豊田、灰燼に帰す
八月十七日。
川面を渡る風には、すでに夏の盛りを過ぎた気配があった。
将門は下総国豊田郡下大方郷、堀越の渡に陣を構え、良兼を待ち受けた。
やがて、彼方に土煙が立った。
「敵兵!」
郎党の声に、将門は馬上から目を凝らした。
身体は熱を帯びているにもかかわらず、背筋に氷を這わせるような寒気があった。
脚の痛みも、朝方より明らかに増している。
将門の意識は混濁しつつあり、かろうじて痛みによって正気を保っていた。
傍らの郎党が呼んだ。
「敵がこちらに向かっております!」
将門は、はっと我に返った。見れば、良兼勢が進み始めている。ためらえば、機を失う。将門は太刀を抜き放った。
「かかれ!」
その号令を合図に、将門勢も動いた。
鬨の声が上がり、両軍の兵が堀越の渡でぶつかり合う。
鉾と鉾とがぶつかり、楯が鳴り、馬蹄が地を揺るがした。
踏み荒らされた土は濛々と舞い上がり、その中に敵も味方も入り乱れた。
ところが、戦いが始まって間もなく、将門勢の一角が、早くも揺らいだ。
「退くな!」
「踏みとどまれ!」
しかし、一度生じた乱れは容易に収まらなかった。
ひとりが背を向ける。それを見た者がまた退く。味方が崩れたと思えば、まだ踏みとどまっていた兵までが浮き足立つ。
「持ち場を離れるな!」
将門が叱咤した。
されど、その声は、無数の喊声と馬蹄の響きに掻き消された。
逃げる兵を引き戻そうと、将門は馬腹を蹴った。
その途端、脚を激痛が貫いた。
傍らを守っていた黒騎馬の武者が、すぐさま馬を寄せた。
「構うな。兵を戻せ」
「なりませぬ。まずは御身を!」
「わしはよい!」
怒鳴ったものの、声にはもはや、かつての張りがなかった。
将門は荒い息をつきながら、戦場を見渡した。
兵が退いてゆく。
それを黒騎馬の者たちが懸命に押しとどめようとしている。
されど、戦の流れはいったん傾けば、容易には戻らない。
将門は、もはや満足に馬を進めることさえできなかった。
「……おのれ」
低い呻きが、将門の口から漏れた。
良兼の兵が迫っている。味方はすでに崩れかけていた。これ以上ここに留まれば、退却は潰走となる。潰走となれば、もはや兵を収める術はない。
「殿。もはや……」
郎党が言いかける。
将門は、ただ黙って、崩れゆく己が軍勢を見据えていた。
やがて握っていた太刀をゆっくりと下ろした。
「……退くぞ。兵をまとめよ。無駄に命を捨てさせるな」
絞り出すような声であった。
「はっ」
郎党が直ちに馬を返し、退却を告げて回った。黒騎馬の者たちは将門を囲むようにして、良兼勢との間に立った。
将門は一度だけ振り返った。
良兼勢の勝鬨が聞こえる。己を信じて出陣した兵たちが、散り散りとなって退いてゆく姿があった。
将門は、何も言わなかった。ただ、眼の奥に燃えるものを押し殺すようにして、馬首を巡らせ、ふたたび湿原の中へ姿を消した。
この相次ぐ敗北は、将門に、癒え難い大きな傷を残した。その傷が、やがて何を生み出すことになるのか。このときの将門は、まだ知らなかった。
良兼は二度の勝利に酔う暇もなく、将門を追って、その本拠地である豊田営所まで軍を進めた。近隣を隈なく捜索させたが、将門の姿を見出せないまま、刻だけが過ぎていった。
そして……豊田館にも、地獄の夜が訪れた。
将門を二度までも敗軍の憂き目に遭わせながら、なお討ち果たせずにいた良兼は、怒り狂い、豊田営所をすべて焼き払うよう命じた。この良兼軍の焼き討ちは、近隣の村々や集落に及び、やがて豊田一帯を炎に包んだ。
炎を巻き込んだ巨大な竜巻は、猛り狂う赤龍の如く辺りを焼き尽くし、雄叫びを上げているかのようであった。家屋は焼け落ち、倉庫は炎の中に崩れ、燃え盛る木切れや火の粉が上空高く舞い上がる。風に乗った火の粉は、まだ燃えていない場所にまで降り注ぎ、次々と飛び火を起こし、人々の逃げ道を塞いだ。
女たちや子どもたちが逃げ惑い、その叫びも、火炎の中に掻き消されていった。その惨状は、星見の巫女が幻視した情景と、寸分違わなかった。
兵だけでなく、男たちも武具を手に立ち向かったが、大軍の矢衾の前に抗う術はなかった。鬼怒川を背にして次々と倒れ、あるいは炎に呑まれた。
朝廷から管理を預かっていた常羽御厩に続いて、亡き父・良将から受け継いだこの豊田営所も、一夜にして灰の原と化した。
翌朝には、「将門の妻子が連れ去られた」あるいは「殺された」という噂が坂東中に広がっていた。しかし、誰も真実を知らない。ただ、「炎の中に消えた」ということだけが、確かな事実であった。
黒い灰が風に舞い、焦げた木々が、まるで亡骸のように横たわっている。
常羽御厩も、豊田営所も、村々も、人々の暮らしも、何一つとして残ったものはなかった。
将門は、その光景を前に、声を失った。身体は鉛のように重い。
今はまだ、何の感情も湧いてこない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような虚無だけがあった。
(わしは……すべて、失ったのか)
その言葉は、声にならなかった。
湿った風が吹き抜ける。灰を巻き上げ、焼け跡を渡り、将門の衣を揺らした。
将門は、静かに目を閉じた。その瞼の裏には、かつての豊田の景色が、淡い光となって揺れていた。そして――その光は、ゆっくりと、闇に沈んでいった。




