怨火、武蔵へ走る
夜風に火皿の油が鳴り、焦げた匂いが薄く漂う。
灯火が揺れ、護の影が壁に大きく伸びていた。
「……近う、寄れ」
呼ばれた郎党が膝をつく。
源護はしばらく灯火を見つめていた。やがて顔を上げ、低い声で告げた。
「常陸国府は腐っている。国豊は我が訴えを握り潰し、将門に道を開いたのだ」
郎党は驚きに目を見開いた。
「なれば――武蔵国府を頼る。武蔵権介・源仕殿なら、将門の増長を快くは思うまい」
「我が一門、嵯峨源氏の御方なら、この怨みを政の火に変えてくださる」
護はそう吐き捨てると、郎党が言葉を失うのを見届けてから、机上の巻物を取り、固く封を結んだ。
「これを武蔵国府の源仕殿の屋敷へ届けよ。
『常陸大掾・国豊は事実を曲げ、源護の訴えを退けた』
『坂東の秩序を乱す平将門を、速やかに召し問うべし』
――そう添えよ」
郎党は深く頭を下げた。
「はっ……! しかし道中は危険にございます。迂回すれば――」
言いかけた郎党を、護は手だけで遮った。
「構わぬ。夜陰を裂いてでも行け。これは我が家の恥を雪ぐ使いぞ」
護の声は低かったが、奥底は煮え立っていた。
郎党は巻物を懐に押し込み、月なき夜へ馬を出した。湿った闇を裂き、蹄音は常陸から下総、武蔵へ走った。
――武蔵国府・源仕の館。
夜明け前、白く息を吐く馬が武蔵国府の外門前に止まった。
鞍には泥がこびりつき、使者の袖は夜露で重く濡れていた。
「常陸の源護の使いの者でございます。源仕様宛の書簡、お渡し願います!」
門番が奥へ走り、やがて灯火を掲げた史生が現れた。
「源護殿の使いとな。……この時分に」
郎党は震える手で巻物を差し出した。
「将門の狼藉、もはや捨て置けぬとのわが主の訴えにございます」
史生の目が鋭く光る。封を切り、巻物を広げた瞬間、その瞳がわずかに細められた。
「常陸国府が退けた訴えを、こちらへ回したか」
郎党は深く頭を垂れた。
「大掾の藤原氏は将門に私し、源護殿の訴えを退けた――護殿はそう申しております」
史生は巻物を静かに置いた。
「――承った。権介さまには、余さず申し上げる」
郎党は安堵し、帰途についた。
急使が去り、夜が明けきる頃、報告は源仕のもとへ届いた。
源仕は巻物を開き、黙して文字を追った。
「護殿の訴え、すべて鵜呑みにはできぬ。だが――」
言葉を切った源仕の瞳に、鋭い光が宿った。
「平将門の名は坂東に響きすぎた。今のうちに試しておくべきか」
決めると早かった。源仕は筆を取り、迷いなく書き進めた。
一、下総国の平将門は、皇統の豪族を殺害し、その館を焼いた。
一、大国玉の領主・平真樹もこれに与し、律令の秩序を乱した。
一、常陸国府は、源護の訴状を黙殺し、朝廷への奏上を怠った。
一、よって将門、真樹の二名を召し、審問にて真偽を糺すべし。
最後の一字を書き終えると、源仕は息を吐き、巻物を巻いて固く封じた。
「この解状を京の弁官へ投ぜよ。私怨ではなく坂東の秩序のためと記せ」
史生が深く頭を下げ、巻物を受け取る。
源仕は立ち上がり、東の空を見つめた。
「京の都まで召し出せば、将門の勢いにも綻びが出よう」
そこには、私怨ではなく政略の冷たさがあった。




