毒盟の夜
行方郡司・壬生成宗は、己の誤算と焦燥を抱えながら、常陸国に新たな火種をまくべく、静かに歩みを進めていた。
その先に待つのは、唐沢山の断崖に巣食う“怪物”との密談であった。
断崖絶壁に囲まれた天然の要害。唐沢山に入った成宗は、思わず息を呑んだ。
櫓を乗せた棟門をくぐると、正面には高い土塁が立ちはだかり、進路は屈折して敵の侵入を阻む構造となっている。土塁の上には丸太の乱杭が並び、逆茂木が至る所に張られていた。
さらに奥へ進むと、秀郷の居住する主屋が、いくつもの倉と並んで建ち、数十人の郎党や下人がせわしなく詰所と倉の間を行き来していた。
主屋の広間に通された成宗は、粗雑で質素な造りに、かえって底知れぬ力強さを感じていた。
やがて、成宗が待つ広間に、ゆっくりと足音が近づいてきた。
――現れた男は、彫りの深い顔。眉間の骨ごと突き出した濃い眉。獣のように光る眼。
黒々とした髭は顎を荒々しく縁取り、首は太く、狩衣の袖口から覗く前腕は毛深い。
成宗はその容貌に、異形を感じ、思わず息を呑んだ。
秀郷は獲物を値踏みする獣の静けさを保ち、成宗の言を聞いていた。
その男が――「藤原国豊」の名を聞き、わずかに眉を動かした。
「なるほど……今や、あの豎子が浮島の棟梁か……」
成宗の要請に応じ、秀郷は信太浮島討伐を承諾した。
だが、秀郷はすぐに扇を閉じ、その目に冷たい光を宿して言い放った。
「ただし、我にも条件がある」
成宗の背筋が、見えぬ刃でなぞられたように強張った。
秀郷は身を乗り出し、声を潜めた。
「朝廷は、“乱行の廉”により、“我を追討すべし”と官符を発した。――下野・上野・下総・武蔵、そして常陸の五国に、だ」
その口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「余程、我が怖いらしい。勿論、汝の主人――常陸介・維幾も受け取ったはずだ」
秀郷の眼差しが、成宗の心の奥底を抉るように射抜く。
「――そこでだ」
秀郷は、まるで毒を含んだ蜜を差し出すように囁いた。
「汝は、我が常陸国府を襲う手助けをせよ。さすれば我が、信太浮島を蹂躙してくれよう」
成宗の喉がひくりと震えた。
「国府を……裏切れと……。維幾さまを……」
秀郷は、成宗の動揺を楽しむように目を細めた。
「常陸には、もはや我を止める軍などない。国香は討ち死にし、源護も良正も敗れて力を失った。国香の跡目の貞盛めが如き豎子には、兵も胆力もない」
成宗の胸がざわついた。
(……確かに、今の常陸には“柱”がない)
秀郷はさらに言葉を重ねた。
「将門は強い。だが、あれは“義”に縛られすぎている。国豊も同じだ。忠平卿の屋敷で見たが、あの豎子は人を殺す胆力に欠ける」
成宗は息を呑んだ。
(……この男は、将門も国豊も知っているのか)
秀郷は続けた。
「だが、国豊を殺すのは駄目だ。奴は、藤の氏長者のお気に入りだからな。それをすれば、今度こそ我の逃げ道がなくなる」
そして、成宗の胸の奥に潜む欲望を、まるで見透かしたように囁いた。
「汝は信太が欲しいだけであろう。よく考えることだ」
秀郷はにんまりと笑った。
「壬生殿は、良い時宜に我を頼ってきた。其方は本当に運が良い」
その笑みは、人懐っこさを装いながら、底に鋭い毒を隠していた。
成宗はその笑みに、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。
(……この男は、国府も、坂東も、すべて呑み込むつもりだ)
だが同時に、成宗の胸には、抑えがたい欲望が芽生えていた。
(信太浮島……あの豊かな地さえ手に入れば……)
その夜、壬生成宗は、己をも蝕む“毒の盟約”を結んだ。
唐沢山の砦にて交わされた密談は、ただの盟約ではなかった。壬生成宗が差し出したのは、信太浮島を奪うため、常陸国府を襲う“手引き”であり、藤原秀郷が求めたのは、常陸国を揺るがす“暴虐の扉”であった。
二人の思惑は交わり、毒を含んだ蜜のように甘く絡み合った。
成宗は、国豊を討ち、信太浮島を滅ぼすために動き出した。
そして、成宗の手引きを得た秀郷は、信太浮島へ兵を向ける支度に取りかかった。
常陸の地は、高望王の血脈と将門の新勢力と、秀郷の武威が交錯する、大いなる戦乱の渦へと踏み込んでいく。




