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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第1章 砂の下の空洞

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3:第一玄室への降下

3:第一玄室への降下


 調査坑の入口は、観光客が立ち入る区域から少し離れた場所にあった。

 朝の砂漠は、すでに白く熱を帯びていた。空は高く、雲はない。太陽はまだ天頂に達していないにもかかわらず、光は鋭く、地面の砂粒をひとつひとつ照らしているようだった。

 遠くにはギザのピラミッドが見えた。

 写真や映像で何度も見たはずの形。だが実際にその前に立つと、蓮はやはり奇妙な圧迫感を覚えた。巨大な石の山。王の墓。古代文明の象徴。そうした言葉では、目の前の存在を言い尽くせない。

 今朝から、蓮にはピラミッドが建っているようには見えなかった。

 置かれている。

 もっと正確に言えば、押しつけられている。

 砂漠の下に眠る何かを、力任せに封じ込めるために。

 蓮は右手を握りしめた。

 掌の黒い太陽の印は、まだ消えていない。むしろ、資料室でマーカスと握手したあとから、いっそう濃くなっているように見えた。痛みはない。ただ時折、皮膚の下に細い熱が走る。まるで印そのものが、地下からの呼び声に反応しているようだった。

「こちらです」

 ナディアが先導した。

 調査坑の周囲には、仮設のフェンスと白いテントが設置されていた。発電機、測量機材、通信機器、救急用のケース、酸素濃度計、予備バッテリー。現場は整然としていたが、その整然さがかえって緊張を生んでいた。

 安全対策は十分に見える。

 だが、蓮は知っていた。

 未知の地下空間において、十分という言葉はほとんど気休めに近い。

 テントの下では、黒瀬が機材の確認をしていた。彼はヘルメットのライトを点けたり消したりしながら、ノートパソコンの画面と接続ケーブルを見比べている。

「蓮さん、こっちのヘルメット使ってください」

 黒瀬が黄色いヘルメットを差し出した。

「ありがとうございます」

「ライトは二系統あります。メインと予備。左側のスイッチがメイン、右側が予備です。バッテリーは腰のポーチに入っています。途中でおかしいと思ったら、すぐ言ってください」

「わかりました」

「あと、無線は地下だと不安定になります。基本は短距離通信だけです。地上との連絡は有線中継ポイントを経由します」

「つまり、深く入るほど連絡は難しくなる」

「そういうことです。まあ今日は第一玄室までですから、そこまで問題ないはずです」

 黒瀬はそう言ったが、最後の「はずです」は少し弱かった。

 蓮はヘルメットを被り、顎紐を締めた。ライトを点けると、白い光が足元の砂を照らした。

 ナディアも装備を整えていた。彼女の表情は落ち着いているが、目だけは硬い。昨夜までの知的な冷静さとは違う。これから向かう場所が、ただの遺跡ではないことを、彼女も感じているのだろう。

 少し離れた場所では、マーカス・リードが現地スタッフと話していた。

 今日の彼はスーツではなく、調査用の服に着替えていた。だが、どこか場違いな洗練さは消えていない。白いシャツに薄手のベスト、傷ひとつないブーツ。彼は地下へ降りる者というより、地下から何かを受け取りに来た者のように見えた。

 マーカスが蓮の視線に気づき、微笑んだ。

「準備はできましたか、篠原さん」

「はい」

「いい日です」

 マーカスは空を見上げた。

「地上はこれほど明るい。だからこそ、地下へ入る意味がある」

 蓮はその言葉に返事をしなかった。

 ナディアが間に入るように言った。

「本日の予定を確認します。調査坑から地下通路へ入り、第一玄室まで進みます。深度は約三十メートル。玄室内の壁面、床面、天井の状態を確認し、必要最低限の写真記録と三次元スキャンを行います。予定外の分岐や危険箇所があった場合は、無理に進まず撤退します」

「奥の反応を確認する余裕があれば?」

 マーカスが言った。

「安全が確認できた場合のみです」

「もちろんです。安全第一で」

 マーカスは穏やかに答えた。

 だが蓮には、その言葉が本心から出ているようには思えなかった。

 調査隊は五人だった。

 蓮、ナディア、黒瀬、マーカス。

 そして現地スタッフのサミールという若い男性。

 サミールは無口だった。二十代後半ほどで、痩せた体つきに鋭い目をしている。彼は入口付近のロープや金属梯子を何度も確認していたが、その動作には慎重さ以上のものがあった。

 恐れている。

 蓮はそう感じた。

「サミールさん」

 蓮が声をかけると、彼は少し驚いたように振り向いた。

「はい」

「地下には何度か入っているんですか?」

「浅い場所だけです。今日のように奥へ行くのは初めてです」

「不安ですか?」

 サミールは一瞬だけナディアを見た。それから小さく笑った。

「地下は、いつも不安です。特にここは」

「ここは?」

「ギザの地下は、静かすぎます」

 サミールは低い声で言った。

「静かすぎる場所には、音が残ります」

 その言い方は、どこか民間伝承のようだった。

 蓮がさらに聞こうとしたとき、ナディアが全員に合図した。

「行きましょう」


     *


 調査坑は、地面に開けられた四角い穴だった。

 周囲は金属の枠で補強され、内部には仮設の階段と梯子が設置されている。入口から覗き込むと、数メートル下で光がすぐに途切れ、そこから先は黒い闇が口を開けていた。

 地上の熱気が背中にある。

 地下の冷気が顔に触れる。

 その境目に立った瞬間、蓮は自分が何かの内側へ入ろうとしているのだと感じた。

 洞窟でも、遺跡でもない。

 巨大な生き物の口。

 そんな不吉な連想が頭をよぎる。

「蓮さん?」

 ナディアが振り返った。

「大丈夫です」

 蓮は答えた。

 本当は、大丈夫ではなかった。

 足元から、かすかな震えが上がってくる。実際の地震ではない。身体の奥で感じる微細な振動。掌の黒い太陽の印が、じんわりと熱を持ち始めていた。

 まずサミールが降りた。続いて黒瀬、ナディア、蓮、最後にマーカス。梯子を降りるたびに、地上の光が遠ざかっていった。

 数メートル降りただけで、空気が変わった。

 乾いた砂漠の空気ではない。ひんやりとして、石の匂いがする。古い埃、金属、わずかな湿り気。蓮は思わず壁に手を触れた。

 冷たい。

 その冷たさが、昨夜の夢の壁を思い出させた。

 階段をさらに降りると、足元が砂から石へ変わった。仮設のライトが一定間隔で設置されているが、光はすぐ闇に飲み込まれる。壁は粗く削られ、ところどころに補強材が打ち込まれていた。

「ここまでは近代の調査坑です」

 ナディアが説明した。

「本来の地下構造につながるまで、あと少しです」

 黒瀬は小型の測定器を確認している。

「酸素濃度正常。温度二十一度。湿度は少し高いですね」

「地下水脈の影響?」

 蓮が聞くと、黒瀬は首を傾げた。

「可能性はあります。ただ、この辺りの深度でこの湿度は少し変です」

 少し変。

 今日だけで、その言葉を何度聞いただろう。

 調査坑の奥に進むと、通路は急に狭くなった。そこに、石材で囲まれた古い開口部があった。

 現代の掘削跡とは明らかに違う。

 壁面の石は滑らかに整えられ、継ぎ目は驚くほど精密だった。長い年月を経ているはずなのに、石材の角は崩れきっていない。表面には細かな線のような傷があり、それが人の手による加工跡なのか、道具の痕なのか、蓮にはすぐ判断できなかった。

 開口部の上には、記号が刻まれていた。

 鳥のような形。

 目のような形。

 舟のような形。

 だが、どれも蓮の知るヒエログリフとは少し違う。

「ここからが第一層です」

 ナディアが言った。

 彼女の声は、自然と小さくなっていた。

 サミールが一歩下がる。

「入りますか?」

 マーカスが穏やかに尋ねた。

 ナディアは彼を一瞥した。

「予定通りです」

 黒瀬が小型カメラを起動し、胸に固定した。蓮も記録用のライトとメモ端末を確認した。

 開口部の先は、細い通路だった。

 幅は人が一人半ほど。天井は低く、背の高いマーカスは少し首を曲げなければならなかった。床は緩やかに下っている。壁は滑らかだが、完全な直線ではない。ほんのわずかに湾曲し、奥へ進むにつれて視界が歪むように感じられた。

 ライトの光が通路の奥へ伸びる。

 だが、闇は厚かった。

 光が進んでいるのに、闇が後退していない。

 蓮はそんな錯覚を覚えた。

「足元に注意してください」

 ナディアが言った。

 隊列は、サミール、ナディア、蓮、黒瀬、マーカスの順になった。

 通路の中では、足音が異様に大きく響いた。靴底が石を踏む音。機材がこすれる音。誰かの呼吸。ライトの小さな作動音。すべてが壁に反射し、何重にも重なって返ってくる。

 蓮は壁面を観察しながら進んだ。

 刻まれた記号は、ところどころに現れた。既知のヒエログリフに似ているが、体系が違う。意味を読み取ろうとすると、目が滑る。鳥に見えた記号は、次に見ると手の形に見える。目に見えたものは、太陽にも穴にも見える。

「ナディアさん」

 蓮は小声で言った。

「この文字、見たことがありますか?」

「一部は似ています。でも、完全には一致しません」

「王朝以前?」

「可能性はあります。ただ、あまりに整いすぎています。もし本当に王朝成立以前の文字体系なら、既存の研究を大きく変えることになります」

「大発見ですね」

 黒瀬が後ろから言った。

「大発見という言葉は、確認してから使いましょう」

 ナディアはそう返した。

 しかし、その声には興奮が混ざっていた。恐怖だけではない。研究者として、未知の文字を前にした高揚も確かにある。

 蓮にも、それはわかった。

 どれほど不気味でも、どれほど危険でも、未知の遺構を前にしたとき、考古学者の心は動いてしまう。

 知りたい。

 読みたい。

 この壁が何を語ろうとしているのか、理解したい。

 それは学問の欲望であり、人間の根源的な欲望だった。

 通路を進むにつれ、壁の記号は増えていった。最初は単独の印だったものが、やがて列をなし、文章のように連なっていく。

 蓮はある箇所で足を止めた。

 そこに、黒い太陽の印があった。

 壁面に深く刻まれた円。

 その周囲に放射状の線。

 だが、普通の太陽のように外へ光を放つのではなく、線は内側へ引き込まれているように見えた。

 蓮は無意識に右手を壁へ近づけた。

「触らないで」

 ナディアが鋭く言った。

 蓮は我に返り、手を引いた。

「すみません」

「保存状態がわかるまでは、直接触れないでください」

「はい」

 ナディアの注意は当然だった。

 だが蓮は、自分がなぜ手を伸ばしたのかわからなかった。

 壁の印が、掌の印を呼んでいる。

 そんな感覚があった。

 黒瀬が測定器を壁に近づけた。

「変な反応が出てます」

「何の?」

 ナディアが聞く。

「電磁波……いや、ノイズかな。周波数が安定しない。壁のこの印の周辺だけ、数値が跳ねてる」

「機材の不具合では?」

「それなら全部で出るはずです。でもここだけです」

 黒瀬は測定器を少し離した。数値が落ち着く。再び黒い太陽へ近づける。数値が跳ねる。

「なるほど。気持ち悪いですね」

 黒瀬はそう言って、少し笑った。

 だがその笑いは乾いていた。

 マーカスが壁の印をじっと見つめている。

「美しい」

 彼は呟いた。

 ナディアが眉をひそめる。

「美しい?」

「ええ。恐怖を形にすると、美しくなることがある」

「これは恐怖を表したものとは限りません」

「そうでしょうか」

 マーカスは蓮のほうを見た。

「篠原さんはどう思います?」

 蓮は答えたくなかった。

 だが、壁の印から目が離せなかった。

「……太陽というより、穴に見えます」

「穴?」

「光を放つものではなく、光を吸い込むもの。地下にある太陽というより、地下そのものに開いた目のような」

 言いながら、蓮は自分の言葉に寒気を覚えた。

 地下そのものに開いた目。

 昨夜の夢で見た、闇の中の巨大な目。

 マーカスは満足げに微笑んだ。

「やはり、あなたは面白い」

 蓮はその言葉に不快感を覚えた。

 マーカスに評価されるたび、まるで自分が調査員ではなく、何かの道具として見られているような気がした。

「進みましょう」

 ナディアが言った。

 隊列は再び動き出した。


     *


 通路はさらに下った。

 蓮は時間の感覚が曖昧になっていくのを感じた。時計を見ると、地上を出てからまだ二十分ほどしか経っていない。だが体感では、一時間以上歩いているように思えた。

 空気は冷たくなっていた。

 温度計では二十度前後を示しているのに、肌にはもっと低く感じる。首筋に冷気がまとわりつき、ヘルメットの内側に汗が滲む。

「おかしいな」

 黒瀬が呟いた。

「どうしました?」

「距離が合わない」

「距離?」

「調査坑から第一玄室まで、事前のレーダー解析では約六十五メートルのはずです。でも俺たち、もう八十メートル以上歩いてます」

「通路の勾配や曲がりを含めれば?」

「それを含めても長い」

 黒瀬は端末を見ながら言った。

「慣性計測も少しずつズレてます。地下だからGPSは使えませんけど、内部測位だけでもここまでズレるのは変です」

 ナディアは立ち止まった。

「戻るべきですか?」

「いや、戻るほど危険な数値ではないです。ただ、記録しておきます」

 マーカスが穏やかに言った。

「地下空間ではよくあることでは?」

「ある程度は。でもこれは……」

 黒瀬は言葉を濁した。

 そのとき、サミールが前方で手を上げた。

「玄室です」

 全員が足を止めた。

 通路の先に、広い空間が見えた。

 ライトの光が闇を切り裂き、石の床と壁の一部を照らし出す。そこは四角形に近い部屋だった。天井は低くも高くもない。中央には何もないが、床には円形のくぼみがある。壁面にはびっしりと記号が刻まれていた。

 第一玄室。

 蓮は喉を鳴らした。

 地中レーダーが示した最初の空間。

 サッカラの記録に残された未知の玄室と似た場所。

 そして、蓮の夢へと続くかもしれない入口。

 サミールが先に入り、安全を確認した。

「床、問題ありません」

 ナディアが続いて入る。蓮も一歩踏み出した。

 その瞬間、空気が変わった。

 通路の冷気とは違う。

 玄室の中には、何かが溜まっていた。

 匂いではない。音でもない。だが身体がそれを感じる。長い間、開かれなかった箱の中に閉じ込められていた空気。いや、空気だけではない。視線、声、記憶。そういった形のないものが、この部屋の壁に染み込んでいるようだった。

 蓮は立ち止まり、ゆっくり周囲を見回した。

 壁の記号は、通路のものより密度が高かった。文章というより、祈りのようだった。縦横に並ぶ記号。中央に置かれた黒い太陽。そこから左右へ伸びる、舟のような形。目を持つ獣。膝をつく人間。地下へ沈む円盤。

 ナディアは息を呑んだ。

「信じられない……」

「読めますか?」

 蓮が聞く。

「断片的に似たものはあります。でも、構文が違います。これはヒエログリフではない。少なくとも、私たちが知っている体系とは違う」

「でも意味はありそうですね」

「ええ。装飾ではありません。明らかに記録です」

 ナディアの声は震えていた。

 蓮はその震えを理解した。

 恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、発見の震えだった。

 歴史の空白に触れている。

 誰も読んだことのない文字の前に立っている。

 その事実は、研究者にとって抗いがたい力を持つ。

 黒瀬は玄室の中央に機材を置き、三脚を立てた。

「三次元スキャン始めます。照明、少し固定してください」

 サミールが補助ライトを壁に向ける。光が文字の凹凸を浮かび上がらせた。

 マーカスは部屋の奥の壁に近づいていた。

「ここに、別の入口があります」

 彼の声で、全員がそちらを向いた。

 奥の壁には、他の壁とは違う部分があった。石材の継ぎ目がわずかに不自然で、縦長の長方形を描いている。扉のようにも見える。だが取っ手も隙間もない。完全に閉じられた石壁だった。

「レーダーで見えた奥の反応は、この向こうかもしれません」

 マーカスは言った。

「今日はそこまで開けません」

 ナディアが即座に言う。

「もちろん」

 マーカスは微笑んだ。

「今日は、ね」

 蓮は奥の壁を見た。

 その壁の中央にも、黒い太陽の印が刻まれていた。ただし、通路のものより大きい。直径は三十センチほど。周囲には細かな文字が円を描くように並んでいる。

 そして、その下に小さなくぼみがあった。

 掌ほどの大きさ。

 何かを嵌め込むための穴のように見える。

 蓮は胸がざわついた。

 まだ何も知らないはずなのに、そのくぼみに何かが必要なのだと感じた。

「蓮さん」

 ナディアが声をかけた。

「この壁面、専門的な意見を聞かせてもらえますか」

「はい」

 蓮は奥の壁に近づいた。

 近づくほど、掌の印が熱くなる。

 蓮は右手をポケットに入れたまま、左手でライトを持ち、壁の文字を照らした。

 文字は読めない。

 だが、構造は見える。

 中央の黒い太陽を囲むように、複数の人物が膝をついている。その上には舟。さらに上には星。下には、地下へ向かう階段らしきもの。階段の先には、円筒状の空間を示すような図がある。

 蓮はゆっくりと息を吐いた。

「これは、死者の旅ではないかもしれません」

「どういう意味です?」

 ナディアが聞く。

「古代エジプトの宗教では、太陽は夜になると冥界を旅し、朝に再生します。死者もまた、冥界を通って再生へ向かう。でも、この図では流れが逆に見えます」

「逆?」

「普通なら、太陽は地下を通過して再び昇る。しかしここでは、太陽が地下へ沈んだまま戻ってこない。周囲の人物たちは太陽を崇拝しているというより、押さえつけているように見えます」

 蓮は言いながら、自分の声が少しずつ低くなっていくのを感じた。

「そして、この階段。死者が下るためではなく、何かが上がってこないようにするための構造に見えます」

 ナディアは壁画を見つめた。

「封印……」

「そう見えます」

 蓮は答えた。

 マーカスが背後で小さく笑った。

「やはり、蓮さんを呼んで正解でした」

 蓮は振り返らなかった。

 そのとき、黒瀬の機材が短い電子音を立てた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピピッ。

「何ですか?」

 ナディアが聞いた。

 黒瀬は端末を見下ろし、眉をひそめた。

「音声センサーが反応してます」

「音声?」

「玄室内に設置したマイクが、低周波の音を拾ってます。人間の耳にはほとんど聞こえない帯域です」

「機材ノイズでは?」

「確認します」

 黒瀬はノートパソコンを開き、波形を表示した。画面に細い線が揺れている。最初は不規則なノイズに見えたが、しばらくすると一定のリズムがあるように感じられた。

 低く、ゆっくりとした波。

 まるで呼吸のような。

「発生源は?」

「わかりません。壁全体から拾っているように見えます」

「壁全体?」

「はい。マイクの位置を変えても、音の強さがあまり変わらない」

 黒瀬は別のマイクを取り出し、玄室の四隅で測定した。数値はどこでもほぼ同じだった。

 蓮は耳を澄ませた。

 最初は何も聞こえなかった。

 だが、しばらくすると、空気の奥に低い振動があることに気づいた。

 音というより、身体に触れる波。

 石の内側で、何かが眠っている。

 そんな音だった。

「録音を再生できますか?」

 マーカスが言った。

「リアルタイムでは低すぎて聞き取りにくいので、少しピッチを上げます」

 黒瀬は端末を操作した。

 小型スピーカーから、ノイズが流れた。

 ザザッ。

 ゴォ……。

 ザ……ザザ……。

 最初はただの雑音だった。

 しかし黒瀬が周波数を調整すると、ノイズの奥に別のものが浮かび上がってきた。

 声。

 誰かの声。

 複数の声が重なっている。言葉としては聞き取れない。祈りのようにも、泣き声のようにも、遠い合唱のようにも聞こえる。

 サミールが顔を強張らせた。

「止めてください」

 黒瀬が彼を見る。

「どうしました?」

「止めてください」

 サミールの声は震えていた。

 黒瀬は再生を止めた。

 玄室に沈黙が戻った。

 だが蓮には、その沈黙の中にもまだ声が残っているように感じられた。

 ナディアがサミールに近づく。

「大丈夫?」

 サミールは唇を乾かしながら頷いた。

「聞こえました」

「何が?」

「母の声です」

 その場の空気が凍った。

 蓮はサッカラの手記を思い出した。

 地下で祈りの声を聞いた。

 本人は「自分の母親の声に聞こえた」と言う。

 同じだ。

 ナディアも同じことを考えたのだろう。顔色が変わっていた。

「サミール、地上に戻りますか?」

「いえ……大丈夫です。でも、もう再生しないでください」

 黒瀬は無言で頷いた。

 マーカスだけは、興味深そうにサミールを見ていた。

「母親の声、ですか。何と言っていました?」

「マーカス」

 ナディアが厳しい声で言った。

「今それを聞く必要はありません」

「記録として重要です」

「彼はスタッフです。実験対象ではありません」

 マーカスは両手を軽く上げた。

「失礼」

 だがその目は、少しも反省していなかった。

 蓮は玄室の壁を見た。

 音が壁から出ている。

 いや、壁に染み込んでいる。

 この部屋は、音を保存しているのかもしれない。

 祈り、恐怖、記憶、声。

 サッカラの手記の一文が、蓮の頭に蘇る。

 通路は通路ではない。

 それは我々を記憶している。

「蓮さん」

 黒瀬が小声で言った。

「これ、偶然じゃないですよね」

「わかりません」

「でも、サッカラの記録と同じです」

「はい」

 蓮は頷いた。

「同じことが、ここでも起きている」

 その言葉を口にした瞬間、玄室の奥で何かが鳴った。

 コツン。

 石を軽く叩くような音。

 全員が奥の壁を見た。

 コツン。

 もう一度。

 今度ははっきり聞こえた。

 音は、奥の閉じられた壁の向こうから響いていた。

 コツン。

 コツン。

 コツン。

 規則的な音。

 まるで、向こう側から誰かが扉を叩いているように。

 サミールが後ずさった。

「戻りましょう」

 ナディアが即座に言った。

「まだ危険とは限りません」

 マーカスが言う。

「壁の向こうに空洞があるなら、音の反響かもしれない」

「予定外の現象です。撤退して解析します」

「今ここで確認すべきです」

「いいえ。今日はここまでです」

 二人の声が鋭くなる。

 その間も、音は続いていた。

 コツン。

 コツン。

 コツン。

 蓮は奥の壁を見つめた。

 黒い太陽の印。

 その下のくぼみ。

 閉じられた石の扉。

 掌の印が熱い。

 蓮は右手を強く握った。

 すると、音が止まった。

 突然だった。

 玄室に静寂が落ちる。

 全員が息を止めた。

 次の瞬間、黒瀬の端末が大きなノイズを発した。

 ザザザザザザザッ。

「何だ?」

 黒瀬が慌てて端末を操作する。

 画面の波形が激しく乱れている。音声センサーが振り切れていた。

 スピーカーから、ひどく歪んだ音が漏れた。

 ザ……レ……ン……。

 蓮は身体を硬直させた。

 聞き間違いだ。

 そう思いたかった。

 だが、もう一度聞こえた。

 今度は、よりはっきりと。


 ――蓮。


 声は、彼の名前を呼んでいた。

 ナディアが蓮を見た。

 黒瀬も、サミールも、マーカスも。

 全員が聞いたのだ。

 蓮は一歩後ずさった。

「今の……」

 黒瀬の声が掠れていた。

「蓮さんの名前、ですよね」

 蓮は答えられなかった。

 スピーカーから、さらに声が流れた。

 ザザ……まだ……。

 ノイズが混じる。

 ……来ては……。

 蓮の心臓が強く打った。

 昨夜の少年の声。

 あの夢の声。

 スピーカーのノイズの中から、それが浮かび上がる。


 ――まだ来てはいけない。


 その瞬間、玄室の壁一面に刻まれた文字が、ライトを反射して淡く光ったように見えた。

 実際に光ったのか、目の錯覚なのかはわからない。

 だが黒い太陽の印だけは、確かに濃くなった。

 闇がそこに集まっていく。

 ナディアが叫んだ。

「全員、撤退します!」

 その声で、蓮は我に返った。

 サミールが通路へ向かう。黒瀬が機材を片づけようとする。

「機材は最低限でいい!」

 ナディアが言った。

「データだけ回収して、出ます!」

 黒瀬は端末とメインの記録装置を掴んだ。

 マーカスは奥の壁から動かなかった。

「マーカス!」

 ナディアが叫ぶ。

 マーカスは黒い太陽の印を見つめていた。

 その顔には、恐怖ではなく、歓喜が浮かんでいた。

「素晴らしい」

 彼は呟いた。

「本当に、反応した」

「何を言っているの!」

「篠原さんです」

 マーカスは蓮を見た。

「やはり、彼に反応している」

 蓮は寒気を覚えた。

「どういう意味ですか」

「あなたは鍵かもしれない」

「鍵?」

「この場所は、あなたを知っている」

 その言葉に、蓮の中で何かが崩れかけた。

 この場所は、あなたを知っている。

 サッカラの手記。

 通路は通路ではない。

 それは我々を記憶している。

「いい加減にして!」

 ナディアがマーカスの腕を掴んだ。

「戻ります!」

 マーカスは一瞬不満そうな顔をしたが、抵抗はしなかった。

 隊列は急いで通路へ戻った。

 だが、通路に入った瞬間、蓮は違和感に気づいた。

 来たときより、通路が狭い。

 壁が近い。

 天井が低い。

 ライトの光の届き方が違う。

「黒瀬さん」

 蓮は声を押し殺した。

「この通路……」

「言わないでください」

 黒瀬は端末を見ながら、青ざめた顔で言った。

「俺も今、同じこと思ってます」

 ナディアが前方から言う。

「サミール、道は?」

 サミールは答えなかった。

「サミール?」

 彼は通路の途中で立ち止まっていた。

 ライトの光が、彼の前方を照らしている。

 そこにあるはずの道が、なかった。

 代わりに、壁があった。

 滑らかな石壁。

 その中央に、黒い太陽の印。

 ナディアが息を呑む。

「そんな……ここは来た道のはず」

 黒瀬が端末を確認する。

「測位がめちゃくちゃです。今の位置が出ない。来た道を戻っているはずなのに、座標が飛んでる」

 マーカスが静かに笑った。

「始まった」

 ナディアが振り返る。

「黙って」

 その声には怒りと恐怖が混ざっていた。

 蓮は壁の黒い太陽を見つめた。

 掌の印が熱い。

 そして、耳の奥で声がした。


 ――こっちではない。


 蓮は反射的に左の壁を見た。

 そこには、来たときには見えなかった細い隙間があった。人が一人通れるほどの狭い通路。闇の中へ斜めに下っている。

「こっちです」

 蓮は言った。

 ナディアが彼を見る。

「なぜわかるんです?」

「わかりません。でも……こっちだと思います」

「根拠は?」

 蓮は答えられなかった。

 声がしたから。

 そう言えば、正気を疑われるだろう。

 だが、今この場所では、正気の基準そのものが崩れ始めていた。

 黒瀬が端末を隙間に向けた。

「空洞反応があります。少なくとも行き止まりではないです」

「地上へ戻れる?」

「わかりません。でも、ここに立っていても戻れません」

 ナディアは一瞬だけ目を閉じた。

 そして決断した。

「進みます。ただし、慎重に。全員、離れないで」

 サミールが先頭に立つことをためらったため、今度はナディアが前に出た。蓮がその後に続き、黒瀬、サミール、マーカスの順になった。

 狭い通路へ入る。

 壁が肩に触れそうだった。

 空気はさらに冷たい。石の匂いに、かすかな香のような匂いが混ざっている。古い神殿で焚かれた香木の残り香のような、甘く重い匂い。

 蓮は歩きながら、自分が本当に地上へ戻ろうとしているのか、それともさらに地下へ導かれているのか、わからなくなった。

 通路の先に、わずかな光が見えた。

 地上の光ではない。

 青白い、冷たい光。

 ナディアが立ち止まった。

 その光の中に、小さな影が立っていた。

 白い布をまとった少年。

 蓮の夢に出てきた少年だった。

 少年は通路の奥で、こちらを見ている。

 蓮以外にも見えているのか。

 それとも、自分だけが見ているのか。

 ナディアも黒瀬も、何も言わない。

 少年は唇を動かした。

 声は出なかった。

 だが蓮には、その言葉がわかった。

 ――まだ、扉を見てはいけない。

 次の瞬間、青白い光は消えた。

 通路の先には、再び闇だけが残っていた。

「蓮さん?」

 ナディアが小声で聞いた。

「今、何か見ましたか?」

 蓮は彼女を見た。

 ナディアの顔は青ざめていた。

「見えたんですか?」

 蓮が尋ねると、ナディアはゆっくり頷いた。

「子どもが……いました」

 黒瀬が後ろで呟いた。

「俺にも見えました」

 サミールは目を伏せ、震える声で言った。

「だから、言ったんです。地下は静かすぎる場所だと」

 マーカスだけが、何も言わなかった。

 だが蓮は見た。

 彼の口元が、わずかに笑っているのを。


     *


 彼らが地上へ戻ったのは、それから二十分後だった。

 どの通路を通ったのか、蓮にははっきり思い出せなかった。狭い通路を抜けたあと、いつの間にか最初の開口部近くに出ていた。黒瀬の測位記録は途中で途切れ、カメラ映像も数分間だけ真っ暗になっていた。

 地上の光を浴びた瞬間、蓮は膝から力が抜けそうになった。

 砂漠の熱気が、信じられないほど現実的だった。

 太陽。

 風。

 発電機の音。

 スタッフの声。

 遠くの車。

 すべてが当たり前で、だからこそ涙が出そうになるほどありがたかった。

 ナディアはすぐに現地スタッフへ指示を出し、第一玄室への再突入を中止した。取得したデータはすべて隔離し、解析する。サミールは医療スタッフのもとへ向かった。黒瀬は機材ケースを抱えたまま、無言でテントへ入っていった。

 蓮は調査坑の入口から少し離れた場所に立ち、ピラミッドを見上げた。

 掌の印は、まだ熱を持っていた。

 マーカスが隣に立った。

「素晴らしい初日でしたね」

 蓮は彼を見た。

「あなたは、何を知っているんですか」

 マーカスはすぐには答えなかった。

 彼はピラミッドを見つめたまま、穏やかに言った。

「知っている、というより、待っていたのです」

「何を」

「地下が、再び誰かに返事をする日を」

 蓮は言葉を失った。

 マーカスは蓮の右手に視線を落とした。

「その印、大切にしたほうがいい」

「これは何なんですか」

「招待状ですよ」

 彼は微笑んだ。

「あるいは、通行証」

 蓮は右手を握りしめた。

 マーカスはそれ以上何も言わず、テントのほうへ歩いていった。

 蓮は一人、砂漠の中に立ち尽くした。

 地上は明るい。

 だが、その明るさの下に、今も地下が広がっている。

 第一玄室。

 黒い太陽。

 閉ざされた壁。

 名前を呼ぶ声。

 白い布の少年。

 そして、奥にあるはずの扉。

 蓮はもう、これが単なる調査ではないことを理解していた。

 地下は死んでいない。

 記録でも、遺構でも、過去でもない。

 それは今も、何かを覚えている。

 そして、蓮の名前を知っている。

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