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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第3章 黒い太陽の神殿

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4:マーカスの正体

4:マーカスの正体


 翌朝、保管室の壁に残った記憶の絵は、まだ消えていなかった。

 ナディアの祖母の横顔。

 黒瀬の家の玄関らしき輪郭。

 蓮の母の顔。

 どれも薄い線だった。インクでも傷でもない。コンクリートの表面に浮かび上がった影のようなものだ。光の当たり方によって見えたり見えなかったりする。それでも、そこにあると知ってしまえば、もう見えないふりはできなかった。

 黒瀬玄は壁の前に立ち、腕を組んでいた。

「これ、消えないですね」

「はい」

 蓮は壁に触れないように、少し離れて立っていた。

 昨日、黒い太陽の神殿で壁に食べられかけた記憶。その一部が、地上側にまで滲み出している。

 つまり、神殿はもう地下だけに閉じていない。

 記憶を通じて、こちら側へ伸び始めている。

「俺の実家の玄関なんて、誰得なんですかね」

 黒瀬は冗談めかして言ったが、声は乾いていた。

「でも、見てると本当に思い出すんですよ。小学生の頃、学校から帰って、あの玄関の前で鍵を探してたこととか。母親に怒られたこととか。そんな記憶、普段は忘れてたのに」

「壁が記憶を引き出しているんでしょうか」

「たぶん。しかも、勝手に」

 黒瀬は顔をしかめた。

「記憶って、自分の中にあるからまだ許せるんですよ。それが壁に出てくると、急に自分のものじゃなくなる感じがする」

 蓮は壁に浮かぶ母の顔を見た。

 輪郭は曖昧だった。けれど、自分には母だとわかる。昔、病気で寝込んだとき、額に手を当ててくれた母の表情。なぜその場面が浮かんだのか、蓮にはわからなかった。

 神殿の壁は、記録するだけではない。

 こちらが忘れていた記憶を選び、引き出し、並べ替える。

 そして、おそらく食べる。

 「食べる」とは、消すという意味だけではないのかもしれない。自分の記憶だったものを、地下の記憶に変える。個人のものから、神殿のものへ移す。

 それが本当なら、長く神殿にいればいるほど、自分の人生が自分のものではなくなっていく。

「ナディアさんは?」

 蓮が聞くと、黒瀬は資料室の方を指した。

「マーカスの調査をしています。昨日の神殿で、マーカスの影がかなりはっきり出たでしょう。あれで、ナディアさんも本格的に危機感持ったみたいです」

「マーカスの調査?」

「彼の財団とか、過去の研究とか。どこからこの地下の情報を得たのか、調べ直しています」

 蓮は頷いた。

 マーカス・リード。

 最初は、海外資本の調査プロジェクト責任者だった。古代文明に強い関心を持つ支援者。だが今では、その立場は完全に崩れている。

 彼は地下の声を聞いている。

 ネフェル=カーの名を知っている。

 水路の石片を手に入れた。

 神殿で影として現れた。

 そして、セティを救うには新しい器が必要だと告げた。

 彼は敵なのか。

 蓮はそう考える。

 敵だ。

 少なくとも、マーカスの行動は危険で、蓮たちを利用しようとしている。セティを救うというより、黒い太陽の声を支配しようとしている。

 だが、それだけでもない。

 神殿の中で見たマーカスの影は、どこか人間から離れ始めていた。欲望が形を持ち、地下の声に輪郭を与えられた存在。もし彼がすでに取り込まれつつあるのなら、単純な悪役として切り捨てるだけでは足りない。

 マーカスもまた、神殿に食べられているのかもしれない。

 そのとき、廊下の奥からナディアが現れた。

 手にはタブレットと数枚の印刷資料を持っている。顔は険しかった。

「二人とも、来てください。マーカスについて、わかったことがあります」


     *


 資料室の机には、いくつもの資料が並べられていた。

 マーカスが所属する財団の概要。過去の発掘支援記録。エジプト以外の地域での調査履歴。十九世紀の探検記録の写し。未整理のメモ。古い写真。

 ナディアはその中から、一枚の白黒写真を蓮たちに見せた。

 古い写真だった。おそらく百年以上前のものだ。砂漠の中に立つ数人の欧米人と現地スタッフ。その背後には、崩れかけた遺跡の入口のようなものがある。

「これは一九一二年頃に撮影された写真です。場所はサッカラ周辺とされています」

「サッカラ……」

 蓮は第1章で見た封鎖記録を思い出した。

 ナディアは写真の中央にいる人物を指した。

「この人物。エドワード・リード。マーカスの曾祖父です」

 黒瀬が眉を上げた。

「曾祖父?」

「ええ。彼は表向きには考古学愛好家で、複数の発掘隊に資金提供していました。ただ、公式な学術報告にはほとんど名前が残っていません」

「なぜです?」

「非公式な調査が多かったからです。許可の曖昧な探索、未発表の遺物収集、財団内部だけで保管された記録。今の基準ではかなり問題のある活動です」

 蓮は写真を見つめた。

 エドワード・リード。

 マーカスと少し似ている。顔の骨格、目元、姿勢。写真の中の彼も、遺跡の前でどこか誇らしげに立っている。

 ナディアは次の資料を出した。

「そして、このエドワードの日記に、黒い太陽に関する記述がありました」

「日記?」

「財団の古い資料の一部です。マーカスがすべてを共有していなかったので、こちらから別ルートで確認しました」

 黒瀬が感心したように言った。

「ナディアさん、仕事が早いですね」

「今は時間がありませんから」

 ナディアは日記の翻訳メモを読み上げた。

「地下の壁に、黒き太陽を見た。現地の案内人は、それを冥界の門と呼んだ。彼らは深く進むことを拒んだが、私はそこに人類最古の記憶の痕跡を見た。」

 蓮は静かに聞いていた。

 ナディアは続ける。

「声が聞こえた。最初は風の反響と思った。だが声は私の名を呼び、私の父の名を呼び、私が忘れていた幼年期の記憶を語った。私は確信した。地下には、死者の記録ではなく、生者と死者をつなぐ何かがある。」

 黒瀬が顔をしかめた。

「マーカスと同じですね」

「ええ。そしてさらに」

 ナディアはページをめくる。

「我々は入口を失った。現地の少年が一人、壁の前で倒れた。彼は目を開いたまま、誰も知らない言語で話し続けた。翌朝、彼の名前を覚えている者はいなかった。私だけが、その名を記録している。」

 蓮の胸が冷たくなった。

 名前を失う。

 すでに百年以上前にも、同じ現象が起きていた。

「その少年の名前は?」

 蓮が聞くと、ナディアは首を振った。

「日記の該当部分が黒く塗り潰されています」

「塗り潰されている?」

「はい。意図的に」

 蓮は嫌な予感を覚えた。

 名前が記録され、そして消された。

 その名前は地下に取られたのか。あるいは、エドワード自身が消したのか。

 ナディアはさらに別のページを示した。

「エドワードは、その後も黒い太陽の研究を続けました。そして晩年、こう書いています」

 彼女は一呼吸置いてから読んだ。

「私は入口を見つけられなかった。だが、声は血に残る。私が行けずとも、いつか私の名を継ぐ者が戻るだろう。地下は我々を忘れない。黒い太陽は、リードの名を覚えている。」

 資料室が静まり返った。

 黒瀬が低く言う。

「リード家、代々呼ばれてるんですか」

 ナディアは頷いた。

「マーカスの執着は、個人的な興味だけではないかもしれません。彼の家系は、百年以上前から黒い太陽と関わっている」

 蓮はマーカスの言葉を思い出した。

 私は夢で見てきた。

 黒い太陽の下で、誰かが私を待っている。

 マーカスはただの野心家ではない。

 曾祖父の代から続く記録、夢、声、家族の執念。そのすべてを受け継いで、ここへ来た。

 彼もまた、地下に選ばれたというより、地下に追跡され続けてきた人間なのかもしれない。

「彼は、なぜこれを隠していたんでしょう」

 黒瀬が聞いた。

「自分の正当性を主張する材料にもなりそうですけど」

 ナディアは険しい顔で答えた。

「おそらく、単なる学術調査ではなく、家族の使命だと見られるのを避けたかったのでしょう。あるいは、自分が地下の声に個人的に影響されていると知られたくなかった」

「もう十分バレてますけどね」

 黒瀬が小さく言った。

 蓮は資料を見ながら、別のことを考えていた。

 リード家は、黒い太陽に記憶されている。

 ならば、マーカスの欲望は本当に彼自身のものなのか。

 曾祖父の記憶。

 消された少年の名前。

 黒い太陽を見た探検家の執念。

 家族に受け継がれた夢。

 それらがマーカスの中で混ざり、彼を神殿へ引きずっているのではないか。

 もしそうなら、彼は敵であると同時に、地下の被害者でもある。

 そのことが、蓮の判断を鈍らせた。

 ナディアは蓮の表情を見て言った。

「同情しすぎないでください」

 蓮は顔を上げる。

「彼が地下に影響されているとしても、危険な行動をしていることに変わりはありません」

「はい」

「セティを救うためにマーカスまで救おうとすると、あなた自身が危険になります」

 黒瀬も頷いた。

「蓮さん、助けたい人が増えすぎると身動き取れなくなりますよ」

 蓮は苦く笑った。

「そうですね」

 それでも、蓮は考えずにはいられなかった。

 黒い太陽の神殿は、人間の悲しみや欲望を食べる。

 セティの孤独。

 ネフェル=カーの未来への渇望。

 蓮と同じ顔をした祭司の果たされなかった約束。

 マーカスの家族に受け継がれた執念。

 誰も完全な悪ではない。

 だが、その誰もが間違えた。

 あるいは、間違えさせられた。

 ならば、自分たちはどうすれば同じ失敗を避けられるのか。

 答えはまだ見えなかった。


     *


 その午後、マーカスが資料室に現れた。

 彼はノックをしたが、返事を待たずに入ってきた。昨日までより顔色が白く、目の奥の光はさらに強くなっていた。眠っていないのだろう。それでも足取りはしっかりしていた。

 ナディアは即座に資料を伏せた。

「ここは関係者以外立ち入り禁止です」

「私は関係者です」

「あなたを現場作業から外すことを正式に提案しています」

「提案は自由です」

 マーカスは部屋の中央まで来ると、机の上の資料を見た。

 エドワード・リードの写真が伏せられる前に、彼はそれに気づいた。

「曾祖父の記録を見つけたのですね」

 ナディアは黙っていた。

 マーカスは小さく笑った。

「隠していたわけではありません」

「共有しなかっただけですか」

「そうです」

 黒瀬がぼそりと言う。

「それを隠してたって言うんですよ」

 マーカスは黒瀬を見なかった。

 彼は蓮に視線を向けた。

「篠原さん。あなたなら理解できるはずです。私の家は、ずっと黒い太陽に呼ばれてきました」

「呼ばれてきたのではなく、取り憑かれてきたのでは」

 蓮が言うと、マーカスは少しだけ目を細めた。

「取り憑かれるという表現は、信仰を持たない者の言葉です」

「では、あなたにとっては何ですか」

「継承です」

「何を継承しているんですか」

「聞く力です」

 マーカスは静かに言った。

「私の曾祖父は入口へ到達した。しかし、入れなかった。祖父は夢を見続けた。父はそれを狂気として拒んだ。そして私は、その全てを受け取った」

「それはあなた自身の意思ですか」

「もちろん」

「本当に?」

 蓮は一歩前に出た。

「神殿は人の記憶を食べます。あなたの曾祖父の記録も、家族の夢も、あなたの使命感も、全部神殿に利用されているのかもしれない」

「利用?」

 マーカスの声が少し低くなった。

「あなたも同じでしょう。セティの声、果たされなかった約束、あなたと同じ顔をした祭司。神殿はあなたにも役割を与えている」

「だから僕は、疑っています」

「疑いすぎれば、何も選べない」

「信じすぎれば、飲まれる」

 二人の視線がぶつかった。

 ナディアが割って入る。

「マーカス。あなたは、神殿に入るべきではありません」

「なぜ?」

「あなたの記憶と欲望は、すでに神殿と強く結びついている。中へ入れば、あなた自身が入口になる可能性がある」

「入口?」

「神殿の声が地上へ出るための入口です」

 マーカスはしばらく黙っていた。

 そして、笑った。

 その笑いは、今までよりも冷たかった。

「あなたはやはり臆病だ」

「何度でも言います。臆病さは必要です」

「臆病者は、歴史を閉じる」

「欲望に飲まれた者は、歴史を壊す」

 マーカスの顔から笑みが消えた。

「私は壊さない。私は完成させる」

「何を?」

 蓮が聞いた。

「ネフェル=カーが失敗したことを」

 部屋の空気が変わった。

 マーカスの声には、マーカス自身の響きだけではない何かが混じっていた。低く、古く、神殿の奥から響くような声。

 黒瀬が小さく呟く。

「今の声……」

 マーカスは蓮を見た。

「王は声を集めた。しかし、声に飲まれた。彼が間違えたのは、器を使ったことです。セティという小さな耳に全てを背負わせた。だから封印は歪んだ」

「では、あなたはどうするつもりですか」

「器を一人にしない」

 マーカスは静かに言った。

「全員で聞けばいい。人類全体で、声を共有すればいい」

 蓮は一瞬、言葉を失った。

 ナディアが厳しい声で言う。

「それは、神殿の声を地上へ解放するという意味ですか」

「恐れる必要はありません。人類は今、古代とは違う。記録技術、通信技術、人工知能、ネットワーク。声を分散し、解析し、共有する手段がある」

 黒瀬が顔を青ざめさせた。

「まさか、地下の声をデータ化するつもりですか」

「すでに一部は可能です」

「正気ですか」

「正気です」

 マーカスの目は輝いていた。

「想像してください。死者の記憶、過去の証言、未来の可能性、人類が失った全ての声。それを解放できれば、歴史も宗教も科学も変わる」

「人間の記憶を、資源みたいに扱うつもりですか」

 蓮の声は震えていた。

「資源ではありません。遺産です」

「違う」

 蓮は強く言った。

「それは声です。誰かが生きて、死んで、悲しんで、忘れられた声です。あなたが集めて使っていいものじゃない」

「では、地下に閉じ込め続けるのですか」

「少なくとも、あなたの欲望のために地上へ流すよりはましです」

 マーカスの表情が険しくなる。

 その瞬間、部屋の壁に薄い線が浮かび上がった。

 マーカスの背後の壁。

 そこに、古い白黒写真のような絵が現れる。

 砂漠。遺跡。数人の探検家。

 エドワード・リード。

 マーカスが振り返った。

 壁の中のエドワードは、ゆっくりとこちらを見た。

 黒瀬が小さく叫んだ。

「また壁が……!」

 エドワードの口が動く。

 声が聞こえた。

 古い英語。だが蓮には意味がわかった。

 戻れ。

 リードの名を、黒い太陽へ戻せ。

 マーカスの顔が歪んだ。

 喜びとも恐怖ともつかない表情。

「曾祖父……」

 ナディアが叫ぶ。

「見ないで!」

 だがマーカスは見ていた。

 壁の中のエドワードは、手を伸ばす。

 その手には黒い太陽の印がある。

 いや、違う。

 黒い太陽ではない。

 消された少年の名前が書かれた黒い石片。

 マーカスは一歩、壁へ近づいた。

 蓮は反射的に動いた。

「マーカス!」

 名前を呼ぶ。

 マーカスの身体が止まった。

 彼はゆっくり振り返った。

 その目には、一瞬だけ人間らしい混乱が浮かんでいた。

「私は……」

 彼は呟いた。

「私は、何を……」

 蓮はさらに呼んだ。

「マーカス・リード!」

 その名をはっきり言った瞬間、壁のエドワードの絵が歪んだ。

 ナディアも続いた。

「マーカス! 戻って!」

 黒瀬も叫ぶ。

「マーカスさん! 壁を見るな!」

 マーカスは両手で頭を押さえた。

 壁のエドワードが、無数の口に変わる。

 戻れ。

 継げ。

 開け。

 声を地上へ。

 マーカスは苦しそうに歯を食いしばった。

「黙れ……」

 蓮は驚いた。

 マーカスが、声に抵抗している。

「黙れ!」

 マーカスは叫んだ。

 その瞬間、壁の絵が砕けるように消えた。

 資料室に静寂が戻る。

 マーカスは膝をついた。額に汗が浮かび、呼吸は荒い。

 蓮たちはすぐには動けなかった。

 マーカスはゆっくり顔を上げた。

「今のは……」

 彼の声は、さっきまでとは違っていた。熱に浮かされたような響きが消え、疲れ切った人間の声に戻っている。

 ナディアが慎重に尋ねる。

「あなたにも、見えていましたか」

「曾祖父が……いや、曾祖父の形をした何かが」

 マーカスは震える手で顔を覆った。

「私は、呼ばれていたのか。ずっと」

 蓮は言った。

「たぶん、あなたの家族の記憶ごと」

 マーカスは笑った。

 だが、それは弱々しい笑いだった。

「なら、私は最初から自由ではなかったということですか」

 誰も答えられなかった。

 自由ではなかった。

 その言葉は、蓮自身にも返ってくる。

 蓮もまた、セティとの約束に呼ばれている。黒い太陽を持つ者という役割に重ねられている。地下に選ばれているのか、地下に利用されているのか、まだわからない。

 マーカスは立ち上がろうとして、ふらついた。

 ナディアが反射的に支えようとしたが、彼はそれを拒まなかった。

「マーカス。あなたは、しばらく神殿から離れるべきです」

 ナディアが言った。

 マーカスはかすかに笑った。

「離れられると思いますか」

「離れる努力はできます」

 マーカスは蓮を見た。

「あなたは、私を止めたいのですね」

「はい」

「殺してでも?」

 黒瀬が顔を強張らせた。

「何を言ってるんですか」

 蓮はまっすぐ答えた。

「殺したくありません」

「甘いですね」

「そうかもしれません」

「私は、あなたを器にしようとしていたかもしれない」

「知っています」

「それでも?」

「誰も置いていかないと決めました」

 マーカスはしばらく蓮を見ていた。

 そして、初めて本当に疲れたように目を伏せた。

「その言葉は、危険です」

「わかっています」

「地下は、そういう言葉を好む。約束に変え、石にする」

「だから約束とは言いません」

 蓮は静かに言った。

「でも、今はそう決めています」

 マーカスは何かを言おうとして、やめた。

 ナディアは低い声で言った。

「今日はここまでです。あなたは休んでください。こちらで監視をつけます」

 マーカスは皮肉を言わなかった。

 それが逆に、彼の消耗を示していた。

「わかりました」

 彼はそう言って、資料室を出ていった。

 ドアが閉まる。

 黒瀬が大きく息を吐いた。

「今のマーカス、少し戻ってましたよね」

「はい」

 ナディアも頷いた。

「名前を呼んだことで、彼の意識が戻った」

「名前、効きますね」

 黒瀬が言う。

「でも、これで余計に厄介になりました。マーカスさん、完全に敵ってわけでもなくなったじゃないですか」

 蓮は黙っていた。

 その通りだった。

 マーカスは危険だ。

 だが、神殿に取り込まれつつある人間でもある。

 助けなければならないかもしれない。

 止めなければならないかもしれない。

 その両方が同時に必要になる。

 ナディアは疲れた顔で言った。

「次に神殿へ入るとき、マーカスの干渉はさらに強くなるでしょう。本人が来なくても、影が来る。家族の記憶を通じて、神殿とつながっている」

「なら、どうしますか」

 蓮が聞く。

 ナディアは少し考えた。

「彼の名前も、こちらで呼べるようにしておく必要があります」

「マーカスの名前を?」

「はい。もし彼が神殿内で影として現れた場合、名前を呼べば一時的に戻せるかもしれません」

 黒瀬が言った。

「つまり、敵の名前も命綱にするんですね」

「敵と決めつけると、神殿に利用されます」

 ナディアは静かに答えた。

「ただし、信用しすぎても利用されます」

「バランス、難しすぎます」

 蓮は机の上の資料を見た。

 エドワード・リード。

 消された少年の名前。

 マーカス・リード。

 ネフェル=カー。

 セティ。

 蓮と同じ顔をした祭司。

 全員が、名前と記憶によって地下につながっている。

 神殿はそのつながりを利用する。

 ならば、こちらも名前を使うしかない。

 奪うためではなく、引き戻すために。


     *


 その夜、蓮はマーカスの部屋の前に立った。

 ナディアには、念のため話してある。黒瀬も廊下の少し離れた場所に待機していた。マーカスと一対一で話すのは危険だ。それでも蓮には、どうしても確認したいことがあった。

 ドアをノックする。

 しばらくして、マーカスが出てきた。

 昼間より顔色は少し戻っていたが、疲労は隠せなかった。

「篠原さん」

「少しだけ、話せますか」

 マーカスは蓮を見た。

 そして、ドアを少し開けた。

「どうぞ」

「ここで構いません」

 蓮は廊下に立ったまま言った。

 マーカスは苦笑した。

「信用されていませんね」

「はい」

「正直でいい」

 短い沈黙。

 蓮は言った。

「あなたの曾祖父が記録した、名前を失った少年について聞きたいんです」

 マーカスの表情がわずかに強張った。

「なぜ、それを」

「黒い太陽は、子どもを器にする。セティだけではないかもしれないと思ったからです」

 マーカスは視線を落とした。

「曾祖父の日記に出てくる少年の名前は、家の記録では削られていました」

「なぜ?」

「わかりません。曾祖父が消したのか、後の誰かが消したのか。それとも……」

「地下に取られた」

 マーカスは頷いた。

「私は子どもの頃、その塗り潰された名前が怖かった。黒いインクで潰された空白を見るたびに、そこに誰かがいる気がした」

「夢に出ましたか」

「ええ」

 マーカスはかすかに笑った。

「名前のない少年が、壁の向こうに立っていました。顔は見えない。けれど、いつも私に言うんです。君は名前を持っていていいね、と」

 蓮は胸が重くなった。

 マーカスもまた、子どもの頃から地下に触れていた。

「あなたは、その少年を救いたいと思ったことはありますか」

 蓮が聞くと、マーカスは少し驚いたように蓮を見た。

「あります」

 その答えは、意外なほど静かだった。

「最初は、そうでした。名前を失った少年が誰なのか知りたかった。彼の名を取り戻したかった。曾祖父が何をしたのか知りたかった」

「それが、なぜ神の声を地上へ解放する話になったんですか」

 マーカスは黙った。

 廊下の空調が低く鳴っている。

「いつからでしょうね」

 やがて彼は言った。

「最初は、一人の名前を探していた。だが、記録を読み、夢を見て、声を聞くうちに、失われた名前は一人ではないと知った。地下には、無数の名前がある。忘れられた声がある。ならば、一人を救うだけでは足りないと思った」

「全てを救おうとした?」

「ええ」

「それで、全てを地上へ出そうとした」

「間違っていると思いますか」

「危険だと思います」

「危険でも、地下に閉じ込め続けるのは正しいのですか」

 蓮は答えられなかった。

 マーカスの問いは間違っていない。

 セティだけを救えばいいのか。

 名前を失った少年はどうするのか。

 水路に流れる無数の名前はどうするのか。

 声になってしまった人々は、永遠に地下へ置いておくのか。

 蓮の「誰も置いていかない」という言葉は、簡単に言えるほど軽いものではなかった。

 マーカスは静かに言った。

「あなたも、いずれわかります。セティを救いたいと思うなら、他の声を無視できなくなる」

「それでも、神殿の声をそのまま地上へ出すことはできません」

「では、どうする?」

「まだわかりません」

「わからないのに、私を止める?」

「はい」

 マーカスは少し笑った。

 今度の笑みには、以前のような傲慢さは薄かった。

「あなたは不思議な人だ。わからないことを認めながら、止めると言える」

「止めなければいけないことは、わかっています」

 マーカスは蓮を見つめた。

「神殿で、私はまた声に飲まれるかもしれない」

「はい」

「その時、私の名前を呼ぶつもりですか」

「呼びます」

「なぜ」

 蓮は少し考えた。

「あなたが、まだマーカス・リードだからです」

 その言葉に、マーカスの表情がほんの少し揺れた。

 彼は目を伏せた。

「その名前が、どこまで私のものなのか、もう自信がありません」

「それでも呼びます」

 マーカスはしばらく黙っていた。

 やがて、静かに言った。

「なら、私も一つだけ言っておきます」

「何ですか」

「神殿の王の間で、ネフェル=カーはあなたに選択を迫るでしょう」

「選択?」

「セティを解放するか、眠りを守るか。どちらかです」

「両方は?」

「王は不可能だと言うでしょう」

「あなたは?」

 マーカスは答えるまでに時間をかけた。

「以前の私なら、不可能だと言ったでしょう」

「今は?」

「わかりません」

 それは、マーカスが初めて口にした弱さだった。

 蓮は頷いた。

「それで十分です」

 マーカスは苦笑した。

「甘いですね」

「よく言われます」

「その甘さが、神殿であなたを殺すかもしれない」

「かもしれません」

「それでも?」

「それでも、名前を呼びます」

 マーカスはドアに手をかけた。

「神殿で会いましょう、蓮さん」

 今度のその言葉には、以前ほどの脅しはなかった。

 だが、不吉さは消えなかった。

 蓮は廊下を戻った。

 少し離れた場所にいた黒瀬が、小声で言った。

「大丈夫でした?」

「はい」

「マーカスさん、どうでした?」

 蓮は少し考えて答えた。

「危険です。でも、まだ完全には飲まれていません」

「それは朗報なんですかね」

「たぶん」

「たぶんかあ」

 黒瀬は天井を見上げた。

「次の神殿、登場人物多すぎますね。セティ、ネフェル=カー、マーカス、蓮さん似の祭司、名前のない少年、あと神になった声」

「本当に多いですね」

「全員の名前呼ぶの、大変ですよ」

 蓮は少し笑った。

 だが、すぐに表情を戻した。

「それでも、呼ぶしかありません」


     *


 その夜、蓮は夢を見なかった。

 代わりに、目が覚めたとき、枕元に黒い砂が落ちていた。

 砂は小さな円を描いていた。

 黒い太陽ではない。

 王冠の形だった。

 ネフェル=カーの冠。

 蓮は息を止めた。

 机の上のノートが開いている。

 そこに文字が浮かんでいた。

 王は、声を聞いた。

 王は、声を集めた。

 王は、声に飲まれた。

 王は、まだ自分を王だと思っている。

 その下に、もう一行。

 王の間で、名を問われる。

 答えれば、役目を得る。

 黙れば、記憶を食われる。

 蓮はノートを閉じた。

 次は王の間。

 ネフェル=カーの記憶と、マーカスの欲望と、蓮自身の役割がぶつかる場所。

 蓮は胸ポケットのメモを取り出し、自分の名前を確認した。

 篠原蓮。

 Ren Shinohara.

 しのはら れん。

 誰も置いていかない。

 そして、紙の余白に新しく名前を書き足した。

 セティ。

 マーカス・リード。

 少し迷ってから、さらにもう一つ書いた。

 名前のない少年。

 誰も置いていかないと言うなら、名前を知らない者のことも忘れてはいけない。

 蓮はペンを置いた。

 夜の向こうで、ピラミッドは沈黙している。

 その下に、黒い太陽の神殿がある。

 そして王の間で、存在しない王が待っている。

 蓮は静かに目を閉じた。

 明日、彼らは王の間へ向かう。

 マーカスを止めるために。

 セティの名前の石を探すために。

 そして、王がまだ王であると思い込んでいる記憶に、終わりを告げるために。

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