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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第3章 黒い太陽の神殿

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5:王の間

5:王の間


 王の間へ向かう前に、蓮たちはもう一度、名前を書いた。

 資料室の長机の上に、白い紙を広げる。

 蓮はそこに、自分の名を書いた。


 篠原蓮。

 Ren Shinohara.

 しのはら れん。


 その下に、前回よりも大きな字で書く。

 誰も置いていかない。

 そして、少し間を空けて、さらに名前を並べた。


 ナディア・ハッサン。

 黒瀬玄。

 セティ。

 マーカス・リード。

 名前のない少年。


 最後に、ペン先を紙の上で止めた。


 ネフェル=カー。


 その名を書くかどうか、迷った。

 名前を書くという行為は、この地下ではただの記録ではない。呼ぶことで戻る名もあれば、呼ぶことで近づいてしまう名もある。

 ネフェル=カーは後者かもしれない。

 王の名を紙に書けば、王がこちらを見つけるかもしれない。

 だが、もう見つかっている。

 神殿の奥で、存在しない王は待っている。

 蓮は息を吸い、紙に書いた。


 ネフェル=カー。


 その瞬間、部屋の蛍光灯が一度だけ揺れた。

 黒瀬玄が顔を上げる。

「今、反応しましたよね」

「はい」

 ナディアが静かに答えた。

 彼女の紙にも、同じ名前が書かれていた。自分の名、蓮の名、黒瀬の名、セティの名、マーカスの名、そしてネフェル=カー。

 黒瀬の紙は、いつものように少しだけ独特だった。

 黒瀬玄。

 機材担当。

 怖い時ほど名前確認。

 蓮さん、ナディアさん、セティ、マーカスさんを忘れない。

 ネフェル=カーの声を信じすぎない。

 自分から壁を見に行かない。

 帰る。絶対帰る。

 蓮はそれを見て、少しだけ笑った。

「最後がいいですね」

「一番大事ですから」

 黒瀬は真顔で言った。

 その通りだった。

 地下へ降りる目的は、真実を知るためだけではない。セティを救うためだけでもない。マーカスを止めるためだけでもない。

 帰るためだ。

 名前を持ったまま。

 自分たちのまま。

 誰かを置き去りにせずに。

 ナディアは紙を丁寧に折りたたみ、胸ポケットに入れた。

「今日、王の間に入ります」

 彼女の声は落ち着いていた。

「これまで以上に、言葉に注意してください。ネフェル=カーは王です。おそらく、命令と契約の言葉に強い力を持っています。約束する従う差し出す受け入れるといった言葉は使わないでください」

「契約みたいですね」

 黒瀬が言う。

「実際、そうかもしれません」

 ナディアは答えた。

「古代の儀式において、言葉は行為です。特定の言葉を発すること自体が、儀式の成立を意味する可能性がある」

 蓮は頷いた。

 地下で約束すると、石になる。

 セティの言葉が思い出される。

 言葉は軽くない。

 特に神殿の中では。

「マーカスは?」

 蓮が聞くと、ナディアは少し眉を寄せた。

「彼は自室にいます。少なくとも、身体は。現地スタッフが確認しています。ただし、王の間では影として現れる可能性が高い」

「名前を呼ぶ準備はしておきます」

「はい。ただ、彼が完全に声に飲まれた場合、名前だけでは戻せないかもしれません」

 黒瀬が小さく言った。

「その時は?」

 ナディアは一瞬、言葉を止めた。

「その時も、まず名前を呼びます」

「それでも駄目なら?」

 沈黙。

 蓮は静かに言った。

「その時は、止めます」

 黒瀬が彼を見る。

「どうやって?」

「まだわかりません」

「ですよね」

 黒瀬は苦笑した。

 だが、誰もそれ以上言わなかった。

 わからないことばかりだった。

 ネフェル=カーがどんな形で現れるのか。

 セティの名前の石がどこにあるのか。

 マーカスがどれほど神殿に取り込まれているのか。

 封印を代わりなしで変える方法があるのか。

 何一つ確かな答えはない。

 それでも、進むしかなかった。


     *


 保管室の門は、三人が近づく前から開きかけていた。

 六つのくぼみには、すでに青白い光が満ちている。石片を待っているというより、石片が戻ってくることを知っているようだった。

 蓮たちは名前を呼び合い、石片を順に嵌めた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 門が開く。

 その向こうには、黒い太陽の神殿の列柱室が広がっていた。

 前回と違い、入口からすでに奥の気配が強かった。

 六本の水路が床を走り、青白い光が奥へ流れている。柱の表面には、前回食われかけた記憶の残骸がまだ残っていた。

 ナディアの祖母の横顔。

 黒瀬の家の玄関。

 蓮の母の顔。

 それらは壁画の中に混じり、古代の人々の記憶と重なりかけていた。

 蓮は視線を落とした。

 見すぎてはいけない。

 壁は記憶を食べる。

「名前を」

 ナディアが言った。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

 三人は互いを呼び合った。

 声が神殿の中で小さく響く。

 その響きに、壁の記憶が一瞬だけ後退したように見えた。

 神殿の奥へ進む。

 今回は、前回よりも道がはっきりしていた。六本の水路は列柱室の奥で一本に合流し、その先に黒い石の扉がある。

 扉の上には、王冠の印。

 ネフェル=カーの冠。

 王の間。

 蓮は胸の奥が重くなるのを感じた。

 王の間の扉の前には、二体の像が立っていた。

 人間の体に、耳の大きな獣の頭。アヌビスでも、ホルスでもない。耳だけが異様に大きく、顔には目がない。目の代わりに、無数の小さな口が刻まれている。

 声を聞く守護者。

 蓮の頭に意味が浮かぶ。

 ナディアが像を見上げた。

「目がない……耳と口だけ」

「聞き、語るもの」

 蓮は言った。

「王の声を守る像だと思います」

 黒瀬が嫌そうに言う。

「目がない方が安全なのか、口が多い方が危険なのか、判断に困りますね」

 その時、二体の像の口が同時に開いた。

 石の像のはずなのに、口だけがわずかに動いた。

 声が響く。

 名を告げよ。

 名を持たぬ者は入れぬ。

 名を偽る者は食われる。

 蓮たちは顔を見合わせた。

 ナディアが小声で言う。

「本名を全部告げるのは危険です」

「でも偽ると食われる」

 黒瀬が顔をしかめる。

「嫌な門番ですね」

 蓮は考えた。

 前にも門で名を置いた。あの時は名だけを告げた。蓮、ナディア、玄。それで通れた。

 今も同じでいいのか。

 王の間は、もっと深い場所だ。中途半端な名では拒まれるかもしれない。

 だが、全てを告げれば、名前を奪われるかもしれない。

 蓮は胸ポケットの紙に触れた。

 自分の名前は一つではない。


 篠原蓮。

 Ren Shinohara.

 しのはら れん。


 蓮。

 その全てが自分だ。

 けれど、ここで差し出すべき名は、役割ではなく、今ここに立つ自分自身。

 蓮は扉の前に立った。

「蓮。私は蓮です」

 少し間を置いて、ナディアが続く。

「ナディア。私はナディアです」

 黒瀬も息を吸って言った。

「玄。俺は玄です」

 二体の像の口が閉じた。

 沈黙。

 そして、黒い扉がゆっくりと沈み込んだ。

 王の間が開いた。


     *


 王の間は、空洞のようだった。

 広い。

 あまりにも広い。

 神殿の中にある部屋というより、地下そのものに開いた別の空間だった。床は黒い石でできており、その表面に青白い光の筋が走っている。天井は見えない。上方には、星のような光点が無数に浮かんでいた。

 部屋の中央には、玉座があった。

 高い石段の上に置かれた黒い玉座。背もたれには巨大な耳の意匠が刻まれ、その周囲を水路の線が取り巻いている。

 玉座には、一人の男が座っていた。

 ネフェル=カー。

 そう認識した瞬間、蓮の膝がわずかに震えた。

 男は人間の姿をしていた。

 高い冠をかぶり、胸には広い襟飾りをつけ、手には細い杖を持っている。顔は若くも老いても見える。目は閉じられていた。だが、耳だけが異様に大きく強調されている。

 彫像ではない。

 霊でもない。

 記憶が人の形を取ったもの。

 そう感じた。

 王の周囲には、無数の薄い人影が立っていた。祭司、兵士、女性、子ども、老人。彼らはすべて壁画のように平面的で、しかし確かにそこにいる。

 王は目を閉じたまま、口を開いた。

「名を持つ者たちよ」

 声は低く、深く、神殿全体を震わせた。

「よく来た」

 ナディアが小さく息を吸った。

 黒瀬は隣で固まっている。

 蓮は一歩前に出た。

「あなたがネフェル=カーですか」

 王はゆっくり目を開いた。

 その目は黒かった。

 完全な黒。

 瞳も白目もない。ただ黒い太陽のような目が二つ、蓮を見ていた。

「私はネフェル=カー。美しき魂。声を聞く王。地下都市アケト・ドゥアトを治めし者」

 アケト・ドゥアト。

 都市の名。

 蓮の頭に意味が流れ込む。

 地平の冥界。

 夜明けと死の境界にある都市。

「あなたは死んだはずです」

 ナディアが言った。

 王は彼女を見た。

「死は、名を失うことだ。私の名は残っている」

「名が残っていても、あなたは人間ではありません」

「人間であったことはある。王であったこともある。今は、声の座にいる」

 黒瀬が小声で言った。

「声の座……」

 王は黒瀬の方へ顔を向けた。

「機械を持つ者よ。お前は記録しようとする。だが、記録は記憶ではない」

 黒瀬はびくりとした。

「すみません、撮ってます」

「撮るがよい。映るものだけが真実ではない」

 王の視線が蓮へ戻る。

「黒い太陽を持つ者よ」

 蓮の胸が締めつけられる。

「あなたは、僕を知っているんですか」

「私は、お前の役目を知っている」

「僕個人ではなく?」

「個人は水面の波。役目は水路の底を流れる石」

 蓮は拳を握った。

 やはりそうだ。

 王にとって蓮は蓮ではない。黒い太陽を持つ者という役割だ。

「僕は役目ではありません」

 蓮は言った。

「僕は蓮です」

 王はわずかに微笑んだ。

「名を守るか。よい。名を持つ者は、まだ声になっていない」

 ナディアが前に出る。

「私たちは、セティを解放する方法を探しに来ました」

 王の表情が少し変わった。

 セティの名に反応した。

「小さき耳か」

「彼はあなたに利用された」

 蓮が言うと、王の周囲の人影がざわめいた。

 王は静かに答えた。

「彼は都市を救った」

「彼は子どもでした」

「王もまた、子どもであった」

 蓮は言葉に詰まった。

 王は淡々と続ける。

「私は声を聞いた。初めは死者の声だった。母の声、父の声、戦で倒れた者の声。民は泣き、私に願った。もう一度、死者の声を聞かせてほしいと」

 王の背後に壁画のような映像が浮かんだ。

 若きネフェル=カーが、水路の前に立っている。人々が石片に名前を刻み、水路へ沈める。水路から声が上がり、人々が涙を流す。

「私は応えた。名を流し、声を戻した。民は私を美しき魂と呼んだ」

 映像が変わる。

 豊かな地下都市。笑う人々。市場。子ども。祈り。

「だが声は増えた。死者だけではなかった。まだ死なぬ者、まだ生まれぬ者、忘れられた者、忘れようとした者。声は水路を満たし、神殿は膨れた」

 映像の水路が黒く染まる。

 人々が耳を塞ぐ。子どもが壁に向かって話す。老人が自分の死後の声を聞いて倒れる。

「私は止めようとした」

 王の声が初めて揺れた。

「私は王だった。民を守らねばならなかった」

「だからセティを選んだんですか」

 蓮の声は低かった。

 王は蓮を見た。

「セティは聞けた。私よりも深く。私よりも清く。声は彼を通して眠った」

「あなたは彼を犠牲にした」

「そうだ」

 王は否定しなかった。

 その潔さが、かえって残酷だった。

「私は一人を犠牲にして、多くを救った」

「それが正しかったと思っているんですか」

「王に正しさはない。選択だけがある」

 蓮は奥歯を噛んだ。

 ナディアが言った。

「私たちは、代わりを作らずにセティを解放する方法を探しています」

 王は彼女を見た。

「代わりなき解放は、存在しない」

「それは神殿の言葉ですか。それともあなたの言葉ですか」

 ナディアの問いに、王は少し沈黙した。

 その沈黙が、初めて王を人間らしく見せた。

「かつては、私の言葉だった。今は、声の言葉でもある」

「つまり、あなたももう区別できていない」

 王の周囲の影たちがざわめく。

 王は目を細めた。

「考古学者よ。お前は鋭い」

「私はナディアです」

 ナディアははっきり言った。

「名前で呼んでください」

 王は一瞬、驚いたように見えた。

 そして、小さく笑った。

「ナディア。お前は、王に名を求めるか」

「はい。私たちは役割ではなく、名前を持ってここにいます」

 黒瀬も震えながら言った。

「俺は玄です。機械を持つ者じゃなくて」

 王は黒瀬を見た。

「玄」

 その名が王の口から発せられた瞬間、黒瀬の顔が青ざめた。

 だが、彼は踏みとどまった。

「はい。黒瀬玄です」

 王は再び蓮を見た。

「蓮」

 蓮の背筋が震えた。

 ネフェル=カーに名前を呼ばれた。

 その声は、ただの発音ではなかった。名前の奥を覗かれるような感覚があった。けれど、奪われたわけではない。

 蓮は答えた。

「はい。僕は蓮です」

 王は言った。

「ならば蓮よ。お前に問う」

 玉座の背後に、黒い太陽が浮かび上がる。

「セティを解放したいか」

 蓮はすぐには答えなかった。

 言葉に注意しなければならない。

 解放したい。

 助けたい。

 救いたい。

 だが、ここで口にした言葉は契約になるかもしれない。

 蓮は慎重に言った。

「セティが声に食べられ続ける状態を終わらせる方法を探しています」

 王は目を細めた。

「賢い答えだ」

「そして、誰かを代わりに器にする方法は選びません」

 王の周囲の影が、またざわめいた。

「ならば眠りは壊れる」

「壊さずに変える方法を探します」

「お前は、王より賢いと思うか」

「思いません」

 蓮は答えた。

「でも、王と同じ選択をするためにここへ来たわけではありません」

 その時、王の間の奥で別の声がした。

「美しい言葉です」

 三人は振り返った。

 黒い柱の影から、マーカス・リードが現れた。

 今度は影ではなかった。

 少なくとも、そう見えた。

 身体の輪郭ははっきりしている。足音もある。だが、その周囲には薄い黒い光がまとわりついていた。彼の背後には、水路に流れる名前のような線が揺れている。

「マーカス……」

 ナディアが警戒する。

「どうやってここへ」

 マーカスは微笑んだ。

「門は開きました。蓮さんが道を作った。私はその道を辿っただけです」

「身体で入ったのか」

 黒瀬が聞く。

 マーカスは少し首を傾げた。

「身体とは何でしょうね」

「うわ、嫌な答え」

 蓮はマーカスを見た。

 彼の目は、以前よりも黒かった。

 完全な黒ではない。だが、瞳の中心に黒い太陽のような点がある。

「マーカス・リード」

 蓮は彼の名を呼んだ。

 マーカスの歩みが止まる。

 一瞬だけ、顔に苦しみが浮かんだ。

「その名で呼ばないでください」

「あなたの名前です」

「それは、リード家の鎖です」

「それでも、あなたの名前です」

 ナディアも言った。

「マーカス。戻ってください」

 黒瀬も続く。

「マーカスさん。そっちは危ないです」

 マーカスは目を閉じた。

 苦しそうに息を吐く。

 だが次に目を開けたとき、黒い点はさらに大きくなっていた。

「私は戻りません」

 彼は言った。

「戻るために来たのではない。完成させるために来た」

 王が玉座からマーカスを見下ろす。

「リードの名を持つ者よ。お前は声を欲する」

「はい」

 マーカスは王へ向き直った。

「あなたは失敗した。声を一人の器に閉じ込めたからです。私は声を広げる。人類全体へ。そうすれば器はいらない」

 王は静かに笑った。

「私も、かつて同じことを考えた」

 マーカスの顔が揺れる。

「違う。私はあなたとは違う」

 神殿の壁がざわめいた。

 無数の声が繰り返す。

 私は違う。

 私は違う。

 私は違う。

 蓮は叫んだ。

「マーカス! それは神殿の声です!」

 マーカスは頭を押さえた。

 だが、もう止まらなかった。

「黙れ……黙れ……私は違う。私は声を制御する。私は声を解放する。私は――」

 彼の言葉が途中で変わった。

 声が重なる。

 マーカスの声。

 エドワード・リードの声。

 名前のない少年の声。

 ネフェル=カーの声。

 神殿の声。

「私は、聞く」

 王の間が震えた。

 玉座の背後の黒い太陽が開き始める。

 ナディアが叫んだ。

「蓮さん、下がって!」

 黒瀬が機材を構えながら叫ぶ。

「低周波、振り切れてます!」

 王は立ち上がった。

 その動作だけで、王の間にいた無数の影が膝をつく。

 ネフェル=カーの声が響く。

「声を欲する者は、声に食われる」

 マーカスは笑った。

「ならば、食われる前に食う」

 彼は玉座の背後の黒い太陽へ歩き出した。

 蓮は走った。

「マーカス!」

 マーカスの肩を掴もうとした瞬間、壁から無数の手が伸びた。

 記憶の手。

 蓮の母の手。

 ナディアの祖母の手。

 黒瀬の家の玄関から伸びる幼い手。

 セティの小さな手。

 名前のない少年の手。

 それらが蓮の腕を掴み、止めようとする。

「蓮!」

 ナディアが叫ぶ。

 蓮は振り返る。

 自分の名前が届く。

 手が薄れる。

 黒瀬も叫ぶ。

「蓮さん! 戻って!」

 蓮は腕を振り払い、マーカスへ近づく。

 だが、その瞬間、玉座の下の床が開いた。

 そこに、小さな白い石があった。

 蓮は息を止めた。

 白い石。

 表面に名前の記号。

 セティの名前の石。

 王は言った。

「選べ」

 蓮は動けなくなった。

 王の声が続く。

「名の石を取れば、小さき耳は少し戻る。だが眠りは揺らぐ。声は強くなる」

 マーカスは黒い太陽へ向かっている。

 白い石は目の前にある。

 どちらを選ぶ。

 マーカスを止めるか。

 セティの名前の石を取るか。

 ナディアが叫んだ。

「蓮さん! 一人で決めないで!」

 その声で、蓮は我に返った。

 そうだ。

 一人で決めてはいけない。

 王は選択を迫っている。

 どちらかを選べと。

 それが罠だ。

 ネフェル=カーは一人で選んだ。

 一人を犠牲にして多くを救うと。

 だから失敗した。

 蓮は叫んだ。

「ナディア! 玄! マーカスを!」

 黒瀬がすぐに反応した。

「了解!」

 ナディアも走り出す。

 蓮は白い石へ手を伸ばした。

 だが触れる直前、胸ポケットのメモが熱を持った。

 誰も置いていかない。

 蓮は白い石を掴んだ。

 冷たい。

 氷のように冷たい。

 その瞬間、セティの声が響いた。

「蓮!」

 神殿全体が震える。

 王の表情が歪む。

 黒い太陽が大きく開く。

 マーカスはその前で足を止めた。

 ナディアが彼の腕を掴む。

「マーカス!」

 黒瀬も反対側から体当たりするように押さえた。

「戻れ! マーカス・リード!」

 マーカスは暴れた。

「離せ! 声が……声がそこに……!」

 蓮は白い石を握りしめたまま叫んだ。

「マーカス・リード! あなたはまだ名前を持っている!」

 マーカスの身体が硬直した。

 黒い太陽から、無数の声が吹き出す。

 名を捨てよ。

 声となれ。

 王となれ。

 耳となれ。

 器となれ。

 マーカスは頭を抱えた。

「私は……私は……」

 蓮は続けた。

「あなたはマーカス・リードです! エドワードの記憶でも、ネフェル=カーでも、神殿の声でもない!」

 ナディアが叫ぶ。

「マーカス!」

 黒瀬も叫ぶ。

「マーカスさん!」

 その瞬間、白い石が蓮の手の中で強く光った。

 セティの名前が、神殿に響いた。

 蓮はその名を呼んだ。

「セティ!」

 王の間に、少年の姿が現れた。

 白い布をまとったセティ。

 だが、今までよりも輪郭が濃い。目に光があり、足元に影がある。名前の石を取り戻したことで、彼は少しだけ形を取り戻していた。

 セティはマーカスを見た。

 そして、静かに言った。

「その声は、君の名前を覚えてくれない」

 マーカスの目が揺れる。

 セティは続けた。

「僕は、名前をなくした人を知っている。誰も呼べなくなった人を。声になった人を。声は大きいけど、誰もその人を見つけられない」

 マーカスの顔が苦しみに歪む。

「私は……失われた名前を……」

「全部を一度には助けられない」

 セティの声は小さかった。

「でも、名前を捨てたら、君も誰かに探される側になる」

 マーカスは膝をついた。

 黒い太陽の光が、少し弱まる。

 ナディアと黒瀬が彼を支えた。

 王は玉座の前で、セティを見つめていた。

「小さき耳」

 セティは王を見た。

 その瞳に、長い時間の痛みがあった。

「王様」

 セティは言った。

「僕は、もう聞きたくない」

 王の顔に、初めて明確な感情が浮かんだ。

 痛み。

 後悔かもしれない。

 あるいは、王であった記憶の奥に残った、人間の痛み。

「ならば、誰が聞く」

 王は言った。

「誰も一人で聞かない」

 蓮が答えた。

 王は蓮を見る。

「声は大きい」

「だから、一人に背負わせない」

「声は溢れる」

「なら、封じる形を変える」

「どう変える」

 蓮は答えられなかった。

 まだ方法はない。

 だが、ここで「わからない」と言うことを恐れてはいけない。

「まだわかりません」

 蓮は言った。

「でも、わからないからといって、また誰か一人を器にする方法は選びません」

 王は黙った。

 黒い太陽の奥で、巨大な目が動く気配がした。

 ナディアが低く言った。

「蓮さん、長くは持ちません。戻りましょう」

 黒瀬もマーカスを支えながら言う。

「撤退賛成です。マーカスさん重いですし、もう限界です」

 セティが蓮を見る。

「蓮。石を持っていって」

「君は?」

「少しだけ、外に近づける」

 セティは自分の胸に手を置いた。

「名前が戻ったから」

 蓮は白い石を握りしめた。

「セティ、戻ろう」

 セティは首を横に振った。

「まだ全部は無理。僕はまだ、眠りに縫いつけられている」

「どうすればいい」

 セティは王を見た。

「王が、まだ僕を放していない」

 王は何も言わなかった。

 だが、その沈黙は認めているようだった。

 蓮は王を睨んだ。

「次に来る時、セティを放してもらいます」

 王は静かに言った。

「放せば、声は目覚める」

「目覚めさせない方法を見つけます」

「見つからなければ?」

 蓮は答えなかった。

 代わりに、自分の名前を言った。

「蓮」

 ナディアも言う。

「ナディア」

 黒瀬が続ける。

「玄」

 そして、マーカスがかすれた声で言った。

「マーカス……リード」

 蓮はセティを見た。

 セティも言った。

「セティ」

 五つの名前が、王の間に響いた。

 王の黒い目が、わずかに細められる。

「名を持つ者たちよ。ならば進め。次に来る時、黒い太陽は問うだろう」

「何を」

 蓮が聞く。

 王は答えた。

「誰が、声を聞くのかを」

 その言葉を最後に、王の間が揺れ始めた。

 撤退の合図だった。


     *


 帰り道は、ほとんど覚えていない。

 ナディアと黒瀬がマーカスを支え、蓮がセティの名前の石を握りしめ、五人分の名前を呼び続けた。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

「マーカス」

「セティ」

 何度も、何度も。

 壁が記憶を投げかけてきた。

 ネフェル=カーの玉座。

 声を聞く王。

 セティの泣き顔。

 エドワード・リードの黒い手帳。

 名前のない少年。

 蓮と同じ顔の祭司。

 そして、黒い太陽の奥で開きかける巨大な目。

 それでも、名前を呼び続けた。

 門を抜け、保管室の床に倒れ込んだとき、全員がしばらく動けなかった。

 マーカスは意識を失っていた。

 だが、息はある。

 ナディアは彼の脈を確認し、ほっと息を吐いた。

「生きています」

 黒瀬は床に仰向けになりながら言った。

「もう……本当に……毎回ギリギリすぎます……」

 蓮は手を開いた。

 白い石があった。

 セティの名前の石。

 表面には、今なら読める文字が刻まれている。

 セティ。

 その名を見た瞬間、保管室の空気が少しだけ柔らかくなった。

 遠くで、セティの声がした。

「ありがとう」

 蓮は目を閉じた。

「まだ終わってない」

「うん」

 声は小さかった。

「でも、少しだけ静かになった」

 蓮は胸が詰まった。

 完全な解放ではない。

 だが、セティは少しだけ声から離れられた。

 その一歩は、小さくても確かな一歩だった。

 ナディアが白い石を見つめる。

「これで、封印の構造が変化したはずです」

「良い方向に?」

 黒瀬が聞く。

 ナディアは答えられなかった。

 その時、保管室の門に黒い文字が浮かび上がった。

 蓮は読んだ。

 小さき耳は名を得た。

 声は器を失い始める。

 黒い太陽は、新しい聞き手を求める。

 続いて、もう一行。

 声を聞く者。

 黒瀬がそれを見て、力なく笑った。

「この地下は一体何なんだ」

 ナディアは笑わなかった。

「黒い太陽が、新しい聞き手を求める……」

 蓮はマーカスを見た。

 意識を失った彼の手が、かすかに震えている。

 そして自分の胸に手を当てた。

 黒い太陽は、新しい聞き手を求めている。

 それはマーカスなのか。

 蓮なのか。

 それとも、もっと別の誰かなのか。

 王の言葉が蘇る。

 誰が、声を聞くのか。

 セティを完全に救うには、その問いに答えなければならない。

 ただし、答えを間違えれば、また誰かが器になる。

 蓮は白い石を握りしめた。

 誰も置いていかない。

 その言葉は、もう願いでは済まなくなっていた。

 いずれ蓮たちは選ばなければならない。

 声を聞く者を。

 あるいは、誰も一人で声を聞かなくて済む、新しい道を。

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