3:記憶を食べる壁
3:記憶を食べる壁
黒い太陽の神殿へ入る朝、蓮は自分の名前を紙に書いた。
白いメモ用紙に、ペンでゆっくりと。
篠原蓮。
その下に、ローマ字で書く。
Ren Shinohara.
さらに、その横にひらがなで書いた。
しのはら れん。
意味のない行為に見えるかもしれない。だが、蓮にとっては必要だった。
地下では、名前が失われる。
名前を取られた人間は、自分が誰だったか忘れ、声の一部になる。
セティはそう言った。
だから蓮は、何度も自分の名前を書いた。書きながら、心の中で繰り返した。
篠原蓮。
日本から来た考古学研究者。
古代エジプトの埋葬儀礼を研究している。
ナディアと黒瀬とともに、地下都市を調査している。
セティを救いたいと思っている。
だが、自分を犠牲にするために来たわけではない。
そこまで書いて、蓮はペンを止めた。
最後の一文を、少し迷ってから書き足す。
誰も置いていかない。
黒瀬が昨夜、冗談のように言った作戦名。
だが、その言葉は蓮の中で強く残っていた。
誰も置いていかない。
セティも。
ナディアも。
黒瀬も。
そして、自分自身も。
蓮はメモを折りたたみ、胸ポケットに入れた。
そのとき、部屋のドアがノックされた。
「蓮さん、準備できていますか」
ナディアの声だった。
「はい」
蓮はドアを開けた。
ナディアは調査用の服に着替えていた。腰にはライト、記録端末、救急キット、小型カメラ。首からは身分証が下がっている。だが、今日の彼女はいつもより少しだけ顔色が悪かった。
「眠れましたか」
蓮が聞くと、ナディアは小さく首を振った。
「少しだけです。夢を見ました」
「地下の?」
「ええ」
彼女は廊下の奥を見た。
「水路の夢でした。名前が流れていて、その中に祖母の名前がありました」
「お祖母さんの……」
「ええ。ありえるはずがありません。祖母はこの地下と関係ありません。エジプトの昔話はよくしてくれましたが、それだけです」
「地下は、記憶を使う」
蓮が言うと、ナディアは頷いた。
「だから気をつけましょう。今日は、神殿の壁そのものが危険かもしれません」
「壁?」
「地下都市の壁画は、過去や未来を描きました。水路は名前を流した。神殿の壁は、おそらくその中心です。見るだけで、記憶に干渉してくる可能性があります」
蓮は胸ポケットのメモに触れた。
「自分の名前を書いてきました」
ナディアは少し驚き、それから柔らかく頷いた。
「いい方法です。私も書いておけばよかった」
「今からでも」
蓮が言うと、ナディアは小さく笑った。
「そうですね。黒瀬さんにも書かせましょう」
*
資料室に入ると、黒瀬玄はすでに機材の準備を終えていた。
机の上には、六つの石片が並んでいる。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
水路。
門。
昨日と同じ配置。
だが、今日はすべてがかすかに震えていた。
まるで、神殿へ戻る時を知っているように。
黒瀬は蓮を見るなり、紙を一枚掲げた。
「名前、書きました」
そこには太い字でこう書かれていた。
黒瀬玄。
機材担当。
ビビっているが正常。
蓮さんとナディアさんを忘れない。
地下の声は信用しすぎない。
蓮は思わず笑ってしまった。
「黒瀬さんらしいですね」
「大事ですよ。特にビビっているが正常。怖くなくなったら終わりです」
ナディアも紙に自分の名前を書いた。
Nadia Hassan.
私はナディア・ハッサン。
考古学者。
蓮と玄を連れて戻る。
セティを忘れない。
マーカスの声に従わない。
ナディアは最後の一文を書き終えると、静かに紙を折った。
「では、確認します」
彼女は六つの石片を見た。
「蓮さんは黒い太陽と門。私は舟と水路。黒瀬さんは膝をつく者と目。名前を呼び合うこと。壁を見すぎないこと。マーカス、ネフェル=カー、セティ、あるいは私たちの知っている誰かの声が聞こえても、すぐには反応しないこと」
「了解です」
黒瀬が頷く。
蓮も頷いた。
ナディアは続けた。
「今日の目的は三つです。第一に、神殿内の構造を確認する。第二に、セティの封印に関する記録を見つける。第三に、マーカスの干渉を防ぐ。もし器の交代を求めるような仕組みがあった場合、絶対にその場で応じない」
蓮は静かに答えた。
「はい」
黒瀬が蓮を見た。
「本当にお願いしますよ。蓮さん、自己犠牲しそうな顔する時ありますから」
「気をつけます」
「気をつけるじゃ足りないです。もし残るとか言い出したら、俺が担いで戻ります」
「黒瀬さんに担がれるのは少し不安です」
「そこは頑張りますよ。筋トレしてませんけど、火事場の馬鹿力で」
その冗談に、少しだけ空気が緩んだ。
だが、長くは続かなかった。
机の上の石片が、同時に青白く光った。
神殿が呼んでいる。
誰も言わなかったが、三人ともそう感じた。
*
ホテル地下の保管室に現れた巨大な門は、前よりも濃い闇をまとっていた。
六つのくぼみは、すでに淡く光っている。まるで石片を待っているようだった。
蓮たちは前回と同じように名前を結び、石片を順に嵌めた。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
水路。
門。
最後の門の石片が入ると、黒い円が沈み、門が内側へ開いた。
今度は、地下都市の大通りを経由しなかった。
門の向こうには、直接、黒い太陽の神殿の前庭が広がっていた。
「道が短くなっています」
ナディアが言った。
「歓迎されてるんですかね」
黒瀬が小声で言う。
「それとも、逃げ道を減らされているのかもしれません」
蓮が答えると、黒瀬は顔をしかめた。
「後者っぽいのが嫌です」
三人は門をくぐった。
神殿前の広場は、昨日よりも静かだった。
地下都市の住居跡、市場、水路は遠くに霞んでいる。まるで神殿だけが現実として濃くなり、周囲の都市は記憶の薄い層へ退いてしまったようだった。
黒い太陽の神殿は、巨大だった。
階段状の基壇の上に、太い柱が並び、その奥に黒い入口が開いている。柱には、無数の耳、目、口、舟、水路、名前の記号が刻まれている。
入口の上には、巨大な黒い太陽。
その中心は、ただの彫刻ではなく、本当に深い穴のようだった。
見つめていると、視線が吸い込まれる。
蓮はすぐに目をそらした。
「中へ入ります」
ナディアが言った。
「ただし、壁に注意を。必要以上に見つめないでください。記録は短時間で」
黒瀬がカメラを起動する。
「今回はカメラ越しでも危ないんですかね」
「目は直接見ない。壁は長時間見ない。カメラの映像もあとで分割して確認する」
「了解です。じゃあ撮りっぱなしにしつつ、俺はなるべく画面見ません」
三人は神殿の階段を上った。
一段ごとに、空気が重くなる。
地上にいたときの身体の重さとは違う。記憶が背中に乗ってくるような重さだ。
蓮は一段上るたびに、自分の過去を思い出した。
日本の大学の研究室。
図書館で読んだ古代エジプトの本。
成田空港。
カイロの夕陽。
初めて見たピラミッド。
掌に浮かんだ黒い太陽。
思い出が勝手に浮かび、そして薄くなる。
蓮は胸ポケットのメモを握った。
篠原蓮。
自分は蓮だ。
まだ、覚えている。
神殿の入口に立つと、冷たい風が吹き出してきた。
その風には、声が混じっていた。
はっきりした言葉ではない。だが、無数の記憶の断片が、耳元をかすめる。
母の声。
誰かの泣き声。
日本語。
アラビア語。
聞いたことのない古代の言葉。
セティの名前。
マーカスの笑い声。
ネフェル=カーという低い響き。
ナディアが言った。
「名前を」
蓮は即座に答えた。
「蓮」
「ナディア」
「玄」
三人は互いの名を呼び合った。
すると、声の濁流が少し引いた。
神殿の中へ足を踏み入れる。
*
神殿内部は、思っていたよりも広かった。
入口を抜けると、巨大な列柱室が広がっていた。天井は暗く、見えないほど高い。左右に並ぶ柱は、一本一本が巨木のように太く、その表面にはびっしりと文字と壁画が刻まれている。
床には、六本の水路が走っていた。
水はない。
青白い光だけが、細い川のように流れている。
その六本の水路は、神殿の奥へ向かって合流していた。奥には、黒い幕のような闇がある。その先に、祭壇か、円筒か、あるいは目があるのだろう。
蓮は奥を見ないようにした。
壁を見すぎてもいけない。
奥を見すぎてもいけない。
見ることそのものが危険な場所。
それが黒い太陽の神殿だった。
「まず、入口付近の壁から確認します」
ナディアが言った。
彼女は左側の壁に近づき、短時間だけライトを当てた。
壁には、人々が水路へ名前を流す場面が描かれていた。
死者の名を刻んだ石片を水路へ沈める人々。
王の前で名を唱える祭司。
水路の先で黒い太陽に吸い込まれる文字。
そして、その文字が声となって王の耳へ届く場面。
「名前の循環です」
ナディアが呟いた。
「死者の名前を流し、声として王が聞く。都市全体が、死者の記憶を王へ届ける仕組みになっている」
黒瀬が言った。
「それ、最初は慰霊だったのかもしれませんね」
ナディアは頷いた。
「ええ。死者を忘れないため。死者の声を聞くため。死者と生者をつなぐため」
「でも、やりすぎた」
蓮が言った。
壁画の次の場面には、膨れ上がった黒い太陽が描かれていた。
水路から流れ込む名前が多すぎて、黒い太陽の周囲に無数の口と目が生まれている。王は耳を塞ぎながらも、まだ聞いている。祭司たちは恐れ、人々は倒れ、子どもたちが壁に向かって何かを話している。
ナディアは表情を曇らせた。
「記憶を保存する仕組みが、記憶を食べる仕組みに変わった」
その言葉が、神殿の中で妙に響いた。
記憶を食べる。
まさにそうだった。
壁は記録しているのではない。
食べている。
人々の名前を、声を、恐怖を、約束を。
蓮は壁から目を離そうとした。
だが、一つの壁画が目に入った。
小さな家族の絵だった。
父、母、子ども。三人が水路の前に立っている。子どもは笑っている。母親はその子の頭に手を置き、父親は水路へ石片を落としている。
次の場面で、子どもはいない。
父と母だけが、壁に向かって子どもの名を呼んでいる。
さらに次の場面では、壁の中から子どもの手が伸びている。
蓮は胸が苦しくなった。
亡くなった子どもの声を聞きたい。
その願いが、この都市を支えたのかもしれない。
最初から狂気だったわけではない。
誰かを忘れたくないという、ごく人間的な悲しみが、やがて神になってしまった。
蓮はセティを思った。
セティもまた、忘れられた子どもだ。
誰かのために名前を残す仕組みが、最後には彼自身の名前を奪った。
「蓮さん」
ナディアの声で、蓮は我に返った。
「壁を見すぎています」
「すみません」
「名前を」
「蓮」
「ナディア」
「玄です」
黒瀬が続けた。
名前を呼び合うと、胸の圧迫感が少し薄れた。
だが、完全には消えない。
神殿の壁は、すでに蓮の中の記憶に触れていた。
*
列柱室を進むにつれ、壁画は変化していった。
最初は都市の歴史だった。
死者の名を流す水路。
声を聞く王。
豊かな収穫。
病を避ける人々。
未来の洪水を予見する祭司。
水路に名を沈める葬送儀礼。
だが、奥へ進むほど、壁画は暗くなる。
眠れない人々。
自分の名前を壁に書き続ける者。
まだ生きているのに、水路から自分の死後の声を聞く老人。
生まれていない子どもの声に怯える母親。
王の耳元に群がる無数の口。
黒い太陽から伸びる線に縛られた都市。
そして、セティ。
彼は何度も描かれていた。
最初は、普通の子どもとして。
母親らしき女性と手をつなぎ、地下都市の広場を歩いている。水路の縁で小石を投げ、別の子どもと笑っている。
蓮は足を止めた。
セティが笑っている。
その姿を初めて見た気がした。
これまで蓮が見てきたセティは、いつも悲しげだった。白い布をまとい、警告し、怯え、地下に囚われている少年。
だが壁の中のセティは、ただの子どもだった。
笑っていた。
走っていた。
誰かに抱きしめられていた。
ナディアもその壁画を見て、静かに息を吐いた。
「彼にも、日常があったんですね」
「はい」
蓮は声を抑えた。
その当たり前の事実が、胸を刺した。
セティは初めから封印の器だったわけではない。
神殿の番人でも、地下の幻でもない。
ただ、ここで暮らしていた子どもだった。
壁画の次の場面で、セティは王の前に立っていた。
ネフェル=カー。
王は耳に手を当て、セティを見下ろしている。周囲の祭司たちはざわめき、蓮と同じ顔の祭司が王の後ろに控えている。
セティの頭上には、小さな耳の記号が描かれていた。
王の小さき耳。
声を聞く子ども。
「この時点で、彼は見つかったんですね」
ナディアが言った。
「封印の器として」
蓮の声は低かった。
次の壁画では、セティが水路の前に座らされている。周囲には祭司たち。彼らはセティに名前を聞かせているようだった。水路に流れる死者の名を、セティが受け取る。
その次の場面では、セティは泣いている。
水路から無数の手が伸び、彼の耳と目と胸に触れている。
蓮は拳を握った。
「やめろ……」
思わず呟く。
壁画に向かって言っても意味はない。
すでに過去のことだ。
だが、それでも言わずにはいられなかった。
黒瀬が静かに言った。
「これ、完全に実験ですよね」
ナディアは険しい顔で頷いた。
「王と祭司たちは、セティの能力を試した。どれだけ声を聞けるか。どれだけ耐えられるか」
「子ども相手に」
黒瀬の声には怒りがあった。
その怒りを聞いて、蓮は少しだけ救われた。
自分だけではない。
この場面を見て、怒りを感じる人間がここにいる。
壁画のさらに奥で、セティは舟に乗せられていた。
これまで何度も見た場面。
円筒へ運ばれる少年。
しかし、神殿の壁画では、これまで見えなかった細部が描かれていた。
セティは舟の中で、小さな石片を握っていた。
それは六つの石片のどれとも違う。
丸く、白い石。
その表面には、名前の記号が刻まれている。
ナディアが身を乗り出した。
「これは……セティ自身の名前?」
「名前の石」
蓮の頭に意味が流れ込んできた。
「セティの名前を刻んだ石です。封印の中心に置かれた」
「今もあるんでしょうか」
黒瀬が聞く。
蓮は答えようとして、言葉が止まった。
頭の奥に、セティの声がした。
「取って」
蓮は周囲を見た。
セティの姿はない。
だが、声は確かに聞こえた。
「蓮。僕の名前の石を取って」
「どこにある」
蓮は小声で聞いた。
ナディアが反応する。
「セティですか」
蓮は頷いた。
声は続く。
「神殿の奥。黒い太陽の下。僕の名前は、まだそこにある」
「それを取れば、君は解放されるのか」
沈黙。
その沈黙が嫌だった。
やがてセティは言った。
「少しだけ」
「少しだけ?」
「全部は、まだ無理。でも、名前が戻れば、僕は声に食べられなくなる」
蓮は胸の奥が震えるのを感じた。
セティの名前の石。
それが神殿の奥にある。
そこへ行けば、彼を少しだけでも救えるかもしれない。
だが、それは同時に、神殿の奥へ進むということだった。
ナディアが蓮の表情を見て、すぐに言った。
「急いで決めないでください」
「でも、セティの名前の石が奥にあるそうです」
「それは重要です。しかし、奥へ進む前に準備が必要です」
黒瀬も頷いた。
「蓮さん、今すぐ突っ込むのはなしです。セティを助けたいのはわかりますけど、地下はその気持ちも利用します」
蓮は目を閉じた。
その通りだ。
セティの声が本物だとしても、神殿はその声を利用できる。蓮の罪悪感、救いたい気持ち、約束への執着。それらを使って奥へ引き込むことができる。
蓮は深く息を吸い、名前を呼んだ。
「蓮」
ナディアが続ける。
「ナディア」
黒瀬が言う。
「玄」
三人の名前が神殿の中で小さく響いた。
その瞬間、壁の表面がざわりと動いた。
まるで、神殿そのものがその名前を聞いたようだった。
蓮は壁から一歩離れた。
「今の……」
黒瀬が言った。
「壁、動きましたよね」
ナディアはライトを当てた。
壁画が変化していた。
先ほどまでセティの儀式が描かれていた壁の一部に、新しい場面が浮かび上がっている。
三人の人影。
ヘルメット。
ライト。
機材。
蓮、ナディア、黒瀬。
神殿の中に立つ三人が、壁に描かれていた。
蓮の背筋が冷えた。
まただ。
地下は、現在を壁画に変えている。
だが、今度の壁画はそれだけではなかった。
蓮たちの背後に、黒い影が立っている。
マーカスだった。
いや、マーカスの影。
その影は、三人の後ろから手を伸ばし、壁画の中の蓮の肩に触れようとしていた。
さらにその奥に、巨大な目が描かれている。
閉じていない。
半分だけ開いている。
黒瀬が震える声で言った。
「これ、現在ですか? 未来ですか?」
ナディアは険しい表情で答えた。
「警告です」
そのとき、神殿の奥からマーカスの声が聞こえた。
「見つけました」
蓮たちは振り返った。
列柱室の奥、闇の向こうに、人影が立っていた。
マーカス。
今度も影なのか、本物なのかはわからない。だが、前よりも輪郭が濃い。まるで、神殿に近づくほど彼の影が実体を得ているようだった。
ナディアが強く言った。
「近づかないで」
マーカスは微笑んだ。
「私は近づいていません。神殿が私を呼んでいるのです」
「それが危険だと言っているんです」
「危険は、真実の近くにあります」
黒瀬が小声で言う。
「出た、危ない人の言い方」
蓮はマーカスを見た。
「あなたはネフェル=カーになりたいんですか」
マーカスの表情が一瞬止まった。
「なりたい、ではありません」
「では何ですか」
「彼の失敗を越えたいのです」
「同じことを繰り返すだけです」
「違う」
マーカスの声が低くなった。
「王は声に飲まれた。私は声を理解する。王は子どもを器にした。私は器を不要にする」
蓮は反応した。
「器を不要にする?」
マーカスは微笑む。
「あなたたちも、それを望んでいるのでしょう。セティを救い、代わりを作らない。ならば、私たちの目的は同じです」
ナディアが厳しい声で言った。
「あなたの言葉は信用できません」
「信用ではなく、論理です。声を制御できれば、器は必要ない。黒い太陽を眠らせるのではなく、目覚めさせ、対話する。そうすれば、封印など不要になる」
「それがネフェル=カーの失敗です」
蓮は言った。
「彼も最初は、声と対話できると思った。理解できると思った。でも飲まれた」
「私は違う」
マーカスの声が強くなる。
その瞬間、神殿の壁がざわめいた。
壁画の中の無数の口が開いたように見えた。
そして、壁全体から声がした。
私は違う。
私は違う。
私は違う。
それはマーカスの声であり、ネフェル=カーの声でもあり、過去にこの神殿で同じことを言った全ての人間の声のようだった。
黒瀬が耳を塞ぐ。
「うるさい……!」
ナディアが叫ぶ。
「名前を!」
「蓮!」
「ナディア!」
「玄!」
三人は互いの名前を呼んだ。
声の濁流が少しだけ引く。
だが、マーカスは平然としていた。
むしろ、その声の中で恍惚とした表情を浮かべている。
「聞こえるでしょう」
彼は言った。
「これが歴史の声です。人類の記憶です。これを恐れて封じるなど、愚かなことだ」
「それは記憶ではなく、記憶を食べたものです」
ナディアが言った。
「あなたはもう区別できていない」
マーカスは彼女を見た。
「ナディア。あなたも聞こえているはずです。祖母の声を」
ナディアの顔が凍った。
蓮はマーカスを睨んだ。
「やめろ」
「彼女は知りたい。祖母が語った地下の伝承が、どこから来たのか。家族の記憶がこの場所とどう関係しているのか」
「やめろ!」
蓮が叫ぶ。
しかし、ナディアの表情は揺れていた。
神殿の壁に、新しい場面が浮かび上がる。
幼いナディア。
彼女の祖母。
夜の部屋。
語られる砂の下の神殿の話。
ナディアが小さく息を呑む。
「これは……」
壁は、ナディアの記憶を描いていた。
記憶を食べる壁。
蓮はその意味を理解した。
神殿の壁は、都市の過去だけを記録しているのではない。
見る者の記憶を取り込み、壁画に変えていく。
ナディアの祖母の記憶。
蓮の夢。
黒瀬の恐怖。
マーカスの欲望。
すべてが壁に食われる。
黒瀬が叫んだ。
「見ないで! 壁、見ないでください!」
蓮はナディアの肩を掴んだ。
「ナディア!」
名前を呼ぶ。
ナディアははっとして蓮を見た。
「蓮……」
「戻ってください。ここにいます」
黒瀬も叫ぶ。
「ナディアさん! 俺もいます! 玄です!」
ナディアは深く息を吸った。
壁の祖母の絵が薄れていく。
だが完全には消えない。
神殿はもう、ナディアの記憶の一部を食べた。
マーカスは残念そうに微笑んだ。
「惜しい」
蓮は怒りで震えた。
「あなたは何をしたかわかっているんですか」
「私は何も。神殿が見せただけです」
「それを利用した」
「利用できるものを使うのは、研究者として当然です」
「違う」
蓮は一歩前に出た。
「あなたはもう研究者でも支援者でもない。ただ神殿に話させるための口になっている」
その瞬間、マーカスの背後の闇が揺れた。
黒い太陽の印が、神殿奥で淡く光る。
マーカスの影が、ほんの少しだけ伸びた。人間の影ではない。柱や水路を越えて、壁に絡みつくように広がる。
ナディアが低く言った。
「撤退します」
「でも、セティの名前の石が」
蓮が言いかけると、ナディアは強く首を振った。
「今は無理です。壁が私たちの記憶を食べ始めています。このまま進めば、全員持っていかれます」
黒瀬も頷く。
「同意です。俺、さっきから壁に実家の玄関っぽい絵が見えてます。かなりまずいです」
蓮は神殿の奥を見た。
セティの名前の石。
それは奥にある。
だが今進めば、誰かが名前を取られるかもしれない。
セティを助ける前に、ナディアや黒瀬を失うかもしれない。
誰も置いていかない。
蓮はその言葉を思い出した。
「戻ります」
蓮は言った。
マーカスが声を上げる。
「逃げるのですか」
「違う」
蓮は彼を見た。
「名前を守るために戻る」
マーカスは笑った。
「名前など、やがて全て声になる」
「ならない」
蓮は言った。
「少なくとも、僕たちは呼び合う」
ナディアが蓮の腕を引く。
「行きます」
三人は入口へ向かって走り始めた。
背後で、神殿の壁がざわめく。
無数の記憶が壁に浮かび上がった。
蓮の母の顔。
大学の研究室。
ナディアの祖母。
黒瀬の子どもの頃らしき姿。
セティの泣き顔。
ネフェル=カーの王冠。
マーカスの青い目。
そして、蓮と同じ顔をした古代の祭司。
壁が呼ぶ。
蓮。
ナディア。
玄。
三人は互いの名前を叫びながら走った。
「蓮!」
「ナディア!」
「玄!」
「蓮さん!」
「ナディアさん!」
「玄!」
名前が、縄のように三人を結ぶ。
神殿の出口が見える。
黒い門の向こうに、ホテル地下へ戻る闇が開いている。
しかし、出口の手前で蓮は足を止めかけた。
壁の一部に、セティが描かれていた。
彼は神殿の奥で膝を抱え、こちらを見ている。
唇が動く。
置いていかないで。
蓮の胸が裂けそうになった。
だが、今その声に従えば、全員が戻れない。
蓮は歯を食いしばり、叫んだ。
「セティ!」
壁の中の少年が目を見開く。
「必ず戻る。でも、今は戻る!」
約束は石になる。
セティはそう言った。
だから蓮は言い直した。
「忘れない!」
それは約束ではない。
今、この瞬間の意志だ。
セティの絵が、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
蓮は走った。
三人は門をくぐった。
*
保管室の床に戻った瞬間、蓮は膝をついた。
息が苦しい。頭が痛い。心臓が激しく打っている。
ナディアは壁に手をつき、黒瀬は床に座り込んでいた。
「戻った……」
黒瀬が呟く。
「戻りましたよね? 俺、黒瀬玄ですよね?」
蓮はすぐに答えた。
「黒瀬玄さんです」
ナディアも言った。
「玄。あなたは黒瀬玄です」
黒瀬は大きく息を吐いた。
「よかった。危なかった。壁に家の玄関見えたとき、本当に帰りそうになりました」
ナディアは胸ポケットから紙を取り出した。
自分の名前を書いた紙。
彼女はそれを見て、静かに読んだ。
「Nadia Hassan。私はナディア・ハッサン。考古学者。蓮と玄を連れて戻る。セティを忘れない。マーカスの声に従わない」
読み終えたあと、彼女は目を閉じた。
「大丈夫です。戻っています」
蓮も自分のメモを取り出した。
篠原蓮。
Ren Shinohara.
しのはら れん。
誰も置いていかない。
紙の文字を見た瞬間、身体の奥に戻ってくるものがあった。
自分の輪郭。
蓮は震える息を吐いた。
だが、完全に無事ではなかった。
保管室の壁に、薄い線が浮かび上がっていた。
ナディアの祖母の横顔。
黒瀬の家の玄関らしき輪郭。
そして、蓮の母の顔。
神殿の壁が食べた記憶の一部が、こちら側の壁にも滲み出している。
黒瀬がそれを見て、青ざめた。
「持ち帰ってますね……」
ナディアは低く言った。
「ええ。記憶の侵食が、地上側にも広がっています」
蓮は壁のセティの姿を探した。
なかった。
少しだけ安堵した。
だがその代わり、門の中央に黒い文字が浮かび上がった。
蓮には意味がわかった。
記憶は食われた。
名はまだ残る。
次に入る者は、王の間へ。
王の間。
ネフェル=カーのいる場所。
ナディアが文字を見つめ、険しい顔で言った。
「次は、王の記録に触れることになります」
黒瀬が力なく笑った。
「やっぱり次もあるんですね」
蓮は門を見た。
神殿の奥には、セティの名前の石がある。
そして、王の間がある。
ネフェル=カーの記憶が待っている。
今回、蓮たちは壁に記憶を食べられかけた。
次に入れば、もっと深く食われる。
それでも、行かなければならない。
蓮はメモを握りしめた。
忘れない。
約束ではない。
けれど、祈りに近い意志。
セティを忘れない。
自分の名前を忘れない。
ナディアと黒瀬の名前を忘れない。
神殿の壁は、記憶を食べる。
だが、食べられてもなお、呼び返す名前がある限り、人は完全には失われない。
蓮は静かに言った。
「次は、王の間へ行きます」
ナディアと黒瀬が彼を見る。
蓮は続けた。
「でも、一人では行きません。誰も置いていかないために」
ナディアは頷いた。
「そのために、準備を増やしましょう」
黒瀬も息を整えながら言った。
「名前を書いた紙、次は十枚くらい持っていきます」
蓮は少しだけ笑った。
そして、保管室の奥の門を見た。
門は閉じている。
だが、その向こうで神殿は確かに息をしている。
記憶を食べる壁。
名を待つ神殿。
存在しない王。
そして、名前の石を奪われた少年。
黒い太陽の神殿は、まだ彼らを逃がしてはいなかった。




