3:名の井戸
3:名の井戸
夜明け前のホテル地下は、いつもより静かだった。
廊下の蛍光灯は白く点き、非常灯の赤い光が床に薄くにじんでいる。外の世界では、まだ太陽は昇っていない。街の音も少なく、車のクラクションも、人々の話し声も、遠くに沈んでいる。
だが、保管室の奥では、すでに地下が目を覚ましていた。
巨大な門が、黒い輪郭を浮かび上がらせている。
六つのくぼみは、かすかに青白く光っていた。黒い太陽、舟、膝をつく者、目、水路、門。六つの石片を待つその光は、以前よりも弱い。だが、その弱さがかえって不気味だった。
眠っているのではない。
息を潜めている。
蓮はそう感じた。
保管室には五人がいた。
蓮。
ナディア。
黒瀬。
マーカス。
そして、セティの名前の石。
セティ本人はここにいない。だが、白い石を持っている限り、彼の名はこの場にある。蓮はその石を布で包み、胸元の内ポケットに入れていた。肌に近い場所に置くと、かすかな温かさが伝わってくる。
セティはまだ地下に縫いつけられている。
けれど、名前は少しだけこちらに戻ってきた。
マーカスは、いつもの上品なジャケットではなく、調査用の簡素な服を着ていた。顔色はまだ悪い。右手の掌には、聞き手の印が薄く残っている。大きな耳の形。その内側に渦巻く水路。
彼は何度も自分の紙を確認していた。
I am Marcus Reed.
I am not the voice.
I am not Nefer-Ka.
I will not open the Black Sun.
その文字を見るたびに、彼の目の奥の黒い点が少しだけ薄くなるように見えた。
ナディアは自分の耳の後ろに布を当てていた。隠すためではない。触れすぎないためだ。そこにも聞き手の印が浮かんでいる。マーカスよりも細く、薄い。だが消えてはいない。
黒瀬が二人の印を見比べ、低く言った。
「聞き手候補が二人いる状態で神殿に入るの、かなり怖いですね」
マーカスが静かに言った。
「候補は二人だけではありません」
その言葉に、全員が蓮を見た。
蓮は否定しなかった。
黒い太陽は蓮も見ている。
蓮にも声は聞こえる。
ただ、耳の印はまだない。
まだ。
その言葉が重くのしかかる。
ナディアは全員の顔を順に見た。
「確認します。今日の目的は、王の間の奥にある名の井戸へ到達し、その性質を確認することです。井戸に名前を落とさない。井戸を長く覗かない。声が何を言っても、その場で名前を差し出さない。誰かが聞き手として選ばれそうになったら、全員で名前を呼びます」
黒瀬が頷いた。
「五人分ですね。蓮さん、ナディアさん、俺、マーカスさん、セティ」
「はい」
蓮は胸元の白い石に触れた。
「セティの名前も呼びます」
マーカスが呟いた。
「名前のない少年は?」
ナディアが彼を見る。
マーカスの表情は真剣だった。
「私の曾祖父の日記に出てきた少年です。名を失ったままなら、井戸で反応するかもしれない」
蓮は頷いた。
「名前はわからなくても、忘れないようにします」
黒瀬が少し困った顔をした。
「名前がない人を呼ぶの、難しいですね」
ナディアは静かに言った。
「名前のない少年と呼ぶしかありません。本当の名前ではないけれど、存在を指す言葉にはなる」
マーカスは目を伏せた。
「彼を、ただの失敗記録にしないために」
その声には、以前の傲慢さはなかった。
まだ危険だ。
まだ信用しきれない。
だが、マーカスは少しだけ戻っている。
蓮はそう感じた。
ナディアが言った。
「では、名前を結びます」
五人分の名が、保管室に響いた。
「蓮」
「ナディア」
「玄」
「マーカス・リード」
蓮は胸元の石に触れ、言った。
「セティ」
白い石が少し温かくなる。
続けて、蓮は言った。
「名前のない少年」
その瞬間、保管室の奥の門が、ほんの一瞬だけ軋んだ。
誰かが反応した。
だが、声は聞こえなかった。
ナディアが小さく頷く。
「行きましょう」
六つの石片が、順に門へ嵌め込まれた。
黒い太陽。
舟。
膝をつく者。
目。
水路。
門。
門が開いた。
*
神殿は、前回よりも暗かった。
列柱室に入ると、蓮はすぐに違和感を覚えた。六本の水路に流れる青白い光が細くなっている。前回は水路の光が足元を照らしていたが、今はかすかな線にすぎない。
壁画も静かだった。
記憶を食べる壁は、以前のようにすぐには個人の記憶を見せてこない。ナディアの祖母、黒瀬の玄関、蓮の母の顔。そうしたものは、影のように壁の奥へ沈んでいる。
だが、消えたわけではない。
じっと見れば、また浮かび上がる。
黒瀬が小声で言った。
「静かすぎるのも嫌ですね」
「神殿が弱っているのかもしれません」
ナディアが答える。
「セティの名前の石を取ったから?」
蓮が聞く。
「可能性はあります。封印の中心の一部が動いた。声の流れが乱れているのかもしれません」
マーカスは列柱室の奥を見つめていた。
「弱っているのではありません」
「何ですか」
ナディアが聞く。
「聞いているのです」
マーカスはそう言った。
その言葉に、全員が黙った。
確かに、その静けさは、眠りではなかった。
耳を澄ましている静けさ。
黒い太陽が、誰の名前が最もよく響くのかを確かめている。
誰が声を聞くのかを、選ぼうとしている。
蓮は自分の名前を小さく呟いた。
「蓮」
ナディアが続く。
「ナディア」
黒瀬も。
「玄」
少し遅れて、マーカスが言った。
「マーカス・リード」
蓮は胸元に手を当てた。
「セティ」
名前の輪が、暗い神殿の中に薄く広がる。
すると、水路の光がわずかに強くなった。
名前が、道を照らしている。
王の間までは、前回よりも早く着いた。
耳と口の像が立つ黒い扉の前で、蓮たちは足を止めた。像の口は閉じている。だが、近づくと石の唇がわずかに動いた。
名を持つ者よ。
王の前へ。
井戸へ向かう者は、落とす名を選べ。
蓮の背筋が冷える。
落とす名を選べ。
ナディアがすぐに言った。
「選びません」
石像の口が止まった。
ナディアは続けた。
「私たちは、名を落とすためではなく、返すために来ました」
沈黙。
像の無数の口が、ゆっくり笑ったように見えた。
返す者は、先に失う。
「それも拒否します」
ナディアの声は揺れなかった。
「私はナディア。名を持ったまま入ります」
蓮も続いた。
「蓮。名を持ったまま入ります」
黒瀬が慌てて言う。
「玄。名を持ったまま入ります」
マーカスは一瞬、黙った。
像の口が彼を向く。
マーカスの掌の耳の印が、黒く濃くなる。
蓮がすぐに呼んだ。
「マーカス・リード」
マーカスは震える息を吐いた。
「マーカス・リード。名を持ったまま入ります」
蓮は白い石に触れた。
「セティ。名を持ったまま、僕たちといます」
王の間の扉が開いた。
*
ネフェル=カーは、玉座に座っていなかった。
王の間に入った瞬間、蓮はそのことに気づいた。
黒い玉座は空だった。
背後の黒い太陽も、前回より小さく見える。いや、小さいのではない。遠くなっている。まるで王の間の空間自体が伸び、玉座と黒い太陽が奥へ退いたようだった。
水路の光は、玉座の前で途切れている。
その先、玉座の背後に、細い階段があった。
ナディアの夢に出てきた階段。
黒い太陽の下に隠された、名の井戸へ続く道。
ナディアの顔が強張る。
「夢と同じです」
マーカスが低く呟いた。
「王がいない」
その声には、安堵ではなく警戒があった。
黒瀬が端末を確認する。
「低周波はあります。王の間全体から。でも、前回より弱い……いや、奥から強い反応があります。階段の下です」
「名の井戸でしょう」
ナディアが言った。
その時、玉座の影が動いた。
ネフェル=カーは、玉座の後ろに立っていた。
いつ現れたのかわからない。
黒い冠。大きな耳。黒い目。声の座にいる王。
彼は蓮たちを見下ろすように立ち、静かに言った。
「井戸へ向かうか」
蓮は答えた。
「はい」
「名を返すために?」
「はい」
「愚かなことだ」
王の声は、怒りではなく哀れみに近かった。
「名は沈んだからこそ、声となった。声は集まったからこそ、神となった。神となったからこそ、都市は保たれた。お前たちは、その流れを逆にしようとしている」
ナディアが言った。
「その流れが、多くの名前を奪いました」
「名は忘れられるものだ」
「忘れられることと、奪われることは違います」
王の黒い目が、ナディアへ向いた。
「ナディア。お前は祖母の声を聞いた」
ナディアの耳の後ろの印が濃くなる。
蓮がすぐに呼ぶ。
「ナディア」
黒瀬も。
「ナディアさん」
マーカスも少し遅れて言った。
「ナディア・ハッサン」
印が薄くなる。
王はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「名前で縛るか」
「縛っているのではありません」
ナディアは言った。
「戻しているのです」
「戻る場所などない名もある」
王の声が低くなる。
「井戸を覗けばわかる。名を持たぬ声。帰る身体も、帰る墓も、帰る記憶もない声。それらをどうする」
蓮は答えられなかった。
名前へ返す。
それは美しい考えだ。
だが、名前を失った声はどうするのか。名前を覚えている者がもういない声は。名前が消され、壊れ、読めなくなった声は。
王は続けた。
「小さき耳は、名を取り戻した。だが、他の声はどうする。名のない少年は。水路に沈んだ無数の者は。お前たちは全てを返せると思うか」
蓮は拳を握った。
「全てを一度には無理です」
「ならば、選ぶのだ」
「選びません」
「選ばずに進めると思うな」
王の声が王の間全体に響いた。
「王とは、選ぶ者だ」
マーカスが小さく反応した。
彼の掌の耳の印が濃くなる。
王の視線がマーカスへ向く。
「リードの名を持つ者よ。お前は選びたがっている」
マーカスは歯を食いしばった。
「私は……マーカス・リード……」
「お前は声を解放したい。名なき声も、忘れられた声も、全て地上へ出したい。お前の欲望は大きい。大きい欲望は、器に向いている」
マーカスの呼吸が乱れる。
蓮が叫ぶ。
「マーカス!」
ナディアも。
「マーカス・リード!」
黒瀬も必死に呼ぶ。
「マーカスさん! 戻ってください!」
マーカスは額に汗を浮かべ、低く言った。
「私は……声ではない……私は……マーカス・リード……」
王は今度は蓮を見た。
「蓮。お前は救いたがっている」
蓮の胸が冷たくなる。
「救いたいという欲望もまた、器に向いている。お前は自分を差し出すことを恐れながら、心のどこかでそれを美しいと思っている」
蓮は言葉を失った。
王の言葉は、痛いところを突いていた。
自己犠牲を美しいと思いたくない。
だが、セティのために自分が何かできるなら、と考えたことはある。
その考え自体が、神殿の餌になる。
黒瀬が叫んだ。
「蓮さん!」
ナディアも。
「蓮!」
名前が届く。
蓮は息を吸った。
「僕は蓮です。器ではありません」
王は微笑んだ。
「では、誰が聞く」
王の視線は最後にナディアへ向いた。
「ナディア。お前は知りたがっている」
ナディアの顔が強張る。
「祖母の声の真実。家族の記憶。名の井戸の構造。地下都市の歴史。知りたいという欲望は、最も深く井戸を覗く」
ナディアの耳の印が、急に濃くなった。
彼女はよろめく。
「ナディア!」
蓮が支えた。
ナディアは苦しそうに目を閉じる。
「祖母の声が……」
「何と言っています」
ナディアは震える声で言った。
「井戸へ行け、と。私なら読める、と。私の名前を落とせば、すべての名前が……」
「落とさないでください!」
黒瀬が叫ぶ。
蓮も強く言った。
「ナディア・ハッサン! あなたはナディアです!」
ナディアは蓮の腕を掴み返した。
「私は……ナディア……ナディア・ハッサン……」
印が薄れる。
だが、完全には消えない。
王は静かに言った。
「井戸は、最も知りたい者を好む」
ナディアは息を整え、顔を上げた。
「それでも、行きます」
「なぜ」
「知るためではなく、返すために」
その言葉を聞いた瞬間、王の表情がわずかに変わった。
それは怒りではなかった。
戸惑い。
あるいは、遠い記憶に触れられた者の表情。
「その言葉を、誰に教わった」
「セティです」
王は黙った。
しばらくして、彼は階段の方へ身を引いた。
「ならば、行くがよい」
「止めないのですか」
蓮が聞く。
王は黒い目で蓮を見た。
「井戸が止める」
*
玉座の背後の階段は、狭かった。
黒い太陽の下をくぐるようにして進む。天井が低く、頭を少し下げなければならない。壁には文字がない。壁画もない。ただ、黒い石が続いている。
それが逆に恐ろしかった。
これまでの地下は、どこも記号や壁画で埋め尽くされていた。意味が過剰なほどあった。だが、この階段には何もない。
名前が沈む場所へ向かう階段には、まだ名前がない。
黒瀬が小声で言った。
「こういう何もない壁も怖いですね」
「見せる記憶がないのではなく、ここではまだ食べる前なのかもしれません」
ナディアが答える。
「もっと怖いです」
マーカスは黙っていた。
彼は自分の紙を握りしめている。
I am Marcus Reed.
蓮も胸ポケットの紙に触れた。
そして白い石。
セティの名前の石は、階段を降りるほど冷たくなっていった。
さっきまで温かかったのに、今は氷のようだ。
「セティ?」
蓮は小さく呼んだ。
返事はない。
だが、石の表面がかすかに震えた。
彼は怖がっている。
蓮にはそう感じられた。
名の井戸は、セティにとっても恐ろしい場所なのだ。
階段を降りきると、広い空間に出た。
そこは円形の部屋だった。
天井は低く、壁は黒い石でできている。中央には、井戸があった。
水はない。
井戸の縁は白い石でできており、表面に無数の名前が刻まれている。だが、その多くは途中で途切れ、削れ、黒く染み、読めなくなっている。
井戸の中は、真っ暗だった。
底は見えない。
水音もしない。
だが、耳を澄ますと、無数の声が底から上がってくる。
はっきりとは聞こえない。言葉になる寸前のざわめき。名前になろうとして、なれない音。
名の井戸。
蓮は喉が乾いた。
ナディアが井戸を見つめる。
彼女の耳の後ろの印が、強く黒くなった。
黒瀬が叫ぶ。
「ナディアさん、見すぎです!」
ナディアは目を閉じた。
「大丈夫です」
しかし声は震えていた。
マーカスも井戸を見ていた。
掌の耳の印が濃くなっていく。
蓮はすぐに言った。
「マーカス・リード」
マーカスは目を閉じる。
「私は……マーカス・リード……」
井戸の底から声がした。
それは祖母の声だった。
少なくとも、ナディアにはそう聞こえたのだろう。彼女の顔が変わった。
「ナディア」
声が言った。
蓮にはその声が聞こえた。
優しく、年老いた女性の声。
「よく来たね」
ナディアの目が揺れる。
「おばあさま……」
蓮はすぐに言った。
「ナディア。確認してください。それは本物だけではありません」
ナディアは唇を噛んだ。
「わかっています」
井戸の声は続く。
「井戸を覗きなさい。あなたなら読める。あなたの名前を少しだけ沈めれば、全部の名前が見える」
黒瀬が叫ぶ。
「駄目です! それセティが警告したやつです!」
ナディアは震えている。
聞き手の印がさらに濃くなる。
マーカスも苦しそうに言った。
「その声に従ってはいけない……名前を落とせば、戻れない……」
意外にも、マーカスが止めた。
彼自身も苦しんでいるのに。
ナディアは目を閉じたまま、自分の名前を言った。
「ナディア・ハッサン。私はナディア・ハッサン。祖母の孫であり、祖母そのものではない。井戸の読者ではない。私は考古学者です」
井戸の声が変わった。
祖母の声が、無数の声に重なる。
知りたいでしょう。
知りたいでしょう。
知りたいでしょう。
ナディアが膝をつく。
蓮が支える。
「ナディア!」
黒瀬も叫ぶ。
「ナディアさん!」
マーカスも苦しそうに言った。
「ナディア・ハッサン!」
白い石が蓮の胸元で熱を持った。
セティの声が聞こえた。
「名前を返して」
蓮は叫んだ。
「どうやって!」
「井戸に呼ぶ。落とすんじゃなくて、呼ぶ」
蓮は井戸の縁を見た。
無数の消えかけた名前。
その中に、セティの名がかすかに光っている。
いや、セティの名だけではない。
見えないはずの名前が、少しずつ浮かび上がってくる。
名前のない少年。
それに対応するような黒い染みが、井戸の縁にあった。
名前は読めない。
だが、そこに誰かがいる。
蓮は叫んだ。
「名前のない少年!」
井戸の底が揺れた。
黒い染みが、少しだけ白くなる。
マーカスがはっと顔を上げた。
「そこにいるのか……」
井戸の底から、小さな声がした。
子どもの声。
言葉にはならない。
ただ、泣いている。
マーカスは井戸へ近づきそうになった。
蓮が彼の腕を掴む。
「マーカス・リード!」
マーカスは止まった。
目には涙が浮かんでいた。
「曾祖父が……名前を記録すると言ったのに……消した……」
「今は落ちないでください」
蓮は言った。
「呼ぶだけです」
マーカスは震える声で井戸へ向かった。
「名前のない少年。私は、君を忘れない」
井戸の底から、泣き声が少しだけ弱まった。
ナディアが顔を上げる。
彼女の耳の印も少し薄くなる。
「呼ぶことで、井戸が反応しています」
黒瀬が端末を見る。
「低周波が安定しました。いや、安定というより……声が分かれてる?」
「声を名前に返す」
蓮は呟いた。
その方法は、完全ではない。
名前がわかる者だけ。
呼べる者だけ。
忘れられていない者だけ。
それでも、始められる。
蓮は胸元から白い石を取り出した。
セティの名前の石。
井戸の上にかざすと、白い光が広がった。
井戸の底から、無数の声が一斉にざわめく。
その中に、セティの声があった。
「蓮」
「セティ」
蓮は呼んだ。
「セティ。君の名前はここにある。君は声じゃない。君はセティだ」
ナディアも続いた。
「セティ」
黒瀬も。
「セティ」
マーカスも、少し遅れて言った。
「セティ」
白い石が強く光る。
井戸の縁に刻まれていたセティの名が、黒い染みから離れるように浮かび上がった。
その瞬間、遠くで何かが叫んだ。
王の声。
「やめよ」
名の井戸の部屋全体が揺れる。
ネフェル=カーの声が階段の上から響いた。
「名を返せば、声は散る。声が散れば、王の座は崩れる」
ナディアが立ち上がった。
耳の印はまだ残っている。だが、彼女の目はしっかりしていた。
「それが本来の形です」
王の声が低くなる。
「名を返せると思うな。井戸は返す場所ではない。沈める場所だ」
井戸の底から、黒い影が立ち上がった。
水ではない。
声の影。
無数の名を失った声が絡み合い、一つの黒い柱のようになって上がってくる。
黒瀬が叫ぶ。
「まずい、何か出てきます!」
マーカスの耳の印が急に濃くなる。
ナディアの印も。
蓮の右手の掌が熱を持つ。
そこに、黒い太陽の印が一瞬だけ浮かんだ。
聞き手の候補が、三人とも反応している。
井戸は、誰かを選ぼうとしている。
いや、三人まとめて引きずり込もうとしている。
セティの声が叫んだ。
「名前を結んで!」
蓮は叫んだ。
「蓮!」
ナディアが続く。
「ナディア!」
黒瀬が。
「玄!」
マーカスが。
「マーカス・リード!」
蓮は白い石を握りしめた。
「セティ!」
そして、マーカスが叫んだ。
「名前のない少年!」
六つの呼び声が、井戸の部屋に響いた。
黒い声の柱が一瞬止まる。
だが、完全には止まらない。
その中に、無数の名前になれない声がある。
呼ばれたい。
帰りたい。
でも名前がわからない。
蓮はその悲しみを感じた。
あまりにも多すぎる。
一人では聞けない。
一人では返せない。
一人では耐えられない。
だからこそ、セティは壊れかけた。
だからこそ、王は間違えた。
蓮は叫んだ。
「全部は今返せない!」
声の柱が揺れる。
「でも、沈めたままにはしない!」
その言葉が届いたのかどうか、わからない。
だが、井戸の底から上がる影が、ほんの少しだけ弱まった。
ナディアが叫ぶ。
「撤退します! 今はここまで!」
黒瀬がすぐに頷く。
「大賛成!」
マーカスは井戸を見つめていたが、蓮が名前を呼んだ。
「マーカス!」
彼ははっとして振り返った。
「行きます」
五人分の名前を呼びながら、蓮たちは階段へ向かった。
井戸の底から、まだ声が聞こえている。
セティ。
名前のない少年。
無数の声。
そして王の声。
「次に来る時、井戸は問う」
蓮は振り返らなかった。
王の声が追いかけてくる。
「誰の名を返し、誰の名を沈めるのかを」
*
保管室へ戻ったとき、夜明けの光はまだ届いていなかった。
ホテルの地下は薄暗く、蛍光灯が白く光っている。戻ってきた全員が床に膝をつき、しばらく息を整えた。
ナディアの耳の印は薄くなっていた。
消えてはいない。
だが、さっきよりは薄い。
マーカスの掌の印も同じだった。
蓮の右手には、もう黒い太陽の印は見えない。ただ、熱だけが残っている。
黒瀬が床に座り込みながら言った。
「今回、全員ギリギリでしたね……毎回言ってますけど、今回も更新しました」
ナディアは疲れた顔で頷いた。
「でも、成果はありました」
「成果?」
「井戸は、呼びかけに反応しました。セティの名も、名前のない少年も、完全ではないけれど反応した。つまり、声を名前へ返す方法は、存在する可能性があります」
蓮は白い石を見た。
セティの名前の石は、前より少し明るくなっていた。
胸元ではなく、手の中にあるだけで温かい。
「セティは?」
蓮が小さく呼ぶ。
すぐに返事はなかった。
だが、少しして、かすかな声が聞こえた。
「蓮」
「大丈夫?」
「少し……軽い」
その言葉に、蓮は目を閉じた。
少しだけでも。
それでも、前へ進んでいる。
マーカスは床に座ったまま、両手を見つめていた。
「名前のない少年が、泣いていました」
彼は呟いた。
「私は、彼の名前を知らない」
「これから探します」
蓮が言うと、マーカスは顔を上げた。
「あなたは本当に、全部拾うつもりですか」
「全部は無理です」
蓮は正直に答えた。
「でも、拾える名前から拾います」
マーカスは何も言わなかった。
その表情は、以前よりも人間らしかった。
ナディアが自分の紙を取り出し、震える手で新しい一文を書き足した。
知るためではなく、返すために。
それを見て、蓮も自分の紙に同じ言葉を書いた。
黒瀬も書いた。
マーカスも、少し迷ってから英語で書いた。
Not to know, but to return.
その瞬間、保管室の門に黒い文字が浮かび上がった。
蓮は読んだ。
井戸は名を聞いた。
小さき耳は軽くなった。
名なき声は泣いた。
次に問われるのは、王の名である。
ナディアが息を呑む。
「王の名……ネフェル=カー」
黒瀬が顔をしかめる。
「次は王の名前を返すってことですか?」
マーカスが静かに言った。
「王は、それを最も恐れているのでしょう」
蓮は門の文字を見つめた。
ネフェル=カー。
美しき魂。
声を聞く王。
神殿を築いた者。
セティを器にした者。
そして、今も王であり続けようとする記憶。
もし王の名を井戸へ返すことができれば、黒い太陽の構造そのものが変わるかもしれない。
だが、それは王を王でなくすことでもある。
ネフェル=カーは抵抗するだろう。
それでも、次の道は見えた。
声を聞く者を選ぶのではない。
王の名を、王自身から返す。
蓮は白い石を握りしめた。
「次は、王の名前を呼ぶことになる」
ナディアが頷いた。
「ええ。そしておそらく、それが第4章の山場になります」
黒瀬が力なく笑った。
「地下も章構成しっかりしてますね……」
蓮は笑わなかった。
窓のない保管室の中で、夜明け前の静けさが深く沈んでいる。
名の井戸は、声を少しだけ返した。
だが同時に、次の問いを投げてきた。
王の名をどうするのか。
ネフェル=カーを、王の座から降ろせるのか。
そして、黒い太陽が新しい聞き手を選ぶ前に、声を名前へ返す道を完成させられるのか。
蓮は自分の名前を心の中で呼んだ。
蓮。
まだ、自分はここにいる。
そして次は、王の名を呼ぶ番だった。




