呪詛、山を染める
季節は盛夏へと移っていた。筑波の峰には濃い緑が重なり、照りつける日差しの下、蝉時雨が山道を埋めていた。
良兼の護摩は、朝廷が厳罰をもって禁じる“呪詛”ではないか――その噂は御山に広がり、寺院はついに彼に護摩壇の使用を禁じた。それでも良兼と源護は、人目を避けて筑波山の奥へと分け入った。木陰に入っても蒸し暑さからは逃れられず、汗に濡れた衣が背に貼りついた。
辿り着いた岩窟には、煤にまみれ片目が欠けた古い不動明王像が鎮座していた。その欠けた眼だけが、闇の中で異様な光を宿していた。源護が薪を組むと、火は青白く燃え上がった。まるで良兼の怒りを待っていたかのように、火柱は生き物のように揺れた。
良兼は膝をつき、低く真言を唱えた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン……」
声は岩窟の奥へ沈み、火は青みを帯び、炎の中に利剣と羂索の影が浮かんだ。
数日もの間、二人は岩窟に籠もった。
痩せこけた二人の顔には、眼だけが異様な光を宿していた。
火焔が噴き上がり、その中に“怒りの眼”が現れた。もはや不動尊の眼ではない。良兼と源護の怨念が炎の姿を借りて顕れた「怨魅」――すなわち厭魅であった。
「星は火に勝てぬ。破軍の星は大地の怒りに焼かれるであろう……」
源護の囁きに、良兼は笑った。
「坂東そのものが、あやつを拒むのだ」
良兼は、桓武天皇と高望王の肖像を不動明王像の前に並べ、祖霊の加護を呼び寄せるように祀った。
源護は岩窟の隅の木箱を開いた。
土器の蓋を外すと、生温い気が立ちのぼる。
虫の姿はなく、黒い泥のようなものが蠢いていた。
――蠱毒。
良兼の怨念と山の気が沈殿し、怨魅の“巣”となっていた。
良兼が土器を火柱に掲げると、炎が裂け、泥の奥で“眼”が開いた。
怒りと憎悪の眼。──怨魅が宿ろうとしていた。
火柱が轟き、土器の泥が泡立つ。まるで何かが孵化するかのように、土器は震えた。
「小次郎将門──その星、ここで堕とす!」
良兼の叫びに応じ、蠱毒は赤く光った。
蠱毒は、完成した。その瞬間、筑波山の稜線を赤い光が走った。雷でも火でもない。
怨魅の顕現であった。
麓では「山が怒っている」と囁かれ、坂東の各地で人々は同じ夢を見た。
──赤い火が空を覆う。
──星が火に呑まれる。
──誰かが誰かを焼こうとしている。
風もないのに木々がざわめき、獣たちは森の奥へ逃げ込んだ。
良兼の呪詛は、山の気そのものを変えていた。夜の闇は赤黒く熱を帯びた。
常陸の井戸水は妙に生ぬるく、下総では夜ごと大地が低く唸った。
翌朝、夜明け前にもかかわらず、庭には昨夜の熱気が淀んでいた。滝姫は空を見上げて震えた。
澄むはずの夜明け前の空は濁り、妙見の光はかすかに揺らいでいた。
胸に手を当て、心を整えると、視界の奥に“黒い影”が見えた。
火でも煙でもない。泥のような影。
──呪詛の気配であった。
星の光を濁らせ、天の理に触れようとする黒い影。
(……怨魅が器を得た……火の呪いが、地の底から星へ伸びている……)
星々の奥から声が響いた。
──星が曇る。
──火が迫る。
──闇が天を侵す。
滝姫は震える声で呟いた。
「……父上の星が、蠱毒に触れられようとしています……」
その声は、まだ誰にも届かぬ警告であった。




