1:セティの名前の石
1:セティの名前の石
セティの名前の石は、白かった。
これまで手に入れてきた六つの石片は、どれも黒かった。光を吸い込み、手に持つと氷の奥に火があるような、奇妙な感触があった。黒い太陽、舟、膝をつく者、目、水路、門。どれも地下迷宮の儀式を進めるための石であり、同時に、名前を失わないための重りでもあった。
だが、セティの名前の石だけは違った。
それは小さな白い石だった。丸みを帯びていて、長い時間、水に洗われた小石のようにも見える。けれど表面は滑らかすぎるほど滑らかで、自然に削られたものではないとわかった。
中央には、セティの名が刻まれている。
現代の文字ではない。
古代エジプトのヒエログリフとも違う。
だが蓮には、それがセティの名だとわかった。
読むというより、呼ばれるように意味が届く。
セティ。
その名を心の中で唱えるたび、石はほんのわずかに温かくなった。黒い石片とは逆だった。黒い石片は地下の冷たさを閉じ込めていたが、この白い石は、かすかな体温を持っているようだった。
ホテルの資料室で、蓮はその石を透明なケース越しに見つめていた。
セティの名前の石を王の間から持ち帰ってから、まだ半日しか経っていない。だが、すでに変化は始まっていた。
まず、保管室の空気が変わった。
それまで地下入口のある保管室は、いつも冷たかった。古代の石壁が現れてからは、ホテルの地下とは思えないほど温度が下がり、石と香と古い灰の匂いが漂っていた。だが白い石を持ち帰ってから、その冷気が少し和らいだ。
完全に消えたわけではない。
黒い太陽の神殿へ続く門は、まだ保管室の奥にある。六つの石片を嵌めれば、また開くだろう。門の向こうには、地下都市アケト・ドゥアトがあり、黒い太陽の神殿があり、王の間がある。
しかし、そこから吹いてくる空気に、わずかな変化があった。
以前は、地下がただこちらを見ていた。
今は、その視線の中に迷いがある。
蓮にはそう感じられた。
セティの名が戻ったことで、封印の構造に何かが起きたのだろう。
神殿の壁に浮かび上がった文字が、それを告げていた。
小さき耳は名を得た。
声は器を失い始める。
黒い太陽は、新しい聞き手を求める。
黒い太陽は、新しい聞き手を求める。
その言葉が、蓮の頭から離れなかった。
セティは、声を聞き続ける器にされていた。死者の声、生者の声、まだ生まれていない者の声、忘れられた名、忘れたふりをした記憶。そうしたものを一人で受け止め、地下に留めるための存在。
そのセティの名前が戻った。
少しだけ、彼は声から離れ始めた。
ならば、その空いた場所へ、黒い太陽は別の誰かを求める。
次の聞き手。
それが誰なのか。
蓮は、考えないようにしても考えてしまう。
マーカスか。
蓮自身か。
それとも、ナディアや黒瀬まで巻き込まれるのか。
資料室の机の上には、名前を書いた紙が何枚も置かれていた。
蓮。
ナディア。
玄。
セティ。
マーカス・リード。
ネフェル=カー。
名前のない少年。
名前を書き、呼ぶことが、今のところ唯一の防御だった。
名を呼べば、少しだけ戻れる。
神殿の中でマーカスを引き戻せたのも、セティの輪郭が濃くなったのも、名前を呼んだからだ。
だが、それは応急処置に過ぎない。
名前を呼び続けなければ戻れない場所にいる時点で、すでに危険なのだ。
蓮は白い石に視線を落とした。
「セティ」
小さく呼ぶ。
ケースの中の石が、ほんの少しだけ明るくなった。
声は聞こえない。
だが、遠くで誰かがこちらを振り向いたような気配がした。
セティはまだ地下にいる。
完全には戻れない。
王はまだ彼を放していない。
黒い太陽はまだ、新しい聞き手を探している。
終わりではない。
むしろ、ここからが本当の危険なのだ。
*
マーカス・リードは、まだ意識を取り戻していなかった。
王の間から戻ったあと、彼はホテルの一室に運ばれ、現地の医療スタッフの確認を受けた。外傷はない。脈も呼吸も安定している。だが、目を覚まさない。
医師は疲労とショックによる一時的な意識障害の可能性を指摘した。普通の説明としては、それが最も無難だった。
だが、蓮たちは知っていた。
マーカスの異常は、身体の問題ではない。
彼は王の間で、黒い太陽に近づいた。
神殿の声に飲まれかけた。
ネフェル=カーの失敗を越えると語り、声を地上へ解放しようとした。
そして、蓮たちが名前を呼び続けることで、かろうじて引き戻された。
だが、どこまで戻ったのかはわからない。
マーカスの名前は、まだ彼自身に結びついているのか。
それとも、半分は神殿に残ってしまったのか。
蓮、ナディア、黒瀬の三人は、マーカスの部屋へ向かった。
部屋の前には現地スタッフが一人立っていた。ナディアが短く話し、許可を得て中へ入る。
マーカスはベッドに横たわっていた。
顔色は白く、目は閉じられている。呼吸は静かだった。普段の洗練された雰囲気は消え、年齢相応の疲れた男性に見えた。
枕元のテーブルには、水の入ったグラスと、測定器、簡易的な医療メモが置かれている。
黒瀬が小声で言った。
「普通に寝てるようにも見えますね」
「普通ではありません」
ナディアが静かに答えた。
彼女はマーカスの手元を見ていた。
蓮も視線を向ける。
マーカスの右手が、わずかに握られていた。
ナディアが慎重に手を開く。
掌には、黒い線が浮かんでいた。
黒い太陽ではない。
耳の印だった。
大きな耳の形。
その内側に、細い水路の線が渦巻いている。
「これは……」
黒瀬が息を呑む。
「聞き手の印?」
蓮は呟いた。
その言葉は、自分の中から自然に出た。
ナディアが蓮を見る。
「意味がわかるんですか」
「完全には。でも、そう感じます。これは、声を聞く者の印です」
マーカスの掌に、聞き手の印が浮かんでいる。
黒い太陽は、新しい聞き手を求める。
その一人目として、マーカスが選ばれかけている。
蓮の背筋が冷えた。
ナディアはすぐにメモを取り、写真を撮った。ただし、何度も確認しながら短時間で済ませた。神殿に関係する印は、見るだけでも危険かもしれない。
黒瀬は機材を取り出し、低周波と電磁反応を測る。
「掌から微弱な反応があります。黒い石片と似てますけど、もっと弱い。いや、弱いというより、不安定です」
「マーカス自身が通路になりかけているのかもしれません」
ナディアが言った。
「通路?」
「声が彼を通って出入りしようとしている」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が冷たくなった。
マーカスの唇がわずかに動いた。
三人は同時に彼を見た。
声がした。
ひどく小さな声だった。
「……聞こえる」
蓮はベッドに近づいた。
「マーカス?」
ナディアが止めようとしたが、蓮は距離を保ったまま声をかけた。
「マーカス・リード。聞こえますか」
マーカスのまぶたが震える。
「声が……多すぎる……」
黒瀬が青ざめる。
「意識あるんですか」
マーカスは目を開けなかった。
だが、口だけが動く。
「エドワード……少年……王……セティ……水路……声が……」
「マーカス」
ナディアが強く呼ぶ。
「あなたはマーカス・リードです。今はホテルの部屋にいます」
マーカスの呼吸が少し乱れた。
「違う……私は……私は……」
「マーカス」
蓮も呼んだ。
「戻ってください。あなたの名前はマーカス・リードです」
マーカスの眉間に皺が寄る。
「マーカス……リード……」
その名を自分で発した瞬間、掌の耳の印が薄くなった。
だが消えない。
マーカスの目がゆっくり開いた。
瞳は灰色だった。
黒くはない。
蓮は少しだけ安堵した。
だが、その安堵はすぐに消える。
マーカスの目の奥に、まだ小さな黒い点があった。
黒い太陽の影。
「私は戻ったのですか」
マーカスは掠れた声で聞いた。
ナディアが答える。
「一部は」
「正直ですね」
彼は弱々しく笑った。
黒瀬が言った。
「笑ってる場合じゃないです。掌に印が出てます」
マーカスは自分の手を見た。
耳の印を見ても、驚かなかった。
むしろ、どこか諦めたような表情を浮かべた。
「聞き手の印ですね」
「知っていたんですか」
ナディアが聞く。
「夢で見ました」
マーカスは天井を見上げた。
「王の耳。小さき耳。声を聞く者に現れる印。ネフェル=カーにもあった。セティにもあった。そして今、私に」
蓮の胸がざわつく。
「セティにも?」
「ええ。封印される前、彼の耳の後ろに印があった。声を聞ける者の印です」
蓮はセティの姿を思い出した。
白い布。黒い瞳。裸足。
耳の後ろまで見たことはない。
もしそこに印があったのなら、セティは最初から聞き手として選ばれていたのかもしれない。
「黒い太陽は、あなたを次のセティにしようとしているんですか」
蓮が聞くと、マーカスは目を閉じた。
「そうかもしれません」
意外なほど静かな答えだった。
「でも、あなたはそれを望んでいたんじゃないんですか。声を解放したいと」
「望んでいました」
マーカスは言った。
「今も、その欲望が消えたわけではありません。声は美しい。恐ろしいほどに。あの奥には、人類が失ったものがある。死者の記憶、未来の可能性、忘れられた名前。私はそれを知りたい」
彼はそこで、苦しそうに息を吸った。
「でも、王の間でわかりました」
「何が」
「私は、声を救いたかったのではない。声に選ばれた自分でいたかった」
部屋に沈黙が落ちた。
マーカスは自嘲するように笑った。
「滑稽でしょう。私は人類のため、歴史のため、失われた名前のためと言っていた。けれど、その奥には、黒い太陽に呼ばれる特別な自分への執着があった」
黒瀬は何も言えないようだった。
ナディアも黙っていた。
蓮は、マーカスの言葉を重く受け止めていた。
それはマーカスだけの問題ではない。
蓮にも、近いものがある。
自分だけがセティの声を聞ける。
自分だけが黒い太陽の印を持った。
自分だけが約束を思い出しつつある。
その特別さに、まったく心が動かなかったと言えるか。
言えない。
恐怖と同時に、どこかで自分が選ばれた理由を知りたいと思っていた。
地下は、そこを利用する。
「自分だけ」という感覚は、人を簡単に地下へ引き込む。
マーカスは続けた。
「篠原さん。あなたも気をつけた方がいい」
「はい」
「セティを救いたいという思いは美しい。けれど、美しい思いほど、神殿は好む」
蓮は頷いた。
「わかっています」
「本当に?」
マーカスの目は弱っていたが、鋭かった。
「あなたは、自分が器になればセティを救えると言われたら、拒めますか」
蓮はすぐには答えられなかった。
ナディアが蓮を見る。
黒瀬も表情を硬くした。
蓮は手を握った。
そして、ゆっくり答えた。
「一人では、拒めないかもしれません」
マーカスの目が少し動く。
「正直ですね」
「でも、一人で決めないと決めています」
蓮はナディアと黒瀬を見た。
「二人が止めてくれる。セティも、もう名前を取り戻し始めています。マーカス、あなたの名前も呼ぶ。だから、一人で神殿の問いに答えないようにします」
マーカスはしばらく蓮を見ていた。
「それが、あなたの強さですか」
「強さというより、僕一人では弱いからです」
マーカスは小さく笑った。
「王に聞かせたい言葉ですね」
ナディアが言った。
「マーカス。あなたにはしばらく神殿から離れてもらいます」
「離れられないでしょう」
「それでも、距離を取ります。あなたの掌の印を記録し、変化を観察します。そして、あなた自身も名前を書いてください」
「名前を?」
「はい。何度も。あなた自身の言葉で」
黒瀬が紙とペンを差し出した。
「書いた方がいいです。意外と効きます」
マーカスはペンを受け取った。
少し震える手で、紙に書く。
Marcus Reed.
そこで手が止まった。
次に、日本語ではなく英語で何かを書き足した。
蓮には読めた。
I am not the voice.
私は声ではない。
マーカスはそれを見つめ、もう一度書いた。
I am Marcus Reed.
彼の掌の耳の印が、少しだけ薄くなった。
完全には消えない。
だが、薄くなった。
ナディアは静かに言った。
「名前は、まだあなたの中にあります」
マーカスは目を閉じた。
「そのようですね」
*
マーカスの部屋を出たあと、三人は廊下で立ち止まった。
黒瀬が深く息を吐いた。
「マーカスさん、かなり危ないけど、少し戻ってましたね」
「はい」
ナディアは考え込むように言った。
「聞き手の印が出たということは、黒い太陽はもう新しい器を探し始めています。マーカスが第一候補なのか、それとも候補の一人なのかはわかりません」
「候補が複数いる可能性もありますか」
蓮が聞くと、ナディアは頷いた。
「あります。セティを一人の器にした結果、封印は歪んだ。ならば黒い太陽は、今度は複数の聞き手を求めるかもしれない」
黒瀬が嫌そうに顔をしかめた。
「それ、マーカスさんの案に近くないですか。全員で聞くってやつ」
「ええ。だから危険なんです。マーカスの思想が神殿から来ているのか、神殿がマーカスの思想を利用しているのか、区別が難しい」
蓮は黙っていた。
全員で聞く。
それは、マーカスの傲慢な構想だった。声を地上へ解放し、人類全体で共有する。聞こえは壮大だが、実際には名前と記憶の崩壊を広げる危険がある。
だが、一人に聞かせないという点では、蓮たちの「誰も置いていかない」という考えにも近い。
違いは何か。
蓮は考える。
マーカスは、声を解放しようとしている。
蓮たちは、声を一人に背負わせない方法を探している。
似ているようで、違う。
声を広げることと、声から人を守ることは違う。
ナディアは蓮を見た。
「次に神殿へ入る前に、セティと話す必要があります」
「セティと?」
「はい。彼の名前の石を得たことで、接触しやすくなっているはずです。彼が今どの程度自由になったのか、どこまで話せるのか、確認する必要があります」
「どこで?」
黒瀬が聞く。
ナディアは少し考えた。
「保管室です。神殿の門の前ではなく、こちら側で。セティの名前の石を使って呼びかけます。ただし、長時間は危険です」
蓮は頷いた。
セティと話す。
それは必要だった。
王の間で、セティの名前の石を手に入れた。彼は少しだけ形を取り戻した。だが、まだ眠りに縫いつけられていると言った。
今の彼が何を感じているのか。
黒い太陽が新しい聞き手を求め始めた今、彼は何を知っているのか。
それを聞かなければならない。
*
保管室には、以前よりも柔らかい空気が流れていた。
だが、その柔らかさの奥には、不安定な揺らぎがあった。セティの名前が戻ったことで、封印は少し緩んだ。けれど、その緩みは決して安全を意味しない。
門は閉じている。
六つのくぼみは暗く、石片を待っている。だが今回は、六つの黒い石片は使わない。
机の上に置かれたのは、白い石。
セティの名前の石だけだった。
蓮、ナディア、黒瀬は、石を囲むように立った。
ナディアが言った。
「短く行います。呼びかけるのは蓮さん。私と黒瀬さんは、あなたの名前を保持します」
「はい」
黒瀬は紙を握っていた。
「蓮さんが変な感じになったら、すぐ名前呼びます」
「お願いします」
蓮は白い石を見つめた。
そして、静かに呼んだ。
「セティ」
石が温かくなる。
蓮はもう一度呼んだ。
「セティ」
保管室の空気が揺れた。
門の前に、白い影が現れる。
セティだった。
今までより輪郭が濃い。完全な実体ではないが、足元に薄い影がある。白い布の裾が、風もないのにわずかに揺れていた。
セティは蓮を見た。
「蓮」
蓮は胸が熱くなるのを感じた。
「セティ。聞こえる?」
「うん。前より、近い」
ナディアが静かに尋ねた。
「セティ。あなたは今、どこにいるのですか」
セティは少し考えるように目を伏せた。
「まだ神殿の下。黒い太陽の眠りの端。でも、名前が戻ったから、前より流されない」
「声は?」
蓮が聞く。
「まだ聞こえる」
セティは答えた。
「でも、少し遠い。全部が僕の中に入ってくる感じじゃない。壁の向こうで騒いでいるみたい」
蓮は息を吐いた。
少しだけ、彼は楽になったのだ。
それだけでも、石を取った意味はあった。
しかしセティの表情は明るくなかった。
「でも、黒い太陽は怒っている」
「怒っている?」
「僕が名前を取り戻したから。声を聞く場所が欠けた。だから、新しい耳を探している」
「マーカス?」
蓮が聞くと、セティは頷いた。
「あの人は、よく聞こえる。聞きたがっているから」
「僕は?」
蓮は思わず聞いた。
セティは蓮をじっと見た。
「蓮も聞こえる」
その言葉に、蓮の胸が重くなる。
「でも、蓮は聞きたがっているのと、聞きたくないのが半分ずつある」
黒瀬が小さく呟いた。
「それ、かなり正確ですね」
セティは続けた。
「だから、黒い太陽は迷っている。蓮は器にできる。でも、蓮は一人で聞こうとしない。名前を結んでいるから」
ナディアが反応した。
「名前を結ぶことは、器になるのを防ぐのですね」
「少しだけ」
セティは言った。
「一人の名前だけを引っ張れなくなるから」
「では、複数で声を聞けば安全なのですか」
ナディアの問いに、セティは首を横に振った。
「たくさんの人に声を分ければ、たくさんの人が壊れる」
マーカスの案を否定する答えだった。
「じゃあ、どうすればいい」
蓮が聞く。
セティは黙った。
しばらくして、静かに言った。
「声を聞くんじゃなくて、返す」
「返す?」
「声は、ずっと聞かれたがっている。でも本当は、帰りたがっている声もある」
「どこへ」
「自分の名前へ」
セティの声はかすかだった。
「水路に流された名前と、声が離れすぎた。名前をなくした声は、帰れなくなって集まった。集まりすぎて、黒い太陽になった」
ナディアが息を呑んだ。
「声をそれぞれの名前へ返す……」
黒瀬が顔をしかめる。
「それ、理屈はわかる気がしますけど、どうやって?」
セティは蓮を見た。
「王の間の奥に、名の井戸がある」
「名の井戸?」
「名前が沈んでいる場所。ネフェル=カーはそこから声を集めた。そこに、声を返せるかもしれない」
蓮は胸が高鳴るのを感じた。
代わりを作らずに解放する方法。
それは、声を誰かに聞かせることではなく、それぞれの名前へ返すことかもしれない。
だが、セティは不安げだった。
「でも、王はそれを嫌がる」
「なぜ」
「王は、声を失うことを恐れている」
「声を?」
「声がなくなったら、王は王ではなくなる。都市も、神殿も、黒い太陽も、ただの記憶になる」
ネフェル=カーは、声の座にいると言った。
彼の王としての存在は、集められた声によって維持されているのかもしれない。
声を名前へ返せば、王の力は弱まる。
つまり、王は抵抗する。
そしてマーカスは、声を地上へ解放しようとする。
蓮たちは、その両方と戦わなければならない。
ナディアが静かに言った。
「次の目的は、名の井戸ですね」
セティは頷いた。
「でも、行くには王の間の奥を通らないといけない」
「黒い太陽の近く?」
「うん」
蓮は拳を握った。
危険は増す。
だが、初めて具体的な道が見えた。
誰かを器にするのではない。
声を地上へばら撒くのでもない。
声を名前へ返す。
それが本当に可能なら、セティを完全に救えるかもしれない。
名前のない少年も。
水路に流された無数の声も。
そして、ネフェル=カー自身すら、王という役割から解放できるのかもしれない。
その時、セティの姿が揺れた。
彼は苦しそうに胸を押さえる。
「セティ?」
蓮が近づこうとすると、ナディアが止めた。
セティは震える声で言った。
「黒い太陽が、聞いてる」
保管室の門に、黒い線が浮かび上がる。
耳の印。
マーカスの掌にあったものと同じ。
それが門いっぱいに広がっていく。
セティが叫んだ。
「次の聞き手を選ぶ前に、名の井戸へ行って!」
「誰が選ばれる?」
蓮が聞く。
セティは蓮を見た。
その目には、恐怖があった。
「まだ決まっていない」
「候補は?」
セティは言った。
「マーカス。蓮。……それから」
そこで言葉が途切れた。
セティの視線が、蓮の後ろへ向く。
蓮は振り返った。
ナディアが自分の胸元を押さえていた。
彼女の表情が強張っている。
「ナディアさん?」
黒瀬が声をかける。
ナディアは唇を震わせながら言った。
「声が……聞こえます」
蓮の血の気が引いた。
ナディアの耳の後ろに、細い黒い線が浮かび上がっていた。
大きな耳の印。
聞き手の印。
黒い太陽は、マーカスと蓮だけではなく、ナディアにも手を伸ばしていた。
セティの姿が薄れていく。
消える直前、彼は叫んだ。
「名前を呼んで!」
蓮はすぐに叫んだ。
「ナディア!」
黒瀬も続いた。
「ナディアさん!」
ナディアは苦しそうに目を閉じる。
蓮はさらに呼んだ。
「ナディア・ハッサン!」
黒い耳の印が、わずかに薄れる。
ナディアは荒い息を吐いた。
「戻りました……でも、聞こえました」
「何が?」
蓮が聞く。
ナディアは震える声で答えた。
「祖母の声です。私に……井戸の場所を知っている、と」
保管室に沈黙が落ちた。
名の井戸。
ナディアの祖母の記憶。
地下の声は、ついにナディアの家族の記憶まで通路にし始めた。
黒瀬が低く言った。
「これ、かなり急がないとまずいですね」
蓮は頷いた。
黒い太陽は次の聞き手を探している。
マーカス。
蓮。
ナディア。
誰が選ばれるか、まだ決まっていない。
だが、選ばれてからでは遅い。
次に向かう場所は決まった。
王の間の奥。
名の井戸。
そこに、声を名前へ返す方法があるかもしれない。
蓮は白い石を見つめた。
「セティ。待っていて」
約束とは言わない。
だが、心の中で強く思う。
必ず、声を返す方法を探す。
そして誰も、一人で聞き手にはしない。
保管室の門は、静かに黒い耳の印を浮かべていた。
それはもう始まっていた。
黒い太陽が、新しい聞き手を選ぶ前に。
蓮たちは、声を名前へ返す道を見つけなければならない。




