5:失われた水路
5:失われた水路
地下入口の階段は、消えていた。
蓮がホテル地下の保管室へ駆け込んだとき、そこにあったのは見慣れたコンクリートの壁だけだった。
古代の石壁はない。
黒い太陽の印もない。
青白い光も、冷たい風も、下へ続く階段もない。
昨日まで、確かにそこに開いていたはずの入口は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
保管室の奥には、古い棚と段ボール箱、使われなくなった機材ケースが並んでいる。床には薄い埃が積もり、蛍光灯の光が白く壁を照らしていた。
あまりにも普通だった。
その普通さが、逆に恐ろしかった。
「見ての通りです」
黒瀬玄は、壁の前に立っていた。手には懐中電灯と測定器を持っている。髪は乱れ、顔色は悪い。おそらく、蓮に連絡する前から何度も確認したのだろう。
「昨日までここにありましたよね。石の入口。階段。黒い太陽。全部」
「ありました」
蓮は壁に近づいた。
コンクリートの表面に触れる。
温かい。
地下から吹いていた冷気はない。指先には、ただ少しざらついた建材の感触だけが残った。
壁を叩く。
コン、コン。
軽い音。
その向こうに空洞があるようには聞こえない。
「ナディアさんは?」
「今、管理スタッフに聞き取りしています。監視カメラも確認中です。でも、たぶん何も映ってません」
「いつ消えたんですか」
「わかりません。夜間の監視スタッフは、ずっと入口があったと言っています。ただ、午前三時ごろに数分だけ停電がありました。その後、確認したら壁に戻っていた」
「停電……」
蓮は昨夜の夢を思い出した。
セティとの約束。
黒い太陽の神殿。
そしてノートに浮かんだ文字。
五人目は、水路を失う。
水路を失うとは、地下の水路だけではなかった。
入口そのものが失われた。
戻る道が閉じた。
「蓮さん」
黒瀬が低い声で言った。
「これ、かなりまずいですよね」
「はい」
「地下へ行けなくなった、という意味ならいいんです。むしろ歓迎したいくらいです。でも、たぶんそうじゃない」
「閉じ込められた?」
「こっち側に閉じ込められたならまだいいです。でも、地下との接点が消えたのに、石片は残ってます」
黒瀬は机の上に置かれたケースを指した。
そこには、これまで手に入れた石片が保存されていた。
黒い太陽。
舟。
膝をつく人物。
目。
四つの石片。
そのうち、目の石片だけが、淡く青白い光を帯びていた。
「入口は消えた。でも石片は反応してる」
黒瀬は言った。
「つまり、地下とのつながりは切れてない。むしろ、別の形になっただけかもしれません」
蓮は目の石片を見た。
閉じた目の印。
その瞼は、石に刻まれただけの線のはずなのに、今にも開きそうに見えた。
触れてはいけない。
本能がそう告げる。
だが、目を離せない。
蓮は自分の胸の奥に、昨夜の夢の痛みが残っているのを感じた。
私は必ず、お前を迎えに戻る。
古代の誰か――蓮と同じ顔を持つ者が、セティに告げた約束。
その約束は果たされなかった。
セティは地下に残され、名前を忘れられ、声を聞き続け、封印の一部になった。
もし地下がその約束を食べ、石にして、何千年も残していたのだとしたら。
蓮が呼ばれた理由は、ただ考古学者だからではない。
ただ印を持ったからでもない。
約束が、蓮を呼んでいる。
叶えられなかった言葉が、蓮の形を借りて、もう一度地下へ戻ろうとしている。
「蓮さん?」
黒瀬の声で、蓮は我に返った。
「大丈夫ですか」
「……昨夜、夢を見ました」
「またですか」
「セティが封印される場面です。蓮と同じ顔をした人物が、彼に約束していました。必ず迎えに戻る、と」
黒瀬は何も言わなかった。
蓮は続けた。
「でも、その約束は果たされなかった。セティはずっと地下に残された」
黒瀬は視線を落とした。
「それで、地下が蓮さんを呼んでいる?」
「たぶん」
「それ、本当に蓮さんが背負う必要ありますか」
黒瀬の声には、怒りに似たものが混じっていた。
「古代の誰かがやったことでしょう。蓮さん本人じゃない。地下が勝手に役割を押しつけているだけかもしれない」
「そうかもしれません」
「だったら、無視していいじゃないですか」
蓮は答えられなかった。
無視できるなら、どれだけ楽だっただろう。
だが蓮は、セティの名前を呼んだときの表情を覚えている。
久しぶりに、外から聞こえた。
僕の名前。
あの声を、もう無視できない。
蓮は静かに言った。
「僕が本人じゃなくても、セティは今、そこにいるんです。地下に残されている。それを知ってしまった以上、何もしないことはできません」
黒瀬はしばらく蓮を見ていた。
やがて、大きく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
「すみません」
「謝らないでください。俺も、あの子の名前を呼んじゃいましたし」
黒瀬は照れ隠しのように頭を掻いた。
「一度名前を呼んだら、もうただの怪異扱いできないですよ。困ったことに」
そのとき、保管室の外から足音が聞こえた。
ナディアが入ってきた。
彼女の顔は緊張していた。
「監視カメラを確認しました」
「何か映っていましたか」
黒瀬が聞く。
「階段が消える瞬間は映っていません。午前三時十二分から三時十六分まで、映像が完全に黒くなっています」
「停電の時間ですね」
「ええ。ただし、その直前にマーカスが地下階へ向かう姿が映っていました」
蓮の胸が冷たくなった。
「マーカスが?」
「はい。ですが、本人は部屋にいたと主張しています。カードキーの記録上も、彼の部屋のドアは開いていません」
「また影かもしれませんね」
黒瀬が言った。
「昨日の地下で出たマーカスみたいに」
ナディアは頷いた。
「その可能性があります。ただ、今回は別の問題があります」
「まだあるんですか」
黒瀬が疲れた声を出す。
ナディアはタブレットを机に置いた。
画面には、監視カメラの静止画が映っていた。地下廊下を歩くマーカスらしき人影。輪郭は少しぼやけているが、服装も体格も本人に見える。
その手には、何かが握られていた。
黒い石片。
蓮は息を止めた。
「まさか……」
ナディアが次の画像を表示する。
マーカスの手元を拡大したものだった。
粗い画像だが、石片の印はかろうじて見える。
水路。
流れる線のような印。
「五つ目の石片です」
ナディアは低く言った。
「水路の石片を、彼が持っている可能性があります」
黒瀬が目を見開いた。
「ちょっと待ってください。水路の石片って、次の段階ですよね」
「はい」
「蓮さんたちが手に入れるはずだったやつを、マーカスが先に持った?」
「そう考えられます」
蓮はノートの文字を思い出した。
五人目は、水路を失う。
水路を失う。
それは、入口が消えたことだけではない。
水路の石片を、マーカスに奪われたという意味でもあるのか。
「でも、本人は部屋にいたんですよね」
黒瀬が言った。
「影が石片を持ち出した? そんなの、もうどう防げばいいんですか」
ナディアは厳しい表情で答えた。
「わかりません。ただ、マーカスの欲望が地下の通路になっている可能性があります。彼が物理的に入れなくても、地下が彼に石片を渡した」
「最悪ですね」
「ええ」
蓮は目の石片を見た。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
そして、水路。
もし水路の石片がマーカスの手にあるなら、儀式の順序は彼の側でも進み始めている。
残るは、門。
最後の石片。
その先に何があるのか。
黒い太陽の神殿。
蓮は、まだ見ぬその場所の名を、なぜか知っている気がした。
*
マーカスは、自室にいた。
ナディア、蓮、黒瀬が訪ねると、彼は落ち着いた様子でドアを開けた。白いシャツに薄いカーディガンを羽織り、手にはコーヒーカップを持っている。徹夜明けの蓮たちとは違い、顔色はむしろ良かった。
「朝からお揃いで」
彼は微笑んだ。
「何かありましたか」
ナディアは単刀直入に言った。
「昨夜、地下階へ行きましたか」
「いいえ」
「監視カメラにあなたの姿が映っています」
「それは興味深いですね」
マーカスは少しも驚いた様子を見せなかった。
「映像を見せてもらえますか」
ナディアはタブレットを差し出した。
マーカスは映像を見た。
地下廊下を歩く、自分と同じ姿の影。
その手に握られた黒い石片。
マーカスはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「なるほど」
「なるほど、ではありません」
ナディアの声が鋭くなる。
「この人物はあなたですか」
「私のように見えます」
「あなたではないと?」
「物理的には、私は部屋にいました。カードキーの記録もあるのでしょう?」
「あります」
「ならば、私はそこに行っていない」
「では、この映像は何ですか」
マーカスは蓮を見た。
「影です」
黒瀬が顔をしかめた。
「ずいぶん簡単に言いますね」
「地下では、欲望も記憶も形を持つ。私の一部が地下へ行ったのでしょう」
マーカスはまるで、それを誇るように言った。
蓮は一歩前に出た。
「あなたは、水路の石片を持っていますか」
マーカスの目が、わずかに光った。
「水路の石片?」
「とぼけないでください」
蓮は言った。
「黒い太陽、舟、膝をつく人物、目。その次は水路です。あなたの影が、それを持っていた」
マーカスはカップをテーブルに置いた。
「もし持っているとしたら?」
「渡してください」
「なぜ?」
「それは地下を進めるための石片です。あなたが持っていると危険です」
「危険なのは、理解せずに恐れることです」
「あなたは理解していません」
マーカスは静かに蓮を見た。
「では、あなたは理解しているのですか」
蓮は答えなかった。
マーカスは続けた。
「セティは、あなたに何を言いましたか。目を見るな? 声を信じるな? 約束をするな? 彼は封印の番人です。番人は扉が開くことを恐れる」
「彼は番人じゃない。犠牲者です」
蓮の声は強くなった。
「だからこそ危険なのです」
マーカスは低く言った。
「犠牲者は、世界を自分の痛みで見ます。彼は自分を閉じ込めた封印を憎んでいる。けれど同時に、その封印がなくなれば自分の存在理由も消える。彼の言葉は矛盾しているはずです」
蓮は黙った。
実際、セティの言葉は矛盾していた。
開けるな。
でも、石を置け。
目を見るな。
でも、目を知らなければ止められない。
その矛盾を、マーカスは突いてくる。
ナディアが割って入った。
「セティの言葉が完全ではないとしても、あなたの行動が危険であることに変わりはありません」
「私は地下に選ばれています」
「いいえ。あなたは欲望を利用されているだけです」
マーカスの表情から、微笑みが消えた。
「欲望は悪ではありません。知りたいという欲望がなければ、人類は何も発見できなかった」
「知りたい気持ちと、支配したい気持ちは違います」
「支配ではない。対話です」
「あなたは対話ではなく、命令したいのです」
しばらく沈黙があった。
やがてマーカスは部屋の机の引き出しを開けた。
蓮たちは身構えた。
マーカスが取り出したのは、小さな黒い石片だった。
水路の印が刻まれている。
蓮の胸が強く打った。
「やはり……」
黒瀬が呟く。
マーカスは石片を指先でつまみ、光にかざした。
「昨夜、机の上に置かれていました。私自身は取りに行っていない。ですが、地下は私にこれを渡した」
「渡したんじゃない。利用しているだけです」
蓮が言うと、マーカスは薄く笑った。
「あなたも同じことをされている」
その言葉に、蓮は一瞬言葉を失った。
その通りだった。
蓮もまた、地下から石片を渡されてきた。黒い太陽を、舟を、膝をつく者を、目を。
違いは何か。
セティの警告を聞いていることか。
ナディアや黒瀬と名を結んだことか。
それとも、まだ欲望に飲まれていないことか。
蓮には確信がなかった。
マーカスは水路の石片を蓮へ差し出した。
予想外の行動に、蓮は警戒した。
「何のつもりですか」
「あなたに渡します」
ナディアが目を細めた。
「なぜ?」
「扉はまだ、私を完全には通さない。ならば、あなたが進むしかない」
「あなたの目的のために?」
「私たち全員のために」
「信じられません」
マーカスは穏やかに言った。
「信じる必要はありません。ただ、石片は必要でしょう」
蓮は水路の石片を見た。
欲しくない。
だが、必要だった。
入口の階段は消えている。水路を失った。おそらく、この石片が次の入口を開く鍵になる。
マーカスはそのことを理解している。
だから渡す。
自分では入れないから、蓮を使うために。
それでも、受け取らない選択肢はなかった。
蓮は手を伸ばした。
石片に触れた瞬間、冷たい水のような感覚が腕を走った。
同時に、頭の中に映像が流れ込む。
暗い地下水路。
水はない。
だが、無数の声が川のように流れている。
その川の底に、名前が沈んでいる。
蓮。
ナディア。
玄。
セティ。
マーカス。
そして、もっと古い名前。
ネフェル=カー。
蓮は思わず石片を落としそうになった。
「今、何か見ましたね」
マーカスが言った。
蓮は彼を睨んだ。
「あなたには関係ありません」
「ネフェル=カー」
マーカスがその名を口にした。
蓮は凍りついた。
ナディアも反応した。
「今、何と言いました?」
「ネフェル=カー。地下都市の王です。神の声を聞き、黒い太陽の神殿を築いた者」
「その名を、どこで」
「夢で聞きました」
マーカスは蓮を見た。
「あなたも聞いたのでしょう」
蓮は答えなかった。
マーカスは満足げに微笑んだ。
「順序は進んでいます。次は水路。そして門。その先に、黒い太陽の神殿がある」
ナディアの顔が硬くなった。
「あなたはそこへ行くつもりですね」
「もちろん」
「扉が拒んでも?」
「扉は、いずれ私を認める」
蓮は水路の石片を握りしめた。
「認めません」
マーカスは蓮を見た。
「それを決めるのは、あなたではありません」
「いいえ」
蓮は静かに言った。
「少なくとも、あなたを連れて行くかどうかは僕が決めます」
マーカスの目に、冷たい怒りが浮かんだ。
けれど彼はすぐに微笑みに戻った。
「では、また地下で会いましょう」
その言葉が、不吉に響いた。
*
水路の石片を持って保管室へ戻ると、消えていた階段はまだ戻っていなかった。
だが、コンクリートの壁に変化が起きていた。
壁の表面に、細い黒い線が浮かび上がっている。
水路の印。
流れる線のような模様が、壁の下部から上部へ伸びている。普通の水なら下へ流れるはずだ。だがその線は、下から上へと逆流するように描かれていた。
ナディアが壁を観察する。
「水路を失う、ではなく、水路が地上へ上がってきている……?」
黒瀬がセンサーを近づける。
「壁の向こうから低周波。あと、湿度が急に上がってます」
蓮は水路の石片を取り出した。
石片が青白く光る。
壁の印も、それに反応して光った。
コンクリートの壁が揺らぐ。
石壁へ変化するのではない。
水面のように、壁そのものが波打った。
「うわ……」
黒瀬が一歩下がる。
壁の表面が液体のようになり、その向こうに暗い通路が見えた。水のない川ではなく、水そのもののような入口。だが、濡れてはいない。光と記憶だけでできた水面。
ナディアが低く言った。
「これが、水路の入口……」
「入るしかないんですよね」
黒瀬が言った。
ナディアは蓮を見た。
「今すぐ入るのは危険です」
「でも入口がまた消えるかもしれません」
蓮は壁の水面を見た。
その奥から、声が聞こえる。
セティではない。
無数の声。
川のように流れる声。
名前を呼ぶ声。泣く声。祈る声。謝る声。笑う声。怒る声。
その中に、セティの声が混じっていた。
「蓮」
蓮は息を止めた。
「水路を失ったら、名前を流される」
「名前を流される?」
蓮が呟くと、ナディアが反応した。
「セティですか」
「はい」
声は続く。
「水路では、互いの名前を離さないで。声が多すぎるから、自分の名前を見失う」
蓮はナディアと黒瀬を見た。
「前回より危険です」
「毎回そうですね」
黒瀬が力なく言った。
ナディアはしばらく考えた。
そして決断した。
「短時間だけ入ります。目的は、失われた入口の回復と、水路の性質の確認。黒瀬さん、時間記録。蓮さん、セティの声に注意してください。ただし、声に従いすぎないこと」
「はい」
「名前を結びます」
ナディアはそう言って、蓮と黒瀬を見た。
三人は壁の前に立った。
蓮が最初に言う。
「蓮」
ナディアが続く。
「ナディア」
黒瀬が言う。
「玄」
今度は、互いに呼び合った。
「ナディア。玄」
「蓮。玄」
「蓮さん、ナディアさん」
黒瀬だけ少し敬称つきだったが、誰も訂正しなかった。
呼び合った瞬間、壁の水面が静かになった。
通れる。
蓮はそう感じた。
「行きます」
三人は、水の壁をくぐった。
*
冷たさはなかった。
水面のような壁を抜けたのに、服は濡れていない。肌にも水滴はない。だが、耳だけが水中に入ったように重くなった。
音が変わった。
ホテルの地下の音は消え、代わりに無数の声が周囲を流れている。
暗い通路だった。
足元には水路がある。だが水はない。青白い光が流れているだけだ。その光は、前回よりも濃く、まるで液体のように見えた。
通路の壁には無数の名前が刻まれていた。
読めるものもあれば、読めないものもある。エジプトの古い文字、ギリシア文字、アラビア文字、ラテン文字、日本語らしきものまで混じっている。時代も文化もばらばらだった。
ナディアが息を呑んだ。
「これは……名前の水路」
黒瀬が震える声で言った。
「壁に名前が流れてる」
実際、壁の文字は静止していなかった。ゆっくりと移動している。上から下へ、下から上へ、時には横へ。まるで川底の砂のように、名前が流されていた。
蓮は壁に目を奪われた。
その中に、自分の名前を見つけた気がした。
蓮。
いや、違う。
見間違いだ。
また別の場所に、RENという文字が浮かぶ。
その横に、NADIA。
さらに少し離れて、GEN。
黒瀬が呻いた。
「俺たちの名前、ありますよね」
「見ないで」
ナディアが言った。
「自分の名前を壁に探さないでください」
だが、難しかった。
名前は目を引く。
自分の名前は、どんな文字列よりも強く意識を捕まえる。
蓮は視線を床へ落とした。
水路の光が足元を流れている。
その中にも名前が沈んでいた。
流されていく名前。
重なり、崩れ、溶けていく名前。
セティの声が聞こえた。
「名前を呼んで」
蓮はすぐに言った。
「ナディア。玄」
ナディアも答える。
「蓮。玄」
黒瀬が続く。
「蓮さん、ナディアさん。俺は玄」
その瞬間、周囲の声が少し遠ざかった。
名前を呼ぶことで、自分たちの輪郭が戻る。
本当に、名前が命綱なのだ。
通路の奥へ進むと、水路が三つに分かれていた。
それぞれ別の方向へ流れている。
左の流れには、古い名前が多い。壁画のような文字、ヒエログリフに似た記号。中央の流れには、現代の文字が混じっている。右の流れには、読めない記号ばかりが流れていた。
「どれが戻る道ですか」
黒瀬が聞く。
蓮は水路の石片を握った。
石片は中央の流れに反応している。
だが、セティの声は別のことを言った。
「中央は、欲しがる人の道」
蓮は顔を上げた。
「マーカス?」
「彼の名前が流れている」
セティの声は近い。
「中央へ行くと、彼とつながる」
蓮は中央の流れを見た。
確かに、その光の中にMARCUSという文字が何度も浮かんでは消えている。だが、その周囲には別の名前もあった。
REN。
NADIA。
GEN。
三人の名前も、中央へ引き寄せられている。
黒瀬が顔をしかめる。
「中央、絶対嫌な感じします」
ナディアは左と右の流れを観察した。
「左は古い名前。右はまだ読めない名前……もしかすると、右は失われた名前かもしれません」
「戻るには?」
蓮はセティの声を待った。
だが、今度は声が聞こえない。
代わりに、通路全体が揺れた。
水路の光が強くなる。
中央の流れから、マーカスの声が聞こえた。
「篠原さん」
蓮の身体が硬直する。
声は水路の中から響いていた。
「やはり、来ましたね」
ナディアが蓮の腕を掴む。
「反応しないで」
マーカスの声は続く。
「水路は名前を運ぶ。名前は記憶を運ぶ。記憶は扉を開く。あと一つです。門の石を得れば、神殿へ行ける」
黒瀬が小声で言った。
「聞こえてますよね、これ」
「聞こえています」
ナディアが低く返す。
マーカスの姿はない。だが声だけが、水路を通って届いている。
欲望が通路になる。
ナディアの言葉が現実になっていた。
「蓮さん」
マーカスが呼ぶ。
その声に、無数の別の声が重なる。
蓮。
蓮。
蓮。
自分の名前が、川の中で引き伸ばされ、ばらばらになっていく。
レ。
ン。
レン。
篠原。
シノハラ。
REN。
蓮は頭を押さえた。
自分の名前が、多すぎる。
どれが自分なのかわからなくなる。
ナディアが叫んだ。
「蓮!」
その声が、まっすぐ届いた。
蓮は息を吸った。
黒瀬も続ける。
「蓮さん! こっちです!」
蓮は二人を見た。
戻った。
名前が戻った。
マーカスの声が少し遠ざかる。
ナディアは強く言った。
「中央はだめです。左へ」
「なぜ左?」
「古い名前の流れです。セティの名前を探します。彼の名前が残っているなら、戻る道につながるはず」
蓮は頷いた。
三人は左の水路へ進んだ。
古い文字が壁を流れている。ヒエログリフに似た記号。知らない王名。祭司の名。都市の名。祈りの断片。その中に、蓮は一つの名前を見つけた。
セティ。
正確には、現代の表記ではない。だが意味として、セティだとわかった。
蓮はその名を呼んだ。
「セティ!」
水路の光が一瞬止まった。
次の瞬間、通路の奥に白い影が現れた。
セティだった。
彼は水路の向こうに立ち、手招きしている。
「こっち」
三人はセティを追った。
今度は、セティの後ろ姿を見失わないように進んだ。だが蓮は、彼だけに意識を集中しすぎないようにした。ナディアの呼吸、黒瀬の足音、自分の名前。それらを同時に意識する。
名前を離さない。
水路はやがて細くなり、通路の先に石の門が見えてきた。
小さな門だった。
地下都市の巨大な門とは違う。人一人が通れるほどの低い門。門の上には、水路の印と、その奥にもう一つ、別の印が刻まれていた。
門。
六つ目の記号。
最後の石片の印。
ナディアが息を呑む。
「ここが、次の段階……」
セティは門の前で立ち止まった。
「水路を失った人は、門にたどり着けない」
「私たちは?」
蓮が聞く。
「名前を呼んだから、流されなかった」
「マーカスは?」
セティは目を伏せた。
「彼は、自分の名前を差し出している。だから、門の近くまで来ている」
「止められるか」
「門の石を先に取って」
セティは門の下を指した。
そこに、小さなくぼみがあった。
水路の石片を嵌める形だった。
蓮は保存袋から水路の石片を取り出した。
ナディアが小声で言う。
「慎重に」
蓮は石片をくぼみに置いた。
音はしなかった。
代わりに、水路の光が門の下をくぐり、青白く輝いた。
門の上の記号が浮かび上がる。
門の印。
その下に、小さな黒い石片が現れた。
六つ目の石片。
門。
蓮が手を伸ばそうとした瞬間、中央の水路からマーカスの声が響いた。
「それを取ってはいけない」
声には、明らかな焦りがあった。
「門の石は、私が持つべきものです」
黒瀬が叫んだ。
「無視!」
ナディアも言った。
「蓮さん、早く!」
蓮は門の石片を掴んだ。
その瞬間、強烈な映像が頭に流れ込んだ。
巨大な神殿。
黒い太陽の祭壇。
地下都市の王。
ネフェル=カー。
セティ。
蓮と同じ顔をした男。
そして、神殿の奥で閉じている巨大な目。
六つの石片が、円形に並ぶ。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
水路。
門。
石片は鍵ではない。
封印を開けるためのものでも、閉じるためのものでもない。
それは、神殿へ入る者が、自分を失わないための名前の重りだった。
蓮は膝をつきそうになった。
ナディアが支える。
「蓮さん!」
「石片は……封印の鍵じゃない」
「え?」
「神殿に入るための重りです。名前を流されないようにするためのもの」
セティが静かに頷いた。
「そう。持たずに入れば、声になる」
黒瀬が顔を青ざめさせた。
「マーカス、これなしで入る気だったんですか」
「違う」
セティは言った。
「彼は、自分の名前を捨ててでも入ろうとしている」
その言葉に、三人は黙った。
自分の名前を捨ててでも。
それは、マーカスがどれほど危険な状態にいるかを示していた。
水路の奥から、低い音が響いた。
ゴォン。
円筒の底の音と同じ。
セティの顔が強張る。
「戻って。門の石を取ったから、水路が閉じる」
「君は?」
蓮が聞く。
「僕はまだ戻れない」
「セティ――」
「名前を呼んで」
セティは言った。
「戻るまで、僕の名前を忘れないで」
蓮は頷いた。
「セティ」
ナディアも言った。
「セティ」
黒瀬も続けた。
「セティ」
少年の輪郭が少しだけ濃くなる。
彼は小さく笑った。
「ありがとう」
その瞬間、水路の光が逆流を始めた。
通路全体が揺れる。
壁に流れていた名前が一斉に動き出し、三人の周囲へ押し寄せてくる。
蓮。
ナディア。
玄。
セティ。
マーカス。
ネフェル=カー。
名前が嵐のように流れる。
ナディアが叫ぶ。
「名前を呼び合って!」
「ナディア! 玄!」
「蓮! 玄!」
「蓮さん! ナディアさん!」
三人は互いの名前を呼びながら走った。
水路の通路は、来たときより狭くなっていた。壁の名前が腕に触れそうになる。触れたら、その名前に引きずられる。そんな恐怖があった。
途中、蓮は壁に自分の名前が刻まれるのを見た。
篠原蓮。
日本語で。
その文字が、ゆっくりと壁の奥へ沈もうとしている。
蓮は見てはいけないと思った。
だが目が離せない。
自分の名前が、地下に保存されようとしている。
その瞬間、ナディアが叫んだ。
「蓮!」
名前が引き戻される。
蓮は走った。
水の壁が前方に見えた。
ホテル地下へ戻る入口だ。
三人はそこへ飛び込んだ。
*
保管室の床に転がり出たとき、蓮は自分がまだ呼吸していることを確認した。
服は濡れていない。
だが、全身が水底から引き上げられたように重かった。
ナディアも黒瀬も、床に倒れ込んでいる。
黒瀬が荒い息のまま言った。
「戻った……戻りましたよね?」
「戻りました」
ナディアが答えた。
蓮は手の中を見た。
水路の石片。
門の石片。
二つともある。
これで六つ。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
水路。
門。
全ての石片が揃った。
その瞬間、保管室の奥の壁が音もなく変化し始めた。
コンクリートが消え、再び石壁が現れる。
だが、前とは違った。
そこには階段ではなく、巨大な門があった。
ホテルの保管室に収まるはずのない大きさだった。空間そのものが歪み、保管室の奥だけが地下神殿の入口へ変わっている。
門の中央には、六つのくぼみが円形に並んでいた。
六つの石片を嵌める場所。
ナディアが息を呑む。
「黒い太陽の神殿……」
蓮は門を見上げた。
門の向こうから、低い音が響いている。
ゴォン。
ゴォン。
眠るものの鼓動。
閉じた目の振動。
黒瀬が震える声で言った。
「これ、入口じゃないですか……」
誰も笑わなかった。
門の表面に、文字が浮かび上がる。
蓮には意味がわかった。
六つの名を持つ者だけが、神殿へ入る。
名を失う者は、声となる。
声を欲する者は、神を起こす。
蓮は拳を握った。
マーカスを止めなければならない。
だが、それだけではない。
セティを救う方法を探さなければならない。
かつて果たされなかった約束を、どうにかしなければならない。
そして、神になってしまった記憶を、再び眠らせなければならない。
ナディアが立ち上がった。
「今日は入りません」
蓮は頷いた。
「はい」
黒瀬も床に座ったまま両手を上げた。
「絶対入りません。今入ったら全滅します」
ナディアは六つの石片を見た。
「次に入るとき、私たちは黒い太陽の神殿へ向かうことになります」
蓮は門を見つめた。
その奥には、地下都市の王ネフェル=カーがいるのかもしれない。
セティを封じた祭司たちの記憶があるのかもしれない。
マーカスが求める神の声があるのかもしれない。
そして、自分と同じ顔をした者の真実も。
門の奥から、セティの声が聞こえた。
「蓮」
蓮は小さく答えた。
「セティ」
「約束は、まだ石の中にある」
「どうすればいい」
「神殿で、思い出して」
声はそこで途切れた。
保管室に沈黙が戻る。
だが、その沈黙はもう日常のものではない。
門は開かれるのを待っている。
終わったのだろうか?
水路は失われ、門は現れた。
そして次に蓮たちが向かうのは、地下迷宮の奥に眠る、黒い太陽の神殿だった。




