4:マーカスの正体
4:マーカスの正体
翌朝、保管室の壁に残った記憶の絵は、まだ消えていなかった。
ナディアの祖母の横顔。
黒瀬の家の玄関らしき輪郭。
蓮の母の顔。
どれも薄い線だった。インクでも傷でもない。コンクリートの表面に浮かび上がった影のようなものだ。光の当たり方によって見えたり見えなかったりする。それでも、そこにあると知ってしまえば、もう見えないふりはできなかった。
黒瀬玄は壁の前に立ち、腕を組んでいた。
「これ、消えないですね」
「はい」
蓮は壁に触れないように、少し離れて立っていた。
昨日、黒い太陽の神殿で壁に食べられかけた記憶。その一部が、地上側にまで滲み出している。
つまり、神殿はもう地下だけに閉じていない。
記憶を通じて、こちら側へ伸び始めている。
「俺の実家の玄関なんて、誰得なんですかね」
黒瀬は冗談めかして言ったが、声は乾いていた。
「でも、見てると本当に思い出すんですよ。小学生の頃、学校から帰って、あの玄関の前で鍵を探してたこととか。母親に怒られたこととか。そんな記憶、普段は忘れてたのに」
「壁が記憶を引き出しているんでしょうか」
「たぶん。しかも、勝手に」
黒瀬は顔をしかめた。
「記憶って、自分の中にあるからまだ許せるんですよ。それが壁に出てくると、急に自分のものじゃなくなる感じがする」
蓮は壁に浮かぶ母の顔を見た。
輪郭は曖昧だった。けれど、自分には母だとわかる。昔、病気で寝込んだとき、額に手を当ててくれた母の表情。なぜその場面が浮かんだのか、蓮にはわからなかった。
神殿の壁は、記録するだけではない。
こちらが忘れていた記憶を選び、引き出し、並べ替える。
そして、おそらく食べる。
「食べる」とは、消すという意味だけではないのかもしれない。自分の記憶だったものを、地下の記憶に変える。個人のものから、神殿のものへ移す。
それが本当なら、長く神殿にいればいるほど、自分の人生が自分のものではなくなっていく。
「ナディアさんは?」
蓮が聞くと、黒瀬は資料室の方を指した。
「マーカスの調査をしています。昨日の神殿で、マーカスの影がかなりはっきり出たでしょう。あれで、ナディアさんも本格的に危機感持ったみたいです」
「マーカスの調査?」
「彼の財団とか、過去の研究とか。どこからこの地下の情報を得たのか、調べ直しています」
蓮は頷いた。
マーカス・リード。
最初は、海外資本の調査プロジェクト責任者だった。古代文明に強い関心を持つ支援者。だが今では、その立場は完全に崩れている。
彼は地下の声を聞いている。
ネフェル=カーの名を知っている。
水路の石片を手に入れた。
神殿で影として現れた。
そして、セティを救うには新しい器が必要だと告げた。
彼は敵なのか。
蓮はそう考える。
敵だ。
少なくとも、マーカスの行動は危険で、蓮たちを利用しようとしている。セティを救うというより、黒い太陽の声を支配しようとしている。
だが、それだけでもない。
神殿の中で見たマーカスの影は、どこか人間から離れ始めていた。欲望が形を持ち、地下の声に輪郭を与えられた存在。もし彼がすでに取り込まれつつあるのなら、単純な悪役として切り捨てるだけでは足りない。
マーカスもまた、神殿に食べられているのかもしれない。
そのとき、廊下の奥からナディアが現れた。
手にはタブレットと数枚の印刷資料を持っている。顔は険しかった。
「二人とも、来てください。マーカスについて、わかったことがあります」
*
資料室の机には、いくつもの資料が並べられていた。
マーカスが所属する財団の概要。過去の発掘支援記録。エジプト以外の地域での調査履歴。十九世紀の探検記録の写し。未整理のメモ。古い写真。
ナディアはその中から、一枚の白黒写真を蓮たちに見せた。
古い写真だった。おそらく百年以上前のものだ。砂漠の中に立つ数人の欧米人と現地スタッフ。その背後には、崩れかけた遺跡の入口のようなものがある。
「これは一九一二年頃に撮影された写真です。場所はサッカラ周辺とされています」
「サッカラ……」
蓮は第1章で見た封鎖記録を思い出した。
ナディアは写真の中央にいる人物を指した。
「この人物。エドワード・リード。マーカスの曾祖父です」
黒瀬が眉を上げた。
「曾祖父?」
「ええ。彼は表向きには考古学愛好家で、複数の発掘隊に資金提供していました。ただ、公式な学術報告にはほとんど名前が残っていません」
「なぜです?」
「非公式な調査が多かったからです。許可の曖昧な探索、未発表の遺物収集、財団内部だけで保管された記録。今の基準ではかなり問題のある活動です」
蓮は写真を見つめた。
エドワード・リード。
マーカスと少し似ている。顔の骨格、目元、姿勢。写真の中の彼も、遺跡の前でどこか誇らしげに立っている。
ナディアは次の資料を出した。
「そして、このエドワードの日記に、黒い太陽に関する記述がありました」
「日記?」
「財団の古い資料の一部です。マーカスがすべてを共有していなかったので、こちらから別ルートで確認しました」
黒瀬が感心したように言った。
「ナディアさん、仕事が早いですね」
「今は時間がありませんから」
ナディアは日記の翻訳メモを読み上げた。
「地下の壁に、黒き太陽を見た。現地の案内人は、それを冥界の門と呼んだ。彼らは深く進むことを拒んだが、私はそこに人類最古の記憶の痕跡を見た。」
蓮は静かに聞いていた。
ナディアは続ける。
「声が聞こえた。最初は風の反響と思った。だが声は私の名を呼び、私の父の名を呼び、私が忘れていた幼年期の記憶を語った。私は確信した。地下には、死者の記録ではなく、生者と死者をつなぐ何かがある。」
黒瀬が顔をしかめた。
「マーカスと同じですね」
「ええ。そしてさらに」
ナディアはページをめくる。
「我々は入口を失った。現地の少年が一人、壁の前で倒れた。彼は目を開いたまま、誰も知らない言語で話し続けた。翌朝、彼の名前を覚えている者はいなかった。私だけが、その名を記録している。」
蓮の胸が冷たくなった。
名前を失う。
すでに百年以上前にも、同じ現象が起きていた。
「その少年の名前は?」
蓮が聞くと、ナディアは首を振った。
「日記の該当部分が黒く塗り潰されています」
「塗り潰されている?」
「はい。意図的に」
蓮は嫌な予感を覚えた。
名前が記録され、そして消された。
その名前は地下に取られたのか。あるいは、エドワード自身が消したのか。
ナディアはさらに別のページを示した。
「エドワードは、その後も黒い太陽の研究を続けました。そして晩年、こう書いています」
彼女は一呼吸置いてから読んだ。
「私は入口を見つけられなかった。だが、声は血に残る。私が行けずとも、いつか私の名を継ぐ者が戻るだろう。地下は我々を忘れない。黒い太陽は、リードの名を覚えている。」
資料室が静まり返った。
黒瀬が低く言う。
「リード家、代々呼ばれてるんですか」
ナディアは頷いた。
「マーカスの執着は、個人的な興味だけではないかもしれません。彼の家系は、百年以上前から黒い太陽と関わっている」
蓮はマーカスの言葉を思い出した。
私は夢で見てきた。
黒い太陽の下で、誰かが私を待っている。
マーカスはただの野心家ではない。
曾祖父の代から続く記録、夢、声、家族の執念。そのすべてを受け継いで、ここへ来た。
彼もまた、地下に選ばれたというより、地下に追跡され続けてきた人間なのかもしれない。
「彼は、なぜこれを隠していたんでしょう」
黒瀬が聞いた。
「自分の正当性を主張する材料にもなりそうですけど」
ナディアは険しい顔で答えた。
「おそらく、単なる学術調査ではなく、家族の使命だと見られるのを避けたかったのでしょう。あるいは、自分が地下の声に個人的に影響されていると知られたくなかった」
「もう十分バレてますけどね」
黒瀬が小さく言った。
蓮は資料を見ながら、別のことを考えていた。
リード家は、黒い太陽に記憶されている。
ならば、マーカスの欲望は本当に彼自身のものなのか。
曾祖父の記憶。
消された少年の名前。
黒い太陽を見た探検家の執念。
家族に受け継がれた夢。
それらがマーカスの中で混ざり、彼を神殿へ引きずっているのではないか。
もしそうなら、彼は敵であると同時に、地下の被害者でもある。
そのことが、蓮の判断を鈍らせた。
ナディアは蓮の表情を見て言った。
「同情しすぎないでください」
蓮は顔を上げる。
「彼が地下に影響されているとしても、危険な行動をしていることに変わりはありません」
「はい」
「セティを救うためにマーカスまで救おうとすると、あなた自身が危険になります」
黒瀬も頷いた。
「蓮さん、助けたい人が増えすぎると身動き取れなくなりますよ」
蓮は苦く笑った。
「そうですね」
それでも、蓮は考えずにはいられなかった。
黒い太陽の神殿は、人間の悲しみや欲望を食べる。
セティの孤独。
ネフェル=カーの未来への渇望。
蓮と同じ顔をした祭司の果たされなかった約束。
マーカスの家族に受け継がれた執念。
誰も完全な悪ではない。
だが、その誰もが間違えた。
あるいは、間違えさせられた。
ならば、自分たちはどうすれば同じ失敗を避けられるのか。
答えはまだ見えなかった。
*
その午後、マーカスが資料室に現れた。
彼はノックをしたが、返事を待たずに入ってきた。昨日までより顔色が白く、目の奥の光はさらに強くなっていた。眠っていないのだろう。それでも足取りはしっかりしていた。
ナディアは即座に資料を伏せた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「私は関係者です」
「あなたを現場作業から外すことを正式に提案しています」
「提案は自由です」
マーカスは部屋の中央まで来ると、机の上の資料を見た。
エドワード・リードの写真が伏せられる前に、彼はそれに気づいた。
「曾祖父の記録を見つけたのですね」
ナディアは黙っていた。
マーカスは小さく笑った。
「隠していたわけではありません」
「共有しなかっただけですか」
「そうです」
黒瀬がぼそりと言う。
「それを隠してたって言うんですよ」
マーカスは黒瀬を見なかった。
彼は蓮に視線を向けた。
「篠原さん。あなたなら理解できるはずです。私の家は、ずっと黒い太陽に呼ばれてきました」
「呼ばれてきたのではなく、取り憑かれてきたのでは」
蓮が言うと、マーカスは少しだけ目を細めた。
「取り憑かれるという表現は、信仰を持たない者の言葉です」
「では、あなたにとっては何ですか」
「継承です」
「何を継承しているんですか」
「聞く力です」
マーカスは静かに言った。
「私の曾祖父は入口へ到達した。しかし、入れなかった。祖父は夢を見続けた。父はそれを狂気として拒んだ。そして私は、その全てを受け取った」
「それはあなた自身の意思ですか」
「もちろん」
「本当に?」
蓮は一歩前に出た。
「神殿は人の記憶を食べます。あなたの曾祖父の記録も、家族の夢も、あなたの使命感も、全部神殿に利用されているのかもしれない」
「利用?」
マーカスの声が少し低くなった。
「あなたも同じでしょう。セティの声、果たされなかった約束、あなたと同じ顔をした祭司。神殿はあなたにも役割を与えている」
「だから僕は、疑っています」
「疑いすぎれば、何も選べない」
「信じすぎれば、飲まれる」
二人の視線がぶつかった。
ナディアが割って入る。
「マーカス。あなたは、神殿に入るべきではありません」
「なぜ?」
「あなたの記憶と欲望は、すでに神殿と強く結びついている。中へ入れば、あなた自身が入口になる可能性がある」
「入口?」
「神殿の声が地上へ出るための入口です」
マーカスはしばらく黙っていた。
そして、笑った。
その笑いは、今までよりも冷たかった。
「あなたはやはり臆病だ」
「何度でも言います。臆病さは必要です」
「臆病者は、歴史を閉じる」
「欲望に飲まれた者は、歴史を壊す」
マーカスの顔から笑みが消えた。
「私は壊さない。私は完成させる」
「何を?」
蓮が聞いた。
「ネフェル=カーが失敗したことを」
部屋の空気が変わった。
マーカスの声には、マーカス自身の響きだけではない何かが混じっていた。低く、古く、神殿の奥から響くような声。
黒瀬が小さく呟く。
「今の声……」
マーカスは蓮を見た。
「王は声を集めた。しかし、声に飲まれた。彼が間違えたのは、器を使ったことです。セティという小さな耳に全てを背負わせた。だから封印は歪んだ」
「では、あなたはどうするつもりですか」
「器を一人にしない」
マーカスは静かに言った。
「全員で聞けばいい。人類全体で、声を共有すればいい」
蓮は一瞬、言葉を失った。
ナディアが厳しい声で言う。
「それは、神殿の声を地上へ解放するという意味ですか」
「恐れる必要はありません。人類は今、古代とは違う。記録技術、通信技術、人工知能、ネットワーク。声を分散し、解析し、共有する手段がある」
黒瀬が顔を青ざめさせた。
「まさか、地下の声をデータ化するつもりですか」
「すでに一部は可能です」
「正気ですか」
「正気です」
マーカスの目は輝いていた。
「想像してください。死者の記憶、過去の証言、未来の可能性、人類が失った全ての声。それを解放できれば、歴史も宗教も科学も変わる」
「人間の記憶を、資源みたいに扱うつもりですか」
蓮の声は震えていた。
「資源ではありません。遺産です」
「違う」
蓮は強く言った。
「それは声です。誰かが生きて、死んで、悲しんで、忘れられた声です。あなたが集めて使っていいものじゃない」
「では、地下に閉じ込め続けるのですか」
「少なくとも、あなたの欲望のために地上へ流すよりはましです」
マーカスの表情が険しくなる。
その瞬間、部屋の壁に薄い線が浮かび上がった。
マーカスの背後の壁。
そこに、古い白黒写真のような絵が現れる。
砂漠。遺跡。数人の探検家。
エドワード・リード。
マーカスが振り返った。
壁の中のエドワードは、ゆっくりとこちらを見た。
黒瀬が小さく叫んだ。
「また壁が……!」
エドワードの口が動く。
声が聞こえた。
古い英語。だが蓮には意味がわかった。
戻れ。
リードの名を、黒い太陽へ戻せ。
マーカスの顔が歪んだ。
喜びとも恐怖ともつかない表情。
「曾祖父……」
ナディアが叫ぶ。
「見ないで!」
だがマーカスは見ていた。
壁の中のエドワードは、手を伸ばす。
その手には黒い太陽の印がある。
いや、違う。
黒い太陽ではない。
消された少年の名前が書かれた黒い石片。
マーカスは一歩、壁へ近づいた。
蓮は反射的に動いた。
「マーカス!」
名前を呼ぶ。
マーカスの身体が止まった。
彼はゆっくり振り返った。
その目には、一瞬だけ人間らしい混乱が浮かんでいた。
「私は……」
彼は呟いた。
「私は、何を……」
蓮はさらに呼んだ。
「マーカス・リード!」
その名をはっきり言った瞬間、壁のエドワードの絵が歪んだ。
ナディアも続いた。
「マーカス! 戻って!」
黒瀬も叫ぶ。
「マーカスさん! 壁を見るな!」
マーカスは両手で頭を押さえた。
壁のエドワードが、無数の口に変わる。
戻れ。
継げ。
開け。
声を地上へ。
マーカスは苦しそうに歯を食いしばった。
「黙れ……」
蓮は驚いた。
マーカスが、声に抵抗している。
「黙れ!」
マーカスは叫んだ。
その瞬間、壁の絵が砕けるように消えた。
資料室に静寂が戻る。
マーカスは膝をついた。額に汗が浮かび、呼吸は荒い。
蓮たちはすぐには動けなかった。
マーカスはゆっくり顔を上げた。
「今のは……」
彼の声は、さっきまでとは違っていた。熱に浮かされたような響きが消え、疲れ切った人間の声に戻っている。
ナディアが慎重に尋ねる。
「あなたにも、見えていましたか」
「曾祖父が……いや、曾祖父の形をした何かが」
マーカスは震える手で顔を覆った。
「私は、呼ばれていたのか。ずっと」
蓮は言った。
「たぶん、あなたの家族の記憶ごと」
マーカスは笑った。
だが、それは弱々しい笑いだった。
「なら、私は最初から自由ではなかったということですか」
誰も答えられなかった。
自由ではなかった。
その言葉は、蓮自身にも返ってくる。
蓮もまた、セティとの約束に呼ばれている。黒い太陽を持つ者という役割に重ねられている。地下に選ばれているのか、地下に利用されているのか、まだわからない。
マーカスは立ち上がろうとして、ふらついた。
ナディアが反射的に支えようとしたが、彼はそれを拒まなかった。
「マーカス。あなたは、しばらく神殿から離れるべきです」
ナディアが言った。
マーカスはかすかに笑った。
「離れられると思いますか」
「離れる努力はできます」
マーカスは蓮を見た。
「あなたは、私を止めたいのですね」
「はい」
「殺してでも?」
黒瀬が顔を強張らせた。
「何を言ってるんですか」
蓮はまっすぐ答えた。
「殺したくありません」
「甘いですね」
「そうかもしれません」
「私は、あなたを器にしようとしていたかもしれない」
「知っています」
「それでも?」
「誰も置いていかないと決めました」
マーカスはしばらく蓮を見ていた。
そして、初めて本当に疲れたように目を伏せた。
「その言葉は、危険です」
「わかっています」
「地下は、そういう言葉を好む。約束に変え、石にする」
「だから約束とは言いません」
蓮は静かに言った。
「でも、今はそう決めています」
マーカスは何かを言おうとして、やめた。
ナディアは低い声で言った。
「今日はここまでです。あなたは休んでください。こちらで監視をつけます」
マーカスは皮肉を言わなかった。
それが逆に、彼の消耗を示していた。
「わかりました」
彼はそう言って、資料室を出ていった。
ドアが閉まる。
黒瀬が大きく息を吐いた。
「今のマーカス、少し戻ってましたよね」
「はい」
ナディアも頷いた。
「名前を呼んだことで、彼の意識が戻った」
「名前、効きますね」
黒瀬が言う。
「でも、これで余計に厄介になりました。マーカスさん、完全に敵ってわけでもなくなったじゃないですか」
蓮は黙っていた。
その通りだった。
マーカスは危険だ。
だが、神殿に取り込まれつつある人間でもある。
助けなければならないかもしれない。
止めなければならないかもしれない。
その両方が同時に必要になる。
ナディアは疲れた顔で言った。
「次に神殿へ入るとき、マーカスの干渉はさらに強くなるでしょう。本人が来なくても、影が来る。家族の記憶を通じて、神殿とつながっている」
「なら、どうしますか」
蓮が聞く。
ナディアは少し考えた。
「彼の名前も、こちらで呼べるようにしておく必要があります」
「マーカスの名前を?」
「はい。もし彼が神殿内で影として現れた場合、名前を呼べば一時的に戻せるかもしれません」
黒瀬が言った。
「つまり、敵の名前も命綱にするんですね」
「敵と決めつけると、神殿に利用されます」
ナディアは静かに答えた。
「ただし、信用しすぎても利用されます」
「バランス、難しすぎます」
蓮は机の上の資料を見た。
エドワード・リード。
消された少年の名前。
マーカス・リード。
ネフェル=カー。
セティ。
蓮と同じ顔をした祭司。
全員が、名前と記憶によって地下につながっている。
神殿はそのつながりを利用する。
ならば、こちらも名前を使うしかない。
奪うためではなく、引き戻すために。
*
その夜、蓮はマーカスの部屋の前に立った。
ナディアには、念のため話してある。黒瀬も廊下の少し離れた場所に待機していた。マーカスと一対一で話すのは危険だ。それでも蓮には、どうしても確認したいことがあった。
ドアをノックする。
しばらくして、マーカスが出てきた。
昼間より顔色は少し戻っていたが、疲労は隠せなかった。
「篠原さん」
「少しだけ、話せますか」
マーカスは蓮を見た。
そして、ドアを少し開けた。
「どうぞ」
「ここで構いません」
蓮は廊下に立ったまま言った。
マーカスは苦笑した。
「信用されていませんね」
「はい」
「正直でいい」
短い沈黙。
蓮は言った。
「あなたの曾祖父が記録した、名前を失った少年について聞きたいんです」
マーカスの表情がわずかに強張った。
「なぜ、それを」
「黒い太陽は、子どもを器にする。セティだけではないかもしれないと思ったからです」
マーカスは視線を落とした。
「曾祖父の日記に出てくる少年の名前は、家の記録では削られていました」
「なぜ?」
「わかりません。曾祖父が消したのか、後の誰かが消したのか。それとも……」
「地下に取られた」
マーカスは頷いた。
「私は子どもの頃、その塗り潰された名前が怖かった。黒いインクで潰された空白を見るたびに、そこに誰かがいる気がした」
「夢に出ましたか」
「ええ」
マーカスはかすかに笑った。
「名前のない少年が、壁の向こうに立っていました。顔は見えない。けれど、いつも私に言うんです。君は名前を持っていていいね、と」
蓮は胸が重くなった。
マーカスもまた、子どもの頃から地下に触れていた。
「あなたは、その少年を救いたいと思ったことはありますか」
蓮が聞くと、マーカスは少し驚いたように蓮を見た。
「あります」
その答えは、意外なほど静かだった。
「最初は、そうでした。名前を失った少年が誰なのか知りたかった。彼の名を取り戻したかった。曾祖父が何をしたのか知りたかった」
「それが、なぜ神の声を地上へ解放する話になったんですか」
マーカスは黙った。
廊下の空調が低く鳴っている。
「いつからでしょうね」
やがて彼は言った。
「最初は、一人の名前を探していた。だが、記録を読み、夢を見て、声を聞くうちに、失われた名前は一人ではないと知った。地下には、無数の名前がある。忘れられた声がある。ならば、一人を救うだけでは足りないと思った」
「全てを救おうとした?」
「ええ」
「それで、全てを地上へ出そうとした」
「間違っていると思いますか」
「危険だと思います」
「危険でも、地下に閉じ込め続けるのは正しいのですか」
蓮は答えられなかった。
マーカスの問いは間違っていない。
セティだけを救えばいいのか。
名前を失った少年はどうするのか。
水路に流れる無数の名前はどうするのか。
声になってしまった人々は、永遠に地下へ置いておくのか。
蓮の「誰も置いていかない」という言葉は、簡単に言えるほど軽いものではなかった。
マーカスは静かに言った。
「あなたも、いずれわかります。セティを救いたいと思うなら、他の声を無視できなくなる」
「それでも、神殿の声をそのまま地上へ出すことはできません」
「では、どうする?」
「まだわかりません」
「わからないのに、私を止める?」
「はい」
マーカスは少し笑った。
今度の笑みには、以前のような傲慢さは薄かった。
「あなたは不思議な人だ。わからないことを認めながら、止めると言える」
「止めなければいけないことは、わかっています」
マーカスは蓮を見つめた。
「神殿で、私はまた声に飲まれるかもしれない」
「はい」
「その時、私の名前を呼ぶつもりですか」
「呼びます」
「なぜ」
蓮は少し考えた。
「あなたが、まだマーカス・リードだからです」
その言葉に、マーカスの表情がほんの少し揺れた。
彼は目を伏せた。
「その名前が、どこまで私のものなのか、もう自信がありません」
「それでも呼びます」
マーカスはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「なら、私も一つだけ言っておきます」
「何ですか」
「神殿の王の間で、ネフェル=カーはあなたに選択を迫るでしょう」
「選択?」
「セティを解放するか、眠りを守るか。どちらかです」
「両方は?」
「王は不可能だと言うでしょう」
「あなたは?」
マーカスは答えるまでに時間をかけた。
「以前の私なら、不可能だと言ったでしょう」
「今は?」
「わかりません」
それは、マーカスが初めて口にした弱さだった。
蓮は頷いた。
「それで十分です」
マーカスは苦笑した。
「甘いですね」
「よく言われます」
「その甘さが、神殿であなたを殺すかもしれない」
「かもしれません」
「それでも?」
「それでも、名前を呼びます」
マーカスはドアに手をかけた。
「神殿で会いましょう、蓮さん」
今度のその言葉には、以前ほどの脅しはなかった。
だが、不吉さは消えなかった。
蓮は廊下を戻った。
少し離れた場所にいた黒瀬が、小声で言った。
「大丈夫でした?」
「はい」
「マーカスさん、どうでした?」
蓮は少し考えて答えた。
「危険です。でも、まだ完全には飲まれていません」
「それは朗報なんですかね」
「たぶん」
「たぶんかあ」
黒瀬は天井を見上げた。
「次の神殿、登場人物多すぎますね。セティ、ネフェル=カー、マーカス、蓮さん似の祭司、名前のない少年、あと神になった声」
「本当に多いですね」
「全員の名前呼ぶの、大変ですよ」
蓮は少し笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「それでも、呼ぶしかありません」
*
その夜、蓮は夢を見なかった。
代わりに、目が覚めたとき、枕元に黒い砂が落ちていた。
砂は小さな円を描いていた。
黒い太陽ではない。
王冠の形だった。
ネフェル=カーの冠。
蓮は息を止めた。
机の上のノートが開いている。
そこに文字が浮かんでいた。
王は、声を聞いた。
王は、声を集めた。
王は、声に飲まれた。
王は、まだ自分を王だと思っている。
その下に、もう一行。
王の間で、名を問われる。
答えれば、役目を得る。
黙れば、記憶を食われる。
蓮はノートを閉じた。
次は王の間。
ネフェル=カーの記憶と、マーカスの欲望と、蓮自身の役割がぶつかる場所。
蓮は胸ポケットのメモを取り出し、自分の名前を確認した。
篠原蓮。
Ren Shinohara.
しのはら れん。
誰も置いていかない。
そして、紙の余白に新しく名前を書き足した。
セティ。
マーカス・リード。
少し迷ってから、さらにもう一つ書いた。
名前のない少年。
誰も置いていかないと言うなら、名前を知らない者のことも忘れてはいけない。
蓮はペンを置いた。
夜の向こうで、ピラミッドは沈黙している。
その下に、黒い太陽の神殿がある。
そして王の間で、存在しない王が待っている。
蓮は静かに目を閉じた。
明日、彼らは王の間へ向かう。
マーカスを止めるために。
セティの名前の石を探すために。
そして、王がまだ王であると思い込んでいる記憶に、終わりを告げるために。




