子飼の渡の戦い
承平七年(九三七年)八月。
良兼の軍勢は服織宿を発ち、常陸と下総の境へと兵を進めた。そして、良正が本拠とする水守館を前線の拠点と定め、そこに大軍を集結させた。館の周囲を、武装した兵どもが館の周囲を黒く埋め尽くす。槍の穂先が夏の陽光を鋭く弾き、兵馬が荒々しく鼻息を吐く。立ち昇る土埃と熱気。
良兼はゆっくりと兵を見渡した。
「不動明王は、我に応えた」
ざわめきが消えた。
「父祖の霊もまた、我らを導く。一門の反逆者、将門を、今こそ討つ!」
良兼は大太刀を抜き放つ。
「……出陣!」
おおおおおッ!
鬨の声が満ちた。それはまるで、呪詛が完成した合図のようであった。
一方、将門率いる三百余騎は、小貝川へと達していた。
将門の手勢は少なく、兵も武具も万全とは言い難かった。それでも、兵たちの顔に悲壮感はない。これまで幾度となく将門とともに戦い、そして勝ってきた。
将門に宿る「義」の破軍の星は、必ずや勝利をもたらす。その確信を胸に、鍛え抜かれた黒騎馬の精鋭たちは、将門を中心として黙々と進んでいた。
――だが、その日の小貝川は、どこか様子が違った。
馬の蹄がぬかるんだ泥を噛み、ずぶりと沈む。湿地へ踏み込むほど足取りは重くなり、人馬の息も次第に荒くなってゆく。川面を渡る風も冷たい。
良兼が前線を構える水守までは、およそ三里。
将門は手綱を引き、馬上から対岸を見据えた。
このあたりで、大勢の騎馬がまとまって川を越えられる浅瀬は限られている。
――子飼の渡し。
三百余騎は、ゆっくりとその浅瀬へ向かっていく。
だが、その渡しこそ、良兼が仕掛けた戦場であった。
良兼は、数日前より兵を民草に変装させ、浅瀬を囲む湿原へ密かに潜ませていた。葦原の陰に薙刀や長刀を携えた伏兵を置き、川岸にはすでに弓兵を配置した。
いまや小貝川の湿原そのものが、巨大な罠へと姿を変えていたのである。
やがて。対岸で、一旒の旗が大きく翻った。
次の瞬間、良兼軍の鬨の声が、川面を震わせた。
「突撃ぃぃッ!」
号令とともに、それまで静まり返っていた湿原が一変した。
潜んでいた敵兵が、左右から一斉に将門軍へ殺到した。
思わぬ伏兵に、将門軍の陣形が揺れた。
――そのときだった。
「……あれは」
兵たちの眼が、良兼軍の陣前で止まった。
良兼は、父祖の霊像を陣前に掲げていたのである。
――同じ祖を持つ者同士が、刃を交える一族の戦。良兼はその戦場へ、将門自身が敬う父祖の姿を持ち出した。
将門は息を呑んだ。
敵兵の盾には、父祖の肖像画が描かれていた。
将門の眼が、父の肖像に釘付けとなった。
折しも吹いた風に、盾に描かれた父の顔が揺れて見える。
「……父上……」
胸の奥を、刃で抉られたかのように痛んだ。
その眼差しが。己を責めているようにも。悲しんでいるようにも見えた。
(お前は……どこへ行くのだ)
不意に、そんな声が聞こえた気がした。
将門の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
周囲から、音が遠のいていく。近習の武者が何か叫んでいる。
次の瞬間――ひゅん、と風を裂いた矢が、将門の腓をかすめた。
「ぐっ……!」
愛馬が激しく嘶き、前脚を上げる。将門の身体が大きく傾いた。黒騎馬の武者たちが、すぐさま主の周囲へ集まる。
――だが、その動揺は瞬く間に広がり、騎馬の隊列が崩れる。
そこへ、良兼軍が容赦なく押し寄せた。矢が雨のように飛び交い、槍と長刀が激しくぶつかる。怒号と馬の嘶きが入り乱れ、川岸はたちまち血煙に包まれた。
黒騎馬の精鋭はなおも踏みとどまり、押し寄せる敵兵を退け続けた。だが、いかに精強であろうと、数の差までは覆せない。兵は傷つき、馬は疲れ、矢は尽きていく。
もとより将門軍には、長く戦い続けられるだけの兵も、物資もなかった。
「殿、お退きくだされ!」
近習に支えられながら、将門はようやく馬首を返し、這う這うの体で、湿原の奥に退いたのであった。
将門の眼には、父の面影と川面の赤い影だけが、いつまでも揺れていた。




