2:祖母の記憶
2:祖母の記憶
ナディア・ハッサンは、自分の耳の後ろを何度も触っていた。
そこには、細い黒い線が浮かんでいる。
大きな耳の形。
その内側に、水路のような線が渦巻いている。
聞き手の印。
マーカスの掌に現れたものと同じ印だった。
蓮は、その印を直視しすぎないように注意しながらも、どうしても目がそこへ向いてしまった。黒い太陽の印とも、目の石片とも違う。もっと静かで、もっと深く入り込んでくるような印だった。
見ていると、耳の奥に水音が聞こえる。
声ではない。
まだ声になる前の音。
遠い水路を流れる、名前のざわめき。
ナディアは資料室の椅子に座り、両手を膝の上で握っていた。顔色は悪い。だが、視線はしっかりしていた。
「大丈夫ですか」
蓮が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「今は、戻っています」
「声は?」
「遠いです。聞こえそうで、聞こえない。でも、集中すると近づいてくる」
黒瀬玄がすぐに言った。
「集中しないでください。全力でぼんやりしてください」
ナディアは少しだけ笑った。
「努力します」
冗談を返せるだけの余裕はある。
蓮は少し安心した。
だが、安心は長く続かなかった。
ナディアはテーブルの上に置かれた紙を見つめていた。そこには、彼女自身が書いた名前がある。
Nadia Hassan.
私はナディア・ハッサン。
考古学者。
蓮と玄を連れて戻る。
セティを忘れない。
マーカスの声に従わない。
その下に、新しい一文が書き足されていた。
祖母の声を、地下の声と混同しない。
その文字だけ、少し震えている。
蓮はその一文を見て、胸が重くなった。
ナディアはこれまで、常に冷静であろうとしてきた。調査の責任者として、学術的判断を保ち、蓮や黒瀬を引き戻す役割を担っていた。だが、神殿はそこにも手を伸ばした。
ナディアの祖母。
彼女が子どもの頃に聞いた、砂の下の神殿の話。
地下の夢。
エジプトの古い伝承。
それらは、ナディア自身の記憶であり、家族の記憶だった。
黒い太陽は、その記憶を通路にした。
「ナディアさん」
蓮は慎重に言った。
「祖母の声は、何と言っていましたか」
ナディアは少し黙った。
それから、ゆっくり口を開いた。
「井戸は、水のない場所にあると」
「水のない場所……」
「それから、名前は落ちるのではなく、沈むと」
黒瀬が顔をしかめた。
「謎かけですね」
「ええ。でも、私には少し意味がわかる気がします」
ナディアはタブレットを開き、地下都市の映像を表示した。
黒い太陽の神殿へ続く大通り。
六本の水路。
列柱室。
王の間。
そして、その奥に見えたわずかな闇。
「名の井戸は、おそらく水路の終点です」
「神殿の奥ですか」
「はい。水路は死者の名前や記憶を運ぶ構造でした。黒い太陽の神殿はそれを集め、王は声として聞いた。ならば、名前そのものが沈む場所があるはずです」
「それが名の井戸」
蓮が言うと、ナディアは頷いた。
「水のない井戸です。水ではなく、名前が沈む井戸」
黒瀬が腕を組んだ。
「嫌な井戸ですね。底に落ちたら、自分の名前も沈みそうです」
「その可能性はあります」
「冗談のつもりだったんですが」
「ここでは、冗談がよく現実になります」
黒瀬は肩を落とした。
蓮は画面を見つめた。
王の間の奥。
そこに名の井戸がある。
セティの言葉では、声を名前へ返すための場所。黒い太陽に集まりすぎた声を、それぞれの名前へ戻すことができるかもしれない場所。
もし本当にそれが可能なら、封印を作り替えられる。
セティを器から解放し、誰か一人を代わりにするのではなく、声をそれぞれの名へ帰す。
だが、その井戸へ向かうために、ナディアの記憶が必要になる。
祖母の声が道を知っている。
それは希望でもあり、危険でもあった。
「問題は」
ナディアは言った。
「この声が、本当に祖母の記憶なのか、それとも神殿が私の記憶を使って作った罠なのか、区別がつかないことです」
蓮は頷いた。
「セティの声と同じですね」
「はい。助けになる声でも、完全には信じられない」
黒瀬が言った。
「でも、全部疑っていたら進めない。厄介すぎます」
ナディアは深く息を吐いた。
「だから、私が一人で判断しないようにします。祖母の声が何か言っても、必ず二人に伝える。二人が違和感を覚えたら、従わない」
「わかりました」
蓮は答えた。
黒瀬も頷いた。
「じゃあ、今度はナディアさんの名前を重点的に呼ぶ感じですね」
「ええ。もし私が祖母の声に引き込まれそうになったら、名前を呼んでください」
「ナディア・ハッサン、ですね」
「はい」
ナディアは自分の名前を指でなぞった。
「私はナディア。祖母の記憶そのものではない。地下の案内人でもない。考古学者として、ここにいます」
その言葉を聞いて、耳の後ろの印が少しだけ薄くなったように見えた。
*
午後、ナディアは自分の祖母について話し始めた。
それは調査資料というより、個人的な記憶だった。
だが、今の状況では、個人的な記憶こそが重要な資料になる。
神殿は個人の記憶を通路にする。
ならば、その通路がどこへ続いているのか、把握しておかなければならない。
資料室の録音機を回し、黒瀬がメモを取り、蓮はナディアの言葉を聞いた。
「祖母は、よく古い話をしてくれました」
ナディアはゆっくり話した。
「子どもの頃、夏の夜になると、家の屋上で寝転がって、星を見ながら話を聞いたんです。砂の下には、忘れられた町がある。そこでは死者が眠っているのではなく、名前が眠っている。名前をなくした人は、風の中で泣く。そういう話でした」
蓮は黙って聞いていた。
黒瀬のペンの音だけが、小さく響く。
「当時は、ただの民話だと思っていました。祖母は昔話が好きでしたから。けれど、今思えば、奇妙な細部が多かった」
「例えば?」
蓮が聞く。
「井戸に石を投げてはいけないとよく言っていました」
「井戸?」
「普通の井戸の話のように聞こえました。でも、祖母は必ず、水の音がしない井戸ほど危ないと言うんです。水の音がしない井戸には、水ではなく名前が沈んでいるから、と」
黒瀬がペンを止めた。
「名の井戸ですね」
「はい」
ナディアは頷いた。
「もう一つ、耳を壁につけてはいけないとも言っていました。壁の向こうで誰かが名前を呼んでも、返事をしてはいけない。返事をすると、壁があなたの名前を覚えるから」
蓮は神殿の壁を思い出した。
記憶を食べる壁。
壁画に変わった自分たちの姿。
ナディアの祖母の横顔。
祖母の話は、地下の性質と一致しすぎている。
「お祖母さんは、どこでその話を知ったのでしょう」
ナディアは首を振った。
「わかりません。彼女は学者ではありませんでした。ただ、家族の中で伝わっていた話だと言っていました」
「家族の中で……」
蓮は考え込んだ。
マーカスの家系も、黒い太陽と関わっていた。曾祖父エドワードの記録、名前を失った少年、受け継がれた夢。
ナディアの家系にも、地下の伝承が残っている。
ならば、地下は特定の家系や記憶を通路として利用するのかもしれない。
「ナディアさんの家族が、過去に地下と関わっていた可能性は?」
黒瀬が聞いた。
ナディアは少し黙った。
「否定できません」
「何か心当たりが?」
「祖母の祖父が、十九世紀末にサッカラ周辺の発掘現場で働いていたという話があります。記録は残っていません。家族の話だけです」
蓮と黒瀬は顔を見合わせた。
サッカラ。
また、その名が出てくる。
ナディアは静かに続けた。
「もしかすると、彼はエドワード・リードの調査に関わった現地スタッフだったのかもしれません」
「名前を失った少年と関係がある?」
蓮が聞くと、ナディアの顔がわずかに曇った。
「わかりません。でも、祖母が名前をなくした子どもの話をしていたのは覚えています」
蓮の胸が重くなった。
「どんな話ですか」
「砂漠で迷った子どもが、地下の壁に返事をしてしまうんです。壁はその子の名前を気に入り、名前を隠してしまう。家族は子どもの顔を覚えているのに、名前だけ思い出せない。名前を呼べないから、子どもは帰れない。祖母はそう話していました」
黒瀬が息を呑んだ。
「エドワードの日記の少年……」
「同じ話かもしれません」
ナディアは自分の耳の後ろに触れた。
「もしそうなら、私の家族も、リード家とは別の形で地下に記憶されています」
「だから、声が届いた」
蓮が言うと、ナディアは頷いた。
「はい。黒い太陽は、マーカスだけでなく、私の家族の記憶も通路にしている」
資料室の空気が少し冷えた。
黒瀬が不安そうに言う。
「じゃあ、俺の家系は大丈夫なんですかね」
ナディアは彼を見る。
「今のところ、黒瀬さんに聞き手の印はありません」
「それは安心材料ですか?」
「現時点では」
「現時点では、が怖いんですよ」
黒瀬は自分の耳の後ろを触った。
「何もないですよね?」
蓮は確認した。
「ありません」
「よかった……でも、壁に実家の玄関出てましたし、完全に無関係ではないですよね」
蓮は頷いた。
「神殿に入った時点で、全員が関係者にされているのかもしれません」
「嫌な会員登録ですね」
黒瀬の冗談に、ナディアが少しだけ笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「祖母の記憶を使うしかありません」
彼女は言った。
「でも、使われすぎれば、私が聞き手になります」
「そうならないために、名前を呼びます」
蓮が言う。
「はい」
ナディアは蓮を見た。
「私が祖母の声に従いすぎたら、止めてください」
「止めます」
「もし私が、自分なら井戸の場所がわかる、と言って一人で進もうとしたら?」
「止めます」
「もし私が、祖母の声は正しいと強く主張したら?」
「それでも、一度止めます」
ナディアは頷いた。
「それでお願いします」
黒瀬も言った。
「俺も止めます。ナディアさんを担ぐのは蓮さんよりさらに大変そうですが、頑張ります」
「私は自分で歩いて戻ります」
ナディアは静かに返した。
その声には、強い意志があった。
*
夕方、三人は保管室でセティの名前の石を使い、もう一度だけ呼びかけを試みた。
目的は、名の井戸についてさらに確認することだった。
白い石は、机の上で淡く光っている。
蓮が呼んだ。
「セティ」
しばらく沈黙があった。
だが、今日はセティの姿は現れなかった。
代わりに、白い石の表面に細い光の線が浮かび上がった。
水路のような線。
それは石の上で円を描き、中心へ向かって沈んでいく。
「井戸の図でしょうか」
ナディアが言った。
蓮は石を見つめた。
すると、耳の奥でセティの声がした。
「蓮」
「セティ。聞こえる」
「近くにいる。でも、出られない」
「名の井戸について教えてほしい」
セティの声は、前よりも遠かった。
「井戸は、王の間の奥。黒い太陽の下。水路が全部沈む場所」
「そこで声を名前に返せる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昔、返そうとした人がいた」
蓮は息を止めた。
「誰が?」
「黒い太陽を持つ人」
蓮の心臓が跳ねた。
自分と同じ顔をした祭司。
「その人は、何をした?」
「僕を戻そうとした。でも、遅かった」
「遅かった?」
「王が止めた。声が暴れた。その人は、自分の名前を井戸に落とした」
ナディアが蓮を見る。
蓮はセティの言葉をそのまま繰り返した。
「黒い太陽を持つ人が、セティを戻そうとした。でも王に止められて、自分の名前を井戸に落とした」
黒瀬が顔をしかめる。
「それって、蓮さんに似た祭司ですよね」
「たぶん」
蓮は白い石へ問いかけた。
「その人の名前は?」
沈黙。
セティの声が小さくなる。
「思い出せない」
「君も?」
「うん。名前を落としたから。顔は覚えてる。声も少し覚えてる。でも名前がない」
「だから、僕の顔に重なっている?」
「たぶん」
蓮は目を閉じた。
名前を失った祭司。
彼はセティを封印しただけではなかった。後に戻そうとした。だが失敗し、自分の名前を井戸に落とした。
名前を失った役割だけが残り、その役割が蓮に重なっている。
蓮は本人ではない。
だが、名前を失った祭司の未完了の行為が、蓮を通じて再び動き始めているのかもしれない。
「名の井戸に、その人の名前も沈んでいるのか」
蓮が聞くと、セティは答えた。
「沈んでいる。たくさんの名前と一緒に」
「それを戻せば?」
「その人も、少し戻るかもしれない」
黒瀬が低く言った。
「登場人物、さらに増えましたね」
ナディアは真剣な表情で言った。
「でも重要です。名の井戸は、セティだけでなく、名前を失った者たち全体に関わっている」
セティの声が震えた。
「でも気をつけて。井戸は、名前を返す場所だけど、名前を落とす場所でもある」
蓮は頷いた。
「わかった」
「ナディア」
突然、セティがナディアの名を呼んだ。
ナディアは息を呑む。
「はい。聞こえています」
「おばあさんの声は、本物も混じっている」
ナディアの表情が揺れた。
「本物も?」
「うん。でも、全部じゃない。黒い太陽が混ぜている」
ナディアは目を閉じた。
「わかりました」
「井戸へ行くと、おばあさんが道を教える。でも、最後のところだけ、信じちゃだめ」
「最後?」
「井戸の縁で、声が言う。名前を落とせば、全部わかるって」
ナディアの耳の後ろの印が、わずかに濃くなった。
蓮がすぐに呼ぶ。
「ナディア」
黒瀬も呼んだ。
「ナディアさん」
印は薄くなる。
ナディアは深く息を吐いた。
「危なかったです。今、少し聞こえました」
「何が?」
蓮が聞く。
「祖母の声で、知りたいでしょうと」
資料室ではなく保管室の冷たい空気が、さらに冷える。
知りたいでしょう。
神殿が一番使いやすい言葉。
マーカスにも、蓮にも、ナディアにも届く言葉。
セティの声が薄れていく。
「名の井戸では、知りたい気持ちを捨てて」
「それは難しい」
蓮が言うと、セティは少しだけ笑ったような声を出した。
「うん。でも、持ったままだと落ちる」
「どうすればいい」
「知るためじゃなくて、返すために行って」
その言葉を最後に、セティの声は消えた。
白い石の光も弱まる。
保管室に沈黙が戻った。
ナディアはゆっくり目を開けた。
「知るためではなく、返すために」
彼女はその言葉を繰り返した。
黒瀬が言った。
「考古学者には難しいミッションですね」
ナディアは苦笑した。
「本当に」
蓮も頷いた。
彼らは全員、知りたいからここまで来た。
蓮はセティの真実を知りたい。
ナディアは地下都市の歴史を知りたい。
黒瀬は現象を記録し理解したい。
マーカスは神の声を知りたい。
だが、名の井戸では、その知りたい気持ちが危険になる。
知るためではなく、返すために行く。
それが、次の鍵だった。
*
その夜、ナディアは夢を見た。
翌朝、彼女は資料室でその内容を話した。
蓮と黒瀬は、録音機を回しながら聞いた。
「屋上にいました」
ナディアは言った。
「子どもの頃の家の屋上です。夜で、星が見えていました。祖母が隣に座っていました」
「祖母は何を?」
「いつものように昔話をしていました。砂の下には名前の井戸がある。井戸を覗くと、なくした人の名が見える。でも、長く覗くと、自分の名も落ちる、と」
蓮はメモを取った。
「それから?」
「祖母が私に言いました。ナディア、井戸は怖くない。怖いのは、自分の名前を軽く見ることだと」
黒瀬が呟く。
「いい言葉ですね」
「ええ。本物の祖母なら、言いそうな言葉です」
ナディアは少し目を伏せた。
「でも、夢の最後で、祖母の声が変わりました」
「変わった?」
「はい。祖母の顔のまま、別の声で言いました。あなたの名前を落とせば、すべての名前が読めると」
蓮の手が止まる。
セティの警告通りだった。
井戸の縁で、声は言う。
名前を落とせば、全部わかる。
「その時、どうしましたか」
蓮が聞く。
「自分の名前を言いました。ナディア・ハッサン。私は祖母ではない。井戸でもない。そう言ったら、祖母の姿は消えました」
「それで?」
「屋上の床が水路になって、星が全部、名前に変わりました。その中に、井戸の場所が見えました」
ナディアは紙に図を描いた。
王の間。
玉座。
黒い太陽。
その背後にある細い階段。
階段を降りた先に、円形の空洞。
中央に井戸。
「王の間から、直接行くのではありません。玉座の背後、黒い太陽の下に隠れた階段がある。そこを降りる」
「黒い太陽の下……」
蓮は王の間を思い出した。
玉座の背後に浮かぶ黒い太陽。マーカスが近づこうとした場所。そこに階段がある。
つまり、名の井戸へ行くには、黒い太陽のすぐそばを通らなければならない。
黒瀬は顔をしかめた。
「最悪の場所に入口がありますね」
「はい」
ナディアは頷いた。
「しかも、王は私たちを止めるでしょう。名の井戸は、王の力の源でもあるはずです」
「マーカスは?」
蓮が聞く。
「まだ部屋で休んでいます。ただ、聞き手の印は消えていません」
「連れて行きますか?」
黒瀬が驚いた顔をした。
「連れて行くんですか?」
蓮は迷っていた。
マーカスは危険だ。
だが、置いていけば神殿が彼を別の通路として使うかもしれない。彼自身が聞き手の候補である以上、離しても安全とは限らない。
ナディアは厳しい顔で考えた。
「本来なら連れて行きたくありません。ただ、彼をこちらの監視外に置く方が危険かもしれない」
「では、同行させる?」
「条件付きです」
ナディアは言った。
「本人が自分の名前を保持できていること。聞き手の印が急激に濃くなっていないこと。そして、私たちの指示に従うこと」
黒瀬が言った。
「マーカスさんが指示に従うイメージ、あんまりないんですが」
「だから条件付きです」
蓮は頷いた。
「話してみます」
「一人では行かないでください」
ナディアがすぐに言う。
「はい」
黒瀬が手を上げた。
「俺も行きます。マーカスさん係、怖いですけど」
蓮は少しだけ笑った。
だが心は重かった。
名の井戸へ行く。
そこでは、知りたい気持ちが危険になる。
ナディアの祖母の声が道を示す。
黒い太陽は新しい聞き手を探している。
マーカスはまだ、その候補の一人だ。
そして蓮自身も。
準備は整いつつある。
だが、整えば整うほど、地下は深くなる。
*
マーカスの部屋へ行くと、彼は起きていた。
ベッドの上ではなく、机の前に座り、紙に何かを書いている。
蓮、ナディア、黒瀬が入ると、彼はゆっくり振り返った。
「来ると思っていました」
机の上には、何枚もの紙があった。
そこには同じ文が何度も書かれている。
I am Marcus Reed.
I am not the voice.
I am not Nefer-Ka.
I will not open the Black Sun.
最後の一文を見て、ナディアが眉を動かした。
「黒い太陽を開かない、と書いたのですね」
「ええ」
マーカスは苦笑した。
「書いていないと、忘れそうになる」
蓮は彼の掌を見た。
耳の印はまだある。
だが昨日より少し薄い。
「名の井戸へ行きます」
蓮が言うと、マーカスの表情が変わった。
「場所がわかったのですか」
「はい」
「ナディアの記憶ですね」
ナディアが警戒する。
「なぜわかるのです」
「声が囁きました。ハッサンの血にも通路がある、と」
黒瀬が小さく言う。
「声、個人情報を喋りすぎですね」
マーカスは続けた。
「私も行きます」
「条件があります」
ナディアが言った。
「あなたは私たちの指示に従うこと。黒い太陽へ近づかないこと。声が聞こえても、その場で必ず共有すること。単独行動はしないこと」
マーカスは少し笑った。
「私が従うと思いますか」
「従わないなら、連れて行きません」
「置いていけば、私は別の道から入るかもしれません」
「だから、あなた自身にも選んでほしいのです」
ナディアは強く言った。
「マーカス・リードとして同行するのか。黒い太陽の声として邪魔をするのか」
マーカスは黙った。
しばらくして、自分の紙を見た。
I am Marcus Reed.
彼は低く言った。
「同行します。マーカス・リードとして」
「約束という言葉は使わないでください」
蓮が言うと、マーカスは苦笑した。
「では、そう選びます」
その言葉に、ナディアが頷いた。
「十分です」
黒瀬が不安そうにマーカスを見た。
「途中で怪しくなったら、名前呼びますからね」
「頼みます」
マーカスは静かに答えた。
その素直さが、逆に痛々しかった。
彼もまた、自分が自分でなくなる恐怖を知り始めている。
蓮は思った。
誰も置いていかない。
その言葉は、セティだけでなく、マーカスにも向けられる。
そしてナディアにも。
もしかしたら、自分自身にも。
次の調査では、五つの名前を呼び続けなければならない。
蓮。
ナディア。
玄。
セティ。
マーカス。
そして、井戸の底に沈んだ無数の名前。
その中から、声を帰す道を探す。
*
出発は夜明け前に決まった。
神殿の声が最も弱まる時間など、実際にあるのかはわからない。だがナディアの祖母の記憶によれば、「井戸は夜と朝の境目に口を開く」という。
その言葉を信じるわけではない。
だが、参考にはする。
蓮は部屋に戻り、名前を書いた紙を増やした。
自分の名前。
仲間の名前。
セティの名前。
マーカスの名前。
ナディアの祖母の名前は、知らない。
そこで蓮はペンを止めた。
名前を知らない人を、どう呼べばいいのか。
少し考え、こう書いた。
ナディアの祖母。
それは本名ではない。
だが、ナディアにとって大切な人であるという関係の名前だ。
そして、もう一つ書く。
名前のない少年。
名を失ったままでも、忘れないために。
最後に、蓮は白い石を見た。
セティの名前の石。
それは静かに光っていた。
蓮は小さく呼んだ。
「セティ」
返事はなかった。
だが、石は温かかった。
それだけで十分だった。
窓の外には、夜のギザが広がっている。
ピラミッドは黒い影として沈黙していた。
その下で、黒い太陽の神殿が息をしている。
そして、王の間の奥に、名の井戸が待っている。
知るためではなく、返すために行く。
蓮はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
知りたい気持ちを消すことはできない。
だが、それを先頭に立たせてはいけない。
次に進むのは、答えを得るためだけではない。
声を、それぞれの名前へ返すためだ。
夜明け前、蓮は胸ポケットに紙を入れた。
そして、静かに呟いた。
「蓮」
自分の名前を確かめる。
次に。
「ナディア。玄。セティ。マーカス」
五つの名前を呼んだ。
遠くで、水音のない水路が応えたような気がした。
名の井戸へ向かう準備は、整った。
ただし、地下が準備を待ってくれるとは限らない。
黒い太陽は、もう耳を澄ませている。
誰が次の聞き手になるのかを、確かめるために。




