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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第2章 ドゥアトへ続く階段

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5:失われた水路

5:失われた水路


 地下入口の階段は、消えていた。

 蓮がホテル地下の保管室へ駆け込んだとき、そこにあったのは見慣れたコンクリートの壁だけだった。

 古代の石壁はない。

 黒い太陽の印もない。

 青白い光も、冷たい風も、下へ続く階段もない。

 昨日まで、確かにそこに開いていたはずの入口は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

 保管室の奥には、古い棚と段ボール箱、使われなくなった機材ケースが並んでいる。床には薄い埃が積もり、蛍光灯の光が白く壁を照らしていた。

 あまりにも普通だった。

 その普通さが、逆に恐ろしかった。

「見ての通りです」

 黒瀬玄は、壁の前に立っていた。手には懐中電灯と測定器を持っている。髪は乱れ、顔色は悪い。おそらく、蓮に連絡する前から何度も確認したのだろう。

「昨日までここにありましたよね。石の入口。階段。黒い太陽。全部」

「ありました」

 蓮は壁に近づいた。

 コンクリートの表面に触れる。

 温かい。

 地下から吹いていた冷気はない。指先には、ただ少しざらついた建材の感触だけが残った。

 壁を叩く。

 コン、コン。

 軽い音。

 その向こうに空洞があるようには聞こえない。

「ナディアさんは?」

「今、管理スタッフに聞き取りしています。監視カメラも確認中です。でも、たぶん何も映ってません」

「いつ消えたんですか」

「わかりません。夜間の監視スタッフは、ずっと入口があったと言っています。ただ、午前三時ごろに数分だけ停電がありました。その後、確認したら壁に戻っていた」

「停電……」

 蓮は昨夜の夢を思い出した。

 セティとの約束。

 黒い太陽の神殿。

 そしてノートに浮かんだ文字。

 五人目は、水路を失う。

 水路を失うとは、地下の水路だけではなかった。

 入口そのものが失われた。

 戻る道が閉じた。

「蓮さん」

 黒瀬が低い声で言った。

「これ、かなりまずいですよね」

「はい」

「地下へ行けなくなった、という意味ならいいんです。むしろ歓迎したいくらいです。でも、たぶんそうじゃない」

「閉じ込められた?」

「こっち側に閉じ込められたならまだいいです。でも、地下との接点が消えたのに、石片は残ってます」

 黒瀬は机の上に置かれたケースを指した。

 そこには、これまで手に入れた石片が保存されていた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく人物。

 目。

 四つの石片。

 そのうち、目の石片だけが、淡く青白い光を帯びていた。

「入口は消えた。でも石片は反応してる」

 黒瀬は言った。

「つまり、地下とのつながりは切れてない。むしろ、別の形になっただけかもしれません」

 蓮は目の石片を見た。

 閉じた目の印。

 その瞼は、石に刻まれただけの線のはずなのに、今にも開きそうに見えた。

 触れてはいけない。

 本能がそう告げる。

 だが、目を離せない。

 蓮は自分の胸の奥に、昨夜の夢の痛みが残っているのを感じた。

 私は必ず、お前を迎えに戻る。

 古代の誰か――蓮と同じ顔を持つ者が、セティに告げた約束。

 その約束は果たされなかった。

 セティは地下に残され、名前を忘れられ、声を聞き続け、封印の一部になった。

 もし地下がその約束を食べ、石にして、何千年も残していたのだとしたら。

 蓮が呼ばれた理由は、ただ考古学者だからではない。

 ただ印を持ったからでもない。

 約束が、蓮を呼んでいる。

 叶えられなかった言葉が、蓮の形を借りて、もう一度地下へ戻ろうとしている。

「蓮さん?」

 黒瀬の声で、蓮は我に返った。

「大丈夫ですか」

「……昨夜、夢を見ました」

「またですか」

「セティが封印される場面です。蓮と同じ顔をした人物が、彼に約束していました。必ず迎えに戻る、と」

 黒瀬は何も言わなかった。

 蓮は続けた。

「でも、その約束は果たされなかった。セティはずっと地下に残された」

 黒瀬は視線を落とした。

「それで、地下が蓮さんを呼んでいる?」

「たぶん」

「それ、本当に蓮さんが背負う必要ありますか」

 黒瀬の声には、怒りに似たものが混じっていた。

「古代の誰かがやったことでしょう。蓮さん本人じゃない。地下が勝手に役割を押しつけているだけかもしれない」

「そうかもしれません」

「だったら、無視していいじゃないですか」

 蓮は答えられなかった。

 無視できるなら、どれだけ楽だっただろう。

 だが蓮は、セティの名前を呼んだときの表情を覚えている。

 久しぶりに、外から聞こえた。

 僕の名前。

 あの声を、もう無視できない。

 蓮は静かに言った。

「僕が本人じゃなくても、セティは今、そこにいるんです。地下に残されている。それを知ってしまった以上、何もしないことはできません」

 黒瀬はしばらく蓮を見ていた。

 やがて、大きく息を吐いた。

「そう言うと思いました」

「すみません」

「謝らないでください。俺も、あの子の名前を呼んじゃいましたし」

 黒瀬は照れ隠しのように頭を掻いた。

「一度名前を呼んだら、もうただの怪異扱いできないですよ。困ったことに」

 そのとき、保管室の外から足音が聞こえた。

 ナディアが入ってきた。

 彼女の顔は緊張していた。

「監視カメラを確認しました」

「何か映っていましたか」

 黒瀬が聞く。

「階段が消える瞬間は映っていません。午前三時十二分から三時十六分まで、映像が完全に黒くなっています」

「停電の時間ですね」

「ええ。ただし、その直前にマーカスが地下階へ向かう姿が映っていました」

 蓮の胸が冷たくなった。

「マーカスが?」

「はい。ですが、本人は部屋にいたと主張しています。カードキーの記録上も、彼の部屋のドアは開いていません」

「また影かもしれませんね」

 黒瀬が言った。

「昨日の地下で出たマーカスみたいに」

 ナディアは頷いた。

「その可能性があります。ただ、今回は別の問題があります」

「まだあるんですか」

 黒瀬が疲れた声を出す。

 ナディアはタブレットを机に置いた。

 画面には、監視カメラの静止画が映っていた。地下廊下を歩くマーカスらしき人影。輪郭は少しぼやけているが、服装も体格も本人に見える。

 その手には、何かが握られていた。

 黒い石片。

 蓮は息を止めた。

「まさか……」

 ナディアが次の画像を表示する。

 マーカスの手元を拡大したものだった。

 粗い画像だが、石片の印はかろうじて見える。

 水路。

 流れる線のような印。

「五つ目の石片です」

 ナディアは低く言った。

「水路の石片を、彼が持っている可能性があります」

 黒瀬が目を見開いた。

「ちょっと待ってください。水路の石片って、次の段階ですよね」

「はい」

「蓮さんたちが手に入れるはずだったやつを、マーカスが先に持った?」

「そう考えられます」

 蓮はノートの文字を思い出した。

 五人目は、水路を失う。

 水路を失う。

 それは、入口が消えたことだけではない。

 水路の石片を、マーカスに奪われたという意味でもあるのか。

「でも、本人は部屋にいたんですよね」

 黒瀬が言った。

「影が石片を持ち出した? そんなの、もうどう防げばいいんですか」

 ナディアは厳しい表情で答えた。

「わかりません。ただ、マーカスの欲望が地下の通路になっている可能性があります。彼が物理的に入れなくても、地下が彼に石片を渡した」

「最悪ですね」

「ええ」

 蓮は目の石片を見た。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 そして、水路。

 もし水路の石片がマーカスの手にあるなら、儀式の順序は彼の側でも進み始めている。

 残るは、門。

 最後の石片。

 その先に何があるのか。

 黒い太陽の神殿。

 蓮は、まだ見ぬその場所の名を、なぜか知っている気がした。


     *


 マーカスは、自室にいた。

 ナディア、蓮、黒瀬が訪ねると、彼は落ち着いた様子でドアを開けた。白いシャツに薄いカーディガンを羽織り、手にはコーヒーカップを持っている。徹夜明けの蓮たちとは違い、顔色はむしろ良かった。

「朝からお揃いで」

 彼は微笑んだ。

「何かありましたか」

 ナディアは単刀直入に言った。

「昨夜、地下階へ行きましたか」

「いいえ」

「監視カメラにあなたの姿が映っています」

「それは興味深いですね」

 マーカスは少しも驚いた様子を見せなかった。

「映像を見せてもらえますか」

 ナディアはタブレットを差し出した。

 マーカスは映像を見た。

 地下廊下を歩く、自分と同じ姿の影。

 その手に握られた黒い石片。

 マーカスはしばらく黙っていた。

 そして、小さく笑った。

「なるほど」

「なるほど、ではありません」

 ナディアの声が鋭くなる。

「この人物はあなたですか」

「私のように見えます」

「あなたではないと?」

「物理的には、私は部屋にいました。カードキーの記録もあるのでしょう?」

「あります」

「ならば、私はそこに行っていない」

「では、この映像は何ですか」

 マーカスは蓮を見た。

「影です」

 黒瀬が顔をしかめた。

「ずいぶん簡単に言いますね」

「地下では、欲望も記憶も形を持つ。私の一部が地下へ行ったのでしょう」

 マーカスはまるで、それを誇るように言った。

 蓮は一歩前に出た。

「あなたは、水路の石片を持っていますか」

 マーカスの目が、わずかに光った。

「水路の石片?」

「とぼけないでください」

 蓮は言った。

「黒い太陽、舟、膝をつく人物、目。その次は水路です。あなたの影が、それを持っていた」

 マーカスはカップをテーブルに置いた。

「もし持っているとしたら?」

「渡してください」

「なぜ?」

「それは地下を進めるための石片です。あなたが持っていると危険です」

「危険なのは、理解せずに恐れることです」

「あなたは理解していません」

 マーカスは静かに蓮を見た。

「では、あなたは理解しているのですか」

 蓮は答えなかった。

 マーカスは続けた。

「セティは、あなたに何を言いましたか。目を見るな? 声を信じるな? 約束をするな? 彼は封印の番人です。番人は扉が開くことを恐れる」

「彼は番人じゃない。犠牲者です」

 蓮の声は強くなった。

「だからこそ危険なのです」

 マーカスは低く言った。

「犠牲者は、世界を自分の痛みで見ます。彼は自分を閉じ込めた封印を憎んでいる。けれど同時に、その封印がなくなれば自分の存在理由も消える。彼の言葉は矛盾しているはずです」

 蓮は黙った。

 実際、セティの言葉は矛盾していた。

 開けるな。

 でも、石を置け。

 目を見るな。

 でも、目を知らなければ止められない。

 その矛盾を、マーカスは突いてくる。

 ナディアが割って入った。

「セティの言葉が完全ではないとしても、あなたの行動が危険であることに変わりはありません」

「私は地下に選ばれています」

「いいえ。あなたは欲望を利用されているだけです」

 マーカスの表情から、微笑みが消えた。

「欲望は悪ではありません。知りたいという欲望がなければ、人類は何も発見できなかった」

「知りたい気持ちと、支配したい気持ちは違います」

「支配ではない。対話です」

「あなたは対話ではなく、命令したいのです」

 しばらく沈黙があった。

 やがてマーカスは部屋の机の引き出しを開けた。

 蓮たちは身構えた。

 マーカスが取り出したのは、小さな黒い石片だった。

 水路の印が刻まれている。

 蓮の胸が強く打った。

「やはり……」

 黒瀬が呟く。

 マーカスは石片を指先でつまみ、光にかざした。

「昨夜、机の上に置かれていました。私自身は取りに行っていない。ですが、地下は私にこれを渡した」

「渡したんじゃない。利用しているだけです」

 蓮が言うと、マーカスは薄く笑った。

「あなたも同じことをされている」

 その言葉に、蓮は一瞬言葉を失った。

 その通りだった。

 蓮もまた、地下から石片を渡されてきた。黒い太陽を、舟を、膝をつく者を、目を。

 違いは何か。

 セティの警告を聞いていることか。

 ナディアや黒瀬と名を結んだことか。

 それとも、まだ欲望に飲まれていないことか。

 蓮には確信がなかった。

 マーカスは水路の石片を蓮へ差し出した。

 予想外の行動に、蓮は警戒した。

「何のつもりですか」

「あなたに渡します」

 ナディアが目を細めた。

「なぜ?」

「扉はまだ、私を完全には通さない。ならば、あなたが進むしかない」

「あなたの目的のために?」

「私たち全員のために」

「信じられません」

 マーカスは穏やかに言った。

「信じる必要はありません。ただ、石片は必要でしょう」

 蓮は水路の石片を見た。

 欲しくない。

 だが、必要だった。

 入口の階段は消えている。水路を失った。おそらく、この石片が次の入口を開く鍵になる。

 マーカスはそのことを理解している。

 だから渡す。

 自分では入れないから、蓮を使うために。

 それでも、受け取らない選択肢はなかった。

 蓮は手を伸ばした。

 石片に触れた瞬間、冷たい水のような感覚が腕を走った。

 同時に、頭の中に映像が流れ込む。

 暗い地下水路。

 水はない。

 だが、無数の声が川のように流れている。

 その川の底に、名前が沈んでいる。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 セティ。

 マーカス。

 そして、もっと古い名前。

 ネフェル=カー。

 蓮は思わず石片を落としそうになった。

「今、何か見ましたね」

 マーカスが言った。

 蓮は彼を睨んだ。

「あなたには関係ありません」

「ネフェル=カー」

 マーカスがその名を口にした。

 蓮は凍りついた。

 ナディアも反応した。

「今、何と言いました?」

「ネフェル=カー。地下都市の王です。神の声を聞き、黒い太陽の神殿を築いた者」

「その名を、どこで」

「夢で聞きました」

 マーカスは蓮を見た。

「あなたも聞いたのでしょう」

 蓮は答えなかった。

 マーカスは満足げに微笑んだ。

「順序は進んでいます。次は水路。そして門。その先に、黒い太陽の神殿がある」

 ナディアの顔が硬くなった。

「あなたはそこへ行くつもりですね」

「もちろん」

「扉が拒んでも?」

「扉は、いずれ私を認める」

 蓮は水路の石片を握りしめた。

「認めません」

 マーカスは蓮を見た。

「それを決めるのは、あなたではありません」

「いいえ」

 蓮は静かに言った。

「少なくとも、あなたを連れて行くかどうかは僕が決めます」

 マーカスの目に、冷たい怒りが浮かんだ。

 けれど彼はすぐに微笑みに戻った。

「では、また地下で会いましょう」

 その言葉が、不吉に響いた。


     *


 水路の石片を持って保管室へ戻ると、消えていた階段はまだ戻っていなかった。

 だが、コンクリートの壁に変化が起きていた。

 壁の表面に、細い黒い線が浮かび上がっている。

 水路の印。

 流れる線のような模様が、壁の下部から上部へ伸びている。普通の水なら下へ流れるはずだ。だがその線は、下から上へと逆流するように描かれていた。

 ナディアが壁を観察する。

「水路を失う、ではなく、水路が地上へ上がってきている……?」

 黒瀬がセンサーを近づける。

「壁の向こうから低周波。あと、湿度が急に上がってます」

 蓮は水路の石片を取り出した。

 石片が青白く光る。

 壁の印も、それに反応して光った。

 コンクリートの壁が揺らぐ。

 石壁へ変化するのではない。

 水面のように、壁そのものが波打った。

「うわ……」

 黒瀬が一歩下がる。

 壁の表面が液体のようになり、その向こうに暗い通路が見えた。水のない川ではなく、水そのもののような入口。だが、濡れてはいない。光と記憶だけでできた水面。

 ナディアが低く言った。

「これが、水路の入口……」

「入るしかないんですよね」

 黒瀬が言った。

 ナディアは蓮を見た。

「今すぐ入るのは危険です」

「でも入口がまた消えるかもしれません」

 蓮は壁の水面を見た。

 その奥から、声が聞こえる。

 セティではない。

 無数の声。

 川のように流れる声。

 名前を呼ぶ声。泣く声。祈る声。謝る声。笑う声。怒る声。

 その中に、セティの声が混じっていた。

「蓮」

 蓮は息を止めた。

「水路を失ったら、名前を流される」

「名前を流される?」

 蓮が呟くと、ナディアが反応した。

「セティですか」

「はい」

 声は続く。

「水路では、互いの名前を離さないで。声が多すぎるから、自分の名前を見失う」

 蓮はナディアと黒瀬を見た。

「前回より危険です」

「毎回そうですね」

 黒瀬が力なく言った。

 ナディアはしばらく考えた。

 そして決断した。

「短時間だけ入ります。目的は、失われた入口の回復と、水路の性質の確認。黒瀬さん、時間記録。蓮さん、セティの声に注意してください。ただし、声に従いすぎないこと」

「はい」

「名前を結びます」

 ナディアはそう言って、蓮と黒瀬を見た。

 三人は壁の前に立った。

 蓮が最初に言う。

「蓮」

 ナディアが続く。

「ナディア」

 黒瀬が言う。

「玄」

 今度は、互いに呼び合った。

「ナディア。玄」

「蓮。玄」

「蓮さん、ナディアさん」

 黒瀬だけ少し敬称つきだったが、誰も訂正しなかった。

 呼び合った瞬間、壁の水面が静かになった。

 通れる。

 蓮はそう感じた。

「行きます」

 三人は、水の壁をくぐった。


     *


 冷たさはなかった。

 水面のような壁を抜けたのに、服は濡れていない。肌にも水滴はない。だが、耳だけが水中に入ったように重くなった。

 音が変わった。

 ホテルの地下の音は消え、代わりに無数の声が周囲を流れている。

 暗い通路だった。

 足元には水路がある。だが水はない。青白い光が流れているだけだ。その光は、前回よりも濃く、まるで液体のように見えた。

 通路の壁には無数の名前が刻まれていた。

 読めるものもあれば、読めないものもある。エジプトの古い文字、ギリシア文字、アラビア文字、ラテン文字、日本語らしきものまで混じっている。時代も文化もばらばらだった。

 ナディアが息を呑んだ。

「これは……名前の水路」

 黒瀬が震える声で言った。

「壁に名前が流れてる」

 実際、壁の文字は静止していなかった。ゆっくりと移動している。上から下へ、下から上へ、時には横へ。まるで川底の砂のように、名前が流されていた。

 蓮は壁に目を奪われた。

 その中に、自分の名前を見つけた気がした。

 蓮。

 いや、違う。

 見間違いだ。

 また別の場所に、RENという文字が浮かぶ。

 その横に、NADIA。

 さらに少し離れて、GEN。

 黒瀬が呻いた。

「俺たちの名前、ありますよね」

「見ないで」

 ナディアが言った。

「自分の名前を壁に探さないでください」

 だが、難しかった。

 名前は目を引く。

 自分の名前は、どんな文字列よりも強く意識を捕まえる。

 蓮は視線を床へ落とした。

 水路の光が足元を流れている。

 その中にも名前が沈んでいた。

 流されていく名前。

 重なり、崩れ、溶けていく名前。

 セティの声が聞こえた。

「名前を呼んで」

 蓮はすぐに言った。

「ナディア。玄」

 ナディアも答える。

「蓮。玄」

 黒瀬が続く。

「蓮さん、ナディアさん。俺は玄」

 その瞬間、周囲の声が少し遠ざかった。

 名前を呼ぶことで、自分たちの輪郭が戻る。

 本当に、名前が命綱なのだ。

 通路の奥へ進むと、水路が三つに分かれていた。

 それぞれ別の方向へ流れている。

 左の流れには、古い名前が多い。壁画のような文字、ヒエログリフに似た記号。中央の流れには、現代の文字が混じっている。右の流れには、読めない記号ばかりが流れていた。

「どれが戻る道ですか」

 黒瀬が聞く。

 蓮は水路の石片を握った。

 石片は中央の流れに反応している。

 だが、セティの声は別のことを言った。

「中央は、欲しがる人の道」

 蓮は顔を上げた。

「マーカス?」

「彼の名前が流れている」

 セティの声は近い。

「中央へ行くと、彼とつながる」

 蓮は中央の流れを見た。

 確かに、その光の中にMARCUSという文字が何度も浮かんでは消えている。だが、その周囲には別の名前もあった。

 REN。

 NADIA。

 GEN。

 三人の名前も、中央へ引き寄せられている。

 黒瀬が顔をしかめる。

「中央、絶対嫌な感じします」

 ナディアは左と右の流れを観察した。

「左は古い名前。右はまだ読めない名前……もしかすると、右は失われた名前かもしれません」

「戻るには?」

 蓮はセティの声を待った。

 だが、今度は声が聞こえない。

 代わりに、通路全体が揺れた。

 水路の光が強くなる。

 中央の流れから、マーカスの声が聞こえた。

「篠原さん」

 蓮の身体が硬直する。

 声は水路の中から響いていた。

「やはり、来ましたね」

 ナディアが蓮の腕を掴む。

「反応しないで」

 マーカスの声は続く。

「水路は名前を運ぶ。名前は記憶を運ぶ。記憶は扉を開く。あと一つです。門の石を得れば、神殿へ行ける」

 黒瀬が小声で言った。

「聞こえてますよね、これ」

「聞こえています」

 ナディアが低く返す。

 マーカスの姿はない。だが声だけが、水路を通って届いている。

 欲望が通路になる。

 ナディアの言葉が現実になっていた。

「蓮さん」

 マーカスが呼ぶ。

 その声に、無数の別の声が重なる。

 蓮。

 蓮。

 蓮。

 自分の名前が、川の中で引き伸ばされ、ばらばらになっていく。

 レ。

 ン。

 レン。

 篠原。

 シノハラ。

 REN。

 蓮は頭を押さえた。

 自分の名前が、多すぎる。

 どれが自分なのかわからなくなる。

 ナディアが叫んだ。

「蓮!」

 その声が、まっすぐ届いた。

 蓮は息を吸った。

 黒瀬も続ける。

「蓮さん! こっちです!」

 蓮は二人を見た。

 戻った。

 名前が戻った。

 マーカスの声が少し遠ざかる。

 ナディアは強く言った。

「中央はだめです。左へ」

「なぜ左?」

「古い名前の流れです。セティの名前を探します。彼の名前が残っているなら、戻る道につながるはず」

 蓮は頷いた。

 三人は左の水路へ進んだ。

 古い文字が壁を流れている。ヒエログリフに似た記号。知らない王名。祭司の名。都市の名。祈りの断片。その中に、蓮は一つの名前を見つけた。

 セティ。

 正確には、現代の表記ではない。だが意味として、セティだとわかった。

 蓮はその名を呼んだ。

「セティ!」

 水路の光が一瞬止まった。

 次の瞬間、通路の奥に白い影が現れた。

 セティだった。

 彼は水路の向こうに立ち、手招きしている。

「こっち」

 三人はセティを追った。

 今度は、セティの後ろ姿を見失わないように進んだ。だが蓮は、彼だけに意識を集中しすぎないようにした。ナディアの呼吸、黒瀬の足音、自分の名前。それらを同時に意識する。

 名前を離さない。

 水路はやがて細くなり、通路の先に石の門が見えてきた。

 小さな門だった。

 地下都市の巨大な門とは違う。人一人が通れるほどの低い門。門の上には、水路の印と、その奥にもう一つ、別の印が刻まれていた。

 門。

 六つ目の記号。

 最後の石片の印。

 ナディアが息を呑む。

「ここが、次の段階……」

 セティは門の前で立ち止まった。

「水路を失った人は、門にたどり着けない」

「私たちは?」

 蓮が聞く。

「名前を呼んだから、流されなかった」

「マーカスは?」

 セティは目を伏せた。

「彼は、自分の名前を差し出している。だから、門の近くまで来ている」

「止められるか」

「門の石を先に取って」

 セティは門の下を指した。

 そこに、小さなくぼみがあった。

 水路の石片を嵌める形だった。

 蓮は保存袋から水路の石片を取り出した。

 ナディアが小声で言う。

「慎重に」

 蓮は石片をくぼみに置いた。

 音はしなかった。

 代わりに、水路の光が門の下をくぐり、青白く輝いた。

 門の上の記号が浮かび上がる。

 門の印。

 その下に、小さな黒い石片が現れた。

 六つ目の石片。

 門。

 蓮が手を伸ばそうとした瞬間、中央の水路からマーカスの声が響いた。

「それを取ってはいけない」

 声には、明らかな焦りがあった。

「門の石は、私が持つべきものです」

 黒瀬が叫んだ。

「無視!」

 ナディアも言った。

「蓮さん、早く!」

 蓮は門の石片を掴んだ。

 その瞬間、強烈な映像が頭に流れ込んだ。

 巨大な神殿。

 黒い太陽の祭壇。

 地下都市の王。

 ネフェル=カー。

 セティ。

 蓮と同じ顔をした男。

 そして、神殿の奥で閉じている巨大な目。

 六つの石片が、円形に並ぶ。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 石片は鍵ではない。

 封印を開けるためのものでも、閉じるためのものでもない。

 それは、神殿へ入る者が、自分を失わないための名前の重りだった。

 蓮は膝をつきそうになった。

 ナディアが支える。

「蓮さん!」

「石片は……封印の鍵じゃない」

「え?」

「神殿に入るための重りです。名前を流されないようにするためのもの」

 セティが静かに頷いた。

「そう。持たずに入れば、声になる」

 黒瀬が顔を青ざめさせた。

「マーカス、これなしで入る気だったんですか」

「違う」

 セティは言った。

「彼は、自分の名前を捨ててでも入ろうとしている」

 その言葉に、三人は黙った。

 自分の名前を捨ててでも。

 それは、マーカスがどれほど危険な状態にいるかを示していた。

 水路の奥から、低い音が響いた。

 ゴォン。

 円筒の底の音と同じ。

 セティの顔が強張る。

「戻って。門の石を取ったから、水路が閉じる」

「君は?」

 蓮が聞く。

「僕はまだ戻れない」

「セティ――」

「名前を呼んで」

 セティは言った。

「戻るまで、僕の名前を忘れないで」

 蓮は頷いた。

「セティ」

 ナディアも言った。

「セティ」

 黒瀬も続けた。

「セティ」

 少年の輪郭が少しだけ濃くなる。

 彼は小さく笑った。

「ありがとう」

 その瞬間、水路の光が逆流を始めた。

 通路全体が揺れる。

 壁に流れていた名前が一斉に動き出し、三人の周囲へ押し寄せてくる。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 セティ。

 マーカス。

 ネフェル=カー。

 名前が嵐のように流れる。

 ナディアが叫ぶ。

「名前を呼び合って!」

「ナディア! 玄!」

「蓮! 玄!」

「蓮さん! ナディアさん!」

 三人は互いの名前を呼びながら走った。

 水路の通路は、来たときより狭くなっていた。壁の名前が腕に触れそうになる。触れたら、その名前に引きずられる。そんな恐怖があった。

 途中、蓮は壁に自分の名前が刻まれるのを見た。

 篠原蓮。

 日本語で。

 その文字が、ゆっくりと壁の奥へ沈もうとしている。

 蓮は見てはいけないと思った。

 だが目が離せない。

 自分の名前が、地下に保存されようとしている。

 その瞬間、ナディアが叫んだ。

「蓮!」

 名前が引き戻される。

 蓮は走った。

 水の壁が前方に見えた。

 ホテル地下へ戻る入口だ。

 三人はそこへ飛び込んだ。


     *


 保管室の床に転がり出たとき、蓮は自分がまだ呼吸していることを確認した。

 服は濡れていない。

 だが、全身が水底から引き上げられたように重かった。

 ナディアも黒瀬も、床に倒れ込んでいる。

 黒瀬が荒い息のまま言った。

「戻った……戻りましたよね?」

「戻りました」

 ナディアが答えた。

 蓮は手の中を見た。

 水路の石片。

 門の石片。

 二つともある。

 これで六つ。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 全ての石片が揃った。

 その瞬間、保管室の奥の壁が音もなく変化し始めた。

 コンクリートが消え、再び石壁が現れる。

 だが、前とは違った。

 そこには階段ではなく、巨大な門があった。

 ホテルの保管室に収まるはずのない大きさだった。空間そのものが歪み、保管室の奥だけが地下神殿の入口へ変わっている。

 門の中央には、六つのくぼみが円形に並んでいた。

 六つの石片を嵌める場所。

 ナディアが息を呑む。

「黒い太陽の神殿……」

 蓮は門を見上げた。

 門の向こうから、低い音が響いている。

 ゴォン。

 ゴォン。

 眠るものの鼓動。

 閉じた目の振動。

 黒瀬が震える声で言った。

「これ、入口じゃないですか……」

 誰も笑わなかった。

 門の表面に、文字が浮かび上がる。

 蓮には意味がわかった。

 六つの名を持つ者だけが、神殿へ入る。

 名を失う者は、声となる。

 声を欲する者は、神を起こす。

 蓮は拳を握った。

 マーカスを止めなければならない。

 だが、それだけではない。

 セティを救う方法を探さなければならない。

 かつて果たされなかった約束を、どうにかしなければならない。

 そして、神になってしまった記憶を、再び眠らせなければならない。

 ナディアが立ち上がった。

「今日は入りません」

 蓮は頷いた。

「はい」

 黒瀬も床に座ったまま両手を上げた。

「絶対入りません。今入ったら全滅します」

 ナディアは六つの石片を見た。

「次に入るとき、私たちは黒い太陽の神殿へ向かうことになります」

 蓮は門を見つめた。

 その奥には、地下都市の王ネフェル=カーがいるのかもしれない。

 セティを封じた祭司たちの記憶があるのかもしれない。

 マーカスが求める神の声があるのかもしれない。

 そして、自分と同じ顔をした者の真実も。

 門の奥から、セティの声が聞こえた。

「蓮」

 蓮は小さく答えた。

「セティ」

「約束は、まだ石の中にある」

「どうすればいい」

「神殿で、思い出して」

 声はそこで途切れた。

 保管室に沈黙が戻る。

 だが、その沈黙はもう日常のものではない。

 門は開かれるのを待っている。

 終わったのだろうか?

 水路は失われ、門は現れた。

 そして次に蓮たちが向かうのは、地下迷宮の奥に眠る、黒い太陽の神殿だった。

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