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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第4章 声を聞く者

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4:王の名を呼ぶ

4:王の名を呼ぶ


 ネフェル=カーの名を、どう呼べばよいのか。

 その問いは、蓮たちを長く沈黙させた。

 資料室の机の上には、いくつもの紙が広げられていた。蓮、ナディア、玄、マーカス、セティ、名前のない少年。そして新しく大きく書かれた名。

 ネフェル=カー。

 美しき魂。

 声を聞く王。

 地下都市アケト・ドゥアトを治めた者。

 黒い太陽の神殿を築いた者。

 セティを器にした者。

 いまなお、王であり続けようとする記憶。

 その名は、ただの名前ではなかった。

 呼べば王が振り返る。

 しかし、呼び方を間違えれば、こちらが王の記憶に飲まれる。

 蓮は紙に書かれた名を見つめながら、胸の奥に重い石を抱えているような感覚を覚えていた。

「王の名前を返す、というのは」

 黒瀬玄が慎重に言った。

「要するに、ネフェル=カーを成仏させる、みたいな話ですか」

 ナディアは少し考えてから首を横に振った。

「近い部分はありますが、少し違うと思います。彼は単なる死者ではありません。名前と声の集合体の中心にいて、王という役割に固定されている。だから、名前を返すというのは、彼を消すことではなく、王という役割から解くことに近いのではないでしょうか」

「王を王じゃなくする?」

「はい」

 ナディアは机の上に、地下都市の構造図を広げた。

 神殿。

 王の間。

 黒い太陽。

 名の井戸。

 そこへ流れ込む水路。

「ネフェル=カーの名は、都市中に刻まれていました。住居、市場、水路、神殿。彼の名は都市を守る護符であり、同時に都市を縛る杭でもあったのだと思います。王の名が残る限り、彼は声の座にあり続ける」

「そして声の座にいる限り、声を手放せない」

 蓮が言うと、ナディアは頷いた。

「ええ。だから王は名を返すことを恐れている。王でなくなれば、集めた声を保持できなくなるから」

 マーカス・リードは、少し離れた椅子に座っていた。

 彼は黙って話を聞いていた。右手の掌に浮かんだ聞き手の印は、以前より薄くなっている。だが、完全には消えていない。耳の形をした黒い線は、皮膚の下で眠る虫のように静かに残っていた。

「王は、声を失うことを恐れている」

 マーカスは呟いた。

「それは、私にもわかります」

 蓮は彼を見た。

 マーカスは自嘲気味に笑った。

「声を聞くと、自分が世界の中心にいるような錯覚を覚える。死者も、未来も、忘れられた名も、すべてが自分へ向かって流れ込んでくる。恐ろしいのに、同時に甘美です。一度聞くと、手放すことが敗北のように思える」

「今も、そう感じていますか」

 蓮が尋ねると、マーカスは正直に頷いた。

「はい。だから、私は自分を信用していません」

 その言葉は、以前のマーカスからは想像できないものだった。

 彼は続けた。

「ネフェル=カーも、最初は都市を救おうとしたのでしょう。だが、声を聞く者は、やがて自分だけが聞けるという感覚に支配される。そこから先は、救済と支配の区別がつかなくなる」

 ナディアが静かに言った。

「だから、王の名を返すには、彼を責めるだけでは不十分です」

「どういうことですか」

 黒瀬が聞く。

「彼を悪い王として断罪すれば、王は抵抗します。彼は今も、自分が都市を救ったと思っている。そこに嘘はないのでしょう。問題は、救うために一人を器にしたこと。そして、その選択を王の役割として固定し続けていることです」

 蓮はセティの名前の石を見た。

 白い石は、机の中央で淡く光っていた。

 セティは少し軽くなったと言った。

 けれど、まだ地下に縫いつけられている。

 王が放さないから。

「王に、自分の名前を思い出させる必要があるのかもしれません」

 蓮は言った。

 ナディアが彼を見る。

「王としての名ではなく?」

「はい。ネフェル=カーは王名かもしれません。でも、彼にも王になる前の名前があったはずです。子どもだった頃の名。誰かに呼ばれていた名。声の座に座る前の、人間としての名前」

 その言葉に、資料室の空気がわずかに変わった。

 黒瀬が小さく言った。

「王じゃない名前……」

 マーカスは目を伏せた。

「それは、危険かもしれません。もし王が忘れている名を呼べれば、彼は揺らぐ。しかし、間違えれば、こちらの名前が奪われる可能性がある」

「その名前は、どこにあると思いますか」

 ナディアは図面に視線を落とした。

「名の井戸です。王の名を返すなら、王自身の本当の名も、あそこに沈んでいる可能性が高い」

 蓮は頷いた。

 王の名を呼ぶ。

 しかし、王名だけでは足りない。

 ネフェル=カーという役割ではなく、その奥にいた一人の人間の名を探す。

 それが、王を王から解く鍵になるかもしれない。


     *


 名の井戸へ向かう準備は、これまで以上に慎重に行われた。

 まず、五人分の名前を書いた紙を増やした。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 マーカス・リード。

 セティ。

 さらに、名前のない少年。

 ナディアの祖母。

 エドワード・リード。

 蓮と同じ顔をした名前のない祭司。

 そして、ネフェル=カー。

 蓮は最後に、もう一つ空白の欄を作った。

 王になる前の名:____

 その空白が、妙に重かった。

 名前のない空白。

 王が失った名。

 それを見つけることが、今回の目的だった。

 黒瀬は全員の紙を防水ケースに入れながら言った。

「毎回思いますけど、名前リスト持って地下神殿に入るって、すごい調査ですね」

「記録というより、命綱ですね」

 蓮が言うと、黒瀬は頷いた。

「本当に。今回は俺、全員の名前を声に出して読み上げる用の紙も作りました。パニックになったら、とにかく読む」

 紙には大きな字でこう書かれていた。

 蓮。ナディア。玄。マーカス。セティ。

 戻れ。名前に戻れ。

 声ではない。役割ではない。ここにいる。

 ナディアはそれを見て、静かに頷いた。

「良いと思います」

 マーカスも、自分の紙を持っていた。

 以前より文字が増えている。


 I am Marcus Reed.

 I am not the voice.

 I am not Nefer-Ka.

 I will not open the Black Sun.

 I will not offer anyone as a vessel.

 I will return names, not take them.


 蓮は最後の一文を見た。

 私は名前を奪うのではなく、返す。

 以前のマーカスなら、書かなかった言葉だと思った。

「本当に大丈夫ですか」

 蓮が尋ねると、マーカスは苦く笑った。

「大丈夫ではありません。だから、これを書いています」

「声は?」

「聞こえます」

 マーカスは正直に言った。

「今も、小さく。私に、王の名を継げと言っている。声を聞く者になれ、と」

 ナディアが警戒する。

「従いそうですか」

「従いたくなる瞬間はあります」

 マーカスは自分の紙を握った。

「ですが、今はその欲望を隠さない方が安全だとわかりました。隠すと、神殿はそこへ入り込む」

 蓮は頷いた。

 それは自分にも必要なことだった。

 救いたい。

 知りたい。

 役に立ちたい。

 特別でありたい。

 それらを「ない」と言い張れば、地下はその嘘を通路にする。

 認めた上で、名前を結ぶしかない。

 ナディアは最後に、自分の耳の後ろの印を確認した。

 印はまだある。

 しかし前回より薄い。

 彼女は自分の紙に、さらに一文を書き足した。

 祖母の声がしても、私はナディアとして聞く。

 そして静かに言った。

「行きましょう」


     *


 保管室の門は、今回はなかなか開かなかった。

 六つの石片をくぼみに嵌めても、黒い太陽は沈み込まず、門は沈黙したままだった。

 黒瀬が不安そうに機材を確認する。

「反応はあります。でも、開きません」

 ナディアが門の文字を見た。

「拒否しているのではなく、待っているように見えます」

「何を?」

 蓮が尋ねた瞬間、門に黒い文字が浮かび上がった。

 蓮には意味がわかった。

 王の名を呼べ。

 王の名を知らぬ者は、井戸へ至れぬ。

 マーカスが小さく息を呑んだ。

「ネフェル=カー……」

 彼がその名を口にした瞬間、門の表面が揺れた。

 しかし開かない。

 蓮は考えた。

 王の名。

 ただ王名を言うだけでは足りない。

 呼び方が必要だ。

 蓮は一歩前へ出た。

「ネフェル=カー」

 門は静かに震える。

 蓮は続けた。

「声を聞く王。アケト・ドゥアトを治めた者。けれど、王になる前に名前を持っていた人。僕たちは、その名を返すために行きます」

 門の文字が揺らいだ。

 ナディアも前に出る。

「ネフェル=カー。あなたを消すためではなく、王という役割から解くために、名の井戸へ向かいます」

 黒瀬が少し慌てて続いた。

「ネフェル=カー。ええと、俺は玄です。あなたを記録として食べるためじゃなくて、名前に戻すために行きます」

 マーカスは目を閉じ、ゆっくりと言った。

「ネフェル=カー。私はあなたになりません。あなたの声を継ぎません。あなたの名を、あなた自身へ返すために行きます」

 最後に蓮は胸元の白い石に触れた。

「セティも、ここにいます」

 白い石が温かくなった。

 門の黒い太陽が、ゆっくり沈み込んだ。

 門が開く。

 奥に、黒い太陽の神殿が見えた。


     *


 神殿の中は、濃い沈黙に満ちていた。

 列柱室の壁は、今日はほとんど何も見せなかった。記憶を食べる壁が眠っているのではない。すでにこちらを覚えていて、新しい餌を待っているように感じられた。

 蓮たちは名前を呼び合いながら進んだ。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

「マーカス・リード」

「セティ」

 名前が水路の光を少しずつ強める。

 王の間の扉は、すでに半ば開いていた。

 耳と口の像は何も言わない。ただ、無数の口が閉じられている。その沈黙が、逆に圧力となって蓮たちを押しつぶそうとする。

 王の間に入ると、ネフェル=カーは玉座に座っていた。

 黒い冠。大きな耳。黒い瞳。

 前回よりも影が薄い。

 セティの名を得て、名の井戸でいくつかの声を呼んだことで、王の力が少し揺らいでいるのかもしれない。

 しかし、王の威圧感は消えていなかった。

「戻ったか」

 王は言った。

「名を返すために」

 蓮が答える。

 王は蓮を見て、次にナディア、黒瀬、マーカスへ視線を移した。

「愚かだ。名を返せば、声はばらける。声がばらければ、都市は夢を見る力を失う。神殿はただの石となり、王はただの死者となる」

「それが怖いのですね」

 ナディアが言った。

 王の目が彼女へ向く。

「ナディア。お前は知っているだろう。死者をただの死者にすることの残酷さを」

 ナディアの耳の印が濃くなる。

 祖母の声が混じったのかもしれない。

 蓮はすぐに呼んだ。

「ナディア」

 黒瀬も。

「ナディアさん」

 ナディアは息を吸った。

「死者を覚えていることと、死者を声として閉じ込めることは違います」

 王は黙った。

 マーカスが前に出る。

「ネフェル=カー。あなたは声を手放すことを恐れている」

「リードの名を持つ者よ。お前も同じ恐怖を知ったはずだ」

「知っています」

 マーカスは答えた。

「だからこそ、あなたの恐怖もわかる。声を失えば、自分が特別でなくなる。王でなくなる。聞く者でなくなる」

 王の周囲の影がざわめいた。

 マーカスは続けた。

「でも、その恐怖のために、セティを縛り、名を失った者たちを井戸に沈め続けることはできない」

「お前が言うか」

 王の声が低くなる。

「お前もまた、声を欲した」

「はい」

 マーカスは否定しなかった。

「だから、私はあなたになりかけた。今も完全には抜け出せていない。けれど、名前を呼ばれて戻った」

 王の黒い目が細められる。

「名は弱い」

「弱いから、呼び合うのです」

 蓮はそう言った。

 王の視線が蓮に戻る。

「蓮。お前は井戸へ向かうか」

「はい」

「そこに沈む名は、優しくない。失われた名は、返されることを望むが、同時に、他の名を引きずる。井戸は空腹だ」

「わかっています」

「わかっていない」

 王は立ち上がった。

 王の間が震える。

「名を返すとは、ただ呼ぶことではない。名の痛みを聞くことだ。死者の孤独。忘れられた怒り。記録から消された悲しみ。お前たちは、それを聞いてなお、自分の名を保てるか」

 蓮は答えられなかった。

 その問いは、あまりにも重かった。

 名を返すには、その声の痛みを聞かなければならない。

 聞けば、聞き手になる。

 聞き手になれば、器に近づく。

 どこまで聞き、どこから返すのか。

 その境界が危険なのだ。

 ナディアが言った。

「一人では聞きません」

 黒瀬も続く。

「全員で、少しずつ確認します」

 マーカスも言った。

「そして、誰かが飲まれそうになったら、名前を呼ぶ」

 王はしばらく三人を見た。

 そして、低く笑った。

「ならば、行け。井戸はお前たちの名も試す」

     *

 玉座の背後の階段を降りる。

 前回と同じ黒い石の階段。文字も壁画もない、名前のない通路。

 だが今日は、階段の途中に声がした。

 泣く声。

 怒る声。

 笑う声。

 祈る声。

 名前を呼ぶ声。

 それらはまだ遠い。

 しかし、一段降りるごとに近づいてくる。

 蓮は胸元の白い石を握った。

「セティ」

 温かさが返る。

 ナディアは自分の紙を手に持ち、何度も自分の名前を目で追っている。黒瀬は機材を最小限にし、片手で名前の紙を握っていた。マーカスは、唇だけで自分の名を繰り返していた。

 名の井戸の部屋に着いた。

 中央に、白い石の井戸。

 底のない黒い穴。

 縁に刻まれた無数の名。

 その多くは消えかけ、傷つき、黒く染みている。

 前回よりも、井戸は深く見えた。

 いや、井戸が深くなったのではない。

 こちらが、より深く見える場所まで来てしまったのだ。

 ナディアが井戸の縁に近づきすぎない位置で止まる。

「ここから先は、声に答えすぎないでください」

 黒瀬が頷く。

「了解です。聞こえても、すぐ返事しない」

 マーカスは井戸を見つめていた。

 蓮が呼ぶ。

「マーカス」

 彼ははっとした。

「大丈夫です。まだ」

 蓮は頷き、井戸へ向いた。

「ネフェル=カー」

 井戸の底が揺れた。

 黒い水のような闇が、ゆっくり渦を巻く。

「ネフェル=カー。あなたの名を返しに来ました」

 闇の中から、王の声が響く。

「その名は王の名だ」

「はい」

 蓮は答えた。

「だから、その奥にある名を探します。あなたが王になる前に呼ばれていた名を」

 井戸が震えた。

 縁に刻まれた文字の一部が光る。

 ネフェル=カーの王名。

 鳥。魂。曲がった太陽。黒い円。水路。

 その周囲に、別の細い文字が浮かび上がった。

 だがすぐに黒い染みが広がり、隠してしまう。

 ナディアが息を呑む。

「そこです。本名が隠れている」

 マーカスが近づこうとする。

 黒瀬が腕を掴んだ。

「マーカスさん、ストップ」

 マーカスは歯を食いしばる。

「見えそうなのです」

「それが危ないんです」

 蓮は井戸の縁を見つめた。

 見すぎてはいけない。

 だが、見なければ読めない。

 この矛盾が、井戸の罠だ。

 蓮は目を閉じた。

 見るのではなく、呼ぶ。

 セティが言った方法。

 蓮は静かに呼んだ。

「ネフェル=カー。王ではないあなた。声を聞く前のあなた。誰かに名前を呼ばれていたあなた」

 井戸の底から、低い音が響く。

 ゴォン。

 王の声が怒りを帯びる。

「やめよ」

 蓮は続けた。

「あなたは最初から王だったわけではない。最初から声の座にいたわけではない。あなたにも、誰かに抱かれ、誰かに呼ばれた名があったはずです」

 井戸の闇が激しく揺れる。

 ナディアの祖母の声が聞こえた。

「子どもの名は、母が最初に呼ぶ」

 ナディアが震えた。

 蓮がすぐに言う。

「ナディア」

「大丈夫です」

 ナディアは自分の名前を言った。

「ナディア・ハッサン。私はナディアです」

 そして、井戸へ向かって言った。

「ネフェル=カーにも、母がいたはずです。王としてではなく、子として呼んだ人が」

 井戸の縁に、新しい光が走る。

 黒い染みの下から、細い文字が浮かぶ。

 蓮にはまだ読めない。

 マーカスが突然呟いた。

「カーエム……」

 ナディアが彼を見る。

「何と言いました?」

 マーカスは混乱した顔で井戸を見ていた。

「わかりません。声が……いや、文字が……カーエム……何か……」

 井戸の底から王の声が轟いた。

「黙れ!」

 マーカスの耳の印が一気に濃くなる。

 彼は苦しそうに頭を押さえた。

「違う、私は……」

 蓮は叫んだ。

「マーカス・リード!」

 黒瀬も叫ぶ。

「マーカスさん!」

 ナディアも続ける。

「マーカス!」

 マーカスは崩れ落ちそうになりながらも、言葉を続けた。

「カーエム……セテプ……いや……カーエムセト?」

 その名を聞いた瞬間、井戸の闇が大きく跳ねた。

 ナディアが息を呑む。

「カーエムセト……」

 蓮の頭に意味が流れ込む。

 カーの中にある者。

 魂の中に立つ者。

 王名ではない。

 幼名。

 いや、王になる前の名。

 ネフェル=カーがまだ神の声を聞く王ではなく、一人の子どもだった頃に呼ばれていた名。

「カーエムセト」

 蓮は静かに呼んだ。

 王の怒声が響いた。

「その名を呼ぶな!」

 井戸の部屋全体が揺れる。

 黒い声が立ち上がり、蓮たちへ向かって伸びる。

 黒瀬が叫ぶ。

「当たりです! 完全に当たり引きました!」

 ナディアが井戸の縁の文字を確認する。

「蓮さん、もう一度! ただし、王を責めないで!」

 蓮は頷いた。

 井戸へ向かい、強く、しかし静かに呼んだ。

「カーエムセト」

 闇が震える。

「カーエムセト。あなたはネフェル=カーになる前、その名で呼ばれていた。あなたは最初から王ではなかった。最初から声の座ではなかった」

 王の声が苦しげに響く。

「私は王だ……私は声を聞く王……」

「あなたは王だった。でも、それだけではない」

 ナディアが続けた。

「カーエムセト。あなたにも、名前を呼ぶ人がいたはずです」

 黒瀬も震えながら言った。

「カーエムセトさん。ええと、あなたは声そのものじゃない。王だけでもない」

 マーカスは膝をついたまま、かすれた声で言った。

「カーエムセト。私はあなたになりません。あなたも、もう王でいなくていい」

 その言葉に、井戸の底から悲鳴のような音が上がった。

 王の声が割れる。

 低く威厳のある声の奥から、別の声が漏れた。

 若い声。

 いや、子どもの声。

「母上……」

 蓮は息を止めた。

 ネフェル=カーの声ではない。

 カーエムセトの声。

 井戸の縁に、ぼんやりと少年の姿が浮かび上がった。王冠をかぶっていない。幼い顔。大きな耳を恥ずかしそうに隠している少年。

 彼は遠くの誰かを見ていた。

 その口が動く。

「声が、こわい」

 蓮の胸が締めつけられた。

 ネフェル=カーも、最初は声を恐れていた。

 特別な王になる前に、ただ声が怖い子どもだった。

 セティと同じように。

 ナディアが小さく言った。

「彼も、聞き手だった……」

 その瞬間、井戸の底から黒い手が伸びた。

 無数の声が絡まった手。

 少年の幻を掴み、再び闇へ引き戻そうとする。

 王の声が叫ぶ。

「私は王だ! 王でなければ、私は何になる!」

 蓮は答えた。

「名前に戻ればいい」

「王でなくなれば、声は誰が聞く!」

「一人では聞かない」

「声は散る!」

「散っていい。名前に戻るなら」

「都市が消える!」

「忘れません」

 蓮は強く言った。

「アケト・ドゥアトも、あなたも、セティも、名前のない少年も、忘れません。でも、忘れないことと、閉じ込めることは違う」

 井戸の闇が揺れる。

 セティの名前の石が強く光った。

 胸元から熱が広がる。

 セティの声が聞こえた。

「カーエムセト」

 その声は小さかった。

 けれど、井戸の底まで届いた。

「僕は、もう一人で聞きたくない」

 闇の中の少年が、セティの声に反応した。

 ネフェル=カーではなく、カーエムセトが。

 彼はゆっくり顔を上げた。

「セティ……」

 王の間から、遠く低い音が響いた。

 黒い太陽が揺れている。

 王の名が、王の役割から剥がれ始めている。

 蓮は井戸へ向かって叫んだ。

「カーエムセト! あなたの名を、あなたへ返します!」

 その瞬間、井戸の縁に刻まれた隠された文字が白く光った。

 カーエムセト。

 名前が、黒い染みから浮かび上がる。

 マーカスが叫んだ。

「カーエムセト!」

 ナディアも。

「カーエムセト!」

 黒瀬も。

「カーエムセト!」

 蓮は白い石を握りしめ、セティの名とともに叫んだ。

「セティ! カーエムセト!」

 二つの名が、井戸の部屋で重なった。

 闇が割れた。


     *


 井戸から、無数の声が噴き上がった。

 だが、それは攻撃ではなかった。

 悲鳴でもなかった。

 分離だった。

 絡まり合って一つの黒い柱になっていた声が、少しずつほどけ始める。細い糸のように分かれ、それぞれが井戸の縁に刻まれた名前へ向かって流れていく。

 名前があるものは、名前へ。

 かすかに残っているものは、その断片へ。

 完全に読めないものは、まだ闇の中で震えている。

 全てではない。

 ほんの一部だ。

 それでも、声が名前へ返る瞬間を、蓮は見た。

 ナディアは涙を浮かべていた。

「返っている……」

 黒瀬は呆然と機材を見ていた。

「数値が……いや、もう数値とかじゃないですね、これ」

 マーカスは膝をついたまま、泣いていた。

 彼は井戸の縁の黒い染みを見つめている。

 名前のない少年の場所。

 そこにはまだ名前は浮かんでいない。

 だが、黒い染みの中に、細い白い線が一本だけ走っていた。

「まだ、名前は戻らない」

 マーカスは呟いた。

「でも……少し、声が静かになった」

 蓮は頷いた。

 全部は無理だ。

 一度には返せない。

 だが、道は見えた。

 王の名を返すことが、黒い太陽の声をほどく鍵になる。

 その時、階段の上から激しい振動が響いた。

 王の間の方角。

 ネフェル=カーの声が、いや、もうネフェル=カーとカーエムセトの声が重なって響いた。

「戻れ……」

 その声は命令ではなかった。

 苦しみだった。

 ナディアが叫ぶ。

「これ以上は危険です! 戻ります!」

 井戸の闇はまだ揺れている。名前が返り続けているが、同時に井戸そのものが不安定になっていた。

 黒瀬がマーカスを支える。

「行きますよ、マーカスさん!」

 マーカスは井戸から目を離し、かすかに頷いた。

「はい」

 蓮は最後に井戸へ向かって言った。

「カーエムセト。次に来るとき、もっと返します。だから、セティを放してください」

 返事はなかった。

 だが、井戸の底から小さな声がした。

 王ではない。

 少年の声。

「……こわい」

 蓮は答えた。

「一人で聞かなくていい」

 その言葉を残し、蓮たちは階段を上った。

     *

 保管室へ戻ったとき、全員が疲れ切っていた。

 ナディアの耳の印は、前よりもさらに薄くなっていた。マーカスの掌の印も同じだった。蓮の右手には黒い太陽の印は出ていない。

 代わりに、セティの名前の石が強く温かい。

 蓮は石を取り出した。

 白い石の表面に、これまでなかった細い線が浮かんでいる。

 セティの名の横に、もう一つの名。

 カーエムセト。

 完全ではない。

 薄く、消えそうな線。

 だが、確かに刻まれている。

 セティの声が聞こえた。

「蓮」

「セティ」

「王様が……泣いてる」

 蓮は目を閉じた。

「カーエムセトが?」

「うん。王様じゃない声で」

 セティの声は、前より少し近かった。

「僕、少しだけ動ける。前より、眠りが軽い」

 蓮は胸が熱くなった。

「よかった」

「でも、黒い太陽も揺れてる」

 セティの声が不安げになる。

「声がほどけ始めたから、形を保とうとしてる。次は、もっと強く聞き手を探す」

 ナディアがその言葉を聞き、険しい顔になる。

「完全に時間との勝負ですね」

 黒瀬が床に座り込んだまま言った。

「でも、方向は見えましたよね。王の名を返す。声を名前に返す。少しずつ」

 マーカスは静かに言った。

「そして、名前のない少年の名も探す」

 蓮は頷いた。

 王の名を呼ぶことは成功した。

 完全ではない。

 ネフェル=カーはまだ消えていない。

 カーエムセトもまだ恐れている。

 黒い太陽も眠ってはいない。

 だが、王は初めて揺らいだ。

 声は初めて、名前へ戻り始めた。

 保管室の門に、黒い文字が浮かび上がった。

 蓮は読んだ。

 王は名を思い出した。

 小さき耳は軽くなった。

 名なき声は待っている。

 次に、黒い太陽は目を開く。

 黒瀬が顔を引きつらせる。

「ついに目を開くんですか……」

 ナディアが低く言った。

「第4章の最後で、黒い太陽そのものと向き合うことになるのでしょう」

 蓮は門の文字を見つめた。

 黒い太陽が目を開く。

 それは、封印が崩れる合図なのか。

 それとも、声を返すために避けて通れない段階なのか。

 わからない。

 だが、もう道は見えている。

 恐れて遠ざかるだけでは、セティも、カーエムセトも、名前のない少年も救えない。

 蓮は白い石を握りしめた。

「次は、黒い太陽ですね」

 ナディアが頷いた。

「ええ。でも、次こそ本当に危険です」

 黒瀬が苦笑する。

「毎回言ってますけど、今回は文字通りラスボス前みたいですね」

 マーカスは静かに言った。

「黒い太陽は、神ではない」

 蓮は続けた。

「人の声が大きくなりすぎて、神の形になったもの」

 ナディアが言う。

「ならば、声を名前へ返せば、神ではなくなる」

 保管室の空気が少しだけ震えた。

 まるで、黒い太陽がその言葉を聞いたように。

 蓮は自分の名前を呼んだ。

「蓮」

 ナディアが続く。

「ナディア」

 黒瀬が。

「玄」

 マーカスが。

「マーカス・リード」

 そして、蓮は白い石へ向かって言った。

「セティ。カーエムセト。名前のない少年」

 名前は、まだ完全ではない。

 でも、呼ぶことはできる。

 それが、黒い太陽に抗う唯一の方法だった。

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