武射、緋縅の棟梁
――上総国・武射郡。
この地には、古代より“国家”と呼ぶにふさわしい威容があった。律令時代以前、九十九里の中央は「武射国」と呼ばれ、九十九里の海岸を支配する「海の一族」の中心であった。桓武平氏の祖・平高望は、この地の重要性を誰よりも理解していた。
上総介として赴任した高望は、浪切不動院のすぐ近くに館を築き、ここを本拠地として上総・下総の開発と支配を進めた。
奈良の昔、行基が不動尊を刻み、平安時代に入ってから空海が開山したと伝わる「浪切不動院」。その伽藍は、吹き荒ぶ海風と戦火の歴史を幾度も受け止めてきた。
高望は、上総を治めるにあたり、不動明王を一族の守護仏として深く信仰したと云う。
上総太郎良兼は、その高望王の血と地位とを、最も濃く受け継いだ男である。この武射の地は、軍事と祭祀が同じ根から生まれた土地であり、この地に坂東平氏一門の棟梁たる男、上総太郎良兼が盤踞していたのである。
貞盛と良正が武射の館に近づくにつれ、空気が変わった。風は凪ぎ、鳥の声が消え、北西部に広がる丘陵そのものが、まるで息を潜めているようであった。貞盛は、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。
白木の大広間に通されると、その中央で、大床子(だいしょうじ。格式の高い腰掛け)に座した良兼が寛いでいた。外見は並外れて逞しく、肩は岩のように盛り上がり、腕は太い縄のようにねじれ、眼光は、獣のそれに近かった。ただ大きいだけではなく、その存在そのものが、広間の空気を押し潰しているようであった。
良正は、その姿を見るなり、わずかに膝を震わせた。
「……上総介殿。貞盛殿を、お連れいたしました」
良兼は、ゆっくりと顔を上げた。その眼は、血の色を帯びたように濁り、しかし底知れぬ光を宿していた。
「……貞盛か」
その声は低く、地の底から響くようであった。
貞盛は一歩進み、膝を折るほど深く頭を垂れた。京で磨かれた所作は、武射の荒々しい広間の中で、ひときわ静かに、しかし凛として見えた。
「伯父上、久しくお目にかかりませぬ。馬寮にて左馬允の勤めを果たしておりましたが、父・国香の急逝の報を受け、帰郷いたしました」
良兼は、動かぬ大岩のように沈黙していた。
貞盛は、その沈黙を畏れながらも言葉を継いだ。
「遅ればせながら、まずもって伯父上にご挨拶申し上げたく参上いたしました。一門に多大なるご迷惑をおかけしたこと、嫡子・貞盛が深くお詫び申し上げます」
貞盛は、さらに深く頭を下げた。その姿には、京で育まれた礼節と、坂東の現実を前にした若者の決意が滲んでいた。
貞盛は続けた。
「都より戻ってのち、母と良正殿より、おおよその経緯は聞き及んでおります。されど、一門を率いる伯父上が、この身内の争いをいかにご覧になっておられるのかは存じませぬ。……伯父上のお考えをお聞かせいただければと存じます」
その声音は静かであったが、その奥には、“理を求める者”の強い光が宿っていた。
良兼は、しばらくの間、貞盛を見つめていた。その視線は、人を値踏みするというより、獲物を観察する獣の眼に近かった。
「……国香が、将門に焼かれたのであろう」
良兼の声は、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ、事実を告げるだけの冷たい響き。
「将門は、我ら一門の利益と紐帯とを損なった。よって殺す」
良正が慌てて口を開いた。
「良兼殿、しかし……将門殿には非がなく、国香殿と源護殿が――」
良兼の眼が、ぎろりと良正を射抜いた。
「黙れ!!」
その一言で、良正の背筋が凍りついた。
「貞盛……汝は父が弑されて黙っているような腑抜けではあるまい」
(……これが、良兼殿)
「そのような腑抜けに、武門の末席を汚すことは許さぬ。――異存はあるまいな、貞盛、良正」
貞盛は、胸の奥に己の無力感が広がるのを感じた。
その後、大広間には一族郎党の者たちが集められた。皆、良兼の顔色を窺い、誰一人として声を上げようとはしなかった。
良兼は、ゆっくりと立ち上がった。
「国香は、我ら一門の長兄である。焼き殺された国香は怨霊となるであろう。我ら一門は、あの豎子の首級を以て追善供養をせねばなるまい」
その声は、広間の空気を震わせた。
一門の者たちは、誰も逆らえなかった。
良兼の言葉は、理ではなく、恐怖そのものだった。
貞盛は、静かに口を開いた。
「良兼殿。将門殿は“義”に徹したお方。父上の死は、我らの側に非がございます。どうか和睦の道を――」
良兼の眼が、貞盛を射抜いた。
「貞盛。汝は京で三年、柔らかい桜色の灯の下で育った。だが、坂東は違う。ここは、“力”のみが理となる地と知れ」
その言葉は、貞盛の胸に重く沈んだ。
良兼は、広間をゆっくりと見渡した。その眼光は、まるで闇の底から浮かび上がる獣のそれであった。
「坂東平氏一門は――」
良兼は、ひと呼吸置いた。その沈黙が、広間の空気をさらに重くした。広間には、声を上げることさえ許さぬ重圧が、目に見えぬ霧のように広がっていった。
「ここに結束することを誓え、将門を討つために」
その声は、広間の梁を震わせ、集まった者たちの背筋を冷たく撫でた。
しかし、良兼はそこで終わらなかった。むしろ、ここからが本題であるかのように、ゆっくりと身を乗り出した。
「……ただし」
その一言で、広間の空気が凍りついた。
良兼は、獣のように太い腕を組み、一門の者たちを一人ひとり、舐めるように見回した。
「――誓えぬ者は、」
声が低く沈み、まるで地の底から響くようであった。
「――殺す」
誰も息を呑む音すら立てられなかった。
広間にいた者たちは、その言葉が誇張でも脅しでもなく、“事実”として告げられたことを悟った。
良兼は続けた。
「理など知らぬ。義も要らぬ。この我が決める道こそ、一門の進む道よ」
その声音には、怒りでも激情でもなく、揺るぎなき確信があった。
だからこそ、恐ろしい。
良正の膝が、わずかに震えた。
貞盛は、まるで冷たい刃を当てられたかのような感覚を覚えた。
(……この方は、父上とも、将門殿とも違う。理の外に立つ男だ)
良兼は、最後にこう言い放った。
「我に逆らう者は、逆賊として土に還るがよい」
その瞬間、広間の空気は完全に支配された。怨と恐怖が混じり合い、まるで黒い霧が立ち上るようであった。貞盛は、その霧の中で、ひとり静かに拳を握った。
(……この結束は、義ではない。怨と恐怖の結束だ。だが――この道を止めるには、もっと強くならねばならぬ)
武射の館の外で、晩秋の風が、ひゅうと鳴った。坂東の大地は、まだ静かであった。だが、その静けさの底で、影と光と闇が、ゆっくりと動き始めていた。
これは、のちに“動乱”と呼ばれる風の、最初の揺らぎである。




