第2話:剥がれゆく色彩(テクスチャ)
世界が「剥がれて」いた。
フェンリルの背に揺られながら王都へとひた走る俺の視界で、以前、命を削る思いで構築した極彩色の風景が、音もなく崩壊していた。
それは物理的な破壊ではない。建物の壁、木々の葉、道行く人々の衣服――それらを彩っていた「高彩度なデータ」が、まるで見えない巨大なスクイジーで拭い去られるように、端から無機質な灰色へと上書きされていく。
「……ひどい。……サトウさん、見て。あんなに綺麗だった花畑が……」
エリナが震える指で差した先には、以前、デザイン・ロジックを応用して「発光する赤」を定義したポピーの群生があった。だが今、その赤は急速に彩度を失い、まるで古いモノクロ映画のセットのように、ただの「形をした塊」に成り下がっていた。
「……『テクスチャの剥離』だ。……相棒、現在のロールバックの進行速度を算出しろ。……王都のコア・システムまで、あとどれくらい持つ?」
俺の左腕で、デバイス『Link』が絶え間ないエラーログを吐き出しながら、網膜上に冷酷な数値を投影する。
『……ロールバック進行率:18.4%。……現在の線形回帰による予測では、王都中心部の「女神像」の完全初期化まで、残り128分。
……佐藤。……深刻な事態です。……管理者が実行しているのは単なる色情報の削除ではありません。……「存在の重要度」の引き下げです。
……人々から「色」を奪うことで、その存在がシステムにとって「処理不要なデータ(ジャンク)」であると定義づけようとしています』
「……ゴミ箱に捨てる前に、まずはデータの価値をゼロにするってわけか。……やり方が、血の通った人間の仕業じゃないな」
俺は奥歯を噛み締めた。
以前の俺なら、これを「仕方のない仕様変更」だと諦めていたかもしれない。だが、この世界で出会った人々の笑顔や、エリナが自分の力に目覚めた瞬間のあの「輝き」を知ってしまった今の俺には、この灰色こそが、修復不能な「致命的バグ」にしか見えなかった。
「……クゥゥゥゥ……ッ!!」
フェンリルが、苦しげに喉を鳴らす。
彼の純白の毛並みも、今やノイズにまみれた鈍い灰色に侵食されつつあった。
伝説の神獣といえど、この世界の物理層に依存している以上、管理者がOSレベルで実行する「ダウングレード」からは逃れられない。
「……エリナさん、しっかり捕まってろ!……相棒、フェンリルの『ドライバ』を一時的に仮想化して保護しろ。……色彩のパッチをメモリ上にロードし続けて、強引に存在定義を維持するんだ!」
『了解。……仮想化レイヤー、展開。……魔力消費率が急上昇しています。
……佐藤。……このままでは、王都に辿り着く前にあなたの「精神リソース」が枯渇します』
「……構わん。……俺の脳が焼き付くのが先か、あいつらの『初期化』を止めるのが先か、……勝負してやろうじゃないか」
やがて、灰色の霧の向こうに、王都・ルミナスの城壁が見えてきた。
だが、以前見たあの「光り輝くスマートシティ」の面影は、そこにはなかった。
城壁に刻まれた色彩の魔導回路は消灯し、街全体が深い死の静寂に包まれている。
門をくぐり、市街地に入った俺たちは、そこで「最悪の光景」を目にした。
広場に座り込む人々。
彼らは、以前の快活さを失い、虚空を見つめたまま動かない。
その肌からは健康的な赤みが消え、衣服からは俺が施した鮮やかな模様が消え去っていた。
「……マルチェロさん!?……ねえ、返事をして!!」
エリナが、道端でうなだれているマルチェロに駆け寄る。
大聖堂の意匠監理官として、あれほど情熱的に女神像の修復を手伝ってくれたあの男が、今は自分の名前さえ思い出せないかのように、エリナを見ても「ああ……」と力なく漏らすだけだった。
「……記憶まで消去され始めてるのか。……彩度を落として『認識のコントラスト』を下げることで、個人としての記録をシステムから切り離しているんだ」
俺はデバイスを操作し、マルチェロのバイタルをスキャンした。
『……診断:アイデンティティ・ロス。……意識の階層が「ゲスト権限」以下にまで低下しています。……このままロールバックが完了すれば、彼は名前も意志も持たない、ただの「背景のNPC」へと固定されます』
「……ふざけるな。……ふざけるなよッ!!」
俺は叫び、デバイスを空高く掲げた。
「……相棒!……プロジェクト『キャッシュ・リカバリ』を起動しろ!!……全市民の「色彩記憶」を、俺のデバイスの外部ストレージに強制バックアップするんだ!!」
『……無謀です、佐藤。……数万人の記憶データを保持できる容量は本機にはありません』
「……容量がないなら、インデックス(索引)だけでいい!……「彼らがかつてこの色を愛した」というフラグさえ残っていれば、後でリストア(復元)できる!……今すぐやれ!!」
俺の咆哮に呼応し、デバイスから青白い光の波が広場に放たれた。
――その時だった。
空から、無機質な、しかし絶対的な圧力を伴った「声」が降り注いだ。
『……有害なプロセス(サトウ)による、不当な「データの囲い込み」を確認。……クリーンアップ・プログラムを、これより物理的に実行します』
上空。
剥がれ落ちた空のテクスチャの裂け目から、三つの影が降りてきた。
それは、人間の形をしていたが、人間ではなかった。
全身が鏡のように磨き上げられた白銀の皮膚で覆われ、顔には目も鼻も口もなく、ただ「色彩のない虹色の幾何学模様」が、不気味に明滅している。
背中からは、光ファイバーを束ねたような無数の「触手」が翼のように広がり、周囲の空間から余計な「色」を吸い取り続けている。
「……あれが、……管理者のエージェントか」
俺は、無意識にエリナの前に立った。
「……エリナさん、後ろへ。……あいつらは、これまでの魔物とは違う。……存在そのものを『無』に書き換える、システム上の消しゴムだ」
エージェントの一体が、ゆっくりと右手を掲げた。
その指先が、空間に「削除コマンド」を描き出す。
『……処理対象:勇者エリナ。……ステータス:不正な改造を検知。……これより「初期装備」への強制置換、およびスキルの「未習得状態」へのロールバックを実行します』
「……え……?……あ、……身体が、……動か、ない……」
エリナの身体が、一瞬で灰色のノイズに包まれた。
彼女の鮮やかなマゼンタの装備が、まるで霧のように溶け、以前のあの、地味で重苦しい銀色の鎧へと、強制的に「書き戻されて」いく。
「――させないって言ってるだろ、……この野郎ッ!!」
俺は、デバイスの「管理者用バックドア」を無理やりこじ開け、自分自身の精神を、エリナのシステム・ログに割り込ませた。
「……相棒!……「静的キャッシュ・ロック」を適用!……彼女の現在のステータスを、俺の意志で『定数』として固定しろ!!……上書きを拒絶するんだ!!」
『了解。……書き込みロックを実行!……管理者との競合が発生中!……佐藤、脳への逆流に耐えてください!!』
「――がああああああああッ!!」
俺の頭蓋のなかで、数億個の火花が散ったような衝撃。
鼻から鮮血が垂れるが、俺はデバイスを離さない。
エリナの鎧の「初期化」が、途中で止まった。
右半分は灰色の旧装備、左半分は鮮やかな色彩を放つ新装備。
その異様な、しかし執念の混ざり合った姿で、エリナが再び瞳に光を取り戻す。
「……サトウ……さん……?」
「……笑えよ、エリナ。……まだ、俺の設計した『仕様』は死んじゃいない。……相棒、フェンリル!……あのアホな管理官どもに、……現場のエンジニアの意地を見せてやれ!!」
灰色の絶望に染まった王都で。
くたびれたおじさんと、半分だけ色を取り戻した勇者が。
世界の「所有権」を巡る、最も不毛で、最も熱いデバッグ戦を、今、開始した。
次回、第3話「排除プログラム・天使の襲来」。
強行突破を試みる三体のエージェントに対し、佐藤はフェンリルの「ハードウェア的な特性」を活かした、前代未聞の迎撃作戦を立案します。
物理攻撃が効かない相手を、おじさんはどう「デリート」するのか。
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佐藤さんの「逆流する鼻血」を止めるのは、皆さんの温かい声援です(笑)。
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