2:封鎖されたサッカラの記録
2:封鎖されたサッカラの記録
朝になっても、掌の印は消えなかった。
篠原蓮は洗面台の前に立ち、右手を何度も見下ろした。黒い円。その周囲に伸びる細い線。夢の中で見た、あの黒い太陽の印に似ていた。
似ている、という言い方は正確ではない。
同じだった。
黒く塗り潰された太陽。光を放つのではなく、周囲の光を吸い込んでいるような円。そこから伸びる線は、炎にも、神経にも、ひび割れにも見えた。
蓮は蛇口をひねり、もう一度水で洗った。冷たい水が掌を打つ。石鹸をつけ、爪でこすった。皮膚が赤くなるほどこすっても、黒い印は消えなかった。
「……何なんだよ、これ」
小さく呟いた声が、洗面所の白い壁に跳ね返った。
考えられる可能性を、蓮はひとつずつ並べた。
昨日、どこかで汚れがついた。
機内で触れたインクか、荷物の汚れか、ホテルの備品か。
寝ている間に無意識に何かを握った。
あるいは、夢の印象が強すぎて、ただの汚れをそう見ているだけかもしれない。
だが、どの説明も自分自身を納得させるには弱かった。
蓮はタオルで手を拭き、右手をじっと見つめた。黒い印は、水に濡れたことでかえって濃くなったように見えた。
そのとき、部屋のドアがノックされた。
「蓮さん、起きていますか?」
ナディアの声だった。
蓮は反射的に右手を握りしめた。
「はい。少し待ってください」
慌てて長袖のシャツを羽織り、袖口を少し引き下げる。掌の印までは隠せないが、握っていれば見えない。
ドアを開けると、ナディアが立っていた。昨日と同じベージュ系のシャツに、今日は薄いカーキ色のジャケットを羽織っている。首からは身分証が下がり、肩には資料の入ったバッグをかけていた。
「眠れましたか?」
ナディアはそう尋ねてから、すぐに蓮の顔色を見て眉を寄せた。
「……あまり眠れていないようですね」
「少しだけ時差が」
蓮はまた同じ嘘をついた。
ナディアは深く追及しなかったが、納得したようにも見えなかった。
「朝食のあと、現場へ向かう前に資料室へ来てください。昨日少し話した、サッカラの古い調査記録を見つけました」
「サッカラの?」
「はい。公式には未整理資料として扱われていたものです。ただ、内容が今回の地下構造と妙に一致しています」
「妙に、ですか」
「ええ。かなり妙に」
ナディアの声は低かった。
蓮は頷いた。
「すぐ行きます」
*
ホテルの一階にある食堂は、朝の光で明るかった。
調査隊のメンバーらしき人々が、簡素なビュッフェを囲んでいる。パン、卵、豆料理、野菜、濃い紅茶。蓮は食欲がなかったが、何も食べないまま地下に入るわけにはいかない。平たいパンとゆで卵を皿に取り、隅の席に座った。
右手はできるだけ使わなかった。
パンを左手でちぎりながら、蓮は昨夜の夢を思い返していた。
円筒状の空間。
螺旋状の通路。
黒い太陽の印。
白い布をまとった少年。
そして、底の闇に開いた巨大な目。
思い出すだけで、喉の奥が締めつけられる。
夢は夢だ。
そう思いたかった。
だが、掌の印がそれを許さなかった。
「おはようございます。眠れました?」
黒瀬玄がトレイを持って向かいの席に座った。彼は朝から妙に元気そうだった。目の下に少し隈はあるが、表情は冴えている。
「黒瀬さんは?」
「俺は三時間くらいです。でも慣れてます。現場前日はだいたい寝られないんで」
「緊張で?」
「いや、機材のこと考えちゃうんですよ。データロガーの接続は大丈夫か、予備バッテリーは足りるか、ノイズ対策はしたか、ケーブルが砂で死なないか、とか」
「技術者らしいですね」
「考古学者は何を考えるんです?」
黒瀬は豆料理をパンですくいながら聞いた。
「そうですね……調査対象が本当に人間の手で作られたものなのか、とか。年代はどうか、とか。過去の研究とどう接続するか、とか」
「夢がないなあ」
「技術者に言われたくないです」
黒瀬は笑った。
その笑い声で、蓮の緊張が少しだけ緩んだ。
だが次の瞬間、黒瀬はふと真面目な顔になった。
「昨日の画像、気になってますよね」
「もちろんです」
「気になる、の種類が違うように見えたんで」
蓮はパンを持つ手を止めた。
「どういう意味ですか?」
「いや、単なる研究者の興味というより、何か引っかかってる感じがしたんです。あの縦穴の画像を見たとき」
蓮は答えに迷った。
黒瀬は鋭い。人を観察するタイプではなさそうに見えて、意外と細かいところを見ている。
「少し、昔見た夢に似ていたんです」
蓮は、嘘と本当の中間を選んだ。
「夢?」
「子どもの頃、地下に降りる夢をよく見ていました。円筒状の空間に、底の見えない穴があって……それが昨日の画像に少し似ていました」
黒瀬はパンを口に運ぶ手を止めた。
冗談にするかと思ったが、彼は笑わなかった。
「そういうの、現場では言わないほうがいいかもしれません」
「やっぱり、変に聞こえますよね」
「いや、そうじゃなくて」
黒瀬は声を落とした。
「この調査、そういう話が多いんです」
「そういう話?」
「夢とか、声とか、既視感とか。俺はそういうの信じないタイプですけど、何人か言ってました。ここのところ、同じような夢を見るって」
蓮は背筋が冷たくなった。
「どんな夢ですか?」
「詳しくは知りません。ただ、地下に降りる夢だそうです。あと、太陽が黒いとか、子どもが立っているとか」
蓮は息を止めた。
黒い太陽。
子ども。
「誰が言っていたんです?」
「現地スタッフの一人です。でも数日前に辞退しました。家族の急病ってことになってますけど、本当は怖くなったんじゃないかな」
「なぜ、そう思うんです?」
黒瀬は少し迷ったあと、さらに声を低くした。
「彼、最後にこう言ってました。『あの子が、まだ入るなと言っている』って」
蓮の耳の奥で、昨夜の少年の声が蘇った。
まだ来てはいけない。
蓮は無意識に右手を握りしめた。掌の印が、皮膚の内側で熱を持ったように感じた。
「蓮さん?」
「……大丈夫です」
蓮はゆっくり息を吐いた。
そのとき、食堂の入口にナディアが現れた。彼女は蓮と黒瀬を見つけると、手短に合図した。
「資料室へ行きましょう。現場入りの前に、見ておくべきものがあります」
*
資料室は、ホテルの奥にある小さな会議室を臨時に使ったものだった。
壁際には折りたたみ式の棚が並び、ファイルボックス、地図、タブレット、ノートパソコン、古い紙資料の入った封筒が積み上げられている。窓には厚手のブラインドが下ろされ、室内は蛍光灯の白い光に満たされていた。
テーブルの上には、すでに数冊のファイルが広げられていた。
その中でひときわ目立つのは、茶色く変色した古い紙束だった。端は擦り切れ、表面には細かな砂の跡が残っている。資料保存用の透明な袋に入れられていたが、それでも古びた匂いが漂ってくるようだった。
「これは?」
蓮が尋ねた。
「一九七八年のサッカラ周辺地下調査に関する記録です」
ナディアは椅子に座り、慎重に袋を開いた。
「正式な調査報告書ではありません。むしろ、報告書に入れられなかった断片です。調査隊員の個人メモ、現場スケッチ、未提出の測量図、そして手記のコピー」
「なぜ未提出に?」
「調査が中止されたからです」
「事故ですか?」
ナディアは蓮を見た。
「公式には、落盤事故です」
「公式には?」
「ええ。記録では、地下通路の一部が崩落し、調査の継続が困難になったとされています。死者はなし。軽傷者数名。調査は安全上の理由で打ち切り」
「それなら、よくある話では」
「表向きは」
ナディアは一枚の紙を取り出した。
それは手書きのスケッチだった。石の通路らしき線が複雑に交差し、その中央に円形の空間が描かれている。円形の空間からは、螺旋状の線が下へ伸びていた。
蓮は椅子に座ったまま、身体が固まるのを感じた。
「これ……」
「昨日のレーダー画像に似ていますね」
ナディアは静かに言った。
黒瀬が横から覗き込み、低く口笛を吹いた。
「これは、偶然って言うにはきついな」
蓮はスケッチに近づいた。
線は粗い。測量図としては不正確だ。だが、構造の特徴ははっきりしている。直線通路。分岐。円形の広場。中央の縦穴。そして、その周囲に書かれた文字。
英語で、短くメモがある。
CYLINDRICAL CHAMBER?
NO ECHO FROM BELOW.
THE WALLS ARE NOT STABLE.
「壁が不安定……落盤のことですか?」
蓮が言うと、ナディアは別の紙を差し出した。
「次を見てください」
それは調査隊員の手記らしきものだった。タイプライターで打たれた英語の文章に、ところどころ手書きの修正が入っている。紙の上部には、日付があった。
一九七八年十一月二日。
ナディアが訳すように読み上げる。
「地下第三通路を再測量した。昨日の記録と一致しない。壁面の損傷、石材の配置、傾斜角、すべてが異なる。担当者は測量ミスを否定。磁気コンパスに異常。音響測定では、通路奥から複数の反響音を確認。人声に似る」
蓮は黙って聞いていた。
ナディアは次の行へ目を移す。
「同行者の一人が、地下で祈りの声を聞いたと訴える。アラビア語ではない。古代エジプト語でもない。音節は記録不能。本人は『自分の母親の声に聞こえた』と言う」
黒瀬が腕を組んだ。
「幻聴、ですかね」
「地下空間ではありえます。閉鎖環境、疲労、低酸素、不安、音の反響。心理的要因は多い」
ナディアはそう言ったが、その声は硬かった。
「でも、問題はそこではありません」
「他にもあるんですね」
「はい」
彼女は手記の別ページを取り出した。
今度は手書きだった。乱れた文字で、何かを急いで書き残したように見える。
蓮は英語の文章を目で追った。
The passage is not a passage.
It remembers us.
Every time we enter, it changes to fit what we fear.
通路は通路ではない。
それは我々を記憶している。
我々が入るたびに、それは我々の恐れるものに合わせて変化する。
蓮は背中に汗が滲むのを感じた。
ナディアが続けて別の紙を広げた。そこには壁画のスケッチがあった。
古代エジプト風の人物たちが並んでいる。祭司のような姿、舟、星、地下へ沈む太陽。そして中央には、黒く塗られた円がある。周囲には炎のような線。
黒い太陽。
蓮は思わず右手を隠した。
ナディアはそれに気づかなかったのか、気づいても何も言わなかったのか、静かに説明を続けた。
「この印は、既知のエジプト宗教の中では明確に分類できません。太陽神ラーの反転、あるいは夜の太陽を示す可能性はあります。ただ、通常の表現とは違います」
「黒い太陽……」
蓮が呟いた。
「手記にも、その言葉があります」
ナディアはさらに一枚の紙を取り出した。
それは他の資料よりも傷みが激しかった。端が破れ、インクが滲んでいる。だが、一文だけははっきり読めた。
When the black sun opens underground, the dead will remember the living.
黒い太陽が地下で開くとき、死者は生者を思い出す。
資料室の空気が、急に重くなった気がした。
黒瀬が冗談めかして笑おうとしたが、途中でやめた。
「……詩的ですね」
「詩ならよかったんですけど」
ナディアはそう言って、最後の封筒を開いた。
「ここからが、もっと奇妙です」
封筒の中には、写真のコピーが入っていた。白黒写真だった。画質は粗いが、地下の壁面を撮影したものだとわかる。
最初の写真には、壁画の一部が写っていた。祭司たちが、何かを地下へ運んでいる。箱のようにも、棺のようにも見える。
二枚目には、円筒状の空間らしき場所が写っていた。壁面には螺旋状の段があり、中央は暗闇になっている。
三枚目を見た瞬間、蓮は息を止めた。
そこには、人影が描かれていた。
だが、それは古代の人物ではなかった。
ヘルメットをかぶり、ライトを持ち、作業服のようなものを着た人間たち。
「これ……現代の調査隊ですか?」
蓮の声は掠れた。
「一九七八年の調査隊は、そう判断したようです」
「後世の落書きでは?」
「その可能性も検討されています。でも、顔料の劣化、壁面の状態、上に重なった鉱物層から見て、少なくとも新しい落書きではないと記録されています」
「そんなことが……」
ありえるのか、と言いかけて、蓮は口を閉じた。
ありえるはずがない。
そう言い切るには、すでに奇妙なものを見すぎていた。
黒瀬が写真を手に取り、目を細めた。
「人数は?」
「当時の調査隊は六人で地下に入りました」
「写真の壁画も六人に見えますね」
「ええ」
ナディアは短く答えた。
蓮は写真の端に目を止めた。
壁画の中の六人のうち、一人だけが他と違っていた。ほかの人物はライトを掲げたり、壁を見たりしている。だがその一人は、正面を向いている。
こちらを見ている。
白黒の粗い写真なのに、その顔だけが妙にはっきりしていた。
若い男だった。細い顔、深い目、乱れた髪。
そして、その顔はどこか蓮に似ていた。
蓮は瞬きをした。
写真の中の顔が、ほんの一瞬、笑ったように見えた。
「蓮さん?」
ナディアが声をかけた。
蓮は写真から目を離した。
「すみません。少し……」
「大丈夫ですか?」
「はい」
黒瀬が写真をテーブルに戻した。
「この調査隊、その後どうなったんです?」
ナディアの表情が暗くなった。
「公式記録では、全員地上に戻っています。ですが、その後の追跡記録を見ると、奇妙なことが多い」
「例えば?」
「隊長は帰国後、調査に関する発言を一切しなくなりました。二年後に自宅で死亡。死因は心臓発作。地質学者は精神不安を理由に研究職を辞めています。写真技師は失踪。現地スタッフの一人は、家族に『地下に置いてきたものが帰ってくる』と言い残して、その後、砂漠で遺体で発見されています」
「……落盤事故どころじゃないですね」
黒瀬の声から、軽さが消えていた。
ナディアは頷いた。
「そして、調査記録の最後に、この一文があります」
彼女は手記の最後のページを開いた。
そこには、大きく乱れた文字で書かれていた。
Do not map it.
Do not name it.
Do not let it know the way upward.
地図にするな。
名を与えるな。
それに、上への道を知らせるな。
蓮はその文章を見つめた。
地下の何かを、まるで生き物のように扱っている。
いや、生き物ですらない。
もっと曖昧で、もっと大きなもの。
場所そのもの。
記憶そのもの。
あるいは、声そのもの。
ナディアは資料を閉じた。
「このサッカラの記録は、長い間、正式なデータベースには登録されていませんでした。断片的に残され、別の分類で保管されていた。偶然見つけたと言ってもいい」
「偶然?」
蓮は聞き返した。
「私は偶然とは思っていません」
ナディアは低く言った。
「今回のギザ地下構造の解析結果を見たとき、以前どこかで似た図を見た気がしました。それで古い資料を探していたんです。最初は見つからなかった。でも昨日の夜、保管棚の一番奥に、この封筒が出てきました」
「誰かが隠していた?」
「そうかもしれません。あるいは、誰かが見つけさせたのかもしれない」
その言葉に、蓮は思わずナディアを見た。
ナディア自身も、自分の言葉に驚いたようだった。彼女は小さく息を吐いた。
「すみません。考古学者らしくない言い方でした」
「いえ」
蓮は首を振った。
「今は、そういう言い方のほうがしっくりきます」
そのとき、資料室のドアが開いた。
背の高い男が入ってきた。
灰色のスーツに、薄い青のシャツ。砂漠の調査現場には不釣り合いなほど整った服装だった。年齢は四十代半ばほど。金髪に近い茶色の髪を後ろへ撫でつけ、鋭い青い目をしている。
男は部屋の中を見渡し、微笑んだ。
「朝から熱心ですね」
ナディアの表情が硬くなった。
「マーカス」
男は蓮に視線を向けた。
「あなたが篠原蓮博士ですね」
「博士ではありません。篠原です」
「謙虚ですね。マーカス・リードです。このプロジェクトの統括をしています」
マーカスは右手を差し出した。
蓮は一瞬ためらった。右手の掌には黒い印がある。握手をすれば見えるかもしれない。
だが、不自然に避けるわけにもいかなかった。
蓮はできるだけ掌を内側に丸めるようにして、マーカスの手を握った。
その瞬間。
掌の印が、焼けるように熱くなった。
「っ……」
蓮は反射的に手を引きそうになったが、何とかこらえた。
マーカスは微笑んだままだった。
「どうかしましたか?」
「いえ。少し静電気が」
「この乾燥した土地ではよくあります」
マーカスはそう言って手を離した。
彼の視線が、蓮の右手に一瞬だけ落ちた。
見られた。
蓮はそう直感した。
マーカスは何も言わなかった。ただ、テーブルの上の古い資料に目を向けた。
「サッカラの記録ですか」
ナディアが眉を寄せた。
「知っていたの?」
「もちろん。古い資料には興味がありますから」
「なら、なぜ最初から共有しなかったんです?」
「確度の低い資料で、調査前に皆さんを混乱させたくなかった」
「この内容は、今回の構造と一致しています」
「だからこそ、今見ているのでしょう」
マーカスは穏やかに言った。
だがその穏やかさは、どこか作り物のようだった。怒っているわけではない。焦っているわけでもない。ただ、自分がすでに知っている結末へ、周囲が遅れて追いついてくるのを待っているような余裕があった。
蓮はその態度に、言いようのない不快感を覚えた。
「篠原さん」
マーカスが言った。
「あなたは、この資料をどう見ますか?」
「まだ判断できません」
「考古学者らしい答えですね」
「実際、判断材料が足りません。手記には主観的な記述が多い。写真も不鮮明です。壁画の年代測定や顔料分析の詳細がない以上、結論は出せません」
「では、地下へ行けば判断できますね」
マーカスは微笑んだ。
蓮は彼を見返した。
「地下に、同じものがあれば」
「ありますよ」
マーカスは即答した。
部屋の空気が止まった。
ナディアが低い声で言う。
「なぜ、そう言い切れるの?」
マーカスは肩をすくめた。
「レーダー画像が示しているからです」
「画像だけでは、そこまでは」
「いいえ。画像だけで十分です。地下には通路がある。円筒状の構造がある。さらに下へ続く縦穴がある。そして、おそらく玄室もある」
「おそらく?」
「今日、それを確認します」
マーカスはテーブルに置かれた黒い太陽のスケッチを見下ろした。
その目に、一瞬だけ異様な熱が宿った。
蓮はそれを見逃さなかった。
この男は恐れていない。
地下に何があるかわからないから調べたいのではない。
地下に何があるか、すでに信じている。
そして、それを手に入れたいと思っている。
「出発は三十分後です」
マーカスは全員を見渡した。
「第一玄室までの降下を行います。安全確認を優先しますが、可能であれば、その奥の反応も確認したい」
「予定より早い」
ナディアが言った。
「時間は貴重です」
「地下調査で急ぐのは危険です」
「だからこそ、優秀な皆さんを集めた」
マーカスは穏やかに返した。
ナディアは何か言いかけたが、飲み込んだ。
マーカスは蓮に視線を戻した。
「篠原さん。あなたには特に期待しています」
「僕に?」
「ええ。あなたは、地下を読む目を持っている」
その言葉に、蓮の掌がまた熱を持った。
地下を読む目。
なぜかその表現が、単なる比喩に聞こえなかった。
マーカスは資料室を出ていった。
ドアが閉まったあと、しばらく誰も話さなかった。
黒瀬がようやく口を開いた。
「……感じ悪いですね、あの人」
「黒瀬さん」
ナディアが咎めるように言ったが、否定はしなかった。
蓮は右手を開いた。
黒い太陽の印は、先ほどよりも濃くなっていた。
ナディアがそれに気づいた。
「蓮さん、その手……」
蓮は隠すのを諦めた。
「今朝、起きたらありました」
「昨日は?」
「ありませんでした」
ナディアは顔色を変えた。
彼女は急いでサッカラの資料の中から、壁画のスケッチを取り出した。そして蓮の掌と見比べる。
黒い太陽。
同じ印。
黒瀬も覗き込み、低く呟いた。
「嘘だろ……」
ナディアは何かを言おうとして、言葉を失った。
蓮は静かに右手を握った。
「僕にも説明できません」
資料室の蛍光灯が、かすかに点滅した。
一度。
二度。
三度。
その瞬間、テーブルの上に置かれた古い手記のページが、風もないのにめくれた。
開かれたページには、あの一文があった。
When the black sun opens underground, the dead will remember the living.
黒い太陽が地下で開くとき、死者は生者を思い出す。
蓮はその文字を見つめた。
そして、耳の奥で、昨夜の少年の声を聞いた。
――まだ来てはいけない。
だがもう、止まれない。
今日、彼らは地下へ降りる。
かつてサッカラで封鎖された記録と、ギザの地下に眠る未知の構造。
その二つが、ひとつの暗い線で結ばれ始めていた。




