19話 初任務
(どうして、どうしてどうしてどうして……! 光ちゃんは、どうして、まだ私に憧れてるの!? あの戦いで、私は確かにあなたの憧れを壊した! それなのに、どうして……!? どうしてなのっ!!)
雫さんの悲痛な叫びが、残響のように何度も頭の中で。
何が彼女をあそこまで追い詰めているのか、私には分からなかった。分かるはずもなかった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
雫さんは、“憧れ”という感情を酷く憎んでいる。
会議室へ入る前に見せた、あの憎悪に染まった黒い瞳が、それを何より雄弁に物語っていた。
自分へ向けられる憧れを、あそこまで憎悪できるほどの出来事が、きっと彼女にはあったのだろう。
それにあのパートナー選抜、雫さんは何かと”憧れ”について語っていた。
――本当にあの戦いはパートナーを選定するための戦いだったのだろうか?
ぷにっ。
「ひゃっ!?」
「んふふ。神崎さんのほっぺたぷにぷにして気持ちいい」
臼井先輩は私の頬を人差し指でつつき、その感触を楽しむように笑っていた。考え事に没頭していた私は、大げさなくらい驚いてしまう。
けれど、私が反応しても、臼井先輩の“つつき攻撃”は止まる気配がなかった。
「う、臼井先輩、やめ、やめてください」
「ん。どうして? 神崎さんも私の頬をつついた。お返しをしてるだけ」
「それにしたって、突きすぎだと思います」
「ん。やられたら倍で返せってドラマで学んだ。だから、私はその教えに則って神崎さんに仕返しをしている」
“倍返し”というわりには、明らかに倍以上つつかれている気がするが、そこは触れないでおくことにした。
そんな私を見ながら、臼井先輩はふっと真面目な表情になる。
「それに、今から任務。考え事をするならそれは任務が無事達成した時の方がいい。もしかしたら、今日が命日ってこともありうる。今は、今だけは、考え事に没頭するんじゃなくて、少しでも楽しむことをした方がいい。これ、先輩としてのアドバイス」
ひょっとしたら臼井先輩が私の頬を何度も突いたのは、先程の出来事の内容から意識を逸らすための、配慮だったのではないかと私は思った。
もちろん、本当に仕返し半分だった可能性もあるけれど。
――でも、臼井先輩の言う通りだ。
任務に絶対はない。
今日が命日になる可能性だって、ゼロじゃない。
そうなれば、今ここで抱えている悩みも、全部徒労に終わってしまう。
だったらせめて今くらいは、少しでも楽しいことに心を使った方がいい。
「そうそう、はーちゃんの言う通り。はい、お茶でも飲んでリラックスでもしなさいな」
反町先輩は三人分のお茶を乗せたお盆から、それらをそれぞれの前へと置いていく。
湯気に含まれるお茶の香りが、鼻腔をくすぐり、考え事で凝り固まった頭の中をゆっくりとほぐしていくようだった。
「す、すいません! 本来ならその仕事は後輩である私の役目なのに、先輩にやらせてしまって」
考え事に没頭していた為に、後輩である私がやるべき仕事を反町先輩にやらせて、申し訳なさが立つ。
ルールとして決まっているわけではない。
それでも、こういう雑務は後輩が担うべきだろう。
「いいのいいの。気にしないで。ほら、冷めないうちに飲んで?」
「は、はい」
反町先輩はにこやかに笑って、軽く首を振った。その言葉に甘える形で、私は差し出されたお茶をそっと口に運ぶ。
「……おいしい」
渋みや苦みが角立っておらず、代わりにほんのりとした甘みが舌に残る。温度も熱すぎず、ちょうどいい塩梅で、自然と息が抜けるような味だった。
「お口に合って何よりだよ~」
「ん。むかつくけど、渚の入れてくれるお茶はおいしい……むかつくけど」
臼井先輩はそう言いながらも、湯呑みを大事そうに抱えている。その言葉の端々には、長年の付き合いが生んだ遠慮のなさが滲んでいた。
「はーちゃん。そんなにむかつく言わないでよ。次からははーちゃんの分入れるのやめようかな~?」
「ん!? それはだめ。謝る、ごめん」
即座に頭を下げる臼井先輩。
その反応の早さが、このお茶がどれほど美味しいものかを何より雄弁に物語っていた。その気持ちは完全に同意するところだ。
「ねね、神崎さん」
「は、はい」
反町先輩は私の名前を呼ぶと、首を私の方へと倒し、頭を目の前に差し出してきた。
「もう一回、なでなでしてほしいなあ?」
甘えた声で反町先輩は私になでなでをおねだりする。
親睦会の時とは違って、今は周囲には他にも人がいる。
初任務を控えた一年生たちは、それぞれ担当の先輩たちに緊張や不安を和らげてもらっているのをちらほら見かける。
そんな中で先輩の頭を撫でるのは、正直かなり恥ずかしい。
しかし、本来なら後輩がやるべき仕事を先輩に任せてしまった負い目があり、せめてその償いはしたいと思っていた私は、そのお願いを受け入れる。
「わかり、ました」
私は意を決して反町先輩の頭をそっと撫でる。「んふ~!」と反町先輩は嬉しそうに顔を綻ばせ、心底気持ちよさそうになでなでを堪能する。
「本当に神崎さんのなでなでは気持ちいい~あれでしょ? 神崎さん絶対に動物に好かれるタイプだ」
「ああ……まあ、確かに人よりは動物になつかれていると思います」
昔、家族と動物園へ行った時のことを思い出す。
動物たちとふれあえる広場に入った途端、なぜか動物たちが一斉に私の周りへと集まり、気づけば、私の周囲だけが異様な密集状態になっていた。
その密集状態の中、私は近くにいた動物――羊を撫でた。
すると羊は余程気持ちが良かったのか、大人しく身を委ねながら、甘えるような鳴き声を漏らし始めた。
羊の気持ちよさそうにする姿に他の動物たちも刺激を受けたのか「自分も」と言わんばかりに一斉に鳴き声を上げ、私の方へと押し寄せてきた。
私は求められるまま、次々とその背や頭に手を伸ばしなでなでを続けていった。
やがてそろそろ立ち去ろうとしたその時だった。
もっと撫でてほしいと言わんばかりに、多種多様な動物たちが一斉に私のズボンを引っ張り始めたのだ。
まるで見えない合図でもあったかのように、妙な結束力で私の退場を躍起になって阻んできた。
見かねた飼育員さんたちが引き剥がそうとするものの、動物たちは指示を聞かない。
中には抵抗する個体まで現れ、現場はちょっとした騒ぎに。
にっちもさっちもいかなくなり、最終的にとった手段は動物たちが私の興味を失くすまでひたすら待つことだった。
その間、私は目の前の誘惑と必死に戦っていた。
撫でたい、もっと撫でてあげたいという衝動を、これ以上ないほどに抑え込んでいた。
撫でてしまえば、動物たちがまた私に興味を抱き、振り出しに戻る。
私にとって、別の意味で拷問に等しい地獄で、それでも耐えに耐えた結果、私はついに動物たちから解放され、事態は収束した。
――それ以来、私は動物園には一度も行っていない。
本当は凄く行きたい。
けれど、また同じことが起これば、周囲に迷惑をかけてしまうだけだと分かっているから、自重していた。
「ん。神崎さん、もうバカ渚にこれ以上、撫でるの禁止」
ずっと反町先輩が入れてくたお茶を私の隣で啜っていた臼井先輩は痺れを切らしたのか私の手首をがしっと掴む。
そのまま半ば強引に、反町先輩の頭を撫でる手を引き離してしまう。
「あっ、ちょっと、はーちゃん!? せっかくの癒やしタイムだったのに……!」
反町先輩は名残惜しそうに声を上げた。けれど、臼井先輩はそんな抗議にも動じることなく、淡々とした口調を崩さない。
「ん。これから任務って時に、そんなふにゃけた気持ちでを任務に持ち込まれたら、私たちの身に危険が被る。だからこれ以上は禁止」
「ぶーぶ! はーちゃんの意地悪。悪魔。人でなし。ちび」
「ん。神崎さん、バカ渚のことは放っておいて、少しだけお話しよ?」
反町先輩は子どものような罵詈雑言を浴びせるものの、臼井先輩はどこ吹く風。
そのまま私へ話しかけようとした。
――その瞬間だった。
「あ、ちょっと、反町先輩!? いきなり何を――」
「ほら! 神崎さんのなでなでを食らえー!」
反町先輩は私の右手首を掴むと、そのまま強引に臼井先輩の頭へ乗せた。
突然のことに臼井先輩は反応する暇もなく、なでなでが始まる。
「ん……ん~」
気持ちよさそうに目を細め、臼井先輩はその感触に身を委ねていた。
普段のクールな姿からは想像もできないほど、蕩けきった表情。
きっと本人ですら見せている自覚がないのだろう。だからこそ、その無防備な顔を私たちに見られていることにも気づいていない。
「ん、あ……」
私の手首を掴み、なでなでを操作していた反町先輩が、ふいにその手を離す。
すると、なでなでの心地よさを堪能していた臼井先輩は、名残惜しそうに顔を上げ、離れていく私の手をぼんやりと視線で追った。
――しかし次の瞬間、はっと我に返る。
視線を私の手からゆっくり外し、ぎぎぎ、と音が聞こえてきそうなほどぎこちなく首を動かして、私と反町先輩を見た。
「ん」
その表情は、いつものクールさに輪をかけて無機質だった。もはや“無”と呼ぶべき領域に達している。
そして臼井先輩は、無言のままゆっくりと右手を持ち上げた。
――あ、これ終わった。
私は心の中でそっと呟く。
きっとこの後、臼井先輩は私たちをぼこぼこにして、自分がなでなでに蕩けていた記憶ごと抹消するつもりなのだ。
「っ……!」
覇気を纏う勢いで、臼井先輩の右手が私へ伸びる。
私は来る未来を覚悟して、反射的にぎゅっと目を閉じた。
――そして。
「ん……神崎さん」
不意に、優しく名前を呼ばれる。
恐る恐る目を開けると、そこには、自分の手で私の右手をそっと掴み、自分の頭へ乗せる臼井先輩の姿があった。
臼井先輩は小さく首を傾げ、上目遣いでこちらを見つめながら、
「なでなで……して?」
と、控えめにおねだりしてくる。
予想していた未来とあまりにもかけ離れすぎていて、私はしばらく言葉を失った。
「んふふ。はーちゃん、どう? 私の気持ちわかった? 神崎さんのなでなでにずっと浸っていたい気持ちが」
「ん。渚の意見に賛同するのは癪だけど……これは認めざるを得ない。このなでなでは至高」
「でしょでしょ!」
二人はすっかり意気投合し、盛り上がり始める。
完全に置いてけぼりを食らった私は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
すると、示し合わせたかのように、二人の視線がぴたりと私へ向けられる。
「神崎さん!」
「ん。神崎さん」
「は、はい!?」
返事をした瞬間、二人は揃ってこちらへ身を寄せてきた。
「なでなでして~」
「ん。なでなでを要求する」
二人揃って差し出されたお願いに私は戸惑うものの、ぼこぼこにされるよりはましかと思い、私は苦笑しながら、二人の頭を任務開始まで撫で続けた。
*
そうこうしている内に時計の針は七時を回り、窓の外はすっかり闇夜に包まれていた。会議室を包んでいた談笑も次第に落ち着きを見せ始めた頃。
――七時五分。
静かに扉が開き、一人の男性が入室する。
瞬間、会議室内の空気がぴりっとした緊張感に覆われた。
てっきり現場指揮官のような人物が来るのかと思いきや、姿を現したのは、この学院の頂点に立つ人物――金山理事長その人だった。予想斜め上の人物に私の心は驚愕に包まれた。
「さて、諸君。今日も今日とてゴースト討伐に励んでもらう。さて、早速だがこれを見てもらおう」
理事長が手元のリモコンを操作すると、室内のカーテンが閉じられ、照明が落とされた。
薄闇の中、正面のスクリーンだけが白く浮かび上がり、そこへ日本地図が映し出される。
「人工衛星によって特定された、ゴーストの出現地点だ」
スクリーン上には、日本列島を覆うように無数の赤い点が散らばっていた。
ぽつり、ぽつりと灯るそれらは、まるで夜の地図に滲んだ血痕のようで、見ているだけで胸の奥がざわつく。
五十近く存在する赤点――その一つ一つが、討伐対象のゴーストを示していた。
金山理事長は手に持つレーザーポイントで九州地方を囲むように円を描く。
「君たちは九州地方を担当してもらう。各々担当する場所はこちらで決めさせてもらった――反町君、臼井君、そして、神崎君には鹿児島を担当してもらう」
「「了解!」」
二人の声は寸分の狂いもなく重なり、会議室に鋭く響いた。
迷いも淀みもないその返答には、幾度も任務を潜り抜けてきた者だけが持つ歴戦の猛者のような毅然さがあった。
「りょ、了解!」
私も二人に倣うも、緊張のせいで声はわずかに裏返り、語尾まで情けなく揺れてしまった。
三十人近く集まった会議室の中で、その拙い返事を晒したせいで、私の中の羞恥心がぐつぐつと沸き立った。
その羞恥心をひた隠すため、私は誤魔化すように小さく俯き、膝の上でそっと拳を握りしめた。
私が羞恥に飲まれている間にも金山理事長は次々と担当する区域を分けていく。
「さて、任務の概要は以上だ――最後に、諸君へ一つだけ伝えておこう。一年生はもちろん、二、三年生も初心に帰ったつもりで改めて聞いてほしい」
やがて説明を終えると、理事長はゆっくりと会議室を見渡した。
静まり返った室内に、穏やかでありながら芯の通った声が響く。
「一年生の諸君にとって、今日は初めての任務だ。緊張も、不安も、恐怖もあるだろう。だが、決してそれらの感情を対処してはいけないよ。恐怖を知る者は慎重になる。不安を知る者は備える。緊張を知る者は油断しない。だからこそ向き合いなさい。そして制しなさい。それらは弱さではない。むしろ――君たちを生かす”力”だ。」
理事長はそこで一度言葉を区切り、私たち一人ひとりを見据えるように目を細めた。
「人は慣れる生き物だ。任務を重ねれば、そう言った感情は自ずと薄れていく。だけど私はそれを良しとは思わない。慣れは慢心を生み、“今まで大丈夫だった”という油断が、いつか取り返しのつかない結果を招く。任務に絶対はないからね。だからこそ、それらの感情は大事に持っておきなさい。それこそ、君たちを生き残らせる最後の楔となるのだから」
穏やかな口調だった。
けれど、その言葉には数え切れないほどの経験と、私たちを想う真摯な重みが込められていた。
「――さて、長話はこれくらいにしよう。諸君らの健闘を祈っている」
「「「「「はい!」」」」」
会議室に響いたその声には、不安を抱えながらも覚悟の灯った強い意志が表れていた。
その返答を受け、金山理事長は柔らかな笑みを浮かべると、静かに踵を返し、会議室を後にした。
――いよいよ、本格的に任務が始まる。命を懸けた、最初の一歩が。
私は緊張、不安、恐怖を抱きながら、 任務に赴くため、会議室から身を脱したのだった。




