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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第4章 声を聞く者

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3:名の井戸

3:名の井戸


 夜明け前のホテル地下は、いつもより静かだった。

 廊下の蛍光灯は白く点き、非常灯の赤い光が床に薄くにじんでいる。外の世界では、まだ太陽は昇っていない。街の音も少なく、車のクラクションも、人々の話し声も、遠くに沈んでいる。

 だが、保管室の奥では、すでに地下が目を覚ましていた。

 巨大な門が、黒い輪郭を浮かび上がらせている。

 六つのくぼみは、かすかに青白く光っていた。黒い太陽、舟、膝をつく者、目、水路、門。六つの石片を待つその光は、以前よりも弱い。だが、その弱さがかえって不気味だった。

 眠っているのではない。

 息を潜めている。

 蓮はそう感じた。

 保管室には五人がいた。

 蓮。

 ナディア。

 黒瀬。

 マーカス。

 そして、セティの名前の石。

 セティ本人はここにいない。だが、白い石を持っている限り、彼の名はこの場にある。蓮はその石を布で包み、胸元の内ポケットに入れていた。肌に近い場所に置くと、かすかな温かさが伝わってくる。

 セティはまだ地下に縫いつけられている。

 けれど、名前は少しだけこちらに戻ってきた。

 マーカスは、いつもの上品なジャケットではなく、調査用の簡素な服を着ていた。顔色はまだ悪い。右手の掌には、聞き手の印が薄く残っている。大きな耳の形。その内側に渦巻く水路。

 彼は何度も自分の紙を確認していた。


 I am Marcus Reed.

 I am not the voice.

 I am not Nefer-Ka.

 I will not open the Black Sun.


 その文字を見るたびに、彼の目の奥の黒い点が少しだけ薄くなるように見えた。

 ナディアは自分の耳の後ろに布を当てていた。隠すためではない。触れすぎないためだ。そこにも聞き手の印が浮かんでいる。マーカスよりも細く、薄い。だが消えてはいない。

 黒瀬が二人の印を見比べ、低く言った。

「聞き手候補が二人いる状態で神殿に入るの、かなり怖いですね」

 マーカスが静かに言った。

「候補は二人だけではありません」

 その言葉に、全員が蓮を見た。

 蓮は否定しなかった。

 黒い太陽は蓮も見ている。

 蓮にも声は聞こえる。

 ただ、耳の印はまだない。

 まだ。

 その言葉が重くのしかかる。

 ナディアは全員の顔を順に見た。

「確認します。今日の目的は、王の間の奥にある名の井戸へ到達し、その性質を確認することです。井戸に名前を落とさない。井戸を長く覗かない。声が何を言っても、その場で名前を差し出さない。誰かが聞き手として選ばれそうになったら、全員で名前を呼びます」

 黒瀬が頷いた。

「五人分ですね。蓮さん、ナディアさん、俺、マーカスさん、セティ」

「はい」

 蓮は胸元の白い石に触れた。

「セティの名前も呼びます」

 マーカスが呟いた。

「名前のない少年は?」

 ナディアが彼を見る。

 マーカスの表情は真剣だった。

「私の曾祖父の日記に出てきた少年です。名を失ったままなら、井戸で反応するかもしれない」

 蓮は頷いた。

「名前はわからなくても、忘れないようにします」

 黒瀬が少し困った顔をした。

「名前がない人を呼ぶの、難しいですね」

 ナディアは静かに言った。

「名前のない少年と呼ぶしかありません。本当の名前ではないけれど、存在を指す言葉にはなる」

 マーカスは目を伏せた。

「彼を、ただの失敗記録にしないために」

 その声には、以前の傲慢さはなかった。

 まだ危険だ。

 まだ信用しきれない。

 だが、マーカスは少しだけ戻っている。

 蓮はそう感じた。

 ナディアが言った。

「では、名前を結びます」

 五人分の名が、保管室に響いた。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

「マーカス・リード」

 蓮は胸元の石に触れ、言った。

「セティ」

 白い石が少し温かくなる。

 続けて、蓮は言った。

「名前のない少年」

 その瞬間、保管室の奥の門が、ほんの一瞬だけ軋んだ。

 誰かが反応した。

 だが、声は聞こえなかった。

 ナディアが小さく頷く。

「行きましょう」

 六つの石片が、順に門へ嵌め込まれた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 門が開いた。


     *


 神殿は、前回よりも暗かった。

 列柱室に入ると、蓮はすぐに違和感を覚えた。六本の水路に流れる青白い光が細くなっている。前回は水路の光が足元を照らしていたが、今はかすかな線にすぎない。

 壁画も静かだった。

 記憶を食べる壁は、以前のようにすぐには個人の記憶を見せてこない。ナディアの祖母、黒瀬の玄関、蓮の母の顔。そうしたものは、影のように壁の奥へ沈んでいる。

 だが、消えたわけではない。

 じっと見れば、また浮かび上がる。

 黒瀬が小声で言った。

「静かすぎるのも嫌ですね」

「神殿が弱っているのかもしれません」

 ナディアが答える。

「セティの名前の石を取ったから?」

 蓮が聞く。

「可能性はあります。封印の中心の一部が動いた。声の流れが乱れているのかもしれません」

 マーカスは列柱室の奥を見つめていた。

「弱っているのではありません」

「何ですか」

 ナディアが聞く。

「聞いているのです」

 マーカスはそう言った。

 その言葉に、全員が黙った。

 確かに、その静けさは、眠りではなかった。

 耳を澄ましている静けさ。

 黒い太陽が、誰の名前が最もよく響くのかを確かめている。

 誰が声を聞くのかを、選ぼうとしている。

 蓮は自分の名前を小さく呟いた。

「蓮」

 ナディアが続く。

「ナディア」

 黒瀬も。

「玄」

 少し遅れて、マーカスが言った。

「マーカス・リード」

 蓮は胸元に手を当てた。

「セティ」

 名前の輪が、暗い神殿の中に薄く広がる。

 すると、水路の光がわずかに強くなった。

 名前が、道を照らしている。

 王の間までは、前回よりも早く着いた。

 耳と口の像が立つ黒い扉の前で、蓮たちは足を止めた。像の口は閉じている。だが、近づくと石の唇がわずかに動いた。

 名を持つ者よ。

 王の前へ。

 井戸へ向かう者は、落とす名を選べ。

 蓮の背筋が冷える。

 落とす名を選べ。

 ナディアがすぐに言った。

「選びません」

 石像の口が止まった。

 ナディアは続けた。

「私たちは、名を落とすためではなく、返すために来ました」

 沈黙。

 像の無数の口が、ゆっくり笑ったように見えた。

 返す者は、先に失う。

「それも拒否します」

 ナディアの声は揺れなかった。

「私はナディア。名を持ったまま入ります」

 蓮も続いた。

「蓮。名を持ったまま入ります」

 黒瀬が慌てて言う。

「玄。名を持ったまま入ります」

 マーカスは一瞬、黙った。

 像の口が彼を向く。

 マーカスの掌の耳の印が、黒く濃くなる。

 蓮がすぐに呼んだ。

「マーカス・リード」

 マーカスは震える息を吐いた。

「マーカス・リード。名を持ったまま入ります」

 蓮は白い石に触れた。

「セティ。名を持ったまま、僕たちといます」

 王の間の扉が開いた。


     *


 ネフェル=カーは、玉座に座っていなかった。

 王の間に入った瞬間、蓮はそのことに気づいた。

 黒い玉座は空だった。

 背後の黒い太陽も、前回より小さく見える。いや、小さいのではない。遠くなっている。まるで王の間の空間自体が伸び、玉座と黒い太陽が奥へ退いたようだった。

 水路の光は、玉座の前で途切れている。

 その先、玉座の背後に、細い階段があった。

 ナディアの夢に出てきた階段。

 黒い太陽の下に隠された、名の井戸へ続く道。

 ナディアの顔が強張る。

「夢と同じです」

 マーカスが低く呟いた。

「王がいない」

 その声には、安堵ではなく警戒があった。

 黒瀬が端末を確認する。

「低周波はあります。王の間全体から。でも、前回より弱い……いや、奥から強い反応があります。階段の下です」

「名の井戸でしょう」

 ナディアが言った。

 その時、玉座の影が動いた。

 ネフェル=カーは、玉座の後ろに立っていた。

 いつ現れたのかわからない。

 黒い冠。大きな耳。黒い目。声の座にいる王。

 彼は蓮たちを見下ろすように立ち、静かに言った。

「井戸へ向かうか」

 蓮は答えた。

「はい」

「名を返すために?」

「はい」

「愚かなことだ」

 王の声は、怒りではなく哀れみに近かった。

「名は沈んだからこそ、声となった。声は集まったからこそ、神となった。神となったからこそ、都市は保たれた。お前たちは、その流れを逆にしようとしている」

 ナディアが言った。

「その流れが、多くの名前を奪いました」

「名は忘れられるものだ」

「忘れられることと、奪われることは違います」

 王の黒い目が、ナディアへ向いた。

「ナディア。お前は祖母の声を聞いた」

 ナディアの耳の後ろの印が濃くなる。

 蓮がすぐに呼ぶ。

「ナディア」

 黒瀬も。

「ナディアさん」

 マーカスも少し遅れて言った。

「ナディア・ハッサン」

 印が薄くなる。

 王はそれを見て、少しだけ目を細めた。

「名前で縛るか」

「縛っているのではありません」

 ナディアは言った。

「戻しているのです」

「戻る場所などない名もある」

 王の声が低くなる。

「井戸を覗けばわかる。名を持たぬ声。帰る身体も、帰る墓も、帰る記憶もない声。それらをどうする」

 蓮は答えられなかった。

 名前へ返す。

 それは美しい考えだ。

 だが、名前を失った声はどうするのか。名前を覚えている者がもういない声は。名前が消され、壊れ、読めなくなった声は。

 王は続けた。

「小さき耳は、名を取り戻した。だが、他の声はどうする。名のない少年は。水路に沈んだ無数の者は。お前たちは全てを返せると思うか」

 蓮は拳を握った。

「全てを一度には無理です」

「ならば、選ぶのだ」

「選びません」

「選ばずに進めると思うな」

 王の声が王の間全体に響いた。

「王とは、選ぶ者だ」

 マーカスが小さく反応した。

 彼の掌の耳の印が濃くなる。

 王の視線がマーカスへ向く。

「リードの名を持つ者よ。お前は選びたがっている」

 マーカスは歯を食いしばった。

「私は……マーカス・リード……」

「お前は声を解放したい。名なき声も、忘れられた声も、全て地上へ出したい。お前の欲望は大きい。大きい欲望は、器に向いている」

 マーカスの呼吸が乱れる。

 蓮が叫ぶ。

「マーカス!」

 ナディアも。

「マーカス・リード!」

 黒瀬も必死に呼ぶ。

「マーカスさん! 戻ってください!」

 マーカスは額に汗を浮かべ、低く言った。

「私は……声ではない……私は……マーカス・リード……」

 王は今度は蓮を見た。

「蓮。お前は救いたがっている」

 蓮の胸が冷たくなる。

「救いたいという欲望もまた、器に向いている。お前は自分を差し出すことを恐れながら、心のどこかでそれを美しいと思っている」

 蓮は言葉を失った。

 王の言葉は、痛いところを突いていた。

 自己犠牲を美しいと思いたくない。

 だが、セティのために自分が何かできるなら、と考えたことはある。

 その考え自体が、神殿の餌になる。

 黒瀬が叫んだ。

「蓮さん!」

 ナディアも。

「蓮!」

 名前が届く。

 蓮は息を吸った。

「僕は蓮です。器ではありません」

 王は微笑んだ。

「では、誰が聞く」

 王の視線は最後にナディアへ向いた。

「ナディア。お前は知りたがっている」

 ナディアの顔が強張る。

「祖母の声の真実。家族の記憶。名の井戸の構造。地下都市の歴史。知りたいという欲望は、最も深く井戸を覗く」

 ナディアの耳の印が、急に濃くなった。

 彼女はよろめく。

「ナディア!」

 蓮が支えた。

 ナディアは苦しそうに目を閉じる。

「祖母の声が……」

「何と言っています」

 ナディアは震える声で言った。

「井戸へ行け、と。私なら読める、と。私の名前を落とせば、すべての名前が……」

「落とさないでください!」

 黒瀬が叫ぶ。

 蓮も強く言った。

「ナディア・ハッサン! あなたはナディアです!」

 ナディアは蓮の腕を掴み返した。

「私は……ナディア……ナディア・ハッサン……」

 印が薄れる。

 だが、完全には消えない。

 王は静かに言った。

「井戸は、最も知りたい者を好む」

 ナディアは息を整え、顔を上げた。

「それでも、行きます」

「なぜ」

「知るためではなく、返すために」

 その言葉を聞いた瞬間、王の表情がわずかに変わった。

 それは怒りではなかった。

 戸惑い。

 あるいは、遠い記憶に触れられた者の表情。

「その言葉を、誰に教わった」

「セティです」

 王は黙った。

 しばらくして、彼は階段の方へ身を引いた。

「ならば、行くがよい」

「止めないのですか」

 蓮が聞く。

 王は黒い目で蓮を見た。

「井戸が止める」


     *


 玉座の背後の階段は、狭かった。

 黒い太陽の下をくぐるようにして進む。天井が低く、頭を少し下げなければならない。壁には文字がない。壁画もない。ただ、黒い石が続いている。

 それが逆に恐ろしかった。

 これまでの地下は、どこも記号や壁画で埋め尽くされていた。意味が過剰なほどあった。だが、この階段には何もない。

 名前が沈む場所へ向かう階段には、まだ名前がない。

 黒瀬が小声で言った。

「こういう何もない壁も怖いですね」

「見せる記憶がないのではなく、ここではまだ食べる前なのかもしれません」

 ナディアが答える。

「もっと怖いです」

 マーカスは黙っていた。

 彼は自分の紙を握りしめている。


 I am Marcus Reed.


 蓮も胸ポケットの紙に触れた。

 そして白い石。

 セティの名前の石は、階段を降りるほど冷たくなっていった。

 さっきまで温かかったのに、今は氷のようだ。

「セティ?」

 蓮は小さく呼んだ。

 返事はない。

 だが、石の表面がかすかに震えた。

 彼は怖がっている。

 蓮にはそう感じられた。

 名の井戸は、セティにとっても恐ろしい場所なのだ。

 階段を降りきると、広い空間に出た。

 そこは円形の部屋だった。

 天井は低く、壁は黒い石でできている。中央には、井戸があった。

 水はない。

 井戸の縁は白い石でできており、表面に無数の名前が刻まれている。だが、その多くは途中で途切れ、削れ、黒く染み、読めなくなっている。

 井戸の中は、真っ暗だった。

 底は見えない。

 水音もしない。

 だが、耳を澄ますと、無数の声が底から上がってくる。

 はっきりとは聞こえない。言葉になる寸前のざわめき。名前になろうとして、なれない音。

 名の井戸。

 蓮は喉が乾いた。

 ナディアが井戸を見つめる。

 彼女の耳の後ろの印が、強く黒くなった。

 黒瀬が叫ぶ。

「ナディアさん、見すぎです!」

 ナディアは目を閉じた。

「大丈夫です」

 しかし声は震えていた。

 マーカスも井戸を見ていた。

 掌の耳の印が濃くなっていく。

 蓮はすぐに言った。

「マーカス・リード」

 マーカスは目を閉じる。

「私は……マーカス・リード……」

 井戸の底から声がした。

 それは祖母の声だった。

 少なくとも、ナディアにはそう聞こえたのだろう。彼女の顔が変わった。

「ナディア」

 声が言った。

 蓮にはその声が聞こえた。

 優しく、年老いた女性の声。

「よく来たね」

 ナディアの目が揺れる。

「おばあさま……」

 蓮はすぐに言った。

「ナディア。確認してください。それは本物だけではありません」

 ナディアは唇を噛んだ。

「わかっています」

 井戸の声は続く。

「井戸を覗きなさい。あなたなら読める。あなたの名前を少しだけ沈めれば、全部の名前が見える」

 黒瀬が叫ぶ。

「駄目です! それセティが警告したやつです!」

 ナディアは震えている。

 聞き手の印がさらに濃くなる。

 マーカスも苦しそうに言った。

「その声に従ってはいけない……名前を落とせば、戻れない……」

 意外にも、マーカスが止めた。

 彼自身も苦しんでいるのに。

 ナディアは目を閉じたまま、自分の名前を言った。

「ナディア・ハッサン。私はナディア・ハッサン。祖母の孫であり、祖母そのものではない。井戸の読者ではない。私は考古学者です」

 井戸の声が変わった。

 祖母の声が、無数の声に重なる。

 知りたいでしょう。

 知りたいでしょう。

 知りたいでしょう。

 ナディアが膝をつく。

 蓮が支える。

「ナディア!」

 黒瀬も叫ぶ。

「ナディアさん!」

 マーカスも苦しそうに言った。

「ナディア・ハッサン!」

 白い石が蓮の胸元で熱を持った。

 セティの声が聞こえた。

「名前を返して」

 蓮は叫んだ。

「どうやって!」

「井戸に呼ぶ。落とすんじゃなくて、呼ぶ」

 蓮は井戸の縁を見た。

 無数の消えかけた名前。

 その中に、セティの名がかすかに光っている。

 いや、セティの名だけではない。

 見えないはずの名前が、少しずつ浮かび上がってくる。

 名前のない少年。

 それに対応するような黒い染みが、井戸の縁にあった。

 名前は読めない。

 だが、そこに誰かがいる。

 蓮は叫んだ。

「名前のない少年!」

 井戸の底が揺れた。

 黒い染みが、少しだけ白くなる。

 マーカスがはっと顔を上げた。

「そこにいるのか……」

 井戸の底から、小さな声がした。

 子どもの声。

 言葉にはならない。

 ただ、泣いている。

 マーカスは井戸へ近づきそうになった。

 蓮が彼の腕を掴む。

「マーカス・リード!」

 マーカスは止まった。

 目には涙が浮かんでいた。

「曾祖父が……名前を記録すると言ったのに……消した……」

「今は落ちないでください」

 蓮は言った。

「呼ぶだけです」

 マーカスは震える声で井戸へ向かった。

「名前のない少年。私は、君を忘れない」

 井戸の底から、泣き声が少しだけ弱まった。

 ナディアが顔を上げる。

 彼女の耳の印も少し薄くなる。

「呼ぶことで、井戸が反応しています」

 黒瀬が端末を見る。

「低周波が安定しました。いや、安定というより……声が分かれてる?」

「声を名前に返す」

 蓮は呟いた。

 その方法は、完全ではない。

 名前がわかる者だけ。

 呼べる者だけ。

 忘れられていない者だけ。

 それでも、始められる。

 蓮は胸元から白い石を取り出した。

 セティの名前の石。

 井戸の上にかざすと、白い光が広がった。

 井戸の底から、無数の声が一斉にざわめく。

 その中に、セティの声があった。

「蓮」

「セティ」

 蓮は呼んだ。

「セティ。君の名前はここにある。君は声じゃない。君はセティだ」

 ナディアも続いた。

「セティ」

 黒瀬も。

「セティ」

 マーカスも、少し遅れて言った。

「セティ」

 白い石が強く光る。

 井戸の縁に刻まれていたセティの名が、黒い染みから離れるように浮かび上がった。

 その瞬間、遠くで何かが叫んだ。

 王の声。

「やめよ」

 名の井戸の部屋全体が揺れる。

 ネフェル=カーの声が階段の上から響いた。

「名を返せば、声は散る。声が散れば、王の座は崩れる」

 ナディアが立ち上がった。

 耳の印はまだ残っている。だが、彼女の目はしっかりしていた。

「それが本来の形です」

 王の声が低くなる。

「名を返せると思うな。井戸は返す場所ではない。沈める場所だ」

 井戸の底から、黒い影が立ち上がった。

 水ではない。

 声の影。

 無数の名を失った声が絡み合い、一つの黒い柱のようになって上がってくる。

 黒瀬が叫ぶ。

「まずい、何か出てきます!」

 マーカスの耳の印が急に濃くなる。

 ナディアの印も。

 蓮の右手の掌が熱を持つ。

 そこに、黒い太陽の印が一瞬だけ浮かんだ。

 聞き手の候補が、三人とも反応している。

 井戸は、誰かを選ぼうとしている。

 いや、三人まとめて引きずり込もうとしている。

 セティの声が叫んだ。

「名前を結んで!」

 蓮は叫んだ。

「蓮!」

 ナディアが続く。

「ナディア!」

 黒瀬が。

「玄!」

 マーカスが。

「マーカス・リード!」

 蓮は白い石を握りしめた。

「セティ!」

 そして、マーカスが叫んだ。

「名前のない少年!」

 六つの呼び声が、井戸の部屋に響いた。

 黒い声の柱が一瞬止まる。

 だが、完全には止まらない。

 その中に、無数の名前になれない声がある。

 呼ばれたい。

 帰りたい。

 でも名前がわからない。

 蓮はその悲しみを感じた。

 あまりにも多すぎる。

 一人では聞けない。

 一人では返せない。

 一人では耐えられない。

 だからこそ、セティは壊れかけた。

 だからこそ、王は間違えた。

 蓮は叫んだ。

「全部は今返せない!」

 声の柱が揺れる。

「でも、沈めたままにはしない!」

 その言葉が届いたのかどうか、わからない。

 だが、井戸の底から上がる影が、ほんの少しだけ弱まった。

 ナディアが叫ぶ。

「撤退します! 今はここまで!」

 黒瀬がすぐに頷く。

「大賛成!」

 マーカスは井戸を見つめていたが、蓮が名前を呼んだ。

「マーカス!」

 彼ははっとして振り返った。

「行きます」

 五人分の名前を呼びながら、蓮たちは階段へ向かった。

 井戸の底から、まだ声が聞こえている。

 セティ。

 名前のない少年。

 無数の声。

 そして王の声。

「次に来る時、井戸は問う」

 蓮は振り返らなかった。

 王の声が追いかけてくる。

「誰の名を返し、誰の名を沈めるのかを」


     *


 保管室へ戻ったとき、夜明けの光はまだ届いていなかった。

 ホテルの地下は薄暗く、蛍光灯が白く光っている。戻ってきた全員が床に膝をつき、しばらく息を整えた。

 ナディアの耳の印は薄くなっていた。

 消えてはいない。

 だが、さっきよりは薄い。

 マーカスの掌の印も同じだった。

 蓮の右手には、もう黒い太陽の印は見えない。ただ、熱だけが残っている。

 黒瀬が床に座り込みながら言った。

「今回、全員ギリギリでしたね……毎回言ってますけど、今回も更新しました」

 ナディアは疲れた顔で頷いた。

「でも、成果はありました」

「成果?」

「井戸は、呼びかけに反応しました。セティの名も、名前のない少年も、完全ではないけれど反応した。つまり、声を名前へ返す方法は、存在する可能性があります」

 蓮は白い石を見た。

 セティの名前の石は、前より少し明るくなっていた。

 胸元ではなく、手の中にあるだけで温かい。

「セティは?」

 蓮が小さく呼ぶ。

 すぐに返事はなかった。

 だが、少しして、かすかな声が聞こえた。

「蓮」

「大丈夫?」

「少し……軽い」

 その言葉に、蓮は目を閉じた。

 少しだけでも。

 それでも、前へ進んでいる。

 マーカスは床に座ったまま、両手を見つめていた。

「名前のない少年が、泣いていました」

 彼は呟いた。

「私は、彼の名前を知らない」

「これから探します」

 蓮が言うと、マーカスは顔を上げた。

「あなたは本当に、全部拾うつもりですか」

「全部は無理です」

 蓮は正直に答えた。

「でも、拾える名前から拾います」

 マーカスは何も言わなかった。

 その表情は、以前よりも人間らしかった。

 ナディアが自分の紙を取り出し、震える手で新しい一文を書き足した。

 知るためではなく、返すために。

 それを見て、蓮も自分の紙に同じ言葉を書いた。

 黒瀬も書いた。

 マーカスも、少し迷ってから英語で書いた。


 Not to know, but to return.


 その瞬間、保管室の門に黒い文字が浮かび上がった。

 蓮は読んだ。

 井戸は名を聞いた。

 小さき耳は軽くなった。

 名なき声は泣いた。

 次に問われるのは、王の名である。

 ナディアが息を呑む。

「王の名……ネフェル=カー」

 黒瀬が顔をしかめる。

「次は王の名前を返すってことですか?」

 マーカスが静かに言った。

「王は、それを最も恐れているのでしょう」

 蓮は門の文字を見つめた。

 ネフェル=カー。

 美しき魂。

 声を聞く王。

 神殿を築いた者。

 セティを器にした者。

 そして、今も王であり続けようとする記憶。

 もし王の名を井戸へ返すことができれば、黒い太陽の構造そのものが変わるかもしれない。

 だが、それは王を王でなくすことでもある。

 ネフェル=カーは抵抗するだろう。

 それでも、次の道は見えた。

 声を聞く者を選ぶのではない。

 王の名を、王自身から返す。

 蓮は白い石を握りしめた。

「次は、王の名前を呼ぶことになる」

 ナディアが頷いた。

「ええ。そしておそらく、それが第4章の山場になります」

 黒瀬が力なく笑った。

「地下も章構成しっかりしてますね……」

 蓮は笑わなかった。

 窓のない保管室の中で、夜明け前の静けさが深く沈んでいる。

 名の井戸は、声を少しだけ返した。

 だが同時に、次の問いを投げてきた。

 王の名をどうするのか。

 ネフェル=カーを、王の座から降ろせるのか。

 そして、黒い太陽が新しい聞き手を選ぶ前に、声を名前へ返す道を完成させられるのか。

 蓮は自分の名前を心の中で呼んだ。

 蓮。

 まだ、自分はここにいる。

 そして次は、王の名を呼ぶ番だった。

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