4:壁画に描かれた調査隊
4:壁画に描かれた調査隊
調査坑から戻ってきたあと、蓮たちは一度、現場横の白いテントに集められた。
外では砂漠の光が容赦なく照りつけている。だが、テントの内側は発電機で動く簡易冷房の音が低く響き、薄い布越しに揺れる光が、どこか水底のような不安定さを作っていた。
長机の上には、黒瀬が回収した記録装置が並べられている。ノートパソコン、音声センサー、三次元スキャン用の端末、予備メモリ、外部バッテリー。どれも細かな砂をかぶっていた。黒瀬はそれらを一つずつ確認しながら、ほとんど口をきかなかった。
ナディアは現地スタッフと短いアラビア語でやり取りをしていた。声は落ち着いている。だが、その手はわずかに震えていた。彼女は指示を終えると、テントの奥に置かれた折りたたみ椅子に座り、深く息を吐いた。
サミールは医療スタッフの確認を受けたあと、地上班へ戻された。本人は「大丈夫です」と繰り返していたが、顔色は悪く、視線は何度も調査坑の入口へ向かっていた。
蓮はテントの端に立ち、自分の右手を見下ろしていた。
黒い太陽の印。
地下から戻っても、印は消えなかった。むしろ、第一玄室で声を聞いたあとから、中心の黒い円が濃くなっているように見える。皮膚に描かれているというより、皮膚の下に沈み込んでいるようだった。
蓮は掌を閉じた。
閉じても、熱は消えない。
その熱は、外の太陽の熱とは違っていた。もっと内側から来るものだった。血管の奥に、古い火種を埋め込まれたような感覚。
「蓮さん」
ナディアの声がした。
蓮は顔を上げた。
「少し話せますか」
「はい」
ナディアはテントの外へ出るように顎で示した。蓮は彼女について外へ出た。
テントの裏側には、資材が積まれているだけで、人の姿はほとんどなかった。遠くでスタッフの声が聞こえる。風が砂を撫で、薄い砂埃が足元を流れていく。
ナディアはしばらく黙っていた。
蓮も、何を言えばいいのかわからなかった。
あの地下で起きたことを、どう整理すればいいのか。第一玄室で拾われた声。自分の名前。消えた通路。現れた少年。地上に戻ったあとでさえ、それらは夢のように曖昧で、しかし夢よりもはるかに生々しかった。
「確認させてください」
ナディアがようやく口を開いた。
「あなたは、地下であの少年を見たんですね」
「はい」
「それ以前にも?」
「夢で見ました」
蓮は正直に答えた。
ナディアは目を伏せた。
「昨夜ですか」
「はい。円筒状の空間にいて、白い布を着た少年がいました。彼は、まだ来てはいけないと言いました」
ナディアの唇がわずかに動いた。
「私も、見ました」
「夢で?」
「いいえ。地下で。狭い通路の先に」
「僕だけではなかったんですね」
「少なくとも、黒瀬さんも見たと言っています。サミールも、たぶん見ています」
ナディアはピラミッドの方角を見た。
「集団幻覚、という説明はできます。閉鎖空間、緊張、低周波音、暗示。私たちはサッカラの記録を読んでから地下に入った。少年に関する話も、黒瀬さんからあなたへ伝わっていた。無意識に同じイメージを共有した可能性はあります」
「ナディアさんは、そう思いますか」
蓮が聞くと、彼女はすぐには答えなかった。
風が吹いた。
砂が二人の足元を這うように流れていく。
「そう思いたいです」
彼女は言った。
その声は、研究者というより、一人の人間の声だった。
「でも、そう思えない部分がある」
「掌の印ですか」
蓮は右手を開いた。
ナディアはその印を見た。表情は変えなかったが、目の奥がわずかに揺れた。
「それもあります。でも、それだけではありません」
「他に?」
「第一玄室の壁画です」
蓮は眉をひそめた。
「壁画?」
「黒瀬さんのスキャンデータに、現場では見落としていた部分がありました。奥の壁ではなく、左側の壁です。肉眼では凹凸が浅すぎて、ほとんど見えませんでした。でも三次元スキャンで浮かび上がった」
「何が描かれていたんです?」
ナディアは短く息を吸った。
「私たちです」
*
テントに戻ると、黒瀬がノートパソコンの前に座っていた。
画面には、第一玄室の三次元スキャンデータが表示されている。灰色の壁面に、凹凸の深さが色分けされていた。黒瀬はマウスを操作し、角度を変え、左側の壁面を拡大した。
「これです」
彼は言った。
画面に、壁の一部が大きく映し出された。
最初はただのざらついた石面に見えた。細かな傷、風化した凹凸、石材の節理。だが黒瀬が解析フィルターをかけると、浅い線が少しずつ浮かび上がった。
人影。
蓮は思わず身を乗り出した。
壁面には、横一列に五人の人物が描かれていた。
古代エジプトの壁画に見られる横向きの様式ではない。正面と横向きが曖昧に混ざった、不自然な描き方だった。人物の輪郭は古い。線は浅く、風化している。だが、その人物たちが持っているものは、明らかに古代のものではなかった。
丸いヘルメット。
胸元に吊られた機材。
手に持ったライト。
背中の小型パック。
蓮は喉が渇くのを感じた。
「……五人」
ナディアが呟いた。
「今日、地下に入った人数と同じです」
黒瀬は画面を拡大した。
「左から順に見ると、たぶんサミール、ナディアさん、蓮さん、俺、マーカスです」
「そんな馬鹿な」
蓮は反射的に言った。
だが、自分の声が弱いことに気づいた。
そんな馬鹿な。
この調査が始まってから、何度も心の中で繰り返してきた言葉だ。だが、その言葉は少しずつ力を失っている。
常識のほうが、現実についていけなくなっている。
「これが本当に今日の私たちを描いたものだとすれば、誰かが事前に描いたことになります」
ナディアが言った。
「でも、第一玄室は今日まで開けられていなかった」
「その前提が間違っている可能性は?」
蓮が聞く。
「誰かが先に入っていたとか」
「完全には否定できません。ただ、入口付近の封鎖状態、堆積物、石材の状態を見る限り、近年人が入った形跡はありません」
黒瀬が頷いた。
「俺も映像を見直しました。壁画の線は新しくないです。スキャン上の凹凸も、周囲の風化と同じくらい馴染んでます。少なくとも、昨日今日の落書きじゃない」
マーカスは、少し離れた場所で画面を見ていた。
彼は腕を組み、静かに微笑んでいた。
「驚くべき発見ですね」
ナディアは鋭く彼を見た。
「あなたは驚いていないように見えます」
「驚いていますよ。ただ、予想の範囲内でもある」
「予想?」
ナディアの声が冷たくなった。
「マーカス。あなたは何を知っているの?」
「知っているというほどではありません。古い記録を読んできただけです」
「サッカラの記録だけでは、こんなことは予想できない」
「サッカラだけではありません」
テントの中に沈黙が落ちた。
黒瀬がマーカスを見た。
「他にも記録があるんですか」
マーカスはすぐには答えなかった。彼はテントの入口から見えるピラミッドの一部を眺めていた。
「世界各地の古い遺跡には、似たような話が残っています。地下に続く通路。開けてはならない部屋。自分たちが来る前から描かれていた訪問者の姿。考古学の主流からは外れた、信頼性の低い記録です」
「だから隠していた?」
ナディアが言った。
「混乱を避けるためです」
「あなたの言う混乱は、都合の悪い情報を伏せることと同じに聞こえます」
「情報は、適切な時期に出すべきです。最初からすべてを話していれば、今日の調査は実施できなかったでしょう」
「それが問題なんです」
ナディアの声が強くなった。
「私たちは学術調査をしている。あなたの個人的な目的のために地下へ入っているわけではない」
「もちろんです」
マーカスは穏やかに答えた。
「しかし、学術調査であるなら、現象を前にして撤退するのではなく、記録すべきです」
「記録のために人を危険にさらすつもりですか」
「危険を恐れていては、歴史は開かれません」
「歴史は、開ければいいというものではありません」
その言葉に、蓮は反応した。
発見することと、開けてしまうことは違う。
昨日の屋上で、自分が思ったことに近かった。
ナディアは考古学者だ。未知のものを知りたいはずだ。それでも彼女は、あの地下に対して慎重であろうとしている。
一方でマーカスは、知りたいのではない。
開けたいのだ。
蓮にはそう見えた。
「続きを見せてください」
蓮は黒瀬に言った。
黒瀬は頷き、壁画データをさらに拡大した。
五人の人物のうち、中央にいる人物――蓮らしき人影の輪郭が画面いっぱいに表示された。
蓮は息を詰めた。
ヘルメットの形。肩のライン。胸元のライト。体格。すべてが曖昧なのに、なぜか自分だとわかる。
そして、その人物だけが、右手を前に差し出していた。
掌には黒い円が刻まれている。
黒い太陽。
蓮は無意識に自分の右手を見た。
「偶然とは言えないですね」
黒瀬が低く言った。
ナディアは画面と蓮の掌を見比べた。
「この印が、壁画にも描かれている……」
「蓮さん、地下に入る前からその印があったんですよね」
黒瀬が聞いた。
「はい。今朝、起きたらありました」
「じゃあ、壁画はその時点より前に……いや、そもそも壁画がいつ描かれたのかが問題か」
黒瀬は頭を掻いた。
「ダメだ。考えれば考えるほど気持ち悪い」
蓮は画面を見つめた。
壁画の中の自分は、右手を前に出している。まるで、何かに触れようとしているようだった。
いや。
触れようとしているのではない。
何かを差し出している。
その先には、黒い太陽の印がある。いや、印ではない。壁画の中では、それは扉のようにも見えた。円形の扉。光ではなく闇へ開く入口。
「この場面は、まだ起きていません」
蓮は言った。
ナディアが彼を見る。
「どういう意味ですか」
「第一玄室で、僕は右手を壁に出していません。むしろ、触ろうとして止められた。壁画のこの場面は、今日起きたことをそのまま描いたわけではない」
「では、何を描いていると?」
蓮は唇を湿らせた。
「これから起きることかもしれません」
テントの中が静まり返った。
言ってから、蓮自身もその言葉の重さに気づいた。
未来を描いた壁画。
そんなものは考古学ではない。オカルトですら、かなり危うい領域だ。
だが、サッカラの記録にも似た話があった。壁画に現代の調査隊が描かれていた。今回も同じなら、それは偶然ではない。
「壁画が未来を描くなんて、ありえません」
ナディアが言った。
彼女は否定しているというより、自分に言い聞かせているようだった。
「ありえない。でも、現にここにある」
黒瀬が呟いた。
マーカスが静かに口を開いた。
「未来というより、記憶かもしれません」
「記憶?」
蓮が聞き返す。
「時間は、私たちが思っているほど一方向ではない。少なくとも、古代人の宗教観ではそうです。死者は過去に属する存在ではなく、儀式の中で現在に戻ってくる。神話は過去の出来事ではなく、毎日繰り返される現実でもある。ならば、この地下空間において、過去と未来が同じ壁に刻まれていても不思議ではない」
「それは学術的な説明ですか」
ナディアが冷たく言った。
「解釈です」
「あなたの解釈は、都合がよすぎます」
「未知を前にしたとき、都合の悪い解釈だけを選ぶ必要はありません」
マーカスは画面の蓮の人影を見つめた。
「重要なのは、この壁画が蓮さんを中心に描いていることです」
「やめてください」
蓮は思わず言った。
全員の視線が彼に向いた。
蓮は右手を握りしめた。
「僕を中心に考えるのはやめてください。僕は調査に呼ばれた研究者の一人です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「本当にそう思いますか」
マーカスの声は穏やかだった。
その穏やかさが、蓮にはたまらなく不快だった。
「地下はあなたの名前を呼んだ。あなたの掌には印が現れた。壁画にはあなたらしき人物が描かれている。これでも偶然だと?」
「偶然とは思いません。でも、だからといって、あなたに利用されるつもりもありません」
マーカスの目がわずかに細くなった。
初めて、彼の表情から微笑みが消えた。
ナディアが二人の間に入るように立った。
「今日はこれ以上の調査はしません。取得データを整理し、第一玄室への再突入は明日以降、正式な安全確認をしてから判断します」
「判断するのは私です」
マーカスが言った。
「現場の学術責任者は私です」
ナディアは言い返した。
「そして安全管理上、私には中止を進言する権限があります」
「進言は受け取ります」
「マーカス」
「しかし、最終判断はプロジェクト統括である私が行います」
テントの空気が張り詰めた。
黒瀬が小さく舌打ちした。
「権限ごっこしてる場合ですか。地下で通路が変わったんですよ。機材も一部おかしい。音声データには蓮さんの名前が入ってる。普通なら一週間は調査止めます」
「普通ではないからこそ、止められないのです」
マーカスは静かに言った。
「この現象は、長くは続かないかもしれない」
「それも知っていたんですか?」
ナディアが問い詰める。
「推測です」
「便利な言葉ですね」
ナディアは吐き捨てるように言った。
蓮はその場に立ち尽くしながら、画面の壁画を見続けていた。
五人の調査隊。
その中央にいる自分。
右手の黒い太陽。
そして、その先にある闇の円。
壁画の端には、もう一つ何かが描かれていた。画面の端に切れていて、まだ拡大されていない。
「黒瀬さん」
蓮は言った。
「右端を拡大してください」
「右端?」
「壁画の端です。何かあります」
黒瀬はすぐに操作した。
画面が横へ移動する。
五人の人物の先、黒い太陽のさらに右側。そこには、かすれた線で別の場面が刻まれていた。
最初は崩れた石の傷に見えた。
だがフィルターを強くすると、形が浮かんだ。
横たわる人間。
いや、人間だけではない。
石の床に倒れる調査隊員たち。
その上に覆いかぶさるような巨大な影。
影の中心には、開いた目。
蓮の呼吸が止まった。
昨夜の夢で見た目だった。
闇の底で開いた、巨大な目。
ナディアもその図を見て、言葉を失った。
「これは……」
黒瀬が声を震わせた。
「まるで、全員死ぬみたいじゃないですか」
誰も答えなかった。
蓮は画面から目を離せなかった。
壁画は単なる記録ではない。
警告だ。
そう感じた。
第一玄室の壁は、自分たちがこれから進む先を見せている。そこに待つものを、描いている。だがそれは、確定した未来なのか、それとも避けるべき結末なのか。
その違いは、まだわからなかった。
*
昼過ぎ、現場では一時的に調査中止が決定された。
少なくとも公式には、第一玄室内で機材異常が発生したため、データ解析と安全確認を優先する、という理由だった。マーカスは不満を隠さなかったが、ナディアが強く押し切った。
蓮はホテルへ戻る車の中で、ほとんど口をきかなかった。
窓の外では、砂漠が遠ざかっていく。ピラミッドは背後に残り、少しずつ小さくなる。だが蓮には、離れている感覚がなかった。むしろ地下の気配が、自分の掌にくっついてついてくるように思えた。
車内には、ナディア、黒瀬、蓮の三人だけだった。マーカスは別車両で現地スタッフと残務処理をしているらしい。
黒瀬が運転席で、小さくため息をついた。
「すみません。俺、さっきの壁画の映像、見なかったことにしたいです」
「できるなら、僕もそうしたいです」
蓮が答えると、黒瀬は苦笑した。
「でも無理ですよね」
「はい」
ナディアは助手席で資料を見つめていた。紙の資料ではなく、タブレットに保存された壁画データだ。彼女は何度も同じ画像を拡大し、縮小し、角度を変えていた。
「ナディアさん」
蓮が声をかける。
「何か気づきましたか」
「壁画の配置です」
「配置?」
「五人の調査隊が描かれている場面の上に、星のような記号があります。下には階段。右には黒い太陽。構図としては、儀式図に近い」
「儀式?」
「誰かが黒い太陽へ向かう。ほかの者たちはその周囲にいる。中央の人物だけが印を持っている。つまり、全員が同じ役割ではない」
蓮は右手を見た。
「中央の人物が、鍵」
「マーカスの言葉を借りれば、そうです」
「ナディアさんも、そう思いますか」
「私は、そういう言葉を使いたくありません」
彼女は静かに言った。
「鍵という言葉を使うと、あなたが人間ではなく道具のように扱われる。私はそれが嫌です」
蓮は少し驚いた。
ナディアの声には、確かな怒りがあった。
それはマーカスに対する怒りであり、この状況そのものへの怒りでもあるようだった。
「ありがとうございます」
蓮が言うと、ナディアは首を振った。
「礼を言うことではありません。調査チームの一員を守るのは当然です」
「でも、助かります」
ナディアは少しだけ表情を和らげた。
黒瀬がバックミラー越しに二人を見た。
「俺も蓮さんを鍵扱いするのは反対です。ただ、印つきの主人公感はすごいですけど」
「黒瀬さん」
ナディアが咎めるように言う。
「いや、冗談です。すみません。でも、こういうとき少し冗談言わないと、頭がおかしくなりそうで」
その気持ちは蓮にもわかった。
恐怖が濃すぎると、人は笑いで薄めようとする。だが、いくら笑っても薄まらない恐怖もある。
今回の地下は、その類だった。
ホテルに着く頃、空は赤くなり始めていた。
夕陽が建物の壁を染め、砂埃が光の中を舞っている。蓮は車を降りた瞬間、地上の明るさに安堵したが、その安堵はすぐに消えた。
ロビーで、現地スタッフの一人がナディアに駆け寄ってきた。
彼は何かを早口のアラビア語で伝えた。
ナディアの顔色が変わった。
「どうしました?」
蓮が聞く。
ナディアは一瞬迷ったが、すぐに答えた。
「サミールがいません」
「え?」
「医療確認のあと、休憩室にいるはずでした。でも姿がないそうです」
黒瀬が眉をひそめた。
「現場に残ったんじゃないですか?」
「いいえ。彼はホテルに戻ってきていました。記録にもあります」
「どこかへ出かけた可能性は?」
「荷物は部屋にあります。携帯電話も置いたままです」
蓮の胸がざわついた。
「最後に見た人は?」
ナディアはスタッフに確認し、短く答えた。
「三十分ほど前、地下資料室の前で見たそうです」
「地下資料室?」
「ホテルの地下にある倉庫です。古い資料や機材を置いている場所」
黒瀬が顔をしかめた。
「地下……」
その言葉だけで、三人の間に緊張が走った。
ナディアはすぐにホテルスタッフへ指示を出した。マーカスにも連絡を入れようとしたが、蓮はその前に言った。
「僕も行きます」
「蓮さんは休んでください」
「サミールは、第一玄室で母親の声を聞いたと言っていました。それに、地下資料室なら、サッカラの資料があった場所とも近いですよね」
ナディアは迷った。
黒瀬が肩をすくめる。
「俺も行きます。機材は持ってませんけど、ライトくらいはあります」
ナディアは短く息を吐いた。
「わかりました。ただし、勝手な行動はしないでください」
蓮は頷いた。
*
ホテルの地下へ続く階段は、ロビー奥の従業員用通路にあった。
地上の明るさから離れ、白い蛍光灯の階段を下る。数時間前にピラミッド地下へ降りたばかりなのに、蓮はまた地下へ向かっている。
階段の途中で、右手の印がわずかに熱を持った。
蓮は立ち止まりかけた。
「どうしました?」
ナディアが聞いた。
「いえ」
蓮は首を振った。
地下資料室は、コンクリートの壁に囲まれた細長い廊下の先にあった。古い機材、段ボール箱、書類棚、壊れた椅子、予備の照明。空気は埃っぽく、冷房が効いていないため少し蒸し暑い。
廊下の奥で、蛍光灯が一本だけ点滅していた。
チカ。
チカ。
チカ。
その下に、何かが落ちていた。
ナディアが近づき、拾い上げる。
それはサミールの身分証だった。
「サミール!」
ナディアが呼んだ。
返事はない。
黒瀬がライトを点け、廊下の奥を照らした。
「足跡があります」
床には薄い砂が落ちていた。その砂の上に、靴跡が続いている。廊下の突き当たり、普段は使われていない小さな保管室の扉へ向かっていた。
扉は少し開いていた。
中は暗い。
ナディアが慎重に扉を押した。
軋む音がした。
保管室の中には、古いファイル棚が並んでいた。壁際には、使われなくなった木箱や金属ケースが積まれている。床には砂が散っていた。
そして、奥の壁の前にサミールが立っていた。
彼は背中を向けていた。
「サミール」
ナディアが声をかける。
サミールは反応しない。
両手を壁につけ、何かを聞いているように、額をコンクリートに押し当てている。
「サミール、聞こえますか」
ナディアがゆっくり近づく。
その瞬間、サミールが小さく呟いた。
「母が、向こうにいる」
蓮の背筋が冷たくなった。
「ここはホテルの地下です。ピラミッドではありません」
ナディアが静かに言う。
サミールはゆっくり首を振った。
「違います。地下は、つながっている」
黒瀬が蓮を見た。
蓮の右手は熱を持っていた。
サミールは壁から額を離した。
その壁には、ありえないものがあった。
コンクリートの壁の表面に、黒い線が浮かび上がっている。
円。
その周囲に伸びる細い線。
黒い太陽の印。
蓮は息を止めた。
ここはホテルの地下だ。古代遺跡ではない。石壁でもない。現代のコンクリートの壁だ。
それなのに、その印はまるでずっと前からそこに刻まれていたかのように、壁の中から滲み出ていた。
サミールが振り返った。
その目は虚ろだった。
「蓮」
彼は言った。
蓮は凍りついた。
サミールの声ではなかった。
もっと幼い。
もっと古い。
あの少年の声だった。
「扉は、もう君を見つけた」
ナディアがサミールの肩を掴んだ。
「サミール!」
その瞬間、サミールの身体から力が抜けた。ナディアが支えきれず、黒瀬が慌てて駆け寄る。二人で彼を床に寝かせた。
サミールは意識を失っていた。
蓮は壁の印を見つめた。
黒い太陽は、ゆっくりと薄れていく。まるで役目を終えたかのように、コンクリートの中へ沈んでいく。
やがて、何も残らなかった。
ただの白っぽい壁。
埃の匂い。
点滅する蛍光灯。
ナディアがサミールの脈を確認する。
「生きています。すぐ医療スタッフを」
黒瀬が廊下へ走った。
蓮は動けなかった。
耳の奥に、サミールの声が残っている。
いや、少年の声が。
扉は、もう君を見つけた。
蓮は右手を見た。
黒い太陽の印は、さっきよりも深く、暗くなっていた。
*
その夜、蓮は眠れなかった。
サミールは命に別状はなかったが、目を覚ましてからもほとんど何も話さなかった。覚えているのは、母親の声を聞いたことだけ。気づいたらホテルの地下にいたという。
地下資料室の壁には、もう何の痕跡もなかった。写真を撮る前に印は消えてしまった。黒瀬が撮影した映像にも、サミールが倒れる場面は残っていたが、壁の黒い太陽はひどいノイズに隠れて判別できなかった。
証拠はまた、曖昧な形で失われた。
それがかえって恐ろしかった。
現象は確かに起きている。
だが、記録しようとすると逃げる。
まるで地下そのものが、見られ方を選んでいるようだった。
蓮は部屋の机に向かい、ノートを開いた。
今日起きたことを書き出す。
第一玄室。
未知の文字。
黒い太陽。
音声センサー。
自分の名前。
通路の変化。
少年の出現。
壁画に描かれた五人。
自分の掌の印。
サミールの失踪。
ホテル地下の黒い太陽。
並べれば並べるほど、現実から離れていく。
だが、これらはすべて今日一日の出来事だった。
蓮はペンを置き、窓の外を見た。
夜のギザは静かだった。遠くに街の明かりが見える。ピラミッドは暗闇の中で輪郭だけを残し、地平線の上に沈黙していた。
その沈黙が、今は恐ろしかった。
蓮は窓ガラスに映る自分の顔を見た。疲れ切った顔。青ざめた頬。目の下の影。
その背後に、何かが映った。
蓮は振り返った。
部屋には誰もいない。
もう一度、窓を見る。
そこには自分の顔しか映っていなかった。
蓮は深く息を吐いた。
限界だ。
そう思った。
だが、その瞬間、机の上に置いていたノートのページが、ひとりでにめくれた。
一枚。
二枚。
三枚。
風はない。
窓も閉まっている。
ページは白紙のところで止まった。
蓮はゆっくり近づいた。
白紙だったはずのページに、黒い線が滲み始めていた。
インクではない。
紙の内側から、何かが浮かび上がってくる。
最初に現れたのは、黒い太陽の印だった。
その下に、細い線で五人の人影が描かれていく。
蓮は動けなかった。
壁画と同じだった。
五人の調査隊。
中央の人物。
差し出された右手。
だが、最後に現れた部分は、壁画と少し違っていた。
五人のうち、一人が黒く塗り潰されていた。
サミールの位置だった。
蓮の口の中が乾いた。
紙の上に、新たな文字が浮かぶ。
それは日本語ではなかった。英語でも、アラビア語でも、ヒエログリフでもない。
それなのに、蓮には意味がわかった。
一人目は、声を聞いた。
次の行が現れる。
二人目は、壁を見る。
蓮はノートから後ずさった。
次の瞬間、部屋の照明が点滅した。
チカ。
チカ。
チカ。
そして、どこからともなく、あの少年の声がした。
「蓮」
蓮はドアへ向かって走ろうとした。
だが足が動かなかった。
声は、部屋の中ではなく、彼の頭の内側で響いていた。
「壁は、まだ全部を描いていない」
蓮は震える声で言った。
「君は誰なんだ」
返事はすぐにはなかった。
窓の外で、ピラミッドの影が夜よりも濃く見えた。
やがて、少年の声が静かに答えた。
「セティ」
蓮はその名前を聞いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みを感じた。
知らない名前のはずだった。
だが、どこかで知っていた。
ずっと昔から。
セティ。
白い布をまとった少年。
地下の円筒に立っていた子ども。
まだ来てはいけないと警告した声。
「君は、地下にいるのか」
蓮が尋ねる。
「地下ではない」
セティの声は遠かった。
「地下になったものの中にいる」
「どういう意味だ」
「人は、場所を掘ると思っている。でも本当は、場所に掘られている」
蓮は意味を理解できなかった。
だが、理解できないのに怖かった。
言葉が頭ではなく、もっと深い場所に触れてくる。
「扉を開けるな」
セティは言った。
「開ければ、神は目を覚ます」
「神って何なんだ」
蓮は叫ぶように聞いた。
「神ではない」
セティの声が、初めて震えた。
「あれは、神になってしまったものだ」
その瞬間、ノートのページが黒く染まり始めた。
五人の人影も、黒い太陽も、文字も、すべて闇に飲み込まれていく。
蓮は慌ててノートを閉じた。
部屋の照明が戻った。
静寂。
空調の音。
遠くの車の音。
自分の荒い呼吸。
蓮は恐る恐るノートを開いた。
ページは白紙に戻っていた。
黒い線も、文字も、何もない。
ただ、中央に一粒だけ、黒い砂のようなものが残っていた。
蓮はそれに触れようとして、やめた。
触れてはいけない。
本能がそう告げていた。
蓮はノートを閉じ、椅子に座り込んだ。
全身から力が抜けていく。
だが、眠ることはできなかった。
窓の外では、ピラミッドが沈黙している。
それはもう、古代の遺跡には見えなかった。
巨大な墓でも、王の記念碑でもない。
地下で眠る何かの上に置かれた、途方もなく重い蓋。
そしてその蓋の下で、何かがゆっくりと身じろぎしている。
蓮は右手を握りしめた。
黒い太陽の印は、熱を失っていた。
その代わり、冷たかった。
氷のように。
まるで地下の闇が、掌の中に宿ったように。
蓮は目を閉じた。
すると、また声が聞こえた。
今度はセティではない。
もっと低く、もっと遠く、もっと大きな声。
言葉ではない。
それでも、意味だけが心に落ちてくる。
――見つけた。
蓮は目を開いた。
夜はまだ深かった。
だが彼にはわかった。
第一玄室で見た壁画は、警告だった。
そして、警告はまだ終わっていない。
次に壁を見るのは、誰なのか。
ノートに浮かんだ言葉が、頭から離れなかった。
二人目は、壁を見る。
蓮は窓の外のピラミッドを見つめた。
暗闇の中、その巨大な影が、ほんのわずかに呼吸しているように見えた。




