星が告げる災禍
初夏の夜風が、蔀の隙間から忍び込んでいた。昼のぬくもりは薄れ、庭の若葉が擦れ合うたび、青々とした匂いがかすかに漂う。
滝姫は、星供の御堂に独り座し、星辰盤を前に静かに息を整えていた。
「オン・マリシリエイ・ソワカ」
「オン・バザラタラ・ウクラ・ソワカ」
妙見菩薩の真言を唱えるとき、彼女の心はいつも澄んでいた。
星辰盤の上に浮かぶ七曜(北斗七星)が、淡く光を放つ。
七つの光点が規則正しく並び、静かに瞬いていた。
――その光が、ふいに乱れた。揺らぎ、歪み、黒く濁った。やがて、星辰盤の中心に、どす黒い影が渦を巻き始める。その瞬間、胸が締めつけられるような痛みが走った。
滝姫の視界が突如、二重にぶれた。
現実の景色――そして、その上に重なる“おぞましい景色”が頭の中に流れ込む。燃える村々、炎に呑まれる家々。泣き叫ぶ女たち。逃げ惑う子どもたち。――叫びも、嘆きも、哀しみも、頭の内側で響いている。
やがて、すべてが灰となり、色を失い、炭芥が風に散った。
滝姫は胸を押さえ、その場に蹲った。
息ができない。涙が止まらない。
「……これは……未来? この地で、起こる……?」
震える唇から、途切れ途切れに言葉がこぼれた。
――そのとき、心の奥から声が聞こえた。
(……これは怨。いや、……呪)
何者かの悪意を呪が増幅し、敵意と害意が渦巻いている。滝姫がその方向を仰ぐと、視界の奥で巨大な影が立ち上がった。
緋縅の大鎧をまとった骸が、二つの峰に足を掛け、燃え盛る矢をつがえて将門を射殺そうと狙いを定めている。
その先陣として、口から火を吐き、天を蛇行しながら進む赤龍が現れた。闇を裂いて現れたその龍は、生命を呑み込み、大地を焼き尽くしながらこちらへ迫ってくる。
(……これが、この地に災禍をもたらすもの……)
次に見えたのは、父、将門の姿だった。黒い鎧をまとい、黒馬にまたがり、矢を受け、血に濡れ、それでも炎の中を進む。やがて将門から七つの影が伸びていく。その影は、悲哀と憎悪と激しい怒りを呑み、激しく慟哭した。
「……父上の影が……濃くなっている……」
滝姫の小さな手が震えた。
そして、最後に――滝姫は、水鏡の中に自分自身を見た。
だが、そこにいたのは幼い巫女ではなかった。白い顔に、黒い髪。角と牙を生やし、黒衣をまとい、影を従えた夜叉に変化した老いた滝姫の姿であった。
滝姫は驚愕した――その瞬間、未来の影が足元に落ち、黒い手が滝姫の足首を掴む。
「ひッ……!」
影が囁く。
(お前も影に呑まれ……影を生む……そしてお前は影を従える……)
滝姫は星辰盤を抱きしめ、必死に首を振った。
「いや……いや……! わたしは……!」
影が笑う。
(将門は闇に堕ち、お前は夜叉となる。――何も救えぬ。誰も救われぬ)
滝姫が倒れかけた瞬間、御堂の扉が勢いよく開いた。
「滝ッ!」
将門が駆け込み、娘を抱きとめた。
――その刹那、滝姫の視界が白く弾け、影は霧のように消えた。
滝姫はしばらく、将門の腕の中で震えていた。だが、荒い呼吸がゆっくりと整うにつれ、その瞳の奥に、巫女としての静かな光が戻っていく。
やがて滝姫は身を起こし、星辰盤にそっと指を触れた。
「……父上。わたし……ただ恐ろしかったのではありません。星が……未来の底を開いたのです」
指先にはまだ冷たさが残っていた。それでも、その声には幼い巫女とは思えぬ、確かな芯が宿っている。
ひとつ息を呑み、滝姫は告げた。
「……見えたのです。これから起こることが……」
将門は娘の肩に手を置き、静かに促した。
「滝姫……何を見た」
滝姫は涙をぬぐい、静かに言った。
「……この豊田が、火の海になっていました」
その声は、まだ震えていた。
「……あれは夜襲です。闇に紛れた者が、一斉に火を放つのです」
滝姫は胸を押さえた。
「そして……その火炎を導く者は、緋縅の大鎧をまとっていました。その影は、夜空を覆うほどに大きく、筑波の二つの峰に足を掛け、燃え盛る矢をつがえ、父上を射殺そうとしていました」
瞳が、恐怖と確信の狭間で揺れている。
「その影の前には、赤い龍がいました。龍は……火そのものです。口から炎を吐き、夜空を蛇行しながら村々を焼き尽くしていきました」
滝姫は目を閉じ、震える指で星辰盤を撫でた。
「父上は……地の怨火と戦う者です。影は……これから父上の怒りと悲しみを食べていきます。このままでは……父上は“闇そのもの”になってしまう……」
将門は息を呑む。
「滝姫……どういうことだ……」
「父上は……やがて影に呑まれ始めます……」
滝姫は低く言った。
滝姫は水鏡の中に映った自分を思い出し、小さく息を呑んだ。
「そして……わたし自身の未来も見ました。怨に囚われ、黒い衣をまとい、黒い星辰盤を手に、影を従える巫女……滝夜叉へと姿を変えた、わたしを」
将門の胸に、鋭い痛みが走った。
滝姫は、父の表情を見て、そっと首を振った。
「父上……未来は決まっているわけではありません。でも……“兆し”は、もう動き始めています」
その言葉は、幼い娘のものではなかった。
「滝姫……お前は……強い子だ」
将門は娘を抱き寄せた。
娘は、父の胸に顔を埋め、小さく頷いた。




