幕間:ユーザー権限と、揺れるマニュアル
「自由」を手に入れるということは、同時にその「仕様書」を自分で書き上げる責任を負うということだ。
世界の「所有権」が管理者の手から解き放たれ、住人たちに分配されたあの日から、王都ルミナスの景色は、一秒たりとも同じ表情を見せることがなくなった。
空の色、風の匂い、街を流れる魔力の輝き。それらはすべて、この街に住む人々の「こうありたい」という願いがリアルタイムで反映された、世界で一つだけのライブ・データだった。
「……うう、……やっぱり難しいよ、これ……」
王都の大聖堂。その静かな図書室で、私は頭を抱えていた。
目の前には、サトウさんが昨晩「はい、これ。君のぶんだ」と無造作に渡してきた、一冊の分厚い本。
表紙には、彼の独特な筆致で『一般ユーザー用・世界統治権限操作マニュアル:Ver.1.01』と記されていた。
「……どうした、エリナ。……また『構文エラー』でも出たか?」
向かいの席で、片手に苦いコーヒーを持ち、もう片方の手でデバイスを操作しているサトウさんが、眼鏡を押し上げながら私を見た。
以前のような、すべてを諦めたような「くたびれたおじさん」の顔ではない。でも、どこか眠そうで、面倒くさそうな、それでいて不思議と安心させてくれるあの表情。
「……サトウさん! これ、全然『一般ユーザー用』じゃないですよ!……『意識の指向性による重力定数の微調整』とか、『情緒に連動する色彩レイヤーの優先順位設定』とか、……読むだけで頭がオーバーフローしそうです!」
「……そうか?……かなり直感的なUIに書き直したつもりなんだがな。……いいか、エリナ。……今、君の手にあるのは単なる力じゃない。……君自身が、この世界をどう見たいかを決める『権利』なんだ」
サトウさんは、椅子を回して私の方を向いた。
「……以前の君は、システムが決めた『勇者』という役割に従うだけの、読み取り専用の存在だった。……でも今は違う。……君が『美しい』と感じ、君が『守りたい』と願うことが、そのままこの世界の新しい法則になるんだ。……マニュアルはそのための、単なるヒントだよ」
彼はそう言って、私の目の前で指をパチンと鳴らした。
――瞬間。
図書室の窓から差し込む夕陽の色が、一気に鮮やかさを増した。
それは、以前の私なら「夕暮れだから赤くなる」と当たり前に受け入れていた現象。
でも今は違う。サトウさんの指先が空間の彩度をハックし、私たちの視界を、この世の果てにある宝石箱をひっくり返したような、濃密で、透明感のある橙色と紫色へと塗り替えたのだ。
その光に照らされたサトウさんの横顔を見て、私の心臓が、システムのエラーを告げるアラートのように激しく鳴った。
(……ずるい。……この人は、いつもこうだ……)
理屈っぽくて、不器用で。
「効率が悪い」なんて言いながら、私のためにこんなに分厚いマニュアルを作って。
私が迷わないように、私がまた自分を「欠陥品」だなんて思わないように、世界のすべてに「君の味方だよ」というパッチを当てて回って。
以前、彼が私の存在を「キャッシュの固定」で救ってくれたあの時。
私のなかで、何かが決定的に書き換えられたのを自覚している。
それは、システムが用意した「勇者から恩人への感謝」なんていう安っぽいフラグじゃない。
「……サトウさん。……質問していいですか?」
「……何だ。……権限の譲渡についてか?」
「……違います。……このマニュアルの、……一番最後のページ。……『未定義の感情(Undefined Emotion)に関する例外処理』って項目……。……これ、どういう意味ですか?」
サトウさんが、一瞬だけ気まずそうに目を逸らした。
「……ああ、……それは。……ロジックじゃ説明できない事象が起きた時のための『予備のディレクトリ』だ。……人間が生きていれば、……計算通りにいかないバグみたいな気持ちが生まれることもあるだろ。……それを、……無理に消去せずに、……大切に保存しておくための場所だよ」
「……そのバグが、……誰かを『好き』っていう気持ちだったとしたら、……どうすればいいんですか?」
私の声が、図書室の静寂のなかに、予想以上に大きく響いた。
窓の外の夕陽が、さらに深く、熱い色へと変化していく。
それは私の心の「同期」が、無意識のうちに世界の色彩を上書きしてしまった証拠だった。
サトウさんは、コーヒーカップを机に置き、深く溜息をついた。
「……エリナ。……それは、……俺のデバイスじゃデバッグできない範疇だ。……君自身の『ユーザー権限』で、……自分なりの名前を付けて、……大事に育てていくしかない」
「……冷たいなあ。……たまには『最適化』してくれたっていいのに」
私は、わざとらしく口を尖らせてみせた。
でも、胸の奥は、不思議と温かかった。
彼は「自分で決めろ」と言う。
それは、突き放しているんじゃなくて、私という人間を、一人の独立した「管理者」として、心から尊重してくれているからだ。
「……じゃあ、……この気持ちは、……当分の間『最優先プロセス』として、……私のなかで走らせておくことにします。……勝手にシャットダウンしないでくださいね」
「……フン。……メモリがパンクしない程度にな」
サトウさんはそう言って、再びデバイスの画面に視線を戻した。
でも、その耳の端が少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
夜。
私は一人、大聖堂のバルコニーに立っていた。
サトウさんからもらったマニュアルを胸に抱き、私はそっと空を見上げる。
かつては「管理者の瞳」が睨んでいた空には今、数万人の願いが形となった、色とりどりの星たちが瞬いている。
私は、集中した。
自分に与えられた、この世界を少しだけ変える「特権」。
(……サトウさんの部屋の窓から見える星だけ、……ほんの少しだけ、……他の星より明るく、……優しい青色に。……疲れ果てたあのおじさんが、……ぐっすり眠れるような、……そんなパッチを……)
私の指先から、目に見えない虹色の信号が放たれる。
上空。
指定した座標の星たちが、私の想いに応えるように、以前よりもずっと鮮やかで、透明感のある輝きを放ち始めた。
「ユーザー権限」の使い方は、まだ完璧じゃない。
でも、……この不器用で、まっすぐな「書き込み(想い)」こそが、この新しい世界の真実なんだ。
私は、バルコニーから見えるサトウさんの部屋の灯りを見つめながら、小さく微笑んだ。
「……おやすみなさい、サトウさん。……明日も、……私の世界を、……一番近くで見ていてくださいね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
幕間の第2話は、ヒロイン・エリナの「成長と恋」にスポットを当てたエピソードでした。
世界が住人たち自身の手に委ねられたことで生じた「自由という名の責任」。
佐藤さんから渡された分厚い「ユーザーマニュアル」を通じて、エリナは力だけでなく、自分の心のなかに芽生えた「名前のないバグ(恋心)」を肯定することを学びます。
ITエンジニアらしい「例外処理」や「優先プロセス」といった比喩を使いつつ、少女の繊細な心情と、それを不器用に見守る佐藤さんの関係性を、描写いたしました。
次回、幕間:第3話「祝杯のピザと、海の向こうのパケット」。
王都を挙げたリスタート・パーティー。
仲間たちが集い、勝利を祝う穏やかな時間のなかで、佐藤のデバイスに届く「未知の大陸」からの信号。
第5章の幕開けを告げる、ドラマチックな完結編をお届けします!
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