怨火、御厩を焼く
敗北を喫した将門軍は、良兼軍の執拗な追撃をかわしながら、本拠地である豊田営所に向かった。将門は、這う這うの体で、豊田に近い飯沼の畔まで逃れた。広々とした水面を囲むように、葦の生い茂る湿原が遠くまで続いていた。風が渡るたび、葦の葉がざわざわと擦れ合い、その隙間に覗く浅い水溜まりが細かく震えた。水気を含んだ風が、汗に濡れた頬を冷やしてゆく。
だが、黒騎馬の蹄音は弱く、兵たちの息遣いには疲労と不安が滲んでいた。敗走中にも将門の病状は悪化し、脚の矢傷も相まって、激しい痛みが将門を襲った。立てば疼き、歩けば痛んだ。馬に跨がろうと脚に力を込めただけでも、骨の髄まで刺されたような激痛が走った。
将門は、意識が遠のきそうになるのを必死に堪えていた。
「これは、父祖の像に弓を引いたことへの、神明の怒りか……」
将門は脚をさすりながら、ひとり呟いた。
将門は、遂に満足に動くことも、馬に乗ることもできなくなった。
――いま将門の前にあるのは、迫り来る良兼の軍勢であった。
泥深い湿地や生い茂る葦に囲まれた飯沼の畔では、夕闇が空を覆いはじめ、土地勘のない良兼軍は容易には足を踏み入れて追撃することができなかった。
満身創痍の将門軍は湿原に身を伏せ、その場で夜を明かすことになった。
しかし、その夜、敗北の痛みなどとは比べものにならぬ悲劇が待ち構えていた。
夜半、湿原の空が、不意に赤く染まった。
「……空が、燃えている……?」
最初に気づいたのは、常羽御厩に近い村の者だった。常羽御厩は、軍馬を育てる官営の牧であり、馬具や武具を鍛える炉を備えた、まさに将門の軍事力の“心の臓”であった。
「天が、赤く染まるなんて……」
村人の声は、周囲から集まる冷気に吸い込まれるように消えた。
将門を追ってきた良兼軍は、飯沼の周囲を巡っていたが、やがて痺れを切らし、将門をあぶり出すために、常羽御厩の近隣の村々を襲撃した。略奪を繰り返した挙句、村々に火を放ち始めたのであった。
「将門。貴様のすべてを奪ってやる!」
良兼は、こともあろうに、朝廷所有の官営牧を襲撃した。
馬寮の駿馬を多数横領し、御厩や官舎にも火を放ったのである。
良兼自身、上総介に任じられた朝臣である。その身で朝廷の馬を盗み、朝廷の牧を焼く――それが大罪であり、朝廷に対する叛逆であることは、考えるまでもなく分かるはずであった。味方の貞盛が馬寮の左馬允であることも、良兼は承知していた。それでもなお、将門への怨みと呪詛は、良兼から正常な判断力さえ奪っていた。怨火は、もはや己をも焼く業火と化していたのである。
やがて、常羽御厩の製鉄炉が爆ぜ、地を揺らすような轟音が夜を裂いた。巨大な火柱が夜空を貫き、馬は狂ったように嘶き、大地は赤く染まった。将門軍の軍事力の中枢は、呪詛に呼び寄せられたように、一夜にして炎に呑まれ、灰燼に帰した。
常羽御厩が炎に包まれたその時、良兼は、少し離れた丘の上に立っていた。夜風が、燃え上がる炎の熱を運んでくる。
その熱を受けながら、良兼は微動だにしなかった。
「……見よ。これが、反逆者の末路よ」
怒りでも歓喜でもない。底のない空洞のような声であった。
その隣に立つ源護は、例の壺を抱えたまま、炎に照らされた御厩の全貌をじっと眺めていた。壺の中で蠢くものが、火の光に反応するように「ぴちり」と音を立てる。
「おお……こやつも喜んでおる」
源護の声は、どこか恍惚としていた。
炎が爆ぜ、火の粉が夜空に舞う。その赤い光を映す良兼の眼には、もはや人の心はなかった。生命を失う者への哀れみも、人の悲しみへの共感も、一片たりとも宿っていない。
良兼は、炎に照らされた自らの手を見つめた。
――怨みは己を焦がす。呪詛を行う者は、魂を喰われる。
火柱が高く上がるたび、良兼の口元には微かな笑みが浮かんだ。それは、勝利の悦びではない。人の情を失った者の、底知れぬ狂気の表象であった。
ただ、「将門を滅ぼす」――その執念だけが、良兼の心を支配していた。
将門を討ち滅ぼすまで、良兼が執拗に追撃を続けることは、もはや疑う余地がなかった。敗れたまま隠れていては、味方の動揺はさらに広がり、これまでに築いた将門の威勢そのものが揺らぎかねない。再戦は避けられない。




