幕間:監査役の強制終了(エマージェンシー・シャットダウン) ~少女の視線と、届かない距離~
恋ゴゴロとは…?
サトウさんは、どこまでも自由で、そしてどこまでも不自由な人だ。
彼がいなくなった後の王都の宿の一室は、まるで嵐が通り過ぎた後のように静まり返っていた。
デスクの上に積み上げられた山のような依頼書。まだ湯気が立っている飲みかけのコーヒー。そして、無残に開け放たれた窓の向こうには、彼を連れ去った白い巨影が残した「魔力の爪痕」だけが空に溶けていくのが見えた。
「……また。また一人で、勝手に行っちゃうんだから」
私は、以前彼が私のために作ってくれた、マゼンタとシアンの光が流れる籠手を強く握りしめた。
この装備を身に着けてから、私の世界は一変した。
以前の私は、由緒正しいだけの重い鎧に縛られ、自分の才能に怯え、人々の期待に押し潰されそうな「欠陥品の勇者」だった。
そんな私を見つけ出し、冷徹な理屈と、あのお節介な「監査」で救い出してくれたのが、あのおじさんだった。
「エリナ、ぼーっとするな。サトウ殿の気配を追うぞ。……あの伝説の神獣、フェンリルをタクシー代わりにするなど、常軌を逸しているがな」
隣でゾルダンさんが呆れたように髭をなでる。
以前、彼が辺境の迷宮でフェンリルを従えたという噂は聞いていたけれど、まさか王都のど真ん中に呼び出すなんて。
「……分かってます。追いますよ、絶対」
私は、自分の内側に流れる魔力を加速させた。
サトウさんの『色彩理論』で最適化された私の体は、以前とは比べ物にならないほど鋭敏に世界を感じ取ることができる。
空を駆ける白い獣の残した「高彩度な魔力パルス」。その鮮やかな青いラインが、私にははっきりと視えていた。
王都を飛び出し、平原を駆け抜け、森を抜ける。
追いかけながら、私の胸の中には、言葉にできない感情が渦巻いていた。
初めて会った時、サトウさんは私のことを「パーツ」や「インターフェース」なんて変な呼び方をした。
不器用で、いつも眠そうで、口を開けば「定時退社」だの「非効率」だの、おじさん臭いことばかり。
でも、あの日、女神像の肩の上で私の手を引いてくれた時のあの手の温かさを、私は一生忘れないと思う。
彼は、この世界の誰もが見落としていた私の『価値』を、誰よりも信じてくれた。
……けれど。
「……なんで、フェンリルなの?」
ふと、独り言が漏れた。
困った時、助けてほしい時。彼は私を頼ってくれない。
私だって、以前よりもずっと強くなった。彼を守る盾になれるし、彼をどこへだって連れていける。
それなのに、彼は私には何も言わず、あんなモフモフした大きな狼を呼び出して、逃げるように消えてしまった。
信頼されていないわけじゃない。それは分かってる。
でも、あの神獣に向けるような、あんな「気を許した顔」を、私にも見せてほしい。
……狼相手に嫉妬するなんて、勇者失格だ。でも、胸の奥がチリチリと痛むのは、きっとサトウさんが教えた『回路のノイズ』のせいじゃない。
魔力の痕跡を追って辿り着いたのは、夕暮れに染まる静かな湖のほとりだった。
そこには、私の想像を絶する「脱力」した光景が広がっていた。
伝説の神獣フェンリルが、まるで巨大な飼い犬のように地面に寝そべり、そのふかふかしたお腹を贅沢なベッドにして、サトウさんが盛大なイビキをかいて寝ていたのだ。
「……ああ……。……見つけた……」
私は、駆け寄ろうとした足を止め、そっと息を呑んだ。
そこには、王都で見せていた「冷徹なエンジニア」の顔はどこにもなかった。
無防備で、少し情けなくて、でも、どこか寂しそうな寝顔。
以前、彼がふとした瞬間に遠くの空を見上げていたのを思い出す。
あのおじさんは、この鮮やかになった世界の中にいながら、いつもどこか「ここではない場所」を探しているような気がするのだ。
私が、一歩足を踏み出す。
フェンリルが片目を開け、私を視認した。
伝説の神獣は、唸り声を上げることもなく、ただ「こいつは俺の獲物だ」と言わんばかりに、サトウさんの上にしっぽをどさりと置いた。
「……ちょっと、どきなさいよ、そのしっぽ」
私は小声で抗議しながら、サトウさんの顔を覗き込んだ。
この人は、私たちの世界を救ってくれた。
でも、この人自身を救ってくれるものは、この世界にどれだけあるんだろう。
私は、眠っている彼の額に、そっと手を伸ばしかけて、止めた。
代わりに、彼の傍らに落ちていたデバイスを拾い上げ、画面に表示された文字を目にする。
『未読通知:999+』
『有給休暇:強制行使中』
「……ふふ。……本当に、おじさんなんだから」
私は、彼の隣に腰を下ろした。
フェンリルの毛並みは、確かに悔しいくらいに暖かくて、柔らかい。
夕日に照らされた湖面が、キラキラと輝いている。
以前、サトウさんが教えてくれた「色彩の黄金比」通りの、完璧な風景。
私は、そっと呟いた。
「……サトウさん。……少しだけなら、休ませてあげます。……でも、起きたらちゃんと、私のことも『デバッグ』してくださいね」
不意に、私の装備がチリッと小さく鳴った。
……?
一瞬の違和感。
サトウさんが構築した、完璧なはずの魔力回路。
その末端が、今、何かに「触れられた」ような、冷たい感覚。
私は周囲を警戒したが、そこには静かな夕暮れが広がっているだけだった。
けれど、眠っているサトウさんの腕にあるデバイスが、音もなく一瞬だけ『赤く』点滅したのを、私は見逃さなかった。
それは、これから始まる新しい、そしてもっと深い「不具合」の、最初のアラートだったのかもしれない。




