寒嶺の困窮
平良兼が筑波の山中に逃れて二日――
将門軍はなおも山狩りを続け、良兼の一行は一刻の安息も得られなかった。
三日目にして、将門はようやく鎌輪へ引き上げることを決断した。
(……ここまで追い詰めれば、良兼も武射へ退くだろう。)
戦のほとぼりが冷めると、将門は冷静さを取り戻し、肉親を殺すことは本意ではないと考え直した。
しかし良兼の胸中は違った。将門の襲撃に怒り狂い、ただ反撃の機を窺っていた。水守館にはなお良正の軍があり、筑波山北西の真壁郡・新治郡には平氏の与党も多い。石岡の常陸介・維幾もまた、良兼の義兄弟であった。
(しばらく山に潜み、輩と消息を交わし、軍旅を整えて将門を討つ。)
――それは、良兼の怨念であった。
だが、初冬の筑波山は容赦なかった。強いて連れられた伴類・雑兵も多く、装備も兵糧も乏しい。末端の兵たちはたちまち飢え、木の皮を噛み、土中の虫で命をつないだ。
源護は、筑波山に入ってから精神が少しずつ壊れ始めていた。自らの体を掻き毟り、血を流し、その傷が腐り始めても、なお爪を立て続けた。
やがて、壺を抱えてぶつぶつと呟きながら、ひとり洞窟に籠もるようになった。
「……ぴちり……ぴちりと……こやつが……呼んでおる……」
ある日、地震が起き、洞窟の入口が崩れ落ちた。源護は、洞窟の闇へと消えた。
兵たちは駆け寄ったが、誰も掘り返そうとはしなかった。
恐怖と疲労が、人の心を奪っていた――。
やがて将門が包囲を解いて鎌輪へ凱旋すると、良兼与党の諸族から兵と兵糧が届けられた。良兼軍は最低限の兵站を得て、再び軍容を整え始める。
鎌輪宿に戻った将門のもとへ、筑波山中で良兼が兵を集めているとの報が届いた。
「おのれ良兼め……性懲りもなく戦意を失わぬとは……」
――将門は、迷いなく決断した。
「出陣だ。筑波山へ向かう。」
鎌輪の兵たちは、その声に応じて立ち上がった。
その頃、山中では、退路を失った良兼軍が、さらなる寒気に押し包まれていた。
筑波山中――。
初雪が静かに降り始めた。白い粒は、枯れた木々の枝に淡く積もり、風が吹くたびに細かな粉となって舞い散る。
「……雪……か……。」
良兼は、吐く息が白くなるのを見つめながら呟いた。
山の冷気は、肌を刺すように鋭く、兵たちの体温を容赦なく奪っていく。雪は、静かに、しかし確実に、彼らの命を削っていった。
雑兵が雪の上に膝をついた。その顔は土色に変わり、唇は紫に染まっていた。
「立て――立たねば凍死するぞ」
一陣の将が怒鳴ったが、もはや雑兵は動かなかった。
やむなく軍馬を屠り、その肉を兵たちに与えた。良兼には「山中で鹿を仕留めた」と偽り、軍馬の肉を差し出した。兵たちは、その嘘に気づいていたが、誰も口には出さなかった。生きるためには、食うしかなかった。
だが、それでも足りない。
「……主よ、もう限界です……。」
良兼の側近が震える声で言った。
(ここで終わるわけにはいかぬ……)
良兼は歯を食いしばった。だが、兵たちの疲弊はもはや隠しようもない。その沈みきった空気は、貞盛の胸にも重く沈んでいた。
この極限の中で、貞盛はひとり葛藤に苛まれていた。自分は馬寮の允として朝廷に仕える身である。それを知りながら、良兼は馬寮の常羽御厩を襲い、焼き払った。
その一事だけで、堂上を夢見た貞盛の心は大きく揺らいだ。
(何故、我がこんな目に遭わねばならぬのだ……。)
はじめは、ただ胸の底に沈む迷いであった。寒さと飢えと恐怖が重なるにつれ、その迷いは行き場を失い、誰かを責めずにはいられぬ焦燥へと変わっていった。
(違う……我は誤っておらぬ。父の仇を討とうとしただけだ。ならば、この苦しみは誰のせいだ……良兼か。そうだ、我を唆したのは良兼だ! 奴がすべての元凶なのだ!)
責める相手を見つけた瞬間、貞盛の胸はわずかに軽くなった。だが、その安堵はすぐ憎悪へと濁り、憎悪はさらに、救いを求めるような殺意へと変わっていった。
(良兼の首級を差し出せば、上は赦して下さるに違いない!)
貞盛の眼には、まだ迷いが残っていた。だがその迷いさえ、恐怖に押し潰され、しだいに暗い光へと変じていった。
(よし、良兼を殺そう!)




