↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
星翳りの戦、破れの刻

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
84/162

子飼の渡の戦い

 承平七年(九三七年)八月。

 良兼の軍勢は服織宿(はとりのやどり)を発ち、常陸と下総の境へと兵を進めた。そして、良正が本拠とする水守館(みもりのたち)を前線の拠点と定め、そこに大軍を集結させた。館の周囲を、武装した兵(つわもの)どもが館の周囲を黒く埋め尽くす。槍の穂先が夏の陽光を鋭く弾き、兵馬が荒々しく鼻息を吐く。立ち昇る土埃と熱気。

 良兼はゆっくりと兵を見渡した。

「不動明王は、我に応えた」

 ざわめきが消えた。

「父祖の霊もまた、我らを導く。一門の反逆者、将門を、今こそ討つ!」

 良兼は大太刀を抜き放つ。

「……出陣!」

 おおおおおッ!

 鬨の声が満ちた。それはまるで、呪詛が完成した合図のようであった。


 一方、将門率いる三百余騎は、小貝川へと達していた。

 将門の手勢は少なく、兵も武具も万全とは言い難かった。それでも、兵たちの顔に悲壮感はない。これまで幾度となく将門とともに戦い、そして勝ってきた。

 将門に宿る「義」の破軍の星は、必ずや勝利をもたらす。その確信を胸に、鍛え抜かれた黒騎馬の精鋭たちは、将門を中心として黙々と進んでいた。

 ――だが、その日の小貝川は、どこか様子が違った。

 馬の蹄がぬかるんだ泥を噛み、ずぶりと沈む。湿地へ踏み込むほど足取りは重くなり、人馬の息も次第に荒くなってゆく。川面を渡る風も冷たい。

 良兼が前線を構える水守までは、およそ三里。

 将門は手綱を引き、馬上から対岸を見据えた。

 このあたりで、大勢の騎馬がまとまって川を越えられる浅瀬は限られている。

 ――子飼の渡し。

 三百余騎は、ゆっくりとその浅瀬へ向かっていく。

 だが、その渡しこそ、良兼が仕掛けた戦場であった。

 良兼は、数日前より兵を民草に変装させ、浅瀬を囲む湿原へ密かに潜ませていた。葦原の陰に薙刀や長刀を携えた伏兵を置き、川岸にはすでに弓兵を配置した。

 いまや小貝川の湿原そのものが、巨大な罠へと姿を変えていたのである。


 やがて。対岸で、一旒の旗が大きく翻った。

 次の瞬間、良兼軍の鬨の声が、川面を震わせた。

「突撃ぃぃッ!」

 号令とともに、それまで静まり返っていた湿原が一変した。

 潜んでいた敵兵が、左右から一斉に将門軍へ殺到した。

 思わぬ伏兵に、将門軍の陣形が揺れた。

 ――そのときだった。

「……あれは」

 兵たちの眼が、良兼軍の陣前で止まった。

 良兼は、父祖の霊像を陣前に掲げていたのである。

 ――同じ祖を持つ者同士が、刃を交える一族の戦。良兼はその戦場へ、将門自身が敬う父祖の姿を持ち出した。

 将門は息を呑んだ。

 敵兵の盾には、父祖の肖像画が描かれていた。

 将門の眼が、父の肖像に釘付けとなった。

 折しも吹いた風に、盾に描かれた父の顔が揺れて見える。

「……父上……」

 胸の奥を、刃で抉られたかのように痛んだ。

 その眼差しが。己を責めているようにも。悲しんでいるようにも見えた。

(お前は……どこへ行くのだ)

 不意に、そんな声が聞こえた気がした。

 将門の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 周囲から、音が遠のいていく。近習の武者が何か叫んでいる。

 次の瞬間――ひゅん、と風を裂いた矢が、将門の腓(こむら)をかすめた。

「ぐっ……!」

 愛馬が激しく嘶き、前脚を上げる。将門の身体が大きく傾いた。黒騎馬の武者たちが、すぐさま主の周囲へ集まる。

 ――だが、その動揺は瞬く間に広がり、騎馬の隊列が崩れる。

 そこへ、良兼軍が容赦なく押し寄せた。矢が雨のように飛び交い、槍と長刀が激しくぶつかる。怒号と馬の嘶きが入り乱れ、川岸はたちまち血煙に包まれた。

 黒騎馬の精鋭はなおも踏みとどまり、押し寄せる敵兵を退け続けた。だが、いかに精強であろうと、数の差までは覆せない。兵は傷つき、馬は疲れ、矢は尽きていく。

 もとより将門軍には、長く戦い続けられるだけの兵も、物資もなかった。

「殿、お退きくだされ!」

 近習に支えられながら、将門はようやく馬首を返し、這う這うの体で、湿原の奥に退いたのであった。

 将門の眼には、父の面影と川面の赤い影だけが、いつまでも揺れていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。