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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
炎の夜を超えて

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隠れ里の命火

 将門は、もはや戦う力も、歩く力すらも失っていた。脚気(かっけ)で脚はむくみ、矢傷は熱を帯び、息をするだけで胸が痛む。

 だが、良兼軍三千は、なおも執拗に追撃してきた。将門は、数名の郎党に支えられながら、湖沼が広がる広大な低湿地帯へと逃げ込んだ。そこは、人の住む地ではなく、獣の通う道であった。泥は膝まで沈み、草は胸の高さまで伸び、夜露は冷たく、将門の衣は泥と血で重く貼りついた。

「殿、こちらへ……!」

 供の郎党の声も、遠く霞んで聞こえた。

「何とか大国玉の舅殿の許まで辿り着きたい……。この身体では、とても良兼と対峙することなど叶わぬ」

 将門は、泥に塗れながら、ただ北へ、北へと進んだ。やがて、真壁郡の原生林が広がる一帯へと入り込んだ頃、将門の身体は限界を迎えた。視界が白く揺れ、木々の影が滲み、地面が迫ってくる。

(……もはや、ここまでか)

 そう思った瞬間、闇の中で、低い声が響いた。

「……この男を、運べ」

 将門が目を覚ましたのは、鬱蒼(うっそう)とした原生林の奥、沼地と森が入り組んだ場所であった。そこは、朝廷から人として扱われぬ人外、「まつろわぬ民」が身を寄せる隠れ里──「広江案内(ひろえのあない)」と呼ばれる地であった。

 最初の数日は、彼らの粗末な小屋で、泥のように眠り続けた。

 二週間も経つ頃には、将門は自ら歩けるほどに回復していた。彼らの食事と、沼地の水と、森の空気が、将門の身体をゆっくりと蘇らせていったのである。彼らは、雑穀や豆、獣の肉を常食とし、脚気に罹る者は一人もいなかった。

「……不思議なものだ。ここに来てから、胸の痛みも、脚の重さも消えていく」

 里の長は、静かに笑った。

「我らは、国巣(くず)だの土蜘蛛(つぐも)だのと呼ばれ、穴倉に潜む獣のように扱われてきた。だが獣は獣で、牙も爪も持ち、強く生きる術を知っておる」

 将門は、その言葉に胸を衝かれた。

(……この者たちは、誰からも顧みられず、誰にも守られず、それでも生きている)

 彼らは、ただ倒れていた一人の男を助けただけだった。何の見返りも求めず、困っていたから助けた。その素朴さが、将門の胸に深く沁みた。


 本拠とした豊田営所を失った将門は、再び軍を興すためにも、新たな拠点を定めねばならなかった。国巣の民が案内したのは、豊田から鬼怒川を北へ遡った対岸の地であった。

 ここからであれば、良兼が前線の本陣を置く水守も、兵站の拠点である真壁城も、これまでのように鬼怒川を越える必要がない。逆に言えば、鎌輪に拠れば、良兼軍は背後を断たれた形となり、攻める側が背水の陣を敷くことになる。

 鎌輪(かまわ)――湖沼が幾重にも入り組む広大な湿地帯のただ中に、ぽつりと島のように小高い丘が頭をもたげている。深い沼沢は、四方を巡って天然の堀となり、外界を拒むように静まり返っている。風はほとんど吹かず、陽光を受けてもなお黒く沈む水面だけが、何者かの息遣いのように微かに震えている。

 将門は、その丘陵の奥へと進んだ。

 森は深く、奥からは、鳥とも獣ともつかぬ声が、遠く、低く、響いては消えた。それは、まるで古きものの囁きを含んでいるかのようであった。風は湿り気を帯びて冷たい。

 この丘陵は、天与の要害であると同時に、古(いにしえ)の記憶が濃く漂う、異界の境のようであった。

 鎌輪の奥へ入ると、国巣の者たちが焚き火を囲んでいた。

「……戻ったか」

 長老の田油毘古(たぶらひこ)が、火越しに低く言った。

 将門は、炎を見つめたまま静かに頷いた。

 やがて、将門のもとに、散り散りになっていた郎党や従僕、家人たちが、ひとり、またひとりと合流してきた。

「殿が生きていると聞き、駆けつけました」

「我らも、共に戦います」

 彼らの衣は破れ、顔は痩せていたが、その眼光は失われていなかった。

 将門は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


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