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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第3章 黒い太陽の神殿

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1:地下都市の発見

1:地下都市の発見


 六つの石片が机の上に並んでいた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 どれも手のひらに収まるほどの小さな石片だった。だが、その存在感は異様だった。資料室の蛍光灯の下に置かれているにもかかわらず、石片の表面は光を反射しなかった。むしろ、光を吸い込んでいるように見える。

 蓮は椅子に座り、その六つをじっと見つめていた。

 昨夜、水路の向こうで手に入れた最後の石片。門の印。それを保管室へ持ち帰った瞬間、ホテル地下の壁は巨大な門へ変わった。

 黒い太陽の神殿へ続く門。

 蓮には、なぜそれが神殿だとわかったのか、説明できなかった。けれど、わかってしまった。あの門の向こうには、地下都市の中心がある。セティを封じた場所。ネフェル=カーという名の王が関わった場所。そして、マーカスが求める神の声に最も近い場所。

 行かなければならない。

 その思いは、蓮の中で少しずつ重くなっていた。

 怖い。

 逃げたい。

 関わりたくない。

 そのすべては本当だった。

 だが同時に、セティの声が消えなかった。

 約束は、まだ石の中にある。

 神殿で、思い出して。

 約束。

 夢の中で、蓮と同じ顔をした古代の人物がセティに告げた言葉。

 私は必ず、お前を迎えに戻る。

 それが果たされず、地下に残されたまま、石のように固まっているのだとしたら。

 蓮は、自分がその約束に無関係だと言い切る自信を失っていた。

「蓮さん」

 ナディア・ハッサンが声をかけた。

 彼女は資料室のホワイトボードの前に立っていた。そこには、これまでの記号の順序と、それぞれの意味らしきものが書き込まれている。

 黒い太陽――入口、封印、呼び声。

 舟――水のない川、供物の道。

 膝をつく者――目を避ける姿勢。

 目――名前を奪うもの。

 水路――名前の流れ、記憶の川。

 門――神殿への境界。

「本当に行くつもりですね」

 ナディアは確認するように言った。

 蓮は頷いた。

「はい」

「昨日も言いましたが、これは調査ではなく、ほとんど儀式です。六つの石片を使って門を開く。そこから先で何が起こるか、私たちには予測できません」

「わかっています」

「わかっている、という言葉だけでは足りません」

 ナディアの声は厳しかった。

 蓮は彼女を見た。

 ナディアは疲れていた。目の下には濃い影があり、唇も乾いている。それでも彼女は、必死に冷静さを保っている。考古学者として、現場責任者として、そして蓮たちを守ろうとする人間として。

「すみません」

 蓮は言った。

「軽く考えているわけではありません。ただ、ここで止まっても、地下は止まらないと思います」

「ええ。それは私も同じ考えです」

 ナディアはホワイトボードの門の文字を指した。

「すでに地下はホテル内に現れ、夢や記録を通じて広がり、マーカスにも干渉しています。入口を閉じても、別の場所に現れる可能性が高い。ならば、こちらから神殿へ向かい、何が起きているのかを理解する必要があります」

 黒瀬玄が机の端に腰かけ、深いため息をついた。

「言ってることはわかります。でも、理解するために入った結果、名前を取られて声の一部になるとか、本当に最悪ですからね」

「だから六つの石片が必要なんです」

 ナディアは言った。

「水路の中でわかった通り、この石片は封印を開く鍵であると同時に、名前を保つための重りでもあります。神殿に入るなら、三人全員がそれぞれ石片を持つべきです」

「六つあるから、一人二つですか」

 黒瀬が言う。

「はい」

 ナディアは石片を見た。

「蓮さんには、黒い太陽と門を持ってもらいます」

 蓮は少し息を呑んだ。

 黒い太陽。

 門。

 入口と出口。

 開けるものと境界を越えるもの。

「僕でいいんですか」

「地下はあなたに最も強く反応しています。危険ですが、同時に、あなたが持っている方が安定する可能性があります」

 ナディアは続けた。

「私は舟と水路を持ちます。水のない川や名前の流れに対応するためです。黒瀬さんには、膝をつく者と目を」

「え、俺が目?」

 黒瀬は顔をしかめた。

「一番嫌なやつじゃないですか」

「あなたは機材で観測する役割です。直接見る危険を一番理解している。だから、目の石片を不用意に使わない可能性が高い」

「褒められてるのか、危険物を渡されてるのかわからないですね」

「両方です」

 黒瀬は肩を落とした。

「了解です。目、持ちます。でも絶対見ませんからね」

 蓮は六つの石片を見つめた。

 この配置は、偶然ではないように思えた。

 黒い太陽と門。

 舟と水路。

 膝をつく者と目。

 それぞれが対になっている。

 呼び声と境界。

 移動と流れ。

 姿勢と視線。

 地下が要求する儀式の構造が、少しずつ見えてくる。

 だが、構造がわかるほど、危険も深くなる。

「マーカスは?」

 蓮が聞いた。

 ナディアの表情が硬くなった。

「現在は部屋にいます。現地スタッフに確認させています。ただし、昨日のように影が現れる可能性があります。物理的な監視だけでは不十分です」

「彼は、門の石片を欲しがっていました」

「ええ。おそらく神殿へ入るには、六つ全てが必要です。彼が水路の石片を渡したのは、私たちに神殿を開かせるためでしょう」

「自分が後から入るために?」

「もしくは、私たちが開けた瞬間に、影だけでも入り込むつもりかもしれません」

 黒瀬が嫌そうに言った。

「影だけ入るとか、反則すぎますね」

「地下では欲望も通路になります」

 ナディアは静かに言った。

「マーカスの欲望は、すでに地下に道を作っている。だから、神殿内で彼の声や姿を見ても、本人とは限りません。ただし、影でも危険です」

 蓮は窓のない資料室の空気が重くなるのを感じた。

 神殿に入れば、セティだけでなく、マーカスの影にも向き合わなければならない。

 そして、おそらくネフェル=カーにも。

 水路の石片に触れたときに流れ込んできた名。

 ネフェル=カー。

 地下都市の王。

 神の声を聞き、黒い太陽の神殿を築いた者。

 その名を思うと、蓮の胸の奥に、奇妙な圧迫感が生まれる。歴史上存在しない王。だが、地下の記憶の中では確かに存在している。

 彼は何をしたのか。

 なぜセティを封印の中心にしたのか。

 そして、蓮と同じ顔を持つ人物は、その王とどう関わっていたのか。

「行きましょう」

 蓮は言った。

 ナディアが頷く。

 黒瀬は最後にもう一度だけ深いため息をついた。

「行きたくないけど、行きましょう」


     *


 ホテル地下の保管室は、すでに保管室ではなくなっていた。

 奥の壁に現れた巨大な門は、空間の大きさを無視して存在していた。本来なら天井にぶつかるほどの高さがあるはずなのに、門の上部は闇の中へ伸び、保管室の天井をすり抜けているように見える。

 コンクリートの床の上に、古代の石畳が侵食するように広がっていた。境目は曖昧で、近代の建物と地下神殿の入口が、同じ場所に重なっている。

 門の中央には、六つのくぼみが円形に並んでいた。

 蓮は黒い太陽と門の石片を握った。

 ナディアは舟と水路。

 黒瀬は膝をつく者と目。

 各自が石片を持った瞬間、門の表面に薄い光が走った。石片同士が反応している。六つの記号が、門の上に浮かび上がる。

 黒い太陽。舟。膝をつく者。目。水路。門。

 その順番に光り、最後に中央の黒い円へ集まった。

 ナディアが小声で確認する。

「名前を結びます」

 三人は門の前に立った。

 蓮が言った。

「蓮」

 ナディアが続く。

「ナディア」

 黒瀬が言う。

「玄」

 そして互いの名を呼ぶ。

「ナディア。玄」

「蓮。玄」

「蓮さん。ナディアさん」

 黒瀬の呼び方はやはり敬称つきだったが、蓮はその方がむしろ安心した。黒瀬が黒瀬のままでいる証拠のように思えた。

 門のくぼみが青白く光る。

 ナディアが言った。

「石片を嵌めます。順番通りに」

 まず蓮が黒い太陽の石片を入れた。

 小さな振動が門全体に走る。

 次にナディアが舟を。

 黒瀬が膝をつく者を。

 続いて目。

 水路。

 最後に蓮が門の石片を嵌めた。

 全てが揃った瞬間、保管室から音が消えた。

 完全な無音。

 空調の音も、廊下の足音も、外の気配も消えた。三人の呼吸すら、遠くに感じられる。

 門の中央に刻まれた黒い太陽が沈み込む。

 闇が開く。

 石の扉が左右に動いたのではない。門そのものが、内側へ向かって折りたたまれるように消えていった。黒い円が広がり、その奥に青白い光が見える。

 光の中に、道があった。

 広い石畳の通路。

 左右に並ぶ巨大な柱。

 柱の間に刻まれた壁画。

 奥へ続く、地下都市の中心へ向かう道。

 黒瀬が小さく呟いた。

「開いた……」

 蓮は喉を鳴らした。

 門の向こうから、風が吹いてくる。

 冷たく、乾いていて、しかしどこか湿った匂いを含んだ風。

 そこには、石と香と灰と、古い水路の匂いがあった。

「入ります」

 ナディアが言った。

 三人は門をくぐった。


     *


 神殿へ続く道は、地下都市の大通りのようだった。

 足元には滑らかな石畳が続き、中央には水のない水路が一本走っている。水路の中には薄い青白い光が流れていたが、前回のような強い声は聞こえなかった。六つの石片を持っているためか、周囲の声は遠くに押し留められているように感じられた。

 左右には、建物のような遺構が並んでいた。

 低い石造りの家。

 柱のある広場。

 小さな祭壇。

 壺の置かれた部屋。

 崩れた門。

 壁に刻まれた生活の痕跡。

 蓮は足を止めた。

「ここは……都市です」

 ナディアも同じように周囲を見回していた。

「ええ。単なる神殿付属施設ではありません。居住区です」

 彼女の声には、恐怖と興奮が混ざっていた。

 黒瀬はライトを建物の内部へ向ける。

「本当に人が住んでたんですか」

「その可能性が高いです」

 ナディアは近くの部屋へ慎重に近づいた。

 入口は低く、中には石の台と、壁際に並んだ壺のような容器があった。床には割れた土器の破片が散らばっている。壁には、簡素な線で人や動物、舟のような絵が刻まれていた。

「住居跡です」

 ナディアが言った。

「祭祀用だけではなく、日常的に使われた空間に見えます」

 蓮は部屋の壁に残された刻線を見た。

 そこには、小さな子どもの落書きのような絵があった。丸い頭、細い体、手をつなぐ二人の人物。横には、舟の形。そして黒い太陽ではなく、普通の円が描かれている。

 蓮は胸を突かれた。

 ここには人がいた。

 恐ろしい神殿や封印だけではない。誰かが暮らし、食べ、眠り、話し、子どもが壁に絵を描いた。

 地下都市。

 その言葉は、急に現実の重みを持った。

「でも、おかしいです」

 ナディアが部屋の奥を見ながら言った。

「何がですか」

「生活の痕跡はあります。壺、台、壁画、道具。しかし……墓がない」

「墓?」

「人が長く暮らした都市なら、死者を弔う場所があるはずです。墓地、埋葬区画、骨壺、何らかの葬送痕跡。でも、今見えている範囲ではそれがない」

 黒瀬が顔をしかめた。

「死者がいなかった?」

「ありえません。人が暮らせば死者は出ます」

「じゃあ、死者を別の場所に運んだとか」

「それも可能性はあります。ただ……」

 ナディアは通路の奥を見た。

「この都市全体が、死者と生者の境界にあるように見えます。もしかすると、ここでは死者を埋葬するという概念自体が違ったのかもしれない」

 蓮は水路を見た。

 名前の川。

 声の流れ。

 死者の声、生者の声、未来の声。

「死者は、墓に入れられるのではなく、水路に流された?」

 蓮が言うと、ナディアは彼を見た。

「可能性はあります。名前や記憶を水路へ流し、地下全体で保存した。そう考えると、墓がない理由になるかもしれません」

 黒瀬が低く言った。

「でもそれ、つまり死んでも声として残るってことですよね」

「ええ」

「嫌な永遠ですね」

 その言葉に、三人は黙った。

 死者が消えない都市。

 名前が水路を流れ、声が地下に蓄積される都市。

 人々はそれを救いと考えたのか。それとも、逃れられない呪いと感じたのか。

 蓮にはわからなかった。

 ただ、セティの孤独を思うと、その永遠は祝福には思えなかった。


     *


 大通りを進むにつれ、地下都市の姿はより明らかになっていった。

 そこには市場のような広場があった。石の台がいくつも並び、壺や器、石の重りのようなものが残されている。食物の取引か、供物の準備か、あるいは儀式用品の配分が行われていたのかもしれない。

 別の区画には、作業場のような場所があった。壁際に道具が並び、床には黒い粉のようなものがこびりついている。黒瀬がセンサーを近づけると、微弱な磁気反応があった。

「金属加工ですかね」

 黒瀬が言った。

「古代エジプト以前の技術としては、かなり高度かもしれません」

 ナディアは慎重に答えた。

「ただ、年代がまだわかりません。王朝成立以前と断定するには証拠が足りません」

「でも、既知の王朝とは違うんですよね」

「はい。少なくとも、図像体系も文字も、既知のものとはかなり異なります」

 蓮は壁の文字を見た。

 第一玄室のものよりも、ここにある文字は生活に近かった。物の名前、人の名前、数量、日付らしき記号。すべては読めないが、神殿の壁画よりも実務的な印象がある。

 ここには行政があった。

 生活があった。

 社会があった。

 そして、そのすべてが地下に埋もれ、歴史から消えている。

「なぜ、こんな都市が記録に残っていないんでしょう」

 蓮は呟いた。

 ナディアは答えた。

「意図的に消された可能性があります」

「誰に?」

「地上の王朝に。あるいは、この都市の人々自身に」

「自分たちで?」

「封印のためです。もしここが黒い太陽を封じるための都市だったなら、存在そのものを忘れさせる必要があったのかもしれません」

 蓮は足を止めた。

 忘れさせる。

 だが、地下は忘れなかった。

 むしろ忘れられたものを、すべて保存し続けた。

 この都市は、歴史から消えたのではない。

 歴史の下に沈められた。

 そして今、再び浮かび上がろうとしている。

 通路の奥で、低い音が響いた。

 ゴォン。

 三人は同時に立ち止まった。

 黒瀬が端末を見る。

「低周波、強くなっています。神殿の方向からです」

 ナディアが前方を見る。

 大通りの先に、巨大な建造物が見えていた。

 階段状の基壇。

 左右に並ぶ太い柱。

 中央に開いた黒い入口。

 入口の上には、巨大な黒い太陽の印。

 黒い太陽の神殿。

 名前を聞く前から、そうだとわかった。

 そこは、都市の中心だった。

 居住区も、市場も、水路も、すべてがその神殿へ向かって配置されている。まるで都市全体が、神殿を囲む器のように作られていた。

 蓮は胸の奥に圧力を感じた。

 神殿が呼んでいる。

 いや、神殿の奥にある何かが。

「近づきすぎないでください」

 ナディアが言った。

「今日は都市の外縁調査が目的です。神殿内部には入りません」

 黒瀬が即座に頷いた。

「大賛成です」

 蓮も頷いた。

 だが、足は自然と神殿へ向かいそうになる。

 それに気づいた瞬間、蓮は意識して足を止めた。

 知りたい。

 その欲望が危険だと、ナディアは言った。

 神殿は、その欲望を利用する。

 蓮は自分の名前を心の中で呼んだ。

 蓮。

 自分は蓮だ。

 セティを連れてきた古代の誰かではない。

 黒い太陽の役目でもない。

 まだ、自分の名前を持っている。

 そのとき、神殿の入口の前に白い影が現れた。

 セティだった。

 蓮は息を呑んだ。

 セティは神殿の階段の下に立っていた。こちらを見ている。だが、今までよりも遠く、薄い。まるで神殿の力に押し戻されているようだった。

「セティ」

 蓮が小さく呼ぶ。

 ナディアと黒瀬も気づいた。

 セティは唇を動かした。

 声は聞こえない。

 だが、蓮には意味が伝わった。

 中に入らないで。

 その言葉が届いた瞬間、神殿の入口の闇がわずかに揺れた。

 セティの姿が乱れる。

 神殿の奥から、低い声が響いた。

 今度ははっきりと、三人全員の頭に入ってきた。

 名を持つ者よ。

 中へ。

 黒瀬が耳を押さえた。

「聞こえた……」

 ナディアも顔をこわばらせている。

「入ってはいけません」

「はい」

 蓮は答えた。

 だが、声は続く。

 蓮。

 戻れ。

 約束を果たせ。

 蓮の身体が震えた。

 約束。

 その言葉だけが、胸の深いところを掴んでくる。

 神殿の声は、蓮の弱い部分を知っている。

 セティを救いたいという願い。

 過去の罪を知りたいという欲望。

 果たされなかった約束への責任。

 それらを使って、蓮を呼んでいる。

 ナディアが蓮の手首を掴んだ。

「蓮」

 その声で、蓮は少し戻った。

 黒瀬も言った。

「蓮さん、こっちです。神殿見ちゃだめです」

 名前を呼ばれたことで、蓮の足は止まった。

 セティが、神殿の前で必死に首を振っている。

 蓮は深く息を吸った。

「今日は入りません」

 その言葉を口にした瞬間、神殿の奥から怒りのような振動が響いた。

 ゴォン。

 地下都市全体がわずかに揺れた。

 市場の石台が震え、壁の粉が落ち、水路の光が乱れる。

 黒瀬が叫ぶ。

「戻りましょう! これ以上はまずい!」

 ナディアは即座に頷いた。

「撤退します!」

 三人は神殿に背を向けた。

 その瞬間、街のあちこちから声が聞こえ始めた。

 無数の声。

 市場から。

 住居跡から。

 水路から。

 壁から。

 人々の囁き。笑い声。泣き声。祈り。怒号。子どもの歌。

 都市が目を覚まし始めている。

 蓮たちは走った。

 大通りを戻る。だが、来た道が少しずつ変わっている。さっき通ったはずの市場の位置が違う。住居跡の入口が増えている。水路の流れが逆になっている。

「地図、完全に狂ってます!」

 黒瀬が端末を見ながら叫んだ。

「石片を確認して!」

 ナディアが言う。

 三人はそれぞれの石片を握った。

 蓮は黒い太陽と門。

 ナディアは舟と水路。

 黒瀬は膝をつく者と目。

 六つの石片が反応する。

 すると、大通りの床に青白い線が現れた。

 帰還の道。

 完全ではない。線は揺れ、途切れ、時折別の方向へ流れようとする。それでも、何もないよりはずっといい。

「線を追います!」

 ナディアが叫んだ。

 三人は青白い線を追って走った。

 途中、左側の住居から声がした。

「おかえり」

 蓮は足を止めそうになった。

 それは、懐かしい声だった。

 誰の声かはわからない。だが、なぜか胸が痛くなる。

 ナディアが叫ぶ。

「蓮!」

 蓮は走り続けた。

 今度は右側の壁から、セティの声が聞こえた。

「置いていかないで」

 蓮は思わず振り返りそうになる。

 だが、神殿前のセティの警告を思い出した。

 中に入らないで。

 壁から聞こえる声が本物かどうかはわからない。

 地下は声を真似る。

 約束を使う。

 名前を使う。

 蓮は奥歯を噛みしめて走った。

「セティ!」

 蓮は叫んだ。

 返事はない。

 だが、名前を呼ぶことで、自分が何を守りたいのかを思い出せた。

 彼を助けたい。

 だが、その声のすべてに従ってはいけない。

 やがて、門が見えた。

 ホテル地下へ戻るための巨大な門。六つのくぼみは空になっている。石片は蓮たちが持っているためだ。

 門の中央には、黒い円が開いていた。

「通れます!」

 黒瀬が叫ぶ。

 三人は門へ飛び込んだ。


     *


 保管室の床に戻った瞬間、音が戻った。

 空調の低い音。

 外のスタッフの声。

 黒瀬の荒い呼吸。

 ナディアが床に手をつく音。

 蓮は膝をつき、しばらく動けなかった。

 戻った。

 だが、何かを置いてきたような感覚があった。

 名前ではない。

 記憶でもない。

 もっと曖昧なもの。

 安心感。

 日常との距離。

 現実は一つだけだという信頼。

 それが、地下都市に少し削られた気がした。

 ナディアはすぐに石片を確認した。

「全てあります」

 黒瀬も機材を確認する。

「映像は……一部残ってるっぽいです。神殿前はノイズだらけですけど、都市の映像は撮れてる可能性があります」

「よかった」

 ナディアの声には、研究者としての安堵があった。

 蓮は立ち上がり、門を見た。

 保管室の奥には、まだ巨大な門が残っている。だが、その向こうの道は暗く閉じていた。今すぐ再び入ることはできなさそうだった。

 門の表面に、文字が浮かび上がる。

 蓮には意味がわかった。

 都市は目覚めた。

 神殿は名を待つ。

 忘れられた王は、声を聞く。

 忘れられた王。

 ネフェル=カー。

 その名が頭に浮かんだ瞬間、保管室の奥から低い声が響いた。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 そして、最後にもう一つ。

 マーカス。

 三人は同時に顔を上げた。

 門の黒い円の奥で、人影が揺れた。

 マーカスだった。

 いや、本人ではない。影だ。水路で聞こえた声と同じ。欲望が形を持ったもの。

 影のマーカスは、門の向こうからこちらを見ていた。

「見つけましたよ」

 彼は微笑んだ。

「黒い太陽の神殿」

 ナディアが厳しい声で言った。

「入ってはいけません」

「もう遅い」

 影のマーカスは言った。

「都市は目覚めた。神殿は名を待っている。次に入るとき、門は私にも開く」

「なぜ」

 蓮が聞いた。

 マーカスは蓮を見た。

「あなたが道を作ったからです」

 その言葉に、蓮の胸が冷たくなった。

 影はゆっくり薄れていく。

 消える直前、マーカスは言った。

「神殿で会いましょう。蓮さん」

 門の奥が暗く閉じた。

 保管室に沈黙が残る。

 黒瀬が床に座り込んだまま、力なく言った。

「最悪の予告状ですね」

 ナディアは門を見つめたまま、険しい表情で言った。

「次は、私たちが先に入らなければなりません」

 蓮は頷いた。

 その必要はわかっていた。

 だが、次に入れば、もう神殿の前で引き返すことはできないだろう。

 黒い太陽の神殿。

 そこには、ネフェル=カーの記憶がある。

 セティの封印がある。

 マーカスの欲望がある。

 そして、蓮と同じ顔をした者の約束がある。

 蓮は自分の胸に手を当てた。

 名前はまだある。

 蓮。

 そう心の中で呼ぶ。

 次に神殿へ入るとき、何を失うかわからない。

 それでも、行かなければならない。

 保管室の奥で、門は静かに眠っていた。

 だがそれは、閉じた扉ではなかった。

 待っている扉だった。

 地下都市は発見された。

 そして、もう一つの事実も明らかになった。

 そこは死んだ都市ではない。

 忘れられた名前と声を抱えたまま、今も地下で生き続けている都市だった。

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