蓮は右手を見た。

 黒い太陽の印は、さっきよりも深く、暗くなっていた。


     *


 その夜、蓮は眠れなかった。

 サミールは命に別状はなかったが、目を覚ましてからもほとんど何も話さなかった。覚えているのは、母親の声を聞いたことだけ。気づいたらホテルの地下にいたという。

 地下資料室の壁には、もう何の痕跡もなかった。写真を撮る前に印は消えてしまった。黒瀬が撮影した映像にも、サミールが倒れる場面は残っていたが、壁の黒い太陽はひどいノイズに隠れて判別できなかった。

 証拠はまた、曖昧な形で失われた。

 それがかえって恐ろしかった。

 現象は確かに起きている。

 だが、記録しようとすると逃げる。

 まるで地下そのものが、見られ方を選んでいるようだった。

 蓮は部屋の机に向かい、ノートを開いた。

 今日起きたことを書き出す。

 第一玄室。

 未知の文字。

 黒い太陽。

 音声センサー。

 自分の名前。

 通路の変化。

 少年の出現。

 壁画に描かれた五人。

 自分の掌の印。

 サミールの失踪。

 ホテル地下の黒い太陽。

 並べれば並べるほど、現実から離れていく。

 だが、これらはすべて今日一日の出来事だった。

 蓮はペンを置き、窓の外を見た。

 夜のギザは静かだった。遠くに街の明かりが見える。ピラミッドは暗闇の中で輪郭だけを残し、地平線の上に沈黙していた。

 その沈黙が、今は恐ろしかった。

 蓮は窓ガラスに映る自分の顔を見た。疲れ切った顔。青ざめた頬。目の下の影。

 その背後に、何かが映った。

 蓮は振り返った。

 部屋には誰もいない。

 もう一度、窓を見る。

 そこには自分の顔しか映っていなかった。

 蓮は深く息を吐いた。

 限界だ。

 そう思った。

 だが、その瞬間、机の上に置いていたノートのページが、ひとりでにめくれた。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 風はない。

 窓も閉まっている。

 ページは白紙のところで止まった。

 蓮はゆっくり近づいた。

 白紙だったはずのページに、黒い線が滲み始めていた。

 インクではない。

 紙の内側から、何かが浮かび上がってくる。

 最初に現れたのは、黒い太陽の印だった。

 その下に、細い線で五人の人影が描かれていく。

 蓮は動けなかった。

 壁画と同じだった。

 五人の調査隊。

 中央の人物。

 差し出された右手。

 だが、最後に現れた部分は、壁画と少し違っていた。

 五人のうち、一人が黒く塗り潰されていた。

 サミールの位置だった。

 蓮の口の中が乾いた。

 紙の上に、新たな文字が浮かぶ。

 それは日本語ではなかった。英語でも、アラビア語でも、ヒエログリフでもない。

 それなのに、蓮には意味がわかった。

 一人目は、声を聞いた。

 次の行が現れる。

 二人目は、壁を見る。

 蓮はノートから後ずさった。

 次の瞬間、部屋の照明が点滅した。

 チカ。

 チカ。

 チカ。

 そして、どこからともなく、あの少年の声がした。

「蓮」

 蓮はドアへ向かって走ろうとした。

 だが足が動かなかった。

 声は、部屋の中ではなく、彼の頭の内側で響いていた。

「壁は、まだ全部を描いていない」

 蓮は震える声で言った。

「君は誰なんだ」

 返事はすぐにはなかった。

 窓の外で、ピラミッドの影が夜よりも濃く見えた。

 やがて、少年の声が静かに答えた。

「セティ」

 蓮はその名前を聞いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みを感じた。

 知らない名前のはずだった。

 だが、どこかで知っていた。

 ずっと昔から。

 セティ。

 白い布をまとった少年。

 地下の円筒に立っていた子ども。

 まだ来てはいけないと警告した声。

「君は、地下にいるのか」

 蓮が尋ねる。

「地下ではない」

 セティの声は遠かった。

「地下になったものの中にいる」

「どういう意味だ」

「人は、場所を掘ると思っている。でも本当は、場所に掘られている」

 蓮は意味を理解できなかった。

 だが、理解できないのに怖かった。

 言葉が頭ではなく、もっと深い場所に触れてくる。

「扉を開けるな」

 セティは言った。

「開ければ、神は目を覚ます」

「神って何なんだ」

 蓮は叫ぶように聞いた。

「神ではない」

 セティの声が、初めて震えた。

「あれは、神になってしまったものだ」

 その瞬間、ノートのページが黒く染まり始めた。

 五人の人影も、黒い太陽も、文字も、すべて闇に飲み込まれていく。

 蓮は慌ててノートを閉じた。

 部屋の照明が戻った。

 静寂。

 空調の音。

 遠くの車の音。

 自分の荒い呼吸。

 蓮は恐る恐るノートを開いた。

 ページは白紙に戻っていた。

 黒い線も、文字も、何もない。

 ただ、中央に一粒だけ、黒い砂のようなものが残っていた。

 蓮はそれに触れようとして、やめた。

 触れてはいけない。

 本能がそう告げていた。

 蓮はノートを閉じ、椅子に座り込んだ。

 全身から力が抜けていく。

 だが、眠ることはできなかった。

 窓の外では、ピラミッドが沈黙している。

 それはもう、古代の遺跡には見えなかった。

 巨大な墓でも、王の記念碑でもない。

 地下で眠る何かの上に置かれた、途方もなく重い蓋。

 そしてその蓋の下で、何かがゆっくりと身じろぎしている。

 蓮は右手を握りしめた。

 黒い太陽の印は、熱を失っていた。

 その代わり、冷たかった。

 氷のように。

 まるで地下の闇が、掌の中に宿ったように。

 蓮は目を閉じた。

 すると、また声が聞こえた。

 今度はセティではない。

 もっと低く、もっと遠く、もっと大きな声。

 言葉ではない。

 それでも、意味だけが心に落ちてくる。


 ――見つけた。


 蓮は目を開いた。

 夜はまだ深かった。

 だが彼にはわかった。

 第一玄室で見た壁画は、警告だった。

 そして、警告はまだ終わっていない。

 次に壁を見るのは、誰なのか。

 ノートに浮かんだ言葉が、頭から離れなかった。

 二人目は、壁を見る。

 蓮は窓の外のピラミッドを見つめた。

 暗闇の中、その巨大な影が、ほんのわずかに呼吸しているように見えた。

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