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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第3章 黒い太陽の神殿

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2:存在しない王朝

2:存在しない王朝


 地下都市の映像は、ところどころ欠けていた。

 黒瀬玄のカメラは確かに記録していた。少なくとも、機械の上ではそうなっている。だが再生してみると、神殿に近づくほど映像は乱れ、音声は低いノイズに覆われ、いくつかの場面は真っ黒に塗り潰されたように消えていた。

 それでも、全てが失われたわけではなかった。

 市場跡。

 住居跡。

 水路。

 作業場。

 壁の文字。

 黒い太陽の神殿へ続く大通り。

 それらは断片的ながら、映像として残っていた。

 ホテルの資料室で、蓮、ナディア、黒瀬の三人はノートパソコンの画面を囲んでいた。部屋のカーテンは閉められ、外の光は入ってこない。蛍光灯の白い光が、机の上の資料やメモ、石片の保存ケースを冷たく照らしている。

 黒瀬は何度も同じ映像を巻き戻し、停止し、拡大した。

「ここ、見てください」

 画面には、地下都市の大通りの脇にあった石柱が映っている。柱の表面には細かな文字が刻まれていた。蓮が現場では一瞬しか見られなかった部分だ。

 黒瀬が画像補正をかけると、文字の輪郭が少し鮮明になった。

 ナディアが身を乗り出す。

「これは……王名枠に似ています」

「王名枠?」

 黒瀬が聞く。

「カルトゥーシュに近いものです。古代エジプトでは、王の名を楕円形の枠で囲むことがあります。ただし、これは既知のカルトゥーシュとは形が違う。もっと角張っていて、円というより水路のような線で囲まれている」

 蓮は画面の中央を見つめた。

 枠の中には、いくつかの記号が並んでいる。

 鳥のような形。

 魂を示すような人型。

 曲がった太陽。

 黒い円。

 そして、水路を思わせる線。

 読めないはずだった。

 だが、蓮の頭の奥に、意味が浮かび上がる。

 ネフェル=カー。

 美しき魂。

 蓮は小さく息を呑んだ。

 ナディアが彼を見た。

「また、意味が入ってきましたか」

「はい」

「何と?」

「ネフェル=カー」

 その名を口にした瞬間、資料室の空気が少し重くなった。

 まるで部屋のどこかで、誰かが聞き耳を立てたようだった。

 黒瀬は思わず周囲を見回した。

「名前を言っただけで、空気変わるのやめてほしいですね」

 ナディアは画面の文字を見つめたまま、低く言った。

「ネフェルは美しいや良いに近い意味を持つ語として知られています。カーは魂、生命力、個人の本質に関わる概念です。ネフェル=カー……確かに美しき魂と訳せるかもしれません」

「既知の王にいますか」

 蓮が聞くと、ナディアは首を振った。

「私の知る限り、主要な王名にはありません。似た要素を持つ名はありますが、この形で地下都市の王として記録されているものはない」

「つまり、存在しない王」

 黒瀬が言った。

「歴史上は、という意味です」

 ナディアは慎重に訂正した。

「でも、この地下都市では王として記録されている可能性があります」

 蓮はその言葉を反芻した。

 存在しない王。

 歴史に残っていない王。

 だが、地下では名を持ち、神殿を築き、セティを封じたかもしれない王。

 ネフェル=カー。

 その名には、美しいという意味が含まれている。だが、蓮が感じる印象は美しさではなかった。むしろ、深い孤独と、危険なほど澄んだ狂気のようなものがあった。

「他の映像にも同じ名前があります」

 黒瀬は別の画像を表示した。

 市場跡の石台。

 住居区の門。

 水路の縁。

 神殿へ続く大通りの壁。

 いくつもの場所に、同じ枠と同じ記号が刻まれていた。

「この都市全体が、ネフェル=カーの支配下にあったということでしょうか」

 蓮が言うと、ナディアは頷いた。

「可能性が高いです。ただ、面白いのは、この王名が神殿だけでなく生活区にも刻まれていることです。単なる王の権威表示ではなく、都市全体を保護する呪文のようにも見えます」

「王の名前が護符になっている?」

「ええ。古代エジプトでは、王は神々と人々をつなぐ存在でした。ここでも、ネフェル=カーは単なる政治的支配者ではなく、地下の声と都市をつなぐ中心的な存在だったのかもしれません」

 黒瀬が言った。

「でも、その王が神の声を聞いて、神殿を作ったんですよね」

「マーカスはそう言っていました」

「マーカス情報って、信用していいんですか」

 ナディアは少しだけ眉を寄せた。

「全面的には信用できません。ただ、地下の記録と一致する部分があります」

 蓮は映像の中の王名を見つめた。

 その記号の列は、ただの名前ではないように見えた。

 呼ぶと、何かが振り返る。

 そんな名だった。


     *


 ナディアは、地下都市で撮影した壁画の中から、王らしき人物が描かれている場面を探し始めた。

 数十分後、彼女は一枚の画像を拡大した。

 それは神殿へ続く大通りの左壁に刻まれていた壁画だった。映像は斜めに揺れていて完全ではないが、人物の配置はわかる。

 中央に一人の男が立っている。

 背は高く、頭には王冠のようなものをかぶっている。既知の上エジプト、下エジプトの王冠とは異なる。細長い冠の中央に黒い円があり、そこから下へ線が伸びている。

 男の前には、膝をつく人々。

 背後には、黒い太陽。

 足元には、水路。

 その男は、右手を耳元に当てていた。

「聞いている……」

 蓮は呟いた。

 ナディアが頷く。

「そう見えます。神の声を聞く王、という描写かもしれません」

 黒瀬は画面に顔を近づけた。

「耳元に手を当てているだけなら、普通の動作にも見えますけど」

「ここでは繰り返し描かれています」

 ナディアは別の画像を表示する。

 王らしき人物が、水路の前に立ち、耳を傾けている。

 別の場面では、黒い太陽の下で目を閉じ、耳に手を当てている。

 さらに別の場面では、円筒状遺構の縁で、下から上がる何かを聞いている。

 どれも、王が見るのではなく聞く姿だった。

「神の声を聞く王」

 蓮は言った。

「でも、セティは神ではないと言っていました。人の声が大きくなりすぎて、神の形になっただけだと」

 ナディアは真剣な表情で頷いた。

「もしネフェル=カーが、その声を聞く能力を持っていたとしたら、彼は最初、その声を神託と考えたかもしれません。死者の声、未来の声、民の祈り。そうしたものが混ざった巨大な声を、王は神の声として受け取った」

「そして、その声に従って神殿を築いた」

「ええ」

 黒瀬が不安そうに言う。

「でも、声って普通に危ないですよね。特に全部の声が混ざっているなら」

「その通りです」

 ナディアは壁画の続きを表示した。

 そこには、同じ王らしき人物が描かれている。だが、姿が少し変わっていた。

 耳に手を当てているのは同じ。

 しかし周囲の人々は、以前のように膝をついているのではなく、顔を覆っている。ある者は倒れ、ある者は逃げようとしている。

 王の背後の黒い太陽は、以前より大きく描かれていた。

 黒い円の周囲に、無数の小さな口のような記号がある。

「声が増えている」

 蓮が言った。

 その意味が、頭に入ってきた。

「王は、最初は声を聞いていた。でも、だんだん声に飲まれていった」

 ナディアは画面を見つめた。

「王が神の声を聞く存在から、神の声に支配される存在へ変わっていったのかもしれません」

「マーカスみたいですね」

 黒瀬が言った。

 その言葉に、三人は沈黙した。

 マーカスも、地下の声を聞いている。

 彼はそれを真実と呼び、継承と呼び、対話と呼ぶ。だが実際には、声に導かれ、欲望を増幅され、地下の通路として利用されている。

 ネフェル=カーも同じだったのかもしれない。

 王は神の声を聞いた。

 その声を理解しようとした。

 やがて、声を支配しようとした。

 そして、声に支配された。

 蓮の背筋が冷たくなった。

 歴史は繰り返しているのではないか。

 ネフェル=カーとマーカス。

 セティと蓮。

 封印と再封印。

 地下は、同じ役割を別の時代の人間に与え、同じ儀式を繰り返そうとしているのかもしれない。


     *


 ナディアはさらに画像を進めた。

 次に映ったのは、王の行列だった。

 ネフェル=カーらしき王が先頭に立ち、その後ろに祭司たちが並んでいる。彼らの手には、舟の模型、壺、杖、石片のようなものがある。

 行列の先には、円筒状遺構が描かれていた。

 そして、行列の中央に、少年がいる。

 セティ。

 彼は舟に乗せられてはいない。まだ地面に立っている。小さな体で、王を見上げている。

 その横に、蓮と同じ顔をした人物が立っていた。

 右手に黒い太陽の印。

 ナディアが画像を拡大する。

「この人物、王ではありません」

「わかるんですか」

 蓮が聞く。

「王冠がない。位置も王の側近に近い。祭司か、あるいは特別な役割を持つ人物です」

「黒い太陽を持つ者」

 蓮は言った。

「扉を開け、扉を閉じる人」

 セティの言葉が蘇る。

 黒瀬が画面を見ながら言った。

「その人、蓮さんに似てるんですよね」

「はい」

「で、王はマーカスみたいに声を聞いていて、セティは封印の器にされて、蓮さん似の人は扉係。嫌な配役ですね」

「まったくです」

 蓮は苦い声で答えた。

 しかし、黒瀬の言い方は乱暴ながら核心を突いていた。

 地下には役割がある。

 声を聞く王。

 封印の器となる少年。

 扉を開閉する者。

 記録する者。

 目を避ける者。

 名前を流される者。

 現代の調査隊もまた、その役割に重ねられている。

 マーカスは、ネフェル=カーに近づいている。

 蓮は、黒い太陽を持つ者に重ねられている。

 セティは、今もセティのまま地下に残っている。

 ナディアと黒瀬は、蓮の名前を結び、記録し、引き戻す役割を担っている。

 では、ナディアと黒瀬は、古代にもいたのか。

 蓮はその考えにぞっとした。

 もしかすると、壁画のどこかに彼らに似た人物もいるのではないか。

 そう思った瞬間、映像の中で何かが動いた。

 蓮は目を凝らした。

「黒瀬さん、今のところ、戻してください」

「え?」

「少し動いたように見えました」

 黒瀬は映像を数秒戻し、再生速度を落とした。

 画面には、王の行列が映っている。壁画なので動くはずはない。だが、ノイズの奥で、ほんの一瞬、セティの顔がこちらを向いたように見えた。

 蓮の心臓が強く打つ。

 黒瀬が再生を止めた。

「見間違い……ですよね」

 ナディアは黙っていた。

 蓮は画面のセティを見つめた。

 壁画の少年は、明らかに蓮の方を見ていた。

 そして、唇が動いた。

 音声はない。

 だが意味はわかった。

 王を信じないで。

 蓮は息を止めた。

 その瞬間、資料室の照明が一度だけ点滅した。

 チカ。

 黒瀬が椅子から立ち上がりかける。

「今の、全員見ましたよね」

 ナディアは低く答えた。

「見ました」

「壁画が動画みたいに動くの、もう本当に勘弁してほしいんですけど」

 蓮はセティの言葉を口にした。

「王を信じないで」

 ナディアの表情が変わる。

「ネフェル=カーのこと?」

「たぶん」

「でも、王はもう死んでいるはずです」

「死んでいても、名前が残っていれば、地下では存在する」

 蓮は自分で言いながら寒気を覚えた。

 名前は記憶。

 名前を呼べば戻る。

 名前を失えば声になる。

 名前が残れば、地下では存在し続ける。

 ネフェル=カーの名は、都市中に刻まれていた。

 護符として。

 王名として。

 記録として。

 あるいは、彼を地下に残すための杭として。

 もしそうなら、ネフェル=カーは完全には死んでいない。

 少なくとも、地下の記憶の中では。

「マーカスがネフェル=カーの名を聞いたのは、偶然ではありません」

 ナディアが言った。

「彼は王の役割に近づいている。声を聞く者として」

「そして、王を信じれば、同じことを繰り返す」

 蓮は言った。

 黒瀬が不安そうに尋ねる。

「同じことって、セティみたいな誰かをまた封印の器にするってことですか」

 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 だが、蓮の中に嫌な予感があった。

 もし封印が弱まっているなら、再び誰かを中心に据えなければならないのかもしれない。

 セティを解放するには、別の誰かが代わりになる必要があるのかもしれない。

 そして地下は、蓮を呼んでいる。

 黒い太陽を持つ者。

 扉を開け、扉を閉じる者。

 蓮は、自分が何のために選ばれているのかを考えた。

 セティを救うためか。

 神を眠らせるためか。

 それとも、セティの代わりに自分が残るためか。

 その答えが、神殿にある。

 そう思った瞬間、胸の奥で黒い太陽が脈打った気がした。


     *


 午後、三人は地下都市の映像をさらに確認した。

 神殿へ続く大通りの途中に、碑文のような長い文章が刻まれた壁があった。現場では神殿の圧力に気を取られ、ほとんど見られなかった場所だ。

 黒瀬が画像をつなぎ合わせ、ナディアが記号の反復を整理する。

 蓮は、その文字の前に座り、意味が頭に入ってくるのを待った。

 読むというより、沈黙した水面に耳を澄ます感覚に近かった。

 最初は断片だった。

 王。

 声。

 水路。

 名。

 眠り。

 黒い太陽。

 地上。

 恐怖。

 やがて、それらが文章のようにつながり始める。

「……聞こえます」

 蓮は呟いた。

 ナディアがペンを構えた。

「ゆっくりでいいです。意味を話してください」

 蓮は画面を見つめながら、言葉を探した。

「これは……王の記録です。ネフェル=カーについて。彼は、最初に声を聞いた王ではない。でも、最初に声へ答えた王」

「声へ答えた?」

「それまで、人々は地下から聞こえる声を恐れていた。死者の声、夢の声、名前を呼ぶ声。それを避け、封じ、忘れようとしていた。でもネフェル=カーは、その声を神の言葉と考えた」

 ナディアは書き取る。

 黒瀬は黙って聞いていた。

「王は水路を開いた。名前の水路を。死者の名を流し、声を集め、地下の奥へ導いた。最初は、それで都市は繁栄した」

「繁栄?」

 ナディアが聞く。

「声が教えたからです。洪水の時期、病の兆し、敵の動き、生まれる子どもの名、死者の願い。王は声を聞き、民を導いた」

 黒瀬が小さく言う。

「予言みたいなものか」

「はい。王は神託の王になった。だから人々は従った。ネフェル=カーは美しき魂と呼ばれた。声を聞いても狂わない、特別な魂だと」

 蓮はそこで言葉を止めた。

 頭の奥が痛む。

 文字の意味が重すぎる。まるで、巨大な石板を一人で持ち上げようとしているような圧力があった。

 ナディアが心配そうに言う。

「休みますか」

「大丈夫です」

 蓮は続けた。

「でも、声は増えた。名前を水路に流すたびに、地下の声は大きくなった。王はもっと聞けるようになり、もっと知るようになり、もっと求めるようになった」

「求める?」

「未来です」

 蓮は喉の奥が乾くのを感じた。

「王は、死者の声だけでは満足しなくなった。まだ生まれていない者の声を聞こうとした。未来の声を」

 ナディアのペンが止まる。

 黒瀬が顔をしかめた。

「未来まで聞こうとしたんですか」

「はい」

 蓮は碑文を見つめた。

「そのために、王は黒い太陽の神殿を築いた。水路に流れる名前を集め、過去と未来の声を一点に集める場所として」

 ナディアが低く言った。

「巨大な記憶の集積装置……」

「でも、声が大きくなりすぎた。王だけでなく、都市の人々も声を聞くようになった。夢に死者が現れ、壁が未来を描き、水路が名前を奪い始めた。子どもたちは、自分の生まれる前の記憶を話した。老人は、自分の死後の声を聞いた」

 黒瀬は顔を青ざめさせた。

「それ、都市全体が狂いますよ」

「はい」

 蓮は頷いた。

「だから、王は封印を決めた」

「自分で作ったものを?」

「はい。でも、その時にはもう、声は神に近い形を持っていた。簡単には止められなかった。声を眠らせるには、声を聞き続ける器が必要だった」

「セティ……」

 ナディアが呟いた。

 蓮は目を閉じた。

「セティは、王の血を引く子どもだったかもしれません」

「王族?」

「碑文には、王の小さき耳、とあります」

「小さき耳……」

「声を聞く力を持った子ども。王よりも純粋に、声を聞ける存在。だから、封印の中心に選ばれた」

 資料室に沈黙が落ちた。

 王が神殿を作り、声を集め、都市を狂わせ、そして自分の血を引く子どもを封印の器にした。

 ネフェル=カー。

 美しき魂。

 その名は、皮肉にしか聞こえなかった。

「蓮さんに似た人物は?」

 黒瀬が聞いた。

 蓮は碑文の続きを見た。

 黒い太陽を持つ者。

 王の耳ではなく、王の手。

 扉を知る者。

 名を結ぶ者。

 封印を閉じる者。

「彼は、王の祭司です」

 蓮は言った。

「ネフェル=カーに仕えた祭司。黒い太陽の儀式を管理し、扉を開閉する役目を持っていた」

「名前は?」

 ナディアが聞く。

 蓮は文字を追った。

 名前がある。

 だが、霞んでいる。

 何度見ても、記号がぼやける。まるで、地下がその名前だけを隠しているようだった。

「読めません」

 蓮は言った。

「そこだけ、意味が入ってこない」

「意図的に消されている?」

 ナディアが言う。

「あるいは、名前を失ったのかもしれません」

 黒瀬の言葉に、蓮は胸を突かれた。

 名前を失った者は、声になる。

 もし蓮に似た祭司が名前を失ったのなら、彼もまた地下の声の一部になっているのかもしれない。

 だから蓮の顔で現れる。

 だから蓮に重なる。

 名前を失った役割が、新しい名前を求めている。

 蓮という名を。

 蓮は掌を握った。

 自分の名前を失ってはいけない。

 何があっても。


     *


 その日の夕方、蓮は一人でホテルの中庭に出た。

 空は赤く染まり、遠くのピラミッドの輪郭が砂漠の光の中で黒く浮かんでいた。風は乾いている。地下都市の冷たい空気とは違う、地上の風だった。

 それでも、蓮の耳にはまだ地下の声が残っていた。

 ネフェル=カー。

 美しき魂。

 声へ答えた王。

 未来を求めた王。

 セティを器にした王。

 蓮は中庭のベンチに座り、目を閉じた。

 すると、すぐに神殿の影が浮かんだ。

 巨大な黒い太陽。

 水路に流れる名前。

 王の耳元で囁く声。

 セティの泣き顔。

 蓮に似た祭司の右手。

 蓮は目を開けた。

 目を閉じれば地下が来る。

 起きていても、地下はすぐそばにある。

「篠原さん」

 声がした。

 蓮は顔を上げた。

 マーカス・リードが、中庭の入口に立っていた。

 彼は穏やかな表情をしていた。だが、以前よりも目の奥の熱が強くなっている。まるで、地下の声を聞き続けたことで、内側から別の光に照らされているようだった。

「少し、話せますか」

 蓮は立ち上がらなかった。

「何の話ですか」

「ネフェル=カーについて」

 蓮は表情を硬くした。

「あなたも、その名を調べていたんですね」

「調べていたというより、思い出していました」

「思い出す?」

 マーカスは蓮の隣に座ろうとしたが、蓮が視線で制したため、少し離れた場所に立ったまま話した。

「王は、悪ではありません」

「セティを封印の器にしたのに?」

「地上を守るためです」

「それを正当化するつもりですか」

「正当化ではない。理解です」

 マーカスの声は落ち着いていた。

「あなたはセティに同情している。わかります。彼は犠牲者だ。しかし、もし彼一人の犠牲で都市が救われ、地上が救われたのなら、王の選択を単純に非難できますか」

「できます」

 蓮は即答した。

 マーカスの眉がわずかに動いた。

「強いですね」

「子ども一人に全てを背負わせる選択を、美しいとは思えません」

「では、あなたならどうした?」

 マーカスが一歩近づく。

「都市全体が狂い、声が地上へ漏れ、過去と未来が混ざり、人々が自分の名前を失い始めた。その時、あなたは何を選ぶ?」

 蓮は答えられなかった。

 マーカスは静かに続ける。

「王は選んだ。だからこそ、地上は今も存在する。歴史は続いた。私たちは生まれた。あなたも、私も」

「そのためにセティが何千年も苦しんだ」

「歴史は、誰かの苦しみの上に成り立っています」

 その言葉に、蓮の中で怒りが燃え上がった。

「それを言う人間は、たいてい自分以外の誰かを犠牲にするんです」

 マーカスの目が冷たくなる。

「感情的ですね」

「あなたは感情を切り捨てすぎです」

「いいえ。私は感情に流されず、全体を見ている」

「全体?」

 蓮は立ち上がった。

「あなたが見ているのは、神殿の奥にある力だけでしょう」

 マーカスは黙った。

 蓮は続けた。

「ネフェル=カーも、最初は全体を見ているつもりだったのかもしれない。都市を救うため、人々を守るため、未来を知るため。でも結局、声に飲まれた。あなたも同じです」

「私は王とは違う」

「違いません」

 蓮はまっすぐ言った。

「あなたはもう、神殿の声を自分の考えだと思い始めている」

 マーカスの顔から、完全に笑みが消えた。

 しばらく沈黙があった。

 中庭の木々の葉が、乾いた風に揺れる。

 遠くで車の音がした。

 マーカスは低い声で言った。

「あなたは、まだ自分が自由だと思っている」

「少なくとも、あなたよりは」

「地下はあなたを選んだ。黒い太陽を持つ者として。あなたは神殿へ入る。そこで、あなたは知るでしょう。セティを救うには、誰かが代わりに残る必要があると」

 蓮の胸が凍った。

 マーカスは静かに続けた。

「それを聞いたとき、あなたはどうするのか。私は楽しみにしています」

「あなたは……知っているんですか」

「声が教えてくれました」

 マーカスは微笑みを取り戻した。

「封印は空席を嫌う。器が解放されるなら、新しい器が必要になる」

 蓮は息ができなくなりそうだった。

 セティを救えば、誰かが代わりになる。

 その可能性は考えていた。

 だが、マーカスの口から聞くと、それはただの可能性ではなく、地下が蓮へ突きつける未来のように感じられた。

「あなたは誰を器にするつもりですか」

 蓮は聞いた。

 マーカスは答えなかった。

 ただ、蓮を見た。

 その視線だけで十分だった。

 蓮。

 黒い太陽を持つ者。

 扉を開け、扉を閉じる者。

 役割は、蓮に近づいている。

「私はあなたを敵だとは思っていません」

 マーカスは言った。

「あなたは必要な存在です」

「道具として?」

「器として」

 その言葉に、蓮は背筋が冷たくなった。

 マーカスは踵を返した。

「神殿で会いましょう。そこでは、誰も嘘をつけない」

 彼は中庭を去っていった。

 蓮はしばらく動けなかった。

 夕陽は沈みかけている。

 ピラミッドの影が、砂漠に長く伸びていた。

 蓮は拳を握った。

 セティを救いたい。

 だが、自分が代わりに残ることになったら。

 ナディアや黒瀬は、それを許さないだろう。

 蓮自身も、死にたいわけではない。地下に囚われたいわけでもない。

 それでも、セティの声を思い出す。

 久しぶりに、外から聞こえた。

 僕の名前。

 蓮は目を閉じた。

 自分の名前を心の中で呼ぶ。

 蓮。

 まだ、自分はここにいる。


     *


 その夜、資料室で三人は再び集まった。

 蓮はマーカスとの会話を、ナディアと黒瀬に伝えた。

 ナディアは険しい表情で聞いていた。黒瀬は途中で何度も顔をしかめた。

「新しい器が必要になる、ですか」

 黒瀬は低く言った。

「最悪の中でもかなり最悪ですね」

 ナディアは蓮を見た。

「蓮さん。絶対に一人で判断しないでください」

「はい」

「セティを救うために自分が残る、という選択を、あなた一人で決めることは許しません」

 蓮は少し驚いた。

 ナディアの声は、今までで一番強かった。

「私は、あなたを神殿に渡すためにここまで来たわけではありません」

 黒瀬も頷いた。

「そうです。蓮さんが自己犠牲ルートに入りそうになったら、俺が物理的に止めます」

「ありがとうございます」

「冗談じゃなく、本気です」

 黒瀬の目は真剣だった。

 蓮は二人を見た。

 名前を結ぶ。

 それは、地下の中だけの技術ではないのかもしれない。

 自分が自分を失いそうになったとき、誰かが名前を呼び、引き戻してくれる。セティには、それがなかった。だから彼は何千年も地下に残された。

 蓮には、ナディアと黒瀬がいる。

 それは、セティの過去との大きな違いだった。

「明日、神殿へ入ります」

 ナディアが言った。

「ただし、目的を明確にします。第一に、ネフェル=カーの記録を確認する。第二に、セティの封印構造を調べる。第三に、マーカスの干渉を防ぐ。そして、最も重要なのは、誰も器にならないこと」

「誰も器にならない」

 蓮は繰り返した。

「はい。セティを救う方法があるとしても、誰かを代わりに閉じ込める方法は選びません」

 その言葉は、蓮の胸に深く沈んだ。

 代わりを作らない。

 それは、ネフェル=カーが選べなかった、あるいは選ばなかった道だ。

 黒瀬が言った。

「じゃあ、俺たちの作戦名は誰も置いていかないで」

 ナディアが少しだけ笑った。

「悪くありません」

 蓮も、久しぶりに少し笑えた。

 だが、その瞬間、机の上に置いていた六つの石片が同時に震えた。

 カタカタカタ。

 三人は笑みを消した。

 石片が青白く光る。

 そして、資料室の壁に黒い文字が浮かび上がった。

 読めない文字。

 けれど、蓮には意味がわかった。

 王は目覚めた。

 神殿は開く。

 名を持つ者よ、黒い太陽の前へ。

 続いて、もう一行が現れる。

 代わりなき解放は、存在しない。

 ナディアの顔が硬くなる。

 黒瀬が低く呟いた。

「挑発してますね、完全に」

 蓮は壁の文字を見つめた。

 代わりなき解放は、存在しない。

 地下はそう告げている。

 だが、それを受け入れるわけにはいかない。

 セティを救う。

 誰も代わりにしない。

 マーカスを止める。

 ネフェル=カーの記憶を読む。

 不可能に近い。

 それでも、蓮は拳を握った。

「存在しないなら、作ります」

 蓮は言った。

 ナディアと黒瀬が彼を見る。

「代わりを作らずに、セティを解放する方法を」

 壁の文字が、ゆっくりと消えていく。

 その直前、蓮にはどこかでセティの声が聞こえた気がした。

 小さく、頼りなく、けれど確かに。

「蓮」

 蓮は答えた。

「セティ」

 名前を呼ぶ。

 忘れないために。

 明日、彼らは黒い太陽の神殿へ入る。

 そこには、存在しない王朝の王がいる。

 歴史から消された都市がある。

 神になってしまった声が眠っている。

 そして、果たされなかった約束の石が、蓮を待っている。

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