判官の義断
下野国境の合戦で「平良兼の三千の大軍が、黒騎馬百余騎に撃破された」という噂は、瞬く間に坂東一円へ広がった。
この頃ようやく我を取り戻しつつあった源護は、新たな本拠を構え、一族郎党の再集結を呼びかけた。しかし、度重なる平氏方の敗北は、いったん霧散した家人たちが戻る余地を奪っていた。源護の怨火は鎮まらず、その怨念はもはや呪詛のように将門へ向けられていた。
――常陸国府・東院の間。
板敷きの広間には、墨と古い紙の匂いが満ちていた。
史生は巻物を両手で押さえ、ひと息置いてから、張りつめた声で読み上げた。
「下総国豊田の平将門、大国玉の平真樹と結託し、南北より我が荘園を侵す。
扶・隆・繁の嵯峨源氏の三子を討ち、村々に火を放つ。一門同族の国香殿までをも殺害す。重ねて、良兼殿・良正殿ら肉親の諫めも聞かず、逆に兵を挙げてこれを討たんとし、下野国府を攻める暴挙あり。国家の秩序を乱す叛徒の所業、国府は訴状を受け、両名を召し進められたし――」
読み終えた史生は、国豊の顔をそっと窺った。
「この訴状を差し出したのは、真壁の豪族・源護殿にございます」
国豊はすぐには答えなかった。
まぶたを伏せる――。膝の上で組んだ指先だけが、かすかに動いた。
やがて顔を上げ、史生をまっすぐ見据えた。
「史生。この訴え、国府では受けられぬ」
史生は驚きに目を見開いた。
「大掾殿。恐れながら、何ゆえにございますか」
国豊はゆっくりと目を開いた。
声を荒らげることなく、ひとつずつ事実を置いていく。
「まず、将門公が平真樹殿と結び、南北より荘園を侵したという一条。――これは事実に反する。虚構だ。将門公は、大国玉の主に請われ、争いを鎮めるために調停に赴いたのだ」
史生は息を呑んだ。
「次に、三子を討ち、村々を焼き、国香殿を死なせたという一条。――だが、先に闇へ刃を潜ませ、謀殺を図ったのは平国香殿である。将門公が太刀を抜いたのは、降りかかる火の粉を払ったに過ぎず、これを実行した三兄弟は、まさに返り討ちにされたのだ」
史生が筆を握り直すのを待って、国豊はさらに続けた。
「最後に、良兼殿、良正殿らが肉親として諫めたという一条。――これも事実は違う。二人は縁戚の仇討ちを名に掲げ、弔いと称して兵を挙げた。先に刃を向けた者を、諫め手とは呼べまい」
淡々とした声でありながら、その言葉は鋭く容赦がなかった。
言葉を切ると、国豊は巻物へ視線を落とした。
最後の一文だけを、低く結ぶ。
「和平を求め、調停に来た者を討とうとして返り討ちにされた。その闇討ちの企てを隠して己の私怨のみを訴える。朝臣にあるまじき恥ずべき言に、国府が従う理はない」
沈黙が落ちた。庭先の鳥の声も遠く濁る。
国豊は筆を取り、却下の文をしたためた。
「本訴は筋違いにつき、常陸国府はこれを取り上げず」。
筆致は揺らがず、「義の所在」を告げていた。
――真壁・源護の館。
「常陸国府は取り上げぬ……、だと?」
源護は返文を握りつぶした。紙が歪み、ぐしゃりと低い音を立てる。
「大掾め……、将門の犬に成り下がったか!」
紅潮した顔に、怒りだけでなく焦りも滲んでいた。
「我が子らの血を前にして、なお将門に媚びるのか。許さぬ!」
郎党たちは息を呑み、誰も口を開けなかった。
「馬を引け! 国豊の面へ、この護が直に問いただしてくれる!」
その声に、館の空気が一段低く沈んだ。
――浮島・国豊の館。
香取海の風が静かに吹く浮島で、国豊は諸族との会談を終え、庭を歩いていた。
その穏やかさを、荒々しい蹄音が破った。源護が馬から飛び降りた。砂利を蹴り、止めに入った家人を押しのけて、庭へ踏み込む。
国豊は足を止め、振り返った。
「大掾、藤原国豊! 隠れずに出てこい!」
護は太刀の柄に手をかけた。鯉口が鳴り、家人たちが息を呑む。
そのまま国豊へ、獣のような眼で詰め寄った。
「源殿。まずは太刀から手をお放しください」
騒ぎ立つ家人を片手で制し、静かに言った。
「太刀だと? 先に我が家の血を踏みにじったのは将門だ。なぜ奴を咎めぬ!」
迫る刃の気配にも、国豊は一歩も退かなかった。
護の手元を見据えたまま、声だけを静かに落とす。
「源殿――。私は国府の判官です。怨みにではなく、道理と律令に従います」
その言葉は、護にとって最大の侮辱だった。
「黙れ……! 理だの律だの、それは勝った者の言い草よ!」
怒号の余韻が庭に残る。国豊は首を振り、護の目から視線を逸らさなかった。
「源殿。堰を閉ざし、大国玉の民を飢えさせたのは貴殿です。その結果、争いを広げ、死人を出した。怠政失民――いま貴殿を焼く怨みは、貴殿自身が火をつけたものです」
源護の顔がゆがむ。
「真樹殿が、将門公に調停を託したのは流血を止めるためでした。だが、調停に応じたように見せかけ、そこへ貴殿らは兵を伏せた。三子が討たれたのは気の毒だが、謀りごとの帰結にほかなりません」
国豊の声は静かだが、一言一句が護の胸を刺した。
「そのような和議背反、謀殺奸計の貴殿の所業を、天も地も赦しはすまい」
源護は震えた。怒りか羞恥か、判別できぬほどに。
「よく覚えておけ、国豊。将門も、貴様も――この護の名を踏みにじった報いを受けるぞ!」
――蹄が庭石を蹴り、泥が跳ねる。
怨火を撒き散らすように去る背を、国豊はまばたきもせず見送った。
(源殿。怨火は自身を焼く炎になるだけだ……)




