雪渓の戦い
将門軍は、雪深い山腹を息を潜めて登った。踏みしめる雪の音だけが、白い山中にかすかに響く。黒騎馬は馬を下り、手綱を引いて進み、国巣の者たちは先頭で足場を確かめた。
「兄上、良兼軍はこの先の谷に籠っております。」
将頼が低く報告する。
将門は頷き、雪に覆われた尾根の向こうを見据えた。
(……ここで終わらせる)
黒騎馬は馬を木立に繋ぎ、槍を携えて散開した。国巣の弩兵は、雪を払って身を伏せ、木々の影に溶け込むように潜んだ。五郎将為は谷の入口を塞ぎ、六郎将武は尾根を押さえた。良兼軍は、雪の谷に追い詰められていた。
夜の帳が山を覆い、白い闇をさらに深くしていく。
「兄上。良兼軍は谷底に集まっております。兵の疲労甚だしく、戦意はすでに尽きております。」
将頼の声は、雪の静けさの中でひときわ鮮明に響いた。
将門は空を見上げた――雪は、敵の足を奪い、音を吸い込む。
冬の山は、将門に味方していた。
「総攻撃は夜半とする。黒騎馬は谷の入口を塞げ。国巣の弩兵は尾根に散開し、逃げる者を射よ。五郎、六郎は左右の斜面を押さえよ。」
「承知!」
将門は太刀の柄に手を置いた。
左眼の重瞳には、炎のような光が宿っていた。
一方、谷底の良兼軍にも包囲の気配は伝わっていた。与党の支援で軍勢は立て直されつつあったが、長い潜伏と追撃の緊張、凍てつく寒さと不眠が兵の体力と気力を削っていた。雑兵たちは士気を失い、ひとり、またひとりと雪に座り込む。
「良兼殿……敵は本当に来るのでしょうか……」
その声には、恐怖と疲労が入り混じっていた。
そのとき──谷の上から、雪を踏みしめる音が聞こえた。
ザッ……ザッ……
良兼は顔を上げた。
(……来たか)
兵たちは立ち上がり、槍を構える。だが、その眼には、もはや勝利を信じる光はなかった。
谷の上には、黒い影が並んでいた。
「良兼よ、すでに囲みを成した。繞りに隙無し!」
将頼の声が、谷に響き渡った。
将門は、谷底の灯火を見下ろし、静かに息を吐いた。
「……撃て」
その一言で、尾根に潜んでいた弩兵が一斉に弦を引いた。
「敵襲──! 将門だ──!」
短く太い弩の矢が、雪を裂いて谷底へ降り注いだ。斜面に据えた矢衾が入口を塞ぎ、逃げ道は断たれる。五郎将為の手勢は槍を掲げて斜面を駆け下り、六郎将武の手勢は尾根から飛礫を投げつけた。良兼軍は谷底で総崩れとなり、兵たちの叫びは雪の闇に呑まれていった。
その日、歴史の天秤は将門の方へ大きく傾いた。戦いを終えた将門が勝利を告げると、兵たちは歓声を上げ、鬨の声が冬空に響いた。
だが――勝利したはずなのに、将門の胸は晴れなかった。
「……寒いな……」
風は刃のように冷たく、空は低く、大地は血の匂いを吸い込んで沈んでいた。吐いた息が白く凍り、その中に黒い靄が混じって見える。だが、その影はすぐに消えた。将門は戦場に、妙な違和感を覚えた。
「……何だ、この寒気は……」
その瞬間、将門の足元の薄い影が、ふわっと揺れた。動いてもいないのに、影が勝手に揺れ、ぐにゃりと伸び、裂ける。地面に落ちた影が、まるで生きた墨絵のように蠢く。
将門は太刀を構えたが、誰もいない――己が映っているだけの黒い影を斬ることはできなかった。
「……自分の影を相手に、俺は一体、何をやっているのだ……」
将門は眉をひそめた。
その違和感の正体を掴めぬまま、夜はさらに深まり、敗れた者たちは雪嶺の奥へと逃れていった。




