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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第4章 声を聞く者

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5:黒い太陽が開く

5:黒い太陽が開く


 黒い太陽が目を開く。

 その一文が、保管室の門に浮かび上がってから、蓮たちはしばらく誰も言葉を発せなかった。

 これまでにも、地下は何度も警告してきた。

 扉は開く。

 水路は失われる。

 王は名を思い出す。

 黒い太陽は、新しい聞き手を求める。

 そのどれもが現実になった。

 だからこそ、今回の言葉も無視できない。

 黒い太陽が目を開く。

 それは、おそらく比喩ではない。

 蓮は、円筒状遺構の底で見た閉じた目を思い出した。黒い闇の奥に浮かんだ、巨大な瞼。まだ閉じているはずなのに、こちらを意識していたもの。

 あの目が開く。

 もし目を直接見れば、名前を取られる。

 セティはそう言った。

 だが、いま黒い太陽そのものが目を開こうとしているのなら、避けるだけでは済まない。見ないように逃げ続ければ、黒い太陽は次の聞き手を選び、誰かを器にするだろう。

 マーカスか。

 ナディアか。

 蓮か。

 あるいは、三人全員か。

 資料室に戻ったあと、ナディアはホワイトボードに大きく書いた。

 目的:黒い太陽を「見る」のではなく、「返す」

 黒瀬玄が腕を組んで、それを見つめた。

「見るのではなく、返す。言葉としてはわかるんですけど、具体的にはどうするんですか」

 ナディアは少し疲れた顔で答えた。

「これまでの流れから考えると、黒い太陽は声の集合体です。名の井戸に沈んだ名前から切り離された声が集まり、巨大な意識のようになったもの。ならば、直接対決するのではなく、声を名前へ返す必要があります」

「でも、前回は一部しか返せませんでしたよね」

「はい。セティの名前、カーエムセトの幼名、名前のない少年への呼びかけ。反応はありましたが、全体には届いていない」

 マーカス・リードが静かに言った。

「黒い太陽の目が開くということは、声の集合体がこちらを直接認識するということです」

 彼の声は落ち着いていたが、右手の掌に残る聞き手の印は、かすかに黒くなっていた。

「これまでは水路や壁や王を通じて声が届いていた。次は、声そのものが見る。つまり、こちらの名前を直接奪いに来る」

 黒瀬が顔をしかめる。

「つまり、めちゃくちゃ危ない」

「そうです」

 マーカスは否定しなかった。

 蓮はセティの名前の石を机に置いた。

 白い石には、二つの名が刻まれている。

 セティ。

 カーエムセト。

 カーエムセトの名はまだ薄い。けれど、前よりは少しだけはっきりしていた。王の名が王の役割から剥がれ始めている証拠かもしれない。

「セティに聞いてみます」

 蓮が言うと、ナディアは頷いた。

「短く。黒い太陽が聞いている可能性があります」

 蓮は白い石に触れ、静かに呼んだ。

「セティ」

 石が温かくなる。

「セティ。聞こえる?」

 少し間があった。

 そして、かすかな声がした。

「蓮」

 その声は前より近い。

 けれど、ひどく疲れていた。

「黒い太陽が開くって、どういうこと?」

 蓮が尋ねると、セティはしばらく黙った。

 やがて、ぽつりと言った。

「声が、自分を見つけようとしている」

「自分を?」

「うん。いままで声は、王や僕や水路を通して集まっていた。でも、名前が少しずつ戻ったから、声がほどけ始めた。ほどけるのが怖くて、自分で自分の形を保とうとしている」

 ナディアが小さく呟く。

「集合体が自己保存を始めている……」

 セティの声は続いた。

「目が開くと、黒い太陽は一番よく聞こえる人を見る」

「見られた人が、次の聞き手になる?」

「うん。名前を取られて、声の中心にされる」

 蓮の背筋に冷たいものが走った。

「どうすれば防げる?」

「一人で見られないようにする」

「名前を結ぶ?」

「それだけじゃ足りない」

 セティの声が震えた。

「今度は、名前を結ぶだけじゃなくて、声を散らさないといけない。黒い太陽の中の声を、少しでも名前へ戻す。そうすれば、目は形を保てなくなる」

 マーカスが静かに言った。

「黒い太陽を弱めるには、中心から声を抜く必要がある」

「うん」

 セティが答えた。

「でも、目が開いた時、声はとても大きい。聞こうとしたら、飲まれる」

「では、聞かずに返す方法は?」

 ナディアが尋ねた。

 セティの声は、さらに小さくなった。

「呼ぶ。知っている名前を、全部。知らない名前には、名前があったことを呼ぶ」

「名前があったことを呼ぶ……」

 蓮は繰り返した。

「名前のない少年みたいに?」

「うん。名前がわからなくても、あなたには名前があったって呼ぶ。声はそれで少し、自分が声になる前を思い出す」

 黒瀬が目を見開いた。

「つまり、名前リストだけじゃなくて、名前を失った人たち全体に呼びかける?」

「そう」

 セティの声が震える。

「でも、たくさん呼ぶほど、たくさん返ってくる。返ってきた声を一人で聞かないで」

 蓮は頷いた。

「わかった」

「蓮」

「うん」

「目を見ないで。でも、目の奥にいる声を忘れないで」

 それだけ言うと、セティの声は消えた。

 白い石の光も弱まる。

 資料室に沈黙が戻った。

 黒瀬が深く息を吐いた。

「やることはわかりました。わかりましたけど、無茶苦茶ですね」

 ナディアはホワイトボードに新しく書いた。

 名前を呼ぶ。

 名前があったことを呼ぶ。

 一人で聞かない。

 目を直接見ない。

 マーカスは、自分の紙に一文を書き足した。


 Every voice once had a name.


 すべての声には、かつて名前があった。

 蓮はそれを見て、静かに頷いた。


     *


 出発前、蓮たちは名前の紙を作り直した。

 これまでの名前に加え、より広い呼びかけを書く。

 名前を失った人。

 水路に沈んだ人。

 声になってしまった人。

 誰にも呼ばれなくなった人。

 あなたには名前があった。

 黒瀬はそれを見て、珍しく冗談を言わなかった。

「これ、読むだけで重いですね」

「はい」

 蓮は答えた。

 この言葉は、武器ではない。

 呪文でもない。

 むしろ祈りに近い。

 忘れられた声に向かって、「あなたには名前があった」と呼ぶこと。

 それは、簡単なようで、恐ろしく重い行為だった。

 マーカスは、別の紙に曾祖父の名を書いた。


 Edward Reed.


 その下に、こう書く。


 You failed to keep a name. I will not repeat it.


 あなたは名前を守れなかった。私は繰り返さない。

 蓮はその紙を見た。

「エドワードも呼ぶんですか」

 マーカスは頷いた。

「彼もまた、黒い太陽に取り込まれた一人です。責めるためではなく、役割から離すために」

 蓮は少しだけ驚いた。

 マーカスも、変わり始めている。

 声を手に入れたい男から、名前を返そうとする男へ。

 完全ではない。

 危うさは残っている。

 だが、彼の中にも確かに戻ろうとする力があった。

 ナディアは祖母の呼び名を書いた。

 彼女は本名を書くか迷っていたが、最終的にアラビア語で短く何かを書き、それから日本語で説明した。

「祖母を家族の中で呼んでいた名です」

「本名ではなく?」

「本名も書きました。でも、私にとって声が戻るのは、こちらの呼び名だと思います」

 蓮は頷いた。

 名前は戸籍上の文字だけではない。

 誰かに呼ばれた音。

 関係の中で持っていた響き。

 その人をその人として思い出すための言葉。

 それが名前なのだ。


     *


 神殿へ向かう門は、今までで最も静かに開いた。

 六つの石片を嵌めると、黒い太陽の印が沈み、門の奥に列柱室が現れる。だが、そこには水路の光がなかった。

 真っ暗だった。

 黒瀬がライトを向ける。

 光は柱に届いた。だが、いつもの青白い水路の光は完全に消えている。

「水路が止まってます」

 ナディアが言った。

「声が中心へ集まっているのかもしれません」

 マーカスが低く呟く。

「目を開くために」

 蓮は胸元の白い石に触れた。

 温かい。

 セティは近くにいる。

 蓮たちは名前を確認した。

「蓮」

「ナディア」

「玄」

「マーカス・リード」

「セティ」

 そして続ける。

「カーエムセト」

「名前のない少年」

「名前を失った人」

「声になってしまった人」

 その言葉を口にした瞬間、列柱室の奥で水路が一瞬だけ光った。

 道が細く浮かび上がる。

 完全な道ではない。消えかけの線だ。

 だが、進むには十分だった。

 王の間までの道は、以前より短く感じられた。

 いや、神殿が縮んでいるのかもしれない。

 声が中心へ集まることで、通路の意味が薄れ、すべてが黒い太陽へ引き寄せられている。

 王の間の扉は開いていた。

 耳と口の像は、崩れかけていた。

 無数の口のいくつかが割れ、耳の先端が欠けている。

 黒瀬が小さく言った。

「神殿、壊れ始めてます?」

「封印の構造が変わっているのかもしれません」

 ナディアが答えた。

 王の間に入ると、玉座は空だった。

 ネフェル=カーはいない。

 代わりに、玉座の背後の黒い太陽が大きく膨らんでいた。

 以前は壁に浮かぶ黒い円だった。

 今は、空間そのものに開いた巨大な穴に見えた。

 その中央に、閉じた目がある。

 まぶたの線が、くっきりと見える。

 目はまだ閉じている。

 だが、瞼の下で何かが動いていた。

 黒瀬が息を呑む。

「見ない方がいいですよね」

 ナディアが即答する。

「直接見ないでください。視線を少し下に」

 蓮は目を伏せた。

 それでも、視界の端に黒い太陽が入る。

 入るだけで、頭の奥に声が響いた。

 蓮。

 蓮。

 蓮。

 名を呼ばれる。

 だが、それは蓮を戻すための呼び声ではない。

 奪うための呼び声だった。

 蓮は自分で言った。

「蓮。僕は蓮です」

 ナディアも続ける。

「ナディア」

 黒瀬が。

「玄」

 マーカスが。

「マーカス・リード」

 白い石が熱を持つ。

「セティ」

 その名が響いた瞬間、玉座の前にセティの姿が現れた。

 以前よりはっきりしている。

 だが、苦しそうだった。

 彼の背後には、薄い鎖のような光が伸び、黒い太陽へつながっている。

「セティ!」

 蓮が叫ぶ。

 セティは首を振った。

「近づかないで。目が開く」

 その時、王の声がした。

「遅かったな」

 玉座の横に、ネフェル=カーが立っていた。

 いや、ネフェル=カーだけではない。

 彼の姿は揺れていた。王冠をかぶった王の姿と、王冠を持たない少年カーエムセトの姿が重なっている。

 黒い目の奥に、怯えた子どもの目が見えた。

「カーエムセト」

 蓮が呼ぶと、王の身体が揺れた。

「その名で呼ぶな」

「あなたの名前です」

「私は王だ」

「あなたは王だった。でも、それだけではない」

 王は苦しげに顔を歪めた。

 黒い太陽の瞼が震える。

 マーカスが小声で言った。

「目が開きます」

 ナディアが叫ぶ。

「名前を!」

 五人は同時に呼んだ。

「蓮!」

「ナディア!」

「玄!」

「マーカス・リード!」

「セティ!」

 蓮は続けた。

「カーエムセト!」

 マーカスが叫ぶ。

「エドワード・リード!」

 ナディアが叫ぶ。

 祖母の名。家族だけの呼び名。

 黒瀬も、紙を見ながら大声で読んだ。

「名前のない少年! 名前を失った人! 水路に沈んだ人! 声になってしまった人! あなたには名前があった!」

 その言葉が王の間に響いた瞬間、黒い太陽の表面が波打った。

 無数の声が一斉にうめく。

 それは怒りではなかった。

 驚きだった。

 誰かが呼んでいる。

 自分たちを、ただの声ではなく、名前を持っていた存在として呼んでいる。

 黒い太陽の瞼が、少し開いた。

 全員が視線を伏せた。

 だが、光ではなく、闇が漏れた。

 目が開くと、世界が暗くなる。

 蓮はそう思った。

 頭の中に、無数の記憶が流れ込む。

 知らない男の死。

 子を失った母の叫び。

 自分の名前を忘れていく老人。

 壁に返事をしてしまった少年。

 水路に石を沈める祭司。

 王冠をかぶせられるカーエムセト。

 舟に乗せられるセティ。

 黒い太陽を見上げるマーカスの曾祖父。

 声を聞いて涙を流す人々。

 声に飲まれて笑う人々。

 多すぎる。

 あまりにも多い。

 蓮は膝をついた。

 自分の名前が遠ざかる。

 蓮。

 蓮。

 蓮。

 どれが自分の声なのかわからない。

 そのとき、ナディアの声がした。

「蓮!」

 次に黒瀬。

「蓮さん!」

 マーカス。

「蓮!」

 そして、セティ。

「蓮!」

 四つの声が、蓮を引き戻した。

 蓮は荒い息を吐き、自分の胸を押さえた。

「僕は……蓮……」

 まだ戻れる。

 黒い太陽の目は、半分ほど開いていた。

 直接見ていないのに、視線を感じる。

 誰を選ぶか探している。

 マーカスの掌の印が黒く濃くなる。

 ナディアの耳の印も。

 そして蓮の右手に、黒い太陽の印が浮かび上がる。

 三人が同時に候補になっている。

 黒瀬が叫んだ。

「まずい! 三人とも印が!」

 セティが苦しそうに叫ぶ。

「名前を分けて! 一人に集めないで!」

「どうやって!」

 蓮が叫ぶ。

 マーカスが震えながら言った。

「声を……名前へ……呼び続ける……」

 ナディアは立ち上がった。

 耳の印が濃くなっているのに、彼女は踏みとどまっていた。

「読み上げます!」

 彼女は紙を取り出し、井戸で準備した呼びかけを読み始めた。

「名前を失った人。水路に沈んだ人。声になってしまった人。あなたには名前がありました。誰かに呼ばれた名がありました。あなたは声だけではありません」

 黒瀬も続いた。

「名前のない少年! 君にも名前があった! まだ見つからなくても、名前があったことを忘れない!」

 マーカスが震える声で言った。

「エドワード・リード。あなたは黒い太陽ではない。あなたは失敗した。だが、あなたの失敗を声に渡し続ける必要はない」

 蓮は白い石を掲げた。

「セティ! 君は声じゃない。君はセティだ!」

 セティの身体を縛る光の鎖が、一本切れた。

 セティが息を呑む。

 ネフェル=カーが苦しげに叫んだ。

「やめろ! 声がほどける!」

 蓮は王を見た。

 いや、直接目を見るのではなく、王の足元を見た。

「カーエムセト! あなたも声じゃない! 王という役割だけじゃない! あなたにも、怖いと感じた名前があった!」

 王の身体が激しく揺れる。

 王冠がひび割れた。

 黒い太陽の目が、さらに開こうとする。

 その奥から、巨大な声が響いた。

 聞け。

 一言。

 ただそれだけで、全員が膝をついた。

 聞け。

 それは命令ではない。

 重力だった。

 耳を塞いでも、身体の中へ入ってくる。

 声を聞け。

 記憶を聞け。

 悲しみを聞け。

 怒りを聞け。

 名を失った全てを聞け。

 蓮は叫びそうになった。

 聞けない。

 一人では聞けない。

 その時、黒瀬が突然、蓮の肩を掴んだ。

「蓮さん! 聞かなくていい! 返すんでしょう!」

 その言葉が、闇の中に穴を開けた。

 聞くためではない。

 返すために来た。

 蓮は白い石を握りしめた。

「聞くためじゃない!」

 蓮は叫んだ。

「返すために来た!」

 ナディアが続く。

「声は、聞き手を探さなくていい! 名前へ戻って!」

 マーカスも叫ぶ。

「私を器にするな! 私は声を所有しない!」

 黒瀬が紙を読み上げる。

「声になってしまった人! あなたには名前があった! 誰かに呼ばれた! 誰かが忘れても、名前があった!」

 その瞬間、黒い太陽の目から無数の細い光が抜けた。

 光は水路へ流れ、壁へ走り、王の間の床に散った。

 それぞれが名前を探すように揺れながら、消えていく。

 声が少しずつほどけている。

 黒い太陽の目が、開いたまま震える。

 だが、焦点が定まらない。

 一人を選べない。

 名前が結ばれ、声が散り、聞き手を定められなくなっている。

 セティを縛る鎖が、さらに数本切れた。

 セティが蓮へ手を伸ばす。

「蓮!」

 蓮も手を伸ばした。

 しかし、届く直前、ネフェル=カーが叫んだ。

「まだだ!」

 王の影がセティと黒い太陽の間に立ちはだかった。

 王冠は割れ、顔は半分カーエムセトの少年になっていた。だが、まだ王の形を保っている。

「声が完全に散れば、都市も消える! 私の民も、私の名も、何も残らぬ!」

「残ります!」

 ナディアが叫んだ。

「記録として、名前として、記憶として残します! 閉じ込めなくても、残せます!」

 王は彼女を見た。

「地上の者は忘れる」

「忘れない努力をします」

「努力は永遠ではない」

「封印も永遠ではありませんでした」

 その言葉に、王は黙った。

 黒い太陽の目が、さらに不安定に揺れる。

 蓮は王へ向かって言った。

「カーエムセト。あなたの怖さも、あなたの失敗も、あなたが救おうとしたことも、全部なかったことにはしません。でも、もうセティ一人に聞かせ続けるのは終わりです」

 王は震えていた。

 その奥の少年が泣いている。

「私は……王でなければ……」

「カーエムセトです」

 蓮が言う。

 ナディアも。

「カーエムセト」

 黒瀬も。

「カーエムセト」

 マーカスも。

「カーエムセト」

 セティも、小さな声で呼んだ。

「カーエムセト」

 王冠が砕けた。

 完全ではない。

 まだ黒い影は残っている。

 だが、王冠の一部が床に落ち、青白い光となって水路へ流れた。

 黒い太陽の目が、ゆっくりと閉じ始めた。

 完全にではない。

 半分開いたまま、眠りと覚醒の境目で揺れている。

 セティの鎖は、まだ一本だけ残っていた。

 蓮は駆け寄ろうとした。

 だが、ナディアが叫ぶ。

「戻ります! これ以上は崩れます!」

 王の間の柱に亀裂が入っていた。

 水路の光が逆流している。

 黒瀬が叫ぶ。

「床、割れてます!」

 マーカスがセティを見た。

「まだ、彼は……」

 セティは首を振った。

「今は戻って。最後の鎖は、名の井戸の底にある」

「井戸の底?」

 蓮が聞く。

「名前のない少年の名と一緒に」

 蓮は息を呑んだ。

 最後の鎖。

 セティの完全な解放には、名前のない少年の名も関わっている。

 セティは言った。

「次で、終わらせて」

 約束とは言わない。

 だが、その声は祈りだった。

 蓮は頷いた。

「忘れない」

 セティは小さく笑った。

「うん」


     *


 戻る道は、崩れかけていた。

 列柱室の壁には、無数の名前が浮かび上がっていた。これまで見えなかった名前。読めるものも、読めないものもある。黒く染まっていた部分が剥がれ、下から白い線が見えている。

 声が名前へ戻り始めている。

 だが、同時に神殿は不安定になっていた。

 黒瀬は走りながら叫んだ。

「これ、いいことなんですか? 悪いことなんですか?」

 ナディアが答える。

「両方です!」

「でしょうね!」

 マーカスは何度も転びそうになった。蓮が支え、黒瀬が反対側から腕を掴む。

 マーカスの掌の耳の印は、かなり薄くなっていた。

 ナディアの耳の印も同じ。

 蓮の右手の黒い太陽の印は消えている。

 黒い太陽は、聞き手を選べなかった。

 少なくとも、今回は。

 門を抜け、保管室へ戻った瞬間、全員が床に倒れ込んだ。

 呼吸が荒い。

 誰もすぐには話せなかった。

 やがて黒瀬が天井を見上げながら言った。

「生きてます。たぶん」

 ナディアが自分の名前の紙を確認し、低く読んだ。

「ナディア・ハッサン。私はナディア」

 マーカスも震える手で紙を取り出した。

「I am Marcus Reed. I am not the voice.」

 蓮は白い石を見た。

 セティの名前は、はっきりしている。

 カーエムセトの名も、前より濃い。

 そして、石の端に、黒い染みのようなものが現れていた。

 名前のない少年の場所。

 そこに、かすかな線が浮かび始めている。

 まだ読めない。

 だが、完全な黒ではない。

 蓮は小さく言った。

「次は、名前のない少年の名を探す」

 マーカスが頷いた。

「はい」

 ナディアは門を見た。

 そこに、新しい文字が浮かび上がる。

 蓮は読んだ。

 黒い太陽は半眼となった。

 小さき耳は最後の鎖を残す。

 王は名を思い出した。

 名なき少年は、井戸の底で待つ。

 そして最後に、もう一行。

 名前のない夜明け。

 黒瀬が力なく笑った。

「ついに最終章っぽいですね」

 誰も否定しなかった。

 蓮は門の文字を見つめた。

 黒い太陽は完全には閉じていない。

 セティはまだ最後の鎖につながれている。

 ネフェル=カー、いやカーエムセトはまだ揺れている。

 名前のない少年の名は、井戸の底に沈んでいる。

 でも、道は見えた。

 声を聞く者を選ばせない。

 声を名前へ返す。

 王を王から解く。

 セティを一人の少年へ戻す。

 蓮は自分の名前を呼んだ。

「蓮」

 ナディアが続く。

「ナディア」

 黒瀬が。

「玄」

 マーカスが。

「マーカス・リード」

 そして蓮は、白い石へ向かって言った。

「セティ。カーエムセト。名前のない少年」

 夜明けはまだ遠い。

 だが、黒い太陽の闇の中に、初めて細い光が差し始めていた。

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