北斗、破軍に告ぐ
御堂の前には古い石段。苔むした磐座が、月光を受けて淡く光っている。
その石段を、ひとりの少女が音もなく上っていった。
戦の気配が遠くに漂うはずの此の地で、この小さな御堂だけが、俗世から切り離されたかのように静まり返っていた。
暗い御堂の中、板葺きの壁の隙間から、幾筋かの青白い月の光が淡く差し込む。
灯明がひとつ、かすかな揺らぎを見せる。
僅か一間四方のこの御堂に独り籠もり、水鏡に映る北斗の七曜、その影を追う娘。
――滝姫
歳の頃は、そう…十を幾つか過ぎた頃か…
長い黒髪は、夕闇の湖面のように静かで、肌は透けるほど白く、淡く光を湛えている。
目に涼を映す白の生絹の小袖に淡い緑の単をふわりと羽織り、独り、灯明の前に座して、星振盤を広げる。
その姿は、深淵を覗き見る者の霊気を纏い、此の娘が、童女であることを見失う。
そして滝姫は、静かに北辰の真言を唱え始めた。
「オン・マリシリエイ・ソワカ」
――銀色の細い針は、滝姫の神呪に感応し、
「オン・バザラタラ・ウクラ・ソワカ」
――影筒は、星の影を映す、
銀の針が微かに震え、北斗の刻印…七曜をなぞるように動いていく。
影筒の中に、黒く、濃い揺らぎが現れ始める。黒漆塗の細長い筒の内側には薄い水晶が張られ、星の光を受けると影の形が浮かびあがってくる。
滝姫は、この影の揺らぎから未来を読む星観の巫女。
その黒はゆっくりと“形”を持ち始めた。
――怒気を湛えた眼
――赤龍の如き火焔
――獣のような巨躯
しかし、滝姫は瞬きもしない。
星に影を感じた滝姫は、御堂の扉を開いて、堂の前の地面に、軽く握った星砂を撒いた。
星砂は、月の光と星の光を受けて淡く光り、滝姫にしか読むことのできない“兆し”を示す。
旧暦六月(今の八月)。
下総豊田の夜は、夕刻の雨の湿りを抱えながら凪いでいた。
将門は、主屋を降りた前庭に立ち、北の空をじっと見つめていた。
その眼差しは、この地に満ち始めている乱の胎動を見据えているかのようであった。
そのとき、背後で、衣擦れの音が、静寂に染みるように微かに響いた。
「……父上」
将門は振り返り、娘の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「姫はまた、御堂で星観をしていたのか。」
滝姫は、夜の水面のように静かに頷いた。
「はい。北斗が父上に“影”の到来を告げております。」
その声は、風のない夜に落ちる露のように澄んでいた。
滝姫は星盤を膝に置き、北斗の刻印に、白く、細い指の先を、そっと添えた。
「破軍の星が、今宵はいつになく強く輝いております。けれど……その光を遮る“影”がございます。」
将門の眉が深く寄る。
「影だと…?」
滝姫は、静かに息を吸った。
「はい。それは星ではなく……焔の影。その影は……まるで「巨大な武神」のような姿にございます。」
その言葉に、将門の胸がわずかに震えた。
滝姫は続けた。
「そして破軍の星……父上の守護星が、今宵はいつになく揺れております。けれど……大地に立つその焔は、天の意を示す者を許しませぬ。」
その瞬間、風がひとすじ吹き抜け、北斗の光がわずかに揺れた。
滝姫は、父の横顔を見つめた。
「父上、憤怒の火焔が如何に強くとも、星は火より高きところで輝くものにございます。」
将門は、娘の言葉を静かに受け止めた。その瞳には、武人の光と、父としての影が交錯していた。
「滝……汝の言葉、胸に刻んだ。――だが、」
将門は空を仰いだ。
「星がどうあれ、わしは逃げぬ。義を阻む者が挑むなら、正面から受けて立つ」
――そのときである。
館の門前に、荒い息をつく伝令が駆け込んだ。
「上総の平良兼殿、武射、成東城にて、将門様討伐の軍旅を催しているとの報にございます!」
将門の眼が細く光った。
「……伯父上か。」
その声は低く、しかし胸の奥に燃えるものを隠しきれなかった。
滝姫は、父の横顔を見つめた。その目は、夜空の星よりも強く、しかしどこか儚かった。
「父上、どうか破軍の星を背にお進みください。その星を背負う者は、必ずや道を切り開きます」
将門は娘の頭に手を置いた。
「滝姫……汝は、わしの心を照らす灯だ」
その瞬間、遠くで雷鳴が轟いた。
坂東の空は裂け、戦の風が吹き始めた。




