怨火、山中に立つ
下野国境の戦いに敗れた良兼は、その後も本拠地の武射には戻らず、常陸国内に留まり、執拗に反撃の機を窺っていた。陣を置いたのは筑波山西麓の真壁郡にある服織宿にある別邸である。
「……小次郎将門殿、平真樹殿。朱雀帝元服の大赦を受け、すでに下向の途にございます」
使者が息を切らして告げた。
良兼の顔から、すっと血の気が引いた。だが、次の瞬間、血が沸き立つように頬が紅潮し、握りしめた拳が震えた。
「赦免……だと。あれほどの狼藉を働きながら、何事もなかったかのように坂東へ戻るというのか」
声は低く、野太い響きを帯びていた。その眼には、将門への底知れぬ怨嗟と嫉妬が、黒い螺旋を描くように渦巻いていた。
良兼は大太刀の鞘尻を床板に突き立て、ゆっくりと巨躯を起こした。それは、まるで眠っていた獣が目を覚ますような動きだった。
「筑波の山へ入る。護摩の支度をさせよ……」
家司は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
筑波山は、古くから神が鎮座する神体山として山岳信仰の対象とされた霊峰である。西の男体山と東の女体山から成る「双耳峰」から、加波山、足尾山に続く尾根筋は険しく、巨石や奇岩、岩窟が点在し、やがて僧や行者たちが祈り、籠もり、本格的な霊場へと変わっていったという。
伝承では延暦元年(七八二)、徳一が山腹に堂宇を開き、千手観音を安置したとされる。千手観音を本尊とする主拝殿を中心に、護摩堂、経堂、庫裏があり、修行僧が居住する僧房や岩屋(修行場)も数多く点在したと伝わる。
――筑波山中、護摩堂。
五色の幡が天井から垂れ、正面には、火焔光背を負った不動明王像。その背後には曼荼羅が薄暗い壁の一面を覆っている。
法螺貝の音が響くと、暗闇に包まれた山々が震え、修験者たちが松明を掲げて続々と堂内に入った。
護摩壇には沈香と白檀の香煙が立ち昇り、堂内を満たしている。最奥の曼荼羅から飛び出したかのように見える不動明王像。その双眸は、灯明の揺らぎを受けてまるで生きているかのように鈍く光った。
平良兼は塗香を受け、五鈷杵を執り、低く真言を唱えはじめる。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──」
真言が響くと同時に、護摩壇の火が爆ぜ、火柱が天井へと伸びた。
火柱の中に、利剣の影が浮かび、羂索の形が揺らめいた。
修験者が護摩木を差し出す。
良兼はそれを掴み、火柱へと叩きつけた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──」
瞬間、火焔が裂け、轟音とともに火柱が脈打ち、炎が獣のように唸り声を上げた。
その異様な唸りに、修験者たちは、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。
堂の外では、風もないのに木々がざわめき、獣たちが一斉に逃げ出した。
修験者の一人が、思わず後ずさった。
「……これは、護摩の火ではない。怨みの火だ……!」
別の修験者たちが震える声で言った。
「怨火じゃ……!」
「……これは、呪詛じゃ!」
だが、良兼はためらわなかった。
護摩木を火中へ投じる。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──」
火柱の中に浮かぶ影を見つめ、狂気にも似た光を眼に宿していた。
一人が叫んだ。
「な、なんじゃ! 影が火の中に……!」
別の者は、膝をつき、額を地につけた。
「ち、違う……これは御仏に供える火ではない!」
皆が恐怖に顔を強張らせるなか、ただ一人――
良兼だけが、笑っていた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン──」
人の怨念が、尾根の龍脈と結びつき、“地の焔”となって噴き上がっている。
この儀式は、もはや人の手に負えるものではなかった。
その夜、護摩堂を出た者は、誰一人として口を開かなかった。ただ黙したまま、闇に連なる尾根を見つめ、恐怖を押し殺していた。




