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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
弓袋峠の戦い

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雪嶺の狂気

 勝者の名が刻まれる一方で、敗れた者たちは影のように北へと退いていく。

 良兼、貞盛らは、逃避行の途にあった。

 山中の風雪が、敗者の背を容赦なく叩いた。


 敗走する貞盛の胸の奥で、“何か”が蠢(うごめ)いた。

 心の中の闇は、いつも敗走のときに囁きかけてくる。名も形も持たぬそれは、貞盛の胸の奥で、長いあいだ眠っていた。

(……まただ……)

 耳の奥を針で突かれるような、嫌な声が微かに聴こえる。

 ──この男は道具に過ぎぬ

 ──所詮は使い捨てよ

 ――豎子めが…

(……やめろ……やめてくれ……!)

 貞盛は耳を押さえた。

 良兼は、雪に濡れた髭を震わせながら谷の奥を見つめた。

(……まだだ。まだ死ねぬ)

「貞盛! ついて来い! 谷の奥へ抜けるぞ!」

 良兼は雪を蹴り、谷の奥へ走り出した。

 貞盛は一歩だけ遅れて立ち止まった。

 谷底には、倒れた兵たちの呻き声だけが残る。

 その声が、貞盛には別のものに聞こえた。

 ──返せ……

 ──汝の呪い、返せ……

 ──汝の怨火、返せ……

 良兼が振り返る。

「貞盛!」

 雪の冷たさが、逆に頭を冴えさせた。

 貞盛は一瞬ためらったが、すぐにその後を追った。

 良兼の背後に、黒い影が立っているように見えた。

 それは人の形をしているようで、していないようでもあった。

 輪郭は雪に溶け、顔は見えず、ただ“此方を見つめる気配”だけがあった。

 ──討て……

 ――汝を唆した者を……

 ──汝の夢を奪った者を……

 ――討て……

「──討て……討て……」

 貞盛は、虚ろな目をして、誰にともなく小さく呟いた。

 雪は深く積もり、風は骨を刺すように冷たかった。

 良兼は、焦燥と怒りを押し殺していた。

(……将門を殺すまで……我は死なぬ!)


「良兼殿……」

 背後から、低く震える声がした。

「何だ?」

 振り返ると、貞盛が雪の中に立っていた。その眼は、常ならぬ光を宿していた。

「良兼殿……あなたのせいだ……あなたが……私を……!」

 声が震え、呼吸が荒くなる。

「さ、貞盛……? 何をしておる……」

 良兼が言い終えるより早く、貞盛は刀を抜いた。刃が雪明かりに鈍く光る。

「さ、さ……貞盛! き、貴様……このわしを!」

 良兼は後ずさった。

「貴方が私を唆した……! 私の未来を奪った……!」

 刃が震える。

 それは怒りではなく、影に引かれた手の震えだった。

「なのに……貴方は……。あなたが夢を壊した──ッ!」

 貞盛は叫び、刃を振り下ろした。

 良兼は転げるように逃げた。

「我の太刀を寄越せ! 早う!」

 しかし近習は、貞盛の鬼気迫る表情を見ると、太刀を持ったまま逃げ出した。

「お、おのれ……!」

 貞盛が迫る。

 再び、太刀が振り下ろされる。

 今度は刃が良兼の肩をかすめ、血が雪に散った。

 その痛みで、良兼は逆に冷静さを取り戻した。

「……よかろう、貞盛」

 良兼は無手で飛びかかり、貞盛の首を締め上げた。

「――夢だと? 未来だと? 我が汝を引き込んだのは、“父を殺された子が仇を討つ”という大義名分が必要だったからだ!」

 貞盛の顔が苦悶に歪む。

「己が如き豎子に望みなど懸けておらぬ。最早、用は無い。ここで死ね!」

 その瞬間──地震が起き、大地が揺れた。

 良兼は足元を取られ、腕の力が抜けた。

 貞盛はその隙に、雪の斜面を転がるように逃げた。

「貞盛──ッ!」

 良兼の怒声が谷に響いた。しかし貞盛は振り返らなかった。闇の中へ、ただ必死に逃げた。

 雪は静かに降り続けていた。良兼は、貞盛を追うことをせず、雪の奥へと姿を消した。雪は深く積もり、風は容赦なく頬を打った。

 良兼は、その風の冷たさよりも、胸の奥の虚しさの方が、はるかに堪えた。


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