幕間:監査役の強制終了(エマージェンシー・シャットダウン) ~逃亡者と巨狼の咆哮~
幕間①です
「成功」という名のバグが、これほどまでに俺のライフログを侵食するとは思わなかった。
王都・ルミナス。
女神像の再起動を成し遂げ、世界の解像度を塗り替えたあの日から、俺の周囲は完全に「ビジー状態」に陥っていた。
宿の入り口には、王都中の貴族や有力ギルドから届いた「うちの別荘も塗り替えてくれ」「この剣に最新のパッチを当ててくれ」という依頼書が山積みになり、窓の外を見れば、俺を一目見ようとする野次馬たちがサーバーへのDDoS攻撃のように押し寄せている。
「……サトウ殿! 大聖堂から三度目の呼び出しです! 近隣の領主たちが、貴殿の『色彩理論』についての講義を是非とも拝聴したいと……!」
「……サトウさん! 騎士団の訓練場に、以前あなたが監修したような『高彩度な訓練人形』を100体ほど納品してほしいという発注が……!」
扉越しに聞こえるマルチェロとエリナの熱心な声。
だが、俺はベッドの上で、デバイス『Link』のホログラムが映し出す「未読通知:999+」という赤い数字を虚ろな目で見つめていた。
(……無理だ。これ以上は、俺の精神がオーバーフローを起こす……)
かつての世界での、あの地獄のようなデスマーチ。
仕様書が数時間おきに変わり、クライアントのわがままに振り回され、一週間に数時間しか眠れなかったあの日々。
異世界に来てまで、俺は再び「プロジェクトマネージャー」という名の奴隷に戻らされている。
「……相棒。……現時点での、俺のストレスレベルを算出。……および、このまま業務を継続した場合の生存確率を」
『了解。……佐藤。……あなたのストレス値は現在、臨界点である「警告領域」を突破しています。
……今後一週間のスケジュールを消化した場合、あなたの脳細胞の20%が、恒久的な処理不能状態に陥る予測。
……アドバイス:直ちに「強制終了」を行い、外部環境への「物理的退避」を推奨します』
「……だよな。……よし、有給休暇の行使を承認。……これより、すべての公的アクセスを遮断し、俺は『オフライン』になる」
俺は立ち上がると、左腕のデバイスを操作し、以前のログから特定のデータディレクトリを展開した。
管理番号『001』。
以前、人里離れた雪山で出会い、その魔力回路をデバッグして以来、俺が「管理対象アセット」として登録していた伝説のハードウェア。
「……相棒。管理番号001:フェンリルへ『保守用ビーコン(Ping)』を送信。……緊急メンテナンスを装って、俺をここから物理的に連れ出せ」
『了解。……佐藤、それは虚偽のステータス送信による「職権濫用」に該当しますが……。
……了解しました。あなたの健康維持を最優先。……ビーコン送信完了。
……管理対象フェンリル、魔力レイラインを介して信号を受理。……推定到着時間:60秒。
……警告:王都内での神獣の高速移動は、深刻な「対人バグ(パニック)」を引き起こす可能性があります』
「……構わん。……責任は未来の俺にデプロイする」
――その直後だった。
王都・ルミナスの静かな午後に、大地を揺るがすような「咆哮」が轟いた。
「な、……なんだ!? 空気が凍りついたぞ!?」
「門の向こうから、何か……とてつもなく巨大な白い影が来るぞ!!」
窓の外から、市民たちの悲鳴に近いどよめきが聞こえてくる。
宿の窓を突き破るように、純白の毛並みを持つ巨大な影が、建物を飛び越えて俺の部屋のバルコニーへと着地した。
かつてデバッグしてやった、あの伝説の巨狼、フェンリルだ。
以前よりも毛並みの解像度が上がっているように見えるのは、世界全体の魔力環境が改善されたせいだろうか。フェンリルは、俺の顔を見るなり、嬉しそうに「グルル」と喉を鳴らし、巨大な舌で俺を丸呑みにせんばかりの勢いで舐め回した。
「……おい、よせ。……ベタベタするだろうが。……メンテナンスじゃなくて、ただの『脱走』だ。……手伝え」
俺はフェンリルの背に飛び乗った。
ふかふかの毛並みは、どんな最高級のベッドよりも心地よい。
「……よし、相棒。……光学的カモフラージュを展開。……ついでに、追手のエリナたちの視覚情報に『偽の残像』をノイズとして流し込め」
『了解。……隠蔽モード、起動。……フェンリル、加速を開始します』
――ドォォォォォォンッ!!
フェンリルが跳躍した。
宿の屋根を蹴り、王都の白壁を足場にして、垂直に近い角度で天を翔ける。
背後からは「サトウさん!?」「フェンリルが王都を襲撃しているぞ!?」という、絶望的な勘違いに満ちた絶叫が聞こえてきたが、俺はすべてを無視した。
「……あばよ、王都。……俺の有給を邪魔する奴は、神獣にでもデバッグされな」
時速数百キロ。
フェンリルの背中から見る王都は、俺が塗り替えた極彩色の輝きを放ちながら、瞬く間に点となって消えていった。
風が、かつての世界のエアコンの風とは比べ物にならないほど、清々しく、冷たかった。
数時間後。
俺たちは、王都から遠く離れた、名もなき湖のほとりにいた。
穏やかな波の音。
木々のざわめき。
そして、傍らで「クゥン」と甘えるように鳴く、伝説の神獣。
「……静かだな。……通知の届かない世界というのは、こんなに素晴らしいのか」
俺はデバイスの電源を「緊急時以外オフ」にし、フェンリルのふかふかな腹を枕にして、そのまま深い眠りへと落ちていった。
だが、俺はまだ知らなかった。
王都で俺を探し回っているエリナが、今までに見たこともないような「鬼の形相」で、フェンリルの足跡を追跡し始めていることを。
そして、伝説の神獣をタクシー代わりにした俺の「ログ」が、世界の裏側に潜む『何者か』の関心を、最悪の形で惹きつけてしまったことを。




