赤龍の怨火
そのとき――弘雅の視線が、ふっと、将門の背後に立つ若武者に吸い寄せられた。
「なんと……! いや、其方、国豊ではないか?」
その声は、思わず震えていた。
国豊は、その名を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなり、深く頭を垂れた。
「御久しうございます、藤鷲の大夫様(藤原北家魚名流・鷲取家の堂上)。
長らくの御無礼、誠に申し訳ございません。」
弘雅は、しばし言葉を失った。
――十年前の清涼殿が、鮮やかに脳裏に蘇る。
稚児髪の童殿上として主上の御側に侍り、清涼殿を俊敏に走り、文や星を読み、陰陽師を言い負かし、堂上(殿上人)を驚かせた少年。
その少年が、今は坂東の地に立ち、将門を支える武将に育ち、ここに居る。
弘雅は、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「国豊……そなたが……そなたがここにおるとは。」
国豊は、静かに将門の方へ一歩進み出た。
「積もる話はございますが、今は火急の折にございます。」
そして、弘雅に向き直り、はっきりと言った。
「将門殿は、“義”の人にございます。」
その一言は、国豊の胸の奥から絞り出された、揺るぎない確信だった。
弘雅は、その言葉に胸を打たれた。
弘雅は、静かに息を吸い、将門に向き直った。
「……将門殿。そなたの言葉、しかと聞き届けた。
国府は、そなたを朝敵とは見なさぬ。むしろ、坂東の秩序を守る者として遇する。」
将門は深く頭を下げた。
国豊は、その姿を見つめながら、胸の奥で静かに思った。
(小次郎殿……この再会の日を、どれほど待ち望んだことか。)
その瞬間、戦場のただ中でありながら、三人の心はひとつに結ばれた。
それは、のちの坂東の運命を大きく揺るがす“見えざる盟約”の始まりであった。
国府の静座の間での会見が終わると、弘雅はしばらくその場に座り込んだまま、胸の奥に残る震えを鎮められずにいた。
(……将門殿。あれほどの武威がありながら、礼節を保ち、理を通すとは。)
そのとき、国豊が静かに一礼して退いた。
その背中を見送りながら、弘雅は思った。
(国豊……それにしても大きくなった…立派な若武者ぶりよ。才ある汝が “共に立つ男”とは……そういうことなのであろうよ。)
弘雅は、机の上に置かれた白紙の巻物を見つめた。
「……書かねばならぬ。」
筆を取り、墨を含ませる。
外では、将門軍千が沈黙のまま国府を包囲している。
その静けさが、弘雅の背筋を伸ばした。
筆先が紙に触れた瞬間、弘雅の表情は“公家”ではなく、坂東の秩序を守る者の顔になっていた。
一、上総介良兼、先に兵を挙げ、下総の将門を討たんとす。
一、将門、これに応じて自衛の戦を行う。
一、将門、国府の威信を尊び、包囲を解き、良兼らを赦す
一、下野国府、攻撃を受けず。
筆は迷わない。
弘雅の胸には、国豊の言葉が響いていた。
――「将門殿は、義の人にございます。」
弘雅は筆を置き、深く息を吐いた。
(この顛末書は、坂東の未来を左右する。)
そして静かに巻物を巻き、将門に手渡すために立ち上がった。
――国府の西門(裏門)
そこだけが、将門の命により“わざと”開けられていた。
良兼は、その意味を理解した瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
(将門め……、慈悲を与えたつもりか? この我を哀れんだというのか!)
怒りとも屈辱ともつかぬ感情が、良兼の喉を締めつけた。
貞盛がそっと声をかけた。
「叔父上……ここは、退きましょう。今は……生きることが肝要にございます。」
良兼は、その言葉に返す声を失った。
(貞盛まで……我を諭すのか。)
だが、国府の兵たちはすでに門へ殺到していた。
「助かった! 将門は追ってこぬぞ!」
「生きて帰れる!」
逃げられる――その事実だけで、彼らは歓喜し、泣き、叫んでいた。
その声が、良兼の胸をさらに抉った。
(将門……貴様は……我を殺す価値もないと言うのか。)
良兼は馬に跨り、西門を抜けた。
湿原の風が、敗残の匂いを運んでくる。
――背後では、将門軍が一歩も動かず、ただ静かに見送っていた。
その沈黙が、良兼には何よりも耐え難かった。
(覚えておれ……将門。この屈辱、必ず返す。――必ずだ!)
良兼は、泥を跳ね上げながら、下野国府を後にした。
その背中は、赤龍の名に似合わぬほど小さく見えた。
しかし良兼の胸の奥の怨火は、一層激しく燃え上がっていく。




